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経済成長の限界と可能性 いくつかの可能性

『経済史』より 経済成長の限界と可能性

資源争奪戦と文明崩壊

 不足した資源を奪い合って戦争になり、文明が崩壊してしまうことを人類はこれまでに何度か経験してきました(ダイアモンド。金属器のない時代(つまり兵器は石器や棍棒)でも、戦争でえ明か崩壊した事例はありますが、現在、それよりもはるかに強力な兵器があります--地球上を何度も焼丿払えるはど多くの核暖器がいまなお存在しています--から、資源争奪戦から文明崩壊にいたる事態が発生した場合、かつてのように一地域の文明が崩壊するに留まらず、地球の文明全体が崩壊する危険性も否定できません。したがって、資源争奪が発生しないように人口増加や物財。エネルギー需要の増大を統御することが最も大切です。とはいえ、他国の自然と過去の自然に依存した現在の文明は脆弱なので、ごくわずかの変動や事故で食料や化石燃料の争奪に陥る危険性もあります。それゆえ、二次的な課題としては、争奪状態が発生しても、それを拡大・昂進させず、軍事カによらない問題解決のさまざまな技--妥協し、折合いをつけて共存する外交的・社交的な取引・交渉・協議の技だけでなく、軍事(人の生命・身体・財産を暴力的に破壊する力とそれによる飼喝)以外の仕方で、競い、決着をつける、納得性が高く、かつ憎悪の連鎖を生み出さない技--を開拓しておくこと、万一、軍事紛争が発生した場合に、軍隊の指揮官や政治指導者が使いたくなる手段=兵器の存在と質と量とを予め制限しておくこと(軍事においては手段‥兵器の存在ないし利用可能性がしばしば目的〔国家目的・戦争目的・戦略等〕を規定してきました。小野塚、そして、軍事力・軍事同盟強化の鏡像的な悪循環に陥る抑止力理論から脱却すること、および各国の兵士の生命の政治的・社会的な費用を高くすること、これらが大切となるでしょう。

リアルタイムの管理社会

 人の行動・位置・視線等を即時に監視・観察することは、現在の技術ですでに充分に可能ですし、体温・脈拍・呼吸数・血圧なども着用可能な簡便な感知装置で監視可能です。そうした技術を活かした労務管理やスポーツの訓練などもすでに実際に行われています。この延長上に、伊藤計劃が描いたように、人の見るものや体調まで即時に監視・観察される社会が、遠くない将来に訪れる可能性も否定できません。それはSFの世界の法螺話だろうと軽視する方がいるかもしれません。しかし、法哲学などの領域においても、いまや統治功利主義が大まじめに論じられています。そこでは、人格・自由・自律といった近代が達成した価値を軽々と超越して、統治者の「功利主義リペラリズム」なる思想が擁護されているのです。「人格亡きあとのリベラリズム」の構想は、統治者ですら従わざるをえない規範の体系(掟・定・分・矩)であった前近代への回帰であると同時に、超近現代の一つの可能性--決して夢や希望に満ち溢れた耳心地よい可能性ではありませんが--を示しているようにも思われます。

 個人の際限のない欲望を即時に管理し、また、欲望を適切に維持・創出し、個人の行為・感情までを「望ましい」方向に即時に誘導・介入する社会構造を実現できるなら、人類の文明を、文字通り調和(ハーモニー)のとれた形で末永く維持し、かつ成長と資本主義を可能ならしめることができるのかもしれません。労務管理と生活管理の究極の姿をそれは示しています。そこには、基底的価値としての人格・自由・自律はありませんが、擬似的(ないし構成的)な人格・白山・自律が確保できるなら、それは、介入的自由主義の現代を、新たな人間操作技術と統治技術・思想によって再建することになるのでしょう。

非物財的な経済成長

 物財やエネルギーの生産・消費量の増大に結び付かない経済成長のあり方について考えてみましょう。いまの日本で誰もがすぐに思いつくのは、育児や介護などの対人サービスの充実でしょう。いわゆる福祉の分野は社会の重荷、政府の財政負担と考えられがちですが、北欧諸国で実現できているように、新たなビジネス・モデルと雇用スタイルを生み出すことができるなら、それは経済成長の絶好の機会となります。育児と介護に加えて男女共同参画の推進、労働時間短縮と余暇拡大(ワークシェアリングとワーク・ライフ・バランス)、社会教育の充実などの課題を一つずつ解決していくなら、それは着実に経済成長を促し、投資機会をもたらすでしょう。たとえば、学校教員の長時間労働と過労の問題を軽減するためには、学級人数の減少(教員定数の増員)とともに、放課後の課外活動・部活の指導を、顧問教員に押し付けるのではなく、その分野の専門家に委ねて、地域的な社会教育と位置付けることが有効ですが、スポーツや音楽など社会教育分野の諸活動の指導者を養成することは、現在の日本では教員養成系学部に要請される喫緊の課題ということができます。

