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ローマからみたギリシャ文明

『ローマ人の物語Ⅰ ローマは一日にして成らず』より

ギリシア文明は、紀元前二〇〇〇年前後に、ギリシア本土ではなくクレタ島にはじまった。クレタ島のほうが本土ギリシアよりも、その当時の先進文明であるエジプトに近かったからであろう。新しい文明は、なぜか周辺から生れる。クレタの文明について、歴史家ツキディデスは次のように述べている。

「ミノス王の創設した船隊によって、クレタ周辺の海域の航行は安全になった。なぜなら、ミノスは、船隊を使ってクレタ近辺の島々を征服することで、それらの島々を根城にしていた海賊たちの一掃にも成功したからである。海賊に略奪されることもなくなったクレタの人々の富は増し、石造りの屋敷までもてるようになった」

クレタ文明の最盛期は、紀元前一七〇〇年から前一五〇〇年頃とされている。だが、前一三五〇年前後を境にして、エーゲ海の主人公であったクレタ文明も急速に衰退した。大地震によるのか本土のギリシア人の来襲によるのか判然としないが、前一三五〇年頃に首都クノッソスが破壊されている。これが、優雅で華やかだったクレタ文明の晩鐘になった。その後のクレタの歴史は、ギリシア本土の歴史に追従するだけに変る。それでも、昔日の栄華の名残りは、十九世紀の考古学者アーサー・エヴァンズの発掘によって、今日でもクレタの地に見ることができる。

周辺が中心に変れば、別の周辺が生れる。ギリシア本土でも南のペロポネソス半島にあるミケーネを中心とする一帯が、ギリシア文明の新しいにない手になった。歴史上、ミケーネ文明と呼ばれるものである。

武人たちの支配する、国体であったようである。彼ら武人たちは、ホメロスの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』によって、後世のわれわれにも親しい。アルゴスの王アガメムノン、スパルタの王メネラオス、テッサリアの王アキレス、イタカの王オデュッセウス。アカイア人と総称されるこの人々が、紀元前一二五〇年前後に起り、十年の攻城戦を経て終る、トロイ遠征の主人公たちであったのだ。トロイの王子パリスに誘惑されトロイに連れ去られたスパルタの王妃ヘレナを、奪い返すためにはじまったのがトロイ戦役であると、詩人ホメロスは歌う。最高の美女ヘレナをめぐる話でもあり、ギリシアの神々もトロイ側とギリシア側に分れて応援したりするから、世界文学最高傑作のIつという評価にふさわしい愉しさだ。だが、真相に近いことを求めようとすれば、武を頼んだギリシア人がトロイの富を奪おうとしての遠征、というところが史実であったろう。

いずれにしても、トロイの落城で凱歌をあげたミケーネ文明も、そのわずか半世紀後の前コー○○年頃には早くも滅亡していた。歴史を愉しむ傾向のある人は、次のように言う。

「十年もの間家を留守にして遠いトロイで戦争ゴッコに熱中していたものだから、その間に国内の秩序は乱れ国力も衰え、外来民族に簡単に征服されてしまったのだ」

当らずといえども遠からず、ではないかと思う。十年にわたったトロイ戦役を終え、山はどの戦利品をもって帰国したギリシア軍の総大将アガメムノンは、王妃と王妃の愛人によって浴室の中で殺されたのである。ただし、詩人ホメロスは、勝者たちを襲ったこれらの惨事を、トロイ側を応援していた神々の怒りによるとしている。いずれにしても、ミケーネ文明を滅ぼしたのは、北方からギリシアに南下してきたドーリア民族であった。

小アジアの西端に位置するトロイと同じにシュリーマンによって遺跡が発掘され、ホメロスの叙事詩が単なるフィクションではなくて史実でもあったと実証されたミケーネ文明も、紀元前一二○○年を境にして姿を消した。ミケーネ文明のにない手であった人々が、殺されたり奴隷にされたりして、まさに徹底して排除されてしまったからである。ドーリア人のもたらした破壊はすさまじく、ギリシア全土はこの後、四百年もの間完全に沈黙してしまう。前コー○○年から前八○○年までのこの沈黙の時期を、ギリシア史では、「ギリシアの中世」と呼ぶ。すべてが沈静化し、活溌な活動に特色のある二つの時代の中間の時期、という意味である。

しかし、「中世」とは、常に二期に分れる。受けた傷を癒やすための安静期と言ってもよい前期と、回復に向う後期と。回復期に入ると、まだ芽は出なくても土の下には根が張りめぐらされるものである。そして、ギリシア史上では、華やかだったホメロスの英雄たちは青銅器しかもっていなかったが、野蛮なドーリア人は鉄器をもっていた。

ギリシア人は彼らの「中世」から、紀元前八○○年前後に脱出する。ポリスと総称される、都市国家の時代に入るのである。ドーリア人によって建設されたスパルタと、ドーリア民族の侵入から逃れていたアカイア人によって建国されたアテネが、ポリスの代表になっていく。そして、ポリスの誕生とともにこの時期のギリシア再生を特色づけるもう一つの現象は、ギリシア人の海外への植民活動であった。

植民活動は、人口が増えそれを自国内で養いきれなくなったがゆえに起る現象である。ギリシアは、テッサリア地方を除けば豊かな耕地に恵まれていない。農耕や牧畜よりも生産性の高い商工業でもはじめなければ、増大した人口は養っていけなかった。だが、紀元前八世紀当時のギリシア人は、まだ後の商工業民族になっていない。また、この時期、アテネ、スパルタ、コリント、テーベ等の都市国家も、ようやく形成がはじまったばかりだった。そのうえ、ポリスという形にしろ小国家の分立状態にあったということは、狭い土地をめぐってのポリス間の争いが絶えなかったということでもある。前七七六年には、第一回のオリンピア競技会が開かれている。四年に一度戦闘をやめ、オリンピアの地に集まって体育競技を愉しむということは、それ以外の時期は戦闘をしていたということだ。とはいえ誕生直後のポリス群の勢力は互いに伯仲していて、戦闘に勝ってもそれはただちに領国の拡大にはつながらなかった。自国内で生活の資を得ることができなかったり政争に敗れた人々には、海外に〝雄飛〟するしか道は残されていなかったのである。この時期のギリシアの植民が、ギリシアの一地方にかぎらず、全ギリシアの規模でなされたのも、ギリシアでは植民活動が、ポリスの形成と表裏の関係にあったからであった。

ギリシア人の植民活動は、二つの時期に分れて行われた。

第一次の植民活動は、紀元前九世紀の終りから前八世紀のはじめにかけてなされ、植民先はもっぱら、小アジアの西岸に集中している。エーゲ海は多島海という意味だが、多くの小島が散在するこのエーゲ海では、島伝いに対岸の小アジアに渡り、そこに自分たちの都市を建設するのは、当時のギリシア人にとってはごく自然な選択であったろう。ロードス島もこの時期から、ギリシア人の住む島になった。小アジアの西岸一帯、つまりイオニア地方の誕生である。クレタ、ミケーネと移動してきたギリシア文明の中心は、アテネよりも先にこのイオニア地方で花開くことになる。哲学の祖ターレス、歴史学の先達ヘロドトス、医学の祖ヒポクラテス。ホメロスもこの地方の出身といわれている。ギリシア本土よりも、第一次植民活動の舞台であったイオニア地方のほうが、オリエントに近いためか先に富を築いたからだった。いち早く富を築くには、当時では通商しかない。通商とは、異文明との接触である。接触は、情報という形による刺激をもたらす。そして富は、その刺激を別の形に転化するのに大変に便利なものである。

ギリシア人による第二次の植民活動は、第一次からおよそ半世紀を経た、紀元前八世紀の半ば前後になって行われた。この時期の植民の範囲は、もはやエーゲ海域ではなく、全地中海に広がった。そして今回は、ギリシア本土にかぎらず、第二次の植民活動の舞台であったイオニア地方の諸都市も加わっての植民である。それゆえ、自国内で食べていけなくなったり政争に敗れた人々が植民の主人公になっただけでなく、ギリシア人本来の、進取の気性の噴出であったと言えなくもない。実際、第二次の植民先には、先住民族がもともといないか、いても弱い地域が選ばれている。なにやら、現代のベンチャー・ビジネスを連想させないでもない植民活動であった。

ギリシア本土のギリシア人の入植が最も盛んであったのは南イタリアだったが、マルセーユを中心とする南仏にもスペインの東岸一帯にも、彼らは都市を建設した。イオニア地方のギリシア人の植民先は、やはり近いという理由でか、キプロス島から黒海にいたる地方を網羅している。第一次植民活動によって、エーゲ海はギリシア人の海と言えるようになったが、第二次植民活動を経た後では、ギリシア人の世界は地中海全域に広がったのである。海上で彼らに対抗できるのは、当時では、フエニキア人の植民によって建設されたカルタゴだけであった。

第一次第二次と、短期間のうちに波状攻撃ででもあるかのように挙行されたギリシア人の植民活動は、二つのことでわれわれを考えさせてくれる。

第一は、とくに第二次の植民に示された活動舞台の広さである。フェニキア人も植民したが、カルタゴを建設しその余波がスペインにおよんだ程度で、ギリシア人のように全地中海に広まっていない。

ホメロスの叙事詩の中の『オデュッセイア』は、木馬の計によってトロイ戦役を勝利に導いた功労者オデュッセウスの、その後の十年間の漂流譚を物語った作品である。ところが、このオデュッセウスの漂流先たるや、地中海の東端にあるトロイからはじまり、西の端のジブラルタルにいたるまでの地中海全域におよんでいるのである。しかも、彼が漂着した地の多くは、紀元前八世紀半ばに行われた第二次植民活動による、ギリシア人の入植先の近辺なのだ。

ホメロスのもう一つの叙事詩『イーリアス』は、叙事詩の舞台となった地を発掘したシュリーマンによって、詩人の空想の産物だけではなかったことが実証されている。『オデュッセイア』でホメロスが物語った主人公オデュッセウスの漂流先も、どの辺にあたるかの研究はなされている。それによれば、『オデュッセイア』もまた単に荒唐無稽なお話ではなく、当時のギリシア人にとっては未知の土地でもなかったようなのだ。前八世紀当時にすでに、ギリシア人の視界には全地中海が入っていたのであろう。

こうも強かったギリシア民族の海外雄飛の性向は、彼らの特質でもあった、好奇心と冒険心と独立心の果実であった。しかし、この彼らの性向こそが、母国と植民都市の関係を、ローマのそれとはまったく異なるものにしたのだった。

ギリシア人の植民活動がわれわれを考えさせないではおかない第二のことも、まさにこれにある。

例えば、ナポリだが、その近くにあってイタリアでは最も古いギリシア人の入植先であったとされているクーマとともに、アテネ人の植民が建設した都市を起源にしている。ナポリという名も、新しいポリスという意味の名で、ギリシア語ではネアポリスと言った。だが、このナポリでは、古代でさえもアテネ的なところはまったく見られない。イオニア的なところでさえ皆無だ。母国とは、ほとんど無関係に発展した都市だからであろう。長靴に似た形のイタリア半島の南に、ちょうど靴のかかとから土ふまずに入るあたりにターラントがある。今日ではイタリア最大の製鉄所と地中海に開いた軍港の町として知られているが、この町の起源もまた、前八世紀半ばにスパルタ人が建てた植民都市に発している。だが、このターラントにも、スパルタを連想させるものは古代からなかった。

シチリアの東部に位置するシラクサは、今日では古代の遺跡とそこで毎年催される古典劇の上演で知られる町だが、古代には、地中海有数の都市として、有名であると同時に重要きわまりない都市であった。プラトンがたびたび訪れ、アルキメデスを生んだ都市としても知られている。このシラクサもギリシア植民都市を起源としていて、建設したのはコリントからの入植者たちだった。コリントは、アテネやスパルタに次ぐ、ギリシアでは有力なポリスである。だが、シラクサもまた、母国のコリントとの関係は実に薄かった。

この三都市をはじめとするギリシア起源の諸都市はいずれも、母国との関係が希薄であることで共通している。ナポリの町の発展に、アテネ的なところは影さえもさしていない。夕まフントも、スパルタとはまったくちがう政体と、まったくちがう生き方を選んだ。母国であるコリントをはるかに上まわる繁栄を享受したシラクサにいたっては、コリントよりもアテネとの関係のほうが強く、関係が強すぎた結果、戦争までしている。

植民という形で海外に飛躍したギリシア人たちは、母国から、ギリシア語とギリシアの宗教と、進取の気性と独立への執着だけをもってきたのではなかったか。しかし、母国と植民都市のこのありようは、ギリシアとローマを分つ特質の一つでもあった。ローマは、後述するように、これとは反対に実に密な、ということは実に有機的な、関係を成立させていくからである。ギリシア人にとっての紀元前八世紀は、海外雄飛の時代であると同時に、国内でも充実した時代だった。ギリシア人の活力を最も効率よく発揮させることになる、ポリスの形成がなされたのがこの時代である。そして、ギリシア人の発明した国体であるポリスを代表するのが、アテネとスパルタであったのだ。
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テルモピュレー

『ギリシア人の物語Ⅰ 民主政のはじまり』より テルモピュレー

紀元前四八〇年当時のペルシア軍には、テルモピュレーを通り抜けたところに開く海で、自国の船団からの補給を受ける必要もあった。

だからこそ、そのペルシア軍を迎え撃つギリシア連合は、テルモピュレーにはレオニダス率いる陸上軍を、その近くのアルテミシオン湾にはテミストクレス率いる海上軍を、送り出す戦略で臨んだのである。

スパルタの王レオニダスがこのテルモピュレーに、スパルタの重装歩兵を三百人しか率いて行かなかったという事実について、レオニダスは初めから玉砕を考えていたのかと、現代の研究者の中には問いかける人がいる。私の思うには、「初めから」ではなかった。しかし、スパルタの戦士たるもの、少年の頃から、敵に背を見せるな、という一事を叩きこまれて育っている。ゆえに彼らにとっての戦闘は、勝つか、それとも死か、でしかなかった。

テルモピュレーでの敵軍阻止という大任を負って北に発つ六十歳のレオニダスの頭の片すみにも、やむをえなくなった場合の玉砕は、あったのではないかと思う。

なぜなら、率いて行くスパルタの三百人は、いずれもすでに息子がいる父親であり、たとえ戦場で死んだとしても家系の断絶の心配はない兵士だけを選んでいたからである。スパルタの戦士は、初めからの玉砕などは考えない。簡単に玉砕したのでは、戦争に勝つことはできないからである。ただし、状況がそれを求めれば、甘んじて受ける覚悟ならばできている男たちであった。

とはいえ、南下してくるペルシア軍の二十万人に対し、迎え撃つギリシア軍は、補助兵まで加えても一万でしかない。兵力比は、二十対一になる。にもかかわらず、レオニダスは、自分の国であるスパルタにも、またアテネを始めとする他の都市国家にも、兵士の増員を求めていない。そのうえ、テルモピュレーの峠道以外にもある間道の要地の二カ所に、一万のうちの一千ずつを分けて送り出しさえした。

狭く険しい峠道で迎え撃つには、精鋭でさえあれば少数でも充分に闘える、と見たからだろう。少人数なのだから、より自由により敏速に闘える。スパルタの重装歩兵のこの面での能力は、少年期からの絶え間ない訓練によって、完成の域にまで達していたのである。

一方、ペルシア軍は、二十万の大軍だ。テルモピュレーでは、量で圧倒しようとするペルシア軍の力は、発揮されにくいと見たのだと思う。

テルモピュレーに先に着いたのは、レオニダスのギリシア軍であった。それでも、長く敵を待つ必要はなかった。テッサロニケを出た後はギリシア中央部の平坦な地方を南下するだけだったペルシア軍も行程を稼ぎ、十二日間の行軍の後にテルモピュレーに姿を現わしたからである。ペルシア王クセルクセスは、峠道への入口からは少し離れた町に本陣をかまえた。

翌日、王の命令を受けた各部隊の指揮官たちは、矢の射程距離内には入らないよう注意しながらも、なるべく多くのペルシア兵の姿を、峠の入口で待ちかまえるギリシア兵たちに見せたのである。ペルシア王がこのデモンストレーションを命じたのは、大軍を前にしておじ気づいたギリシア兵が、逃げ出すか、それとも降伏するかして、戦線から離れることを期待したからであった。

ところが、何千何万と姿を見せようと、ギリシア側の陣営では動きはまったく見られない。それどころか、近くまで接近して観察した偵察兵の持ち帰った報告では、ギリシア陣営では兵士たちが、頭髪の手入れに専念しているという。

三十九歳のペルシア王には、それが何を意味するのかがわからなかった。随行者の中にいたスパルタ人を呼んで問うたところ、次のような答えが返ってきた。

スパルタの戦士は、質実剛健をモットーにして日々を送っているが、ただ一つの贅沢は許されている。それは、肩にまで達するほどに長く伸ばした頭髪が、常に清潔でしかも美しくあるよう手入れをすることだ。

オリエントの貴公子にはそれでも納得いかなかったのだが、大軍勢を前にしておじ気づくどころか、平然と身だしなみに専念しているスパルタの兵士を、不気味に感じはしたのだった。

それでもペルシア王は、大軍勢の圧力によるテルモピュレーの強行突破の方針は変えなかった。翌日、オリエント風に仰々しく美麗な服を身にまとった特使を、ギリシア軍の本陣に派遣し、王からの次の勧告を伝えさせたのである。

 「武器を差し出せば、各自の国への自由な帰国を許す」

ペルシア王の使節を引見したレオニダスの口から出た答えは、ただの一句だった。

 「モロン・ラペ」--「取りに来たらよかろう」

後世、スパルタの戦士と言えば返ってくる、山びこのようになる一句である。

だがこうして、ペルシア王の、戦闘無しでのテルモピュレー通過への期待は裏切られたのだった。

それでもまだ、クセルクセスは決心がつかなかった。この人は、絶対専制君主にしては家臣たちに、何であろうが相談する人なのだ。とは言っても最終の判断は彼が下すしかないのだから、そのようなことをやっても子不ルギーの無駄のように思うが、歴史家ヘロドトスもこの人を、善人ではあった、と評している。

だが、こういうわけでテルモピュレーでは、二十万という大軍で来ているにかかわらず、軍事的な動きはほとんど成されないままで、四日間が過ぎていったのである。

一方、海上では、テッサロニケで以後は陸上を行く王と別れて南下中のペルシア海軍と、こちらは北上するギリシア連合海軍が、アルテミシオンの岬前の海上で接近しつつあった。

だが、そこまで来る間にペルシア海軍は、相当な被害をこうむっていたのである。エーゲ海に不慣れなエジプトからの船には、海上の嵐をまともに受けて沈没したり、沈没まではしなくても使いものにならない状態の船が多かった。ヘロドトスによれば一千二百隻であったというペルシア海軍のほぼ三分の一が、この時期に戦線から離脱してしまったことになる。それでもなお、ベルシア海軍とギリシア海軍の戦力の差は、八対三の関係にあった。

ギリシア側は、「ホーム」で闘っている。それゆえの利点は、やはりあった。

エウボエア半島との間の海峡を北上したために嵐にも会うことなく無傷でアルテミシオンに到着したギリシア海軍の船の数の総計は、二百七十一隻であったと言われている。

そのうち、アテネ船は、ペルシアの侵攻から逃れてきた難民たちを乗せた二十隻を加えて、百四十七隻になる。コリントからは四十隻。スパルタからは十隻。残りは、他の都市国家からの参加船力。

このギリシア海軍を率いるのは、すでに述べた妥協人事の結果、参加船数は十隻と少ないにかかわらず、スパルタ人のエウリビアデスが、公式には総司令官に就任していた。

とはいえアテネ船は、百五十隻に迫る数の全船がテミストクレスの指揮下。そのテミストクレスの総司令官就任には断固反対したコリントは、四十隻になる自分のところの海軍の指揮はコリント人のアディマントスが取ることを、他の都市国家にも認めさせている。

ゆえにこの年のギリシア都市国家連合海軍には、三人もの司令官が並立していたことになる。

この状態を、指揮系統の一本化を最重要視するテミストクレスが放置するはずはない。エウボエア海峡をアルテミシオンに向って北上中に、同僚二人を説得したのだ。

すでに総司令官の職務に自信がなかったスパルタ人のエウリビアデスの説得は、簡単に済んだ。また、アテネはライヴァルだが彼自身は海将としての経験の長いコリント人のアディマントスも、説得されたのである。この二人は、これ以後もずっと、テミストクレスにとっての最上の協力者になる。

だがこうして、アルテミシオンの海上に着く前にすでに、問題は解決した。公式には二人とも、ギリシア 18海軍の総司令官でありコリント海軍の司令官ではあっても、ギリシア海軍の事実上の総司令官はテミストクレス、で同意が成ったのだ。指揮系統の一本化は、実現したのだった。

説得力とは、他者をも自分の考えに巻きこむ能力である。他者の意見を尊重し、それを受け入れ歩み寄ることによって、着地点を見出すことではない。

何となく、専制君主国のリーダーのクセルクセスのほうが民主的で、民主政アテネのリーダーのテミストクレスの〝民主度〟は低いように見えて笑ってしまうが、第二次ペルシア戦役の絶対的な主役二人、三十九歳のクセルクセスと四十四歳のテミストクレスは、一方がペルシア人、他方はギリシア人、という民族の別を越えて、気質的にもちかっていたのだった。

テルモピュレーでは、睨み合いだけの四日間が過ぎていた。ついにクセルクセスも、決心する。

「取りに来たらよかろう」と答えたレオニダスに、「取りに行く」ことにしたのだ。翌朝を期しての総攻撃が決まった。

ところが、量で圧倒しようとしたペルシア軍の攻撃は、完全な失敗に終わった。なんとペルシア側は、二万人もの兵士を戦死させてしまったのである。

ペルシア軍の兵士たちは、峠道を少しばかり進んだと思ったとたんに、曲がり角から現れたスパルタの精鋭の無駄のない闘いぶりの前に、ただただ死体の山を築くだけだった。その日の戦闘だけで、ペルシア側は全兵力の一割を失ってしまったことになる。本営でそれを知ったクセルクセスが、いつもの温和さはどこへやら、怒りを爆発させたのも無理はなかった。

同じ日、アルテミシオンの岬前の海上では、ペルシア海軍とギリシア海軍の間でも、初めての海戦が行われた。

しかし、テミストクレスは、敵海軍の撃破よりも、敵海軍の湾内への侵入を許すことで敵陸軍と合流することへの阻止を、最重要課題と考えている。それで、すでに嵐で相当な損失を出しているペルシア海軍にさらなる痛手を与えることには成功したが、その日の戦果はそれ留まりで終わる。両軍とも、日没時にはそれぞれの基地に引き揚げていた。

次の日、テルモピュレーでは、ベルシア軍による二度目の総攻撃が行われた。

ペルシア王もその日は、王の近衛軍団でもある「不死身の男たち」の一万を投入する。しかもこのペルシア軍の精鋭中の精鋭を、王弟二人に率いさせて投入したのだった。

しかし、この日も、散々な戦果で終わるしかなかった。不死身と言われた精鋭が次々と倒れて行っただけでなく、彼らを指揮していた王弟二人も、遺体になって本営にもどってきたのだ。ギリシア側は、二千人もの犠牲者は出しながらも、二度もつづけて迎撃に成功したのであった。

だが、その夜、戦闘を終えて本陣にもどってきたレオニダスは、そこで待っていた、間道の要地の防衛に送り出していた兵士の一人から報告を受けることになる。

それは、ベルシア軍が間道の所在を知り、すでにそこを守るギリシア兵に攻撃をかけてきた、というものであった。

川を遡る間道はあくまでも間道で、大軍の行軍には適していない。だが、大規模でない部隊の移動は可能だ。そして、この間道を通って来れば、テルモピュレーの峠道の出口に達することができる。そうなれば、テルモピュレーを守るギリシア軍は、はさみ撃ちになるということであった。

レオニダスはただちに、彼が率いるギリシア陸軍の指揮官全員を召集した。そして、彼らを前にして状況の現実を説明した後で言った。

われわれは残る。だが、去りたい者は去って行ってよろしい。この状況下での撤退は、不名誉ではない。ただし、去るのはすぐに始める。間道を通って来る敵の姿がまだ見えない時刻には、終わっていなければならない。明日は、最後の戦闘になるだろう。

総司令官の言葉に、指揮官の多くは、配下の兵士とともにテルモピュレーを去ることにした。

残ると決めたのは、スパルタの三百、テスピアイの七百、テーベからの四百の、計千四百の兵士になる。

ただしこの数字は、ペルシア軍との戦闘がまだ始まっていない時点での数字だ。二度にわたった総攻撃で、ペルシア側の戦死者二万、ギリシア側の戦死者二千、と言われているので、テルモピュレーに到着したときの一万のうちの二千はすでに戦死していたことになり、ゆえに千四百という数字も、大幅に割引きする必要がある。

とはいえ、戦闘ではプロ中のプロであるスパルタの三百は、重傷を負って戦場から退去させられた一人を除く全員が、二度にわたった敵の総攻撃にも生き残っていたのだった。スパルタの戦士の戦闘能力が、他のギリシアの都市国家はもちろんのこと、当時の陸軍大国のペルシアと比べてさえも、圧倒的に優れていたことを示している。

いずれにしても、このスパルタの三百と他の八百人前後の兵士のみを率いて、レオニダスは、十八万が相手のテルモピュレー最後の戦闘に臨むのであった。ペルシア軍の本営でも、翌日の戦闘のために戦術は変えていた。前二回の失敗で、接近戦ではスパルタ兵の敵ではないと、わかったからである。それでペルシア軍は、離れて闘うことにしたのだ。離れたところから矢を雨と浴びせるのだから、これもまた物量作戦ではあった。
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この世に遊びに来た

『禅にまなぶ』より

「遊ぶ(プレイ)」は役割分担

 かくて、あなたのお子さんが観音菩薩であり、あなたの夫、あなたの妻が観音菩薩であることが分かりました。あるいはあなたの両親が観音菩薩です。

 では、観音菩薩は何のために、わざわざこの娑婆世界にやって来たのでしょうか?

 それははっきりしています。もちろん、

  --遊ぶ--

 ためです。『観音経』はそう言っています。

 けれども、ご遊ぶ〃といった言葉は、日本人には評判が悪いですね。なんだかふざけているように思います。日本人はまじめ人間で、遊んでいてはいけない、もっとまじめに働かないといけないと思っています。だからゴルフなどして遊んでいても、これはレクリエーションである。これによって明日から働くための英気が養われるのだ、といった自己弁護をします。おかしな民族です。

 それ故、先程は、遊ぶということは「遊学」することだとしました。故郷を出て、他の土地に行って学ぶことを〝遊学〟といいます。観音菩薩は、その故郷である極楽世界を出て、娑婆世界に来て学問をしておられる。修行をしておられる。そういう説明だと、まじめ人間である日本人にも通じそうです。

 まあ、それでもよいでしょうが、わたしは〝遊ぶ〟といった語をもっと違ったふうに解釈しています。〝遊ぶ〟といった語は、英語だと”play”になります。この〝プレイ〟という語に関しては、わたしにおもしろい思い出があります。というのは、国際オリンピック委員会の終身名誉会長であったクーペルタン男爵(一八六三-一九三七)に、次の名言があります。

  《オリンピックの精神は、勝つことではなく参加することである》

  そして、何かの機会にこの名言の英訳を読んだのですが、そこには、

  --Not to Win, But toTake Part

 と訳されていました。

 なるほど、“take part”には「参加する」といった意味があります。しかし、これを正しく訳せば、「役割を分担する」といった意味です。〝パート〟というのは「割り当てられた部分」です。オリンピックの精神とは、勝つことではありません。弱い者が弱い役割を果たすことです。

 わたしはプロ野球の阪神タイガースのファンなんですが、現在のところタイガースは弱いチームです。優勝なんかとてもできません。といっても、ひょっとしたら今年、優勝するかもしれませんが、まあ無理でしょう。しかし、わたしは、タイガースは優勝なんかしなくていいと思っています。弱いチームであれば、立派に弱いチームの役割を果たせばいいと思っています。そう言うよりほかに、タイガースのファンには何も言えませんよね。

 ともかく、強いチームは強いチームの役割を果たす。そして弱いチームは弱いチームの役割を果たす。それが役割分担の思想であり、その役割分担をつとめることが、わたしは「遊ぶ(プレイ)」だと思います。

「世界はすべてお芝居だ」

 だいぶはっきりしましたね。

 あなたの子が、夫が、妻が、両親が、隣の人が観音菩薩です。ということは、あなた自身が観音菩薩です。だって隣の隣はあなたですから、あなた自身も観音菩薩でなければなりません。

 それ故、みんな観音菩薩です。

 わたしたちはみんな極楽世界からこの娑婆世界に、それぞれの役割を果たすために来たのです。

 ここでちょっと脱線します。

  シェイクスピア(一五六四-一六一六)の『お気に召すまま』には

  《世界はすべてお芝居だ。

  男と女、とりどりに、すべて役者にすぎぬのだ。

  登場してみたり、退場してみたり》(阿部知二訳、岩波文庫)

  といった台詞があります。

  また、『マクベス』には、

  《人生は歩く影だ。あわれな役者だ。

  舞台の上を自分の時間だけ、のさばり歩いたり、

  じれじれしたりするけれど、やがては人に忘られてしまう。

  愚人の話のように、声と怒りに充ちてはいるか、

  何等の意味もないものだ》(野上豊一郎訳、岩波文庫)

 といった台詞もあります。シェイクスピアは、わたしたