未唯への手紙
未唯への手紙
『「アラブの春」の正体』
重信メイ
『「アラブの春」の正体』
―欧米とメディアに踊らされた民主化革命
アラブの盟主、エジプトで起こった「革命」の苦い現実
●インターネットを使ったストライキ
チュニジアの「ジャスミン革命」が報じられると、次に世界が注目したのがエジプトでした。
タイミングから考えると、チュニジア革命があって初めてエジプトでも同様の革命が起きたように思えますが、実態は少し違います。エジプトにはエジプトの事情があり、一般の人々の間にずっと不満がたまっていました。
とくに二〇〇六年からストライキがよく起こっていました。労働者たちの不満は爆発寸前だったと思います。
しかし、三十年にわたって大統領を務めていたホスニー・ムバラクを倒すことができたのは、やはりチュニジア革命の影響が大きかったと思います。エジプト国民の間に、チュニジアるなら、エジプトにできないはずはないという新たな希望と勢いが出たからです。
また、二〇〇七、八年から起きていたストライキや民衆蜂起は、チュニジアがそうだったように、インターネットを使ったものでした。
たとえば、二〇〇八年四月六日には、アルマヘッラ・アルコブラという工業都市で、労働者たちが労働条件が悪すぎる、改善してほしいと声を上げました。そして、彼らの活動を支援するために、リベラルな学生たちがソーシャルメディアを使いました。
アルマヘッラ・アルコブラの労働者たちを支援するために、ほかの町でも同じ日にストライキをしよう、と彼らは考えました。そして、この日はみんなで同じ黒いTシャツを着ることにしました、アルマヘッラ・アルコブラには行けなくても、遠くからでも彼らを支援しようというわけです。その結果、一週間でフェイスブックのページに五万人がメンバーとして登録し、このストライキを支持するほど大きな力になりました。しかし、このときには政府の弾圧があり、収束してしまいます。このときはジャーナリストも含む多数の逮捕者が出ました。
それ以来、工場のストライキがエジプト各地で次々に起こりました。
しかし、この盛り上がりがムバラク政権を倒すまでにいたらなかったのには、残念なことに、ストライキを主導していた労働組合の腐敗が原因でした。それも、労働組合の幹部が政府と癒着していたという腐敗でした。
政府は弾圧してくる。組合はあてにならない。そこで、工場ごと職場ごとに、組合とは関係なくストライキを起こす人たちが出てきました。エジプト国内でそういう新しい動きが徐々に現れてきたときに、近隣のチュニジアで革命が起こったわけです。
●「私たちすべてがハーリド・サイードだ」
エジプトにも、「ジャスミン革命」のきっかけになったブーアズィーズィーのような人がいました。個人から始まる印象的なストーリーがありました。
主人公はハーリド・サイードという一人の男性ブロガーでした。彼は警察官が没収した麻薬を横流しする現場を撮影した映像を持っていました。しかも、その映像には警察官何人かが、麻薬をどう山分けするか、どのように売るかを相談している場が映っていました。警察が組織的に麻薬の横流しに関与していることが明らかな映像でした。
サイードがどうやってこの映像を手に入れたかはわかっていませんが、彼は「この映像をブログで公開するぞ」と警察官を脅しました。彼が自分の身元を明かしていたのか、匿名だったのかはわかりません。しかし、警官たちは彼の居場所を突き止めました。
二〇一〇年六月六日のことでした。サイードがいつも使っていたインターネット・カフェに、警官たちがやってきました。警官たちは、従業員やお客さんたちを店の外に出したうえで、彼に殴る蹴るの暴行を働きました。そこで彼は殺されたのではないか、と言われています。そのとき店から出された人たちは、彼が警官たちに店から引きずりだされてきた様子を目撃しています。
数日後、警察は獄中で亡くなった彼の遺体を家族の元に送り返しました。
しかし、彼が警察に連行される場面を見た人たちは、彼は警官たちに殺されたのではないかと考えました。そして、自分たちが見たことをネットで告発し始めました。そのなかの一人に、グーグル社幹部のワエル・ゴニムがいたことが大きな話題になりましたが、彼だけではなく、サイードのブロガー仲間たちが、このことを知らせなくては、真相を明らかにしなければ、と自主的に動き出したのです。そして、そのための情報収集サイトとして、「私たちすべてがハーリド・サイードだ」というフェイスブック・ページを作りました。
すると、かねてからエジプト政府の弾圧や、労働者の待遇、失業率の高さなどの経済面で不満があった若者たちがそのページに集まるようになりました。そこから運動が大きくなっていきました。
そこに同じ年の年末から始まった「ジャスミン革命」という追い風が吹いたのです。
●ムバラク政権を倒した「軍」の離反
当初のデモにはブルジョワジー(資本家)や中産階級など、社会のなかで恵まれたポジションにいる人たちも大勢参加しました。
しかし、ムバラク政権がいよいよ倒されるとなったとき、軍がムバラクを見限って民衆側につこうと決めた決定的な理由は、労働者のストライキでした。
フェイスブックやツイッターを使って呼びかけたデモに集まった数万人の人たちがタハリール広場へ座り込んだりしていましたが、その一方で、首都のカイロだけではなく、アルマヘッラ・アルコブラなどの工業都市で、一気にストライキを起こしたのです。このことはあまり報道されていませんが、製糖工場や、鉄道の技術者の組合がストライキを起こし、やがては鉄道全体の労働者がストライキを始め、交通機関が麻痺しました。
また石油会社の労働者もストライキを起こし、当時の石油大臣の腐敗を訴え、イスラエルに安くオイルを売ることに反対を表明しました。
交通や工場が麻痺したことで、エジプトは経済的にも大きなダメージを受けました。ことここにいたって、軍もムバラク政権にエジプトの統治は無理だと判断したのです。
しかし、三十年間という長い間、政権を握り続けてきたムバラクが、「いま」倒されたのはなぜでしょうか。
一月十四日にチュニジアのベン・アリー大統領が国外に脱出すると、同じ日、エジプトの首都、カイロでデモがあり、「ジャスミン革命」に呼応するように、抗議の焼身自殺を遂げる青年が相次ぎ現れました。エジプトの国内の雰囲気が変わり、この年の秋の大統領選挙でムバラクが六選をねらっているという観測に対し、不満を表明する人々がデモに参加し始めました。
しかし、ムバラクはつねに強気でした。一月二十五日にはフェイスブックで呼びかけたデモに五万人もの賛同者が現れましたが、エジプト政府は二十七日からソーシャルメディアを妨害し、三十一日にはインターネットと携帯電話サービスの遮断というかたちで妨害します。そして、デモ隊に対して、警官が催涙弾を撃ち込むといった強硬手段に出、双方に死者が出る騒動に発展していきます。ムバラクは二十九日に国営テレビに出演し演説を行います。そこで、首相を含む全閣僚を解任することと、経済改革を約束しますが、自らは退陣しようとしませんでした。
潮目が変わったのは二月一日でした。反政府勢力が一〇〇万人規模のデモを呼びかけ、交通網はストライキで麻痺しました。この事態に対し、軍がムバラクを支持することをやめたのです。この日の夜、ムバラクは次期大統領選挙に立候補しないことを表明し、選挙制度改革を約束しました。このとき、実質的にムバラク政権は崩壊しました。
なぜ、このタイミングでムバラク政権が倒れたのか。その答えを考えるうえで、エジプトという国の権力がどこに集中しているかを知っておくべきだと思います。
エジプトという国の根幹を握っているのは軍です。
ムバラクが大統領になるよりも前、一九五二年に軍がクーデターを起こし、王政を廃してからはずっと軍事政権が続いていました。
したがって、エジプトの政治経済システムは軍にとってメリットの大きなものになっています。とくに経済システムは軍が牛耳っていると言ってもいいでしょう。
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