 物財を作り、それを世界中に売るという経済のあり方の中だけで成長を構想しようとするなら、低賃金諸国の技術が向上すれば、先進諸国はますます技術的に高度化した分野に追い込まれ、それは結局、輸出産業としては兵器・航空・宇宙などへの偏倚をもたらし、国内的には軍事支出と公共事業--諸種の土建事業、オリンピック、マイナンバーなど--の増大へと傾斜せざるをえません。しかし、それは、課題先進国の進むべき道としては、適切でも得策でもありません。

 いまや、貧困問題も物財の不足や欠乏の問題に限定するのではなく、社会資源の剥奪という仕方で総合的に捉えられるようになっています。そこでは、特に、困窮し、混迷しているときに、声を掛けてくれ、また、僅かでも助言・助力をしてくれる他者が身近にいるかいないかといった対人的な資源の問題が注目されています。

自立した個と他者との関係の再建

 物財的ではない成長の可能性を探ろうとするなら、以上見てきたように、人の主体性と能動性をより精緻に考察することが求められます。その精緻化とは、自己と他者を截然と区別することで成立する個という近代的な主体設定を見直し、相対化する作業に踏み込むことで果たされるでしょう。近現代社会が想定する主体とは自由で自律的な個人(ヒト個体)であり、すべての個人にとって、自己と他者とは相互に分離し、独立した存在であるという自他二項対立的な人間観のはらんできた難点・弱点は、生の極限的な状況において、すでにあちこちで露呈しています。

 たとえば、「良いケア」とは何かという問いを立てた場合に、「自立支援」(当人がしたいと望むが、独力では困難なことを助けて自立を促す)という原理(身体障害者支援において先に確立した原理)は必ずしも有効な指針だりえません(中村[旨品一]。殊に高齢者介護において、認知能力や身体能力が低下していて自己の意思を明瞭に表明できない場合に、自他二分法のうえに成り立つ「自立支援」の無理が露呈します。「意思表明がないから何をしていいかわからない」とか「意思表明がないから何もしなくてよい」といっているのでは、ケアはできませんが、平均的な「普通のケア」というのもありえません。意思自治を基礎とする発想では答が出せず、誰か他者が個々の状況に即して判断し実行しなければならない、つまり育児や教育と同型の強制やお節介の要素(自他二項対立的な人間観からの逸脱)を介護も免れないことを示しています。

 同様にして、終末期ケアでは、ときに、「やり残しか個人の物語を完遂させようとして」、逆に家族・友人・仲間との人間関係を削ぎ落として、当の「個人」だけの「最後の物語」を演じるように誘導されることがあります。そこには、親しい人間関係から分離させて「個人の物語」に閉じ込めることによって、終末期の個人を裸の主体性にしてしまう問題があると同時に、「能動的で自立した個」という物語に最後まで固執させることによって「ホスピスの患者らしさ」が求められるという顛倒的な問題もあります。

 安楽死が制度化された社会において、それを望まないことの意思表明は、特攻隊において「特攻を熱烈に志願し」ないと表明するのと同程度に困難で、人は状況の中で安楽死や特攻を希望する意思へと、しかも明示的にではなく、隠微な暗黙の強制力によって誘導されます。また、安楽死の判断基準となる生の質(QOL)とは、その当人の身体状態のみに注目して、「その人らしい(あるいはその人にふさわしい)生」を外在的に決定する傾向があり、そこでも、「生」から、家族・友人・仲間との人間関係という面が削ぎ落とされています。

 このように、自他二項対立的な主体性・能動性という設定を前提とするなら、釈然としない解き方しかできない問題群があちこちにあります。介護、終末期ケア、安楽死のいずれも、自他を截然と分ける「硬い個人」の設定ではなく、人を近しい他者との関係性の中で捉える「柔らかい個人」の設定の方が、これらの問題は現実的に解くことができるはずです。同様にして、貧困を単に当該個人の能力や利用可能な物的資源の問題に限定するのではなく、社会的紐帯や関係性の中で捉えるなら、それは先述したように社会資源の「剥奪」や「社会的排除」と認識する方が現実的でしょう。それゆえ、貧困の解法は「社会的包摂」や「参入」の課題として設定されるようになってきました。死に直面しない生の過程でも主体性・能動性を個人に回収し尽くさない人間観が明らかに出現しつつあります。

美的価値・身体的礼の回復

 いまの次の時代を展望するために、最後に、近現代社会と前近代との相違をいまいちど整理しておきましょう。前近代社会は掟・定などの規範によって際限のない欲望が規制されていただけでなく、欲望の対象物の遣り取りとは、一般的互酬性・贈与・蕩尽あるいは朝貢と返礼のように、(格好良さ」を表現する関係・行為でしたが、近現代では交換における等価性のみが突出して重視されるように変化しました。礼などの身体的・美的な徳は、近現代社会では貨幣で計られる単一の徳に取って代わられました。礼とは状況依存的、属人的で、多面的な徳でしたが、富の最も抽象的な形態である貨幣が近現代の普遍的な徳となり、単位時間当たりあるいは一人当たりの貨幣という単一の物差しで徳が計られているのです。この結果、前近代社会が許容していた多種性・異種性は、近現代にあっては、一つの尺度の中の多様性へと変じています。時間についても、前近代には、過去から未来まで永遠に続く切れ目のない時間という観念がありましたが、いまでは、刻々と同じ速度で進行して、刻まれ、消費される時間が支配的な観念であり、それは「時計という言葉に端的に表現されています。近現代の時間は計られ、記録されるものであり、注視されなければならないものとして、わたしたちの生を支配しています。

「隠れファシズム」対「小さく弱い規範」

 資源争奪戦から文明崩壊にいたるのはぜひとも避けるべきですが、上述の(2)から(5)までは、実は同じようなことを、別の言葉で表現しているのではないかという批判はありうるでしょう。かつて近代において自明であった「個」を見直す作業は、予め定まった共同性の方向への隠微な統制を導き出すのではないかという批判です。次代の構想が、「家庭の回復」(家族支援法案)や、「愛国心を養う教育」や、自由・権利に無条件で優越する「公益および公共の秩序」という仕方で、かつてあった(と思われている)大きく強い規範を求める動きと重なり、それに包摂されてしまう「隠れファシズム」に陥る危険性は確かに否定できません。それゆえ、新版「近代の超克」論のような安易な言説へ絡め取られる可能性もあることは、予め注意する必要があります。その注意とは、保守派との連帯はけしからぬということではなく、近代的な「個」を、どの程度の普遍性をもって、どの方向に向けて見直すのかが大切であって、ただ見直し、否定し、代わりのあれこれの人間=社会像を闇雲に提示すればことたりるわけではないということです。

 本書の主張をより積極的に表現するなら、大きく強い規範の再建を一挙に目指すのではなく、小さく弱い規範を、美的価値や身体的礼にも注意しながら、一つずつ再建する中で、進化論的に次代を構想しようということです。一挙的な伝統主義・設計主義・合理主義を振りかぎして次代を構想するユートピアを唱えるなら、それはほぼ間違いなくディストピアしかもたらさないということが、次代について何らの構想ももてないままに、いまが現代の終焉にyち至っている理由なのだと本書は考えます。中央集権化された権力による上からの管理・支配・開発・近代化に対抗し、不服従、面従腹背、妥協的な共存などを繰り広げて、自由・自主・自律を求める「モラル・エコノミー」や「アナキズム」の叡智をいま参照するのなら、近現代の大きく強い規範によって設定された物差しが見落としてきたところで、小さく弱い規範を実践することが大切であると考えます。

 設計された合理的なユートピアや、「かつてあった古の麗しき伝統」を実現しようとする試みが無謀であるのは、それが一度も成功しなかったところに表されています。これまで人類が経験してきた転換期には次代の構想がいくつも示されていましたが、そうした大きく強い規範で彩られた構想のいずれか一つが綺麗に実現したのではなく、実際の時代の転換とは、実は小さく弱い規範の試行錯誤の取捨選択と集積だったのです。近代から現代への転換を設計し構想する試みはたくさんありましたが、実際に生成した現代社会とは、福祉国家であれ、フォード・システムやトヨタ・システムであれ、小さく弱い規範の試行錯誤の産物にほかなりません。

 それゆえ、わたしたちにとって、一方では、そうなってほしくない次代を、ディストピアや反理想として明瞭に描き、それを避ける方向に試行錯誤的に進化することが大切です。他方では、一例にすぎませんが、季節性のある在地食材を用いた新しい食の快楽を自分の生きている具体的な場所で創造するといった、多種性・異種性を確保する中で、小さな「格好良さ」を追求するところに、未来を切り拓く多様な可能性が潜んでいるはずです。たとえば、イタリアの「スローフード」運動も、また精神病院の閉鎖病棟や身体拘束を廃止して、精神障害者を支援する協同組合を設立する取組みも政治闘争や経済闘争とは別のところで、反理想を明晰にしたうえで、多種性・異種性を確保しようとする次代の構想の試みと見ることができます。
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Googleが最大のライバルになる

『デジタル・デイスラプション時代の生き残り方』より リクルートのAirレジ

今後、Googleが最大のライバルになる

 一〇年前、リクルートは差別化の戦略として、ューザーに喜ばれる価値をどのように提供し続けていくか?明るい未来だけではなく、我々が必要とされなくなる暗い未来が起こる危険性を議論していました。

 オフラインにあるものがデジタル化され、オンラインに移行するとソフトウェアの価値が非常に高まります(Software is eating the world.)。そうなると、最終的にはGoogleがすべてをのみ込んでしまうのではないかと心配したのです。

 当時リクルートにとって仮想のライバルは、旅行領域であれば楽天トラベル、飲食領域であれば、ぐるなび、食ベログでした。これまでは、同じ領域の似たような競合とどのように競っていくかが主でしたが、今後は、彼らではなくEC分野に進出したGoogleが、強力なライバルとして立ちはだかると予想したのです。つまり、Googleがすべてをのみ込んでしまうのではないかと。

 もちろん、ただ状況を眺めていたわけではなく、以下のような領域で勝負できると考えていました。

  ・Googleが得意でないこと

  ・Googleがやろうとしないこと

  ・Googleがやろうとしてもできないこと

  ・私たちリクルートだからできること

 自分たちの活路はこれらにあるのではないかと、連日のように議論を行いました。そして出てきたのが、四つのキーワードでした。

  ・リアル

  ・ローカル

  ・お店

  ・フロー情報

 Googleはネットを主戦場とするプレーヤーなので、リアルに関しては明らかにリクルートに分かあります。これは、口ーカルやお店に関しても同様です。

 さらにフロー情報。Googleはクローラーと呼ばれる検索エンジンで、ネット上にあるあらゆる情報を収集するクローリングを行っていますが、クローリングに引っ掛からないのは、リアルタイムに流れるフロー情報です。

 私たちがGoogleに勝つためには、リアル、ローカル、お店、フロー情報から、Googleが持ち得ないものを獲得する必要があります。この四つのキーワードを踏まえて、「独自性があり、かつ大量のコンテンツをもつことが継続的に可能なエンジン」を構築するべきと結論づけて、生まれたのがこのAirレジです。

一〇年後の社会を想定して手を打つ

 リクルートは、BtoCビジネスやBtoBtoCビジネスを長く運営していて、今回のAirレジの着想はこれらの経験をもとに、我々は未来にどんな貢献ができるかを考え続ける中で生まれました。まず遠い未来を考える、さらに近い未来に戻ってきて考えるという手法をとったのです。三年後にフォーカスするなら、まずはI〇年後の社会がどう変わっているかを考える。次に、そこから七年前に時間が戻ったと仮定して、どんな未来になっていて、どんな手を打っているかを考えたのです。これは、Backcastといわれるプロセスです。

 まず二〇〇七年の時点で、すべての人はスマートフォンを持ち、インターネットに常につながり、端末を通じてオンラインとオフラインの境目がなくなっていく。その結果、デジタルと親和性の高い金融や決済のシーンが変わる、現金など使う場面がなくなるというような未来をイメージしました。検証してみると、この予想は、行き過ぎていたかもしれませんが方向としては当たっていたと考えています。

 Airレジは、日々お店の方々が使うものとして、なくてはならないものになる。そのためには、スピーディーにサービスを始めて、継続的に仕組みを磨きながら提供する機能を拡大する。さらに周辺のサービスの集合体と連携し、最終的にそれらがエコシステムとして回っていくようにしたいという構想を持っていました。

 いまはまだ存在していなくても、将来はこういったものが必要となってくるからそれらを予めつくっておこうと思って事業を始めたのです。

 以下、二つのフレームワークについては、自分たちが何としてもやるべきであるという覚悟を決めてスタートしました。ひとつは、ビジネス的に価値がある、未来も見据えて技術的に実現が可能、ユーザーにとって価値があるという三要素の交差点。もうひとつは、情熱を持って取り組める、自社が世界一になれる、経済的原動力になる、という三要素の交差点。これらは、リクルートでは最も大切にしているものですので、この二つの交差点を意識して未来に向けての構想を練っていきました。

立ち上げた五つのサービスの中で、Airレジだけが残った

 仕事におけるアナログの部分にITを導入することで、面倒な業務からお店の方々を解放してあげたい。これが初期のAirレジのコンセプトです。

 プロダクト、体験、ビジネスモデル、生態系、組織、人材、カルチャー、評価制度、これらすべてをデザインし、時には変化を加えながら、この数年でいくつかのサービスを立ち上げてきました。

 具体的にいうと、私の主導で五つのサービスを稼働させましたが、その中でいま、残っているのはAirレジだけです。他の四つのサービスに関しても、それぞれ可能性や意義は実感していましたが、利用者数が思ったように仲びていないという理由で、全部やめました。これは、本当に苦しい決断でした。ただし、「未来にとっての当たり前」をつくろうとチャレンジをすることに対して、百発百中で成功することはない。多くの試行錯誤が不可欠ですし、自分自身を鼓舞してチャレンジし続けるしかないのが、現実です。では、どのようにA・lrレジを立ち上げたのか、具体的なプロセスを説明します。

 最初行ったのは、ユーザー対象となる人たちを深く知ることです。調査といえば、相手に話を聞きに行くヒアリングを想定しがちですが、このやり方だと、本人が自覚していることしか話に出てきません。「いま使っているレジはどうですか」「POSに不満はありますか」という質問に対しても、「あまり気にしたことがない」「料金が高い」といった想像可能な答えが返ってくるだけです。

 では、どうすればいいのか。それは、ユーザーをよく観察して、その人になりきることです。たとえば、仕事中ずっと一緒にいてその人の一挙手一投足を観察してみる。そうすれば、その人が本当に解決してほしいと思っていることが見えてきます。

 飲食店でアルバイトをさせてもらったこともあります。すると、ヒアリングだけでは見えてこない飲食店経営の実態が浮かび上がってくるのです。

 閉店時間は午後一〇時か一一時くらいですが、そのあとに当日の売上を確認するレジ閉めがあり三〇~四〇分くらいかかる。すると閉店が遅れた場合、従業員が終電に間に合わなくなることもある。

 個人店舗の場合、オーナーがすべて把握していなければならないため、休むことができない、人手が足りない、なかなかいい人を採用できない、採用してもすぐ辞められてしまう、売上や経費を正確に把握できていないなど、調査の結果、多くの飲食店がこのような問題を抱えていることがわかったのです。

 この問題を解決するために私たちが貢献できることは何かと考え続けて、生まれたのがAirレジでした。

 その際に、ユーザーに対してどのような価値を大切にしてサービスをつくっていくかという「ブレない軸」が必要ですが、それらをまとめたのが図12です。

 キャッシュレジスターの使い方は簡単ですが、数万円する。しかも、ネットにつながっていないため便利な機能には制限がかかります。

 ネットにつながったレジスターは、これよりも少し便利になりますが、二〇万円ほどします。

 コンビニなどが使っているPOSシステムは、高機能ですが複雑で、数十万円もかかります。

 このように、レジスターは、機能が増えれば増えるほど、操作は複雑になって価格も高くなるので、私たちは高機能かつ誰でも使えて価格が安いものを目指しました。つまりシンプルで、簡単で、スマートで、誰にでも手が届くPOSレジをつくれば、必ずユーザーに選んでいただけるという確信を持ったのです。

 では、商品にするためにはどうすればいいか。まず画用紙にアプリ画面のイメージを描いた紙芝居をつくり、それを使ってお客さんに説明し、その後はβ版アプリを数名でつくってフィールドテストを行いました。現場の意見をきいて改善を繰り返し、レジに必要な機能を備えて予約や在庫管理まで可能なアプリが完成したのです。

 現在、Airレジのユーザーは二五万人ですが、私たちはこの人数をマクロの観点でとらえていません。一人ひとりのューザーの、帰ることができない、休むことができない、人手不足、費用がかさむ、状況がわからないという課題をどう解決していくかというミクロの観点でとらえています。これからも、一人ひとりの体験、一人ひとりのストーリーを見続けてさまざまなチャレンジを行っていくつもりです。自社以外のさまざまなサービスとオープンにつながる

 ここまでAirレジというPOSレジの話を中心にしてきましたが、この話はもともと「お店の人たちの課題に寄り添って解決する」ことから出てきたものです。Airレジは第一歩で、今後POSレジでは不可能なレジ回りの課題解決へと、サービスの幅を広げていくつもりです。

 すでに、順番待ちの不満を解消する受付管理アプリ「Airウェイト」、予約管理をシンプルにするウェブサービス「Airリザーブ」、カードも電子マネーも利用できるお得な決済サービス「Airペイメント」、訪日外国人を呼び込む決済サービス「モバイル決済forAirレジ」のサービスをスタートさせ、多くのューザーに使っていただいています。しかも、これらは、AirレジのIDで使えるようになっていて、面倒なID登録の必要がなく直観的に使うことができますし、それぞれのサービスで蓄積されたデータをすべてのAirサービスで活用できるように設計されています。

 これらのサービスは、使えば使うほど、業務の効率化につながります。加えて、自社以外のさまざまなサービスとオープンにつながり、提供価値を高め合うことも積極的に行っています。

 最初にアライアンスを組んだのは、決済サービスを提供しているSquareです。Airレジを立ち上げる前からSquareと連携することでお店の課題を解決できると確信していました。そのためSquareが日本に上陸した際、Airレジと組むことで双方のバリューが上がる交渉をして、アライアンスが実現しました。それ以外にも会計サービスを提供しているfreeeとも同じタイミングで連携しています。

 現在、Squareやfreeeのほかにも複数のサービスと連携しています。そこには従業員管理、仕入れ・発注、給与計算、勤怠・シフト管理、会計、予約・順番管理、集客などがあります。

 こうしてAirレジを中心としたエコシステムを構築していけば、レジ機能はあまり必要ないけれども決済機能はほしいという方もAirレジを使っていただける。さらに多くのサービスを使えば使うほど便利になり、Airレジはユーザーにとって「なくてはならない存在」となるのです。
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民主的行政と「行政の自由」

『行政学講義』より 自由と行政

民主的行政と「行政からの自由」

 個人の自由という目的に対して、手段として存在する民主主義は、個人の自由を侵害してはいけないわけです。とはいえ、多数の個々人が相互に衝突することもありますから、ある程度の自由を制約しなければならない場面が出てきます。その意味で、支配の側面は発生します。個々人に支配の具体的活動として現れるのが、行政です。しかし、支配はできるだけ少ない方がよいといえましょう。したがって、行政はゼロにはできないが、行政はできるだけ少ない方がよい、という発想があります。

 権力分立制とは、もともとは、君主に統治権を全て握られている状態から、立法権・司法権を分立させ、君主の行政権を制限するものでした。仮に民主的行政になったとしても、立法および司法による行政統制が必要なくなるわけではないのです。こうした状態を、「立法国家」とか「司法国家」と言います。行政が自由を過剰に侵害しないょうに法律で事前に枠を嵌め、「法律による行政」を求めます。そして、行政が活動した結果を事後的に裁判所で審査することを求めます。いわば、「行政からの自由」というわけです。「自由放任」や「小さな政府」という議論があります。実質的には行政活動を小さくするという発想です。行政活動を小さくすれば、行政によって規制されることも少なくなり、行政から租税を徴収される量も減ります。規制緩和・減税(増税反対)は、「小さな政府」のイメージと合います。

 もっとも、「小さな政府」で行政活動を制約すると個々人の自由が増大するかというと、一概には何とも言えません。個々人や団体は行政と無関係に活動した結果、生存競争や弱肉強食を繰り広げることもあります。暴力・実力を持った個人・団体による、他の個人・団体に対する支配です。前者の個人の自由は増えるかもしれませんが、後者の個人の自由は減ります。そのため、「小さな政府」や「司法国家」といえども、個々人の暴力・実力行使を無制限に許すわけではないので、最低限の警察機能は必要です。「夜警国家」とも言われます。要するに、夜間警備というような、最低限のことに限る消極的な存在という意味です。

民主的行政と「行政による自由」

 しかし、個々人の間の暴力・実力だけを政府が阻止すれば、個々人の自由が守られるとは限りません。市場経済活動でも、個々人は様々な権力を持ちます。市場経済とは、財力による支配です。金を持っている人、金を稼げる人が、実力’暴力を使わなくても、他人を自由に支配します。富裕層・稼ぎ主や経営手腕・経済才覚のある人は自由です。結果的には、財力のない人、稼げない人、経営手腕・経済才覚のない人の自由は、乏しいものになってしまいます。カネのある人の言うことを聞かざるを得ないのです。

 こう考えると、ある程度は財力のない人、稼げない人、経営手腕・経済才覚のない人の実効的な自由を確保する必要があります。そのためには、富裕層や経営者の善意と自発性だけに頼るわけにはいきません。もし、富裕層や経営者の善意(メセナ・寄付)で全ての個々人の自由が確保できるのであれば、行政の出番はないでしょう。しかし、実際にはそうはいきません。そこで、特に経済的弱者の自由を行政によって保障する必要が出てきます。いわば、「行政による自由」です。行政の役割が大きくなるので「行政国家」です。経済的給付が必要になりますから、「大きな政府」になります。単なる夜間警備だけではないので、「サービス国家」「福祉国家」とも言われます。

民主的行政と「行政への自由」

 民主主義では、個々人は平等な政治的自由を持ちます。誰かの声が誰かより強い、ということは制度的にはありません。いねば、個々人は平等に行政統制に関わる参政権・参加権を持つわけですから、「行政への自由」が民主的行政の制度です。しかし、形式的な「行政への自由」がどのような結果になるかは、自明ではありません。経済活動の自由と平等が、結果としての経済格差に繋がり得るのと、ある意味で似ています。

 市場経済活動の結果により格差が生じれば、富裕層は少数になるわけですから、民主主義のもとでは多数者である経済的弱者を救済して、格差是正を目指す行政がなされるかもしれません。少なくとも、普通選挙権が認められ、大量の無産者・労働者が有権者になった、民主化の過程の初期においては、そのように考えられました。しかし、必ずしもそうはなりませんでした。市場経済で成功した経済的強者は数は少なくとも、政治活動でも潤沢な財力と、様々な経営手腕と、能力主義のもとでの社会的名声などを持つわけですから、民主主義のもとでも権力を持ちます。こうなると、多数の中産層・貧困層が、富裕層からの「おこぼれ(トリクルダウン)」に期待することも、不思議ではありません。したがって、「行政への自由」を含む民主的行政によって、「行政による自由≒が平等に個々人に保障されるとはかぎらないのです。

 政治的才覚と経済的才覚が異なるときは、「行政による自由」が達成される可能性もあります。端的に言って、経済的弱者が政治的強者であり、経済的強者が政治的弱者である、という組み合わせのときです。しかし、経済的弱者と経済的強者が、政治的には同等であれば、行政によって経済格差を埋めることはできませんから、「行政による自由」は達成できません。また、経済的強者が同時に政治的強者であれば、行政による格差是正などあり得ません。市場経済による格差を放置するか、さらには、経済格差をより拡大する行政を進めることすら可能です。この場合、貧困層にとっては、行政は活動すればするほど経済状況は悪くなるのですから、せめて「行政からの自由」を求めることになるでしょう。
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研究に切り替えましょう

研究に切り替えましょう

 「存在の力」があるうちに研究に切り替えます。自分しかないのだからかっこつけることないです。ただし悟られないように。それを感じた途端に右足がつってきました。

 これは警告でしょう。他者を気づせずにやるしかない。

四年に一回の戯れ言

 オリンピック関連で「カー娘」って何なんだ。車と娘? 頭おかしいんじゃないの。

「ニコニコ日記」の思い出

 大杉漣と木村文乃?で一つのドラマを思い出した。私は唯一、DVDを持っているドラマが「ニコニコ日記」です。ニコちゃんが未唯そっくり! 小鳥遊(たかなし)という名前が記憶に残っている。ニコちゃんの永井杏は女優なると思っていた。

 年齢が一回り違うと思ったら、木村佳乃だった。
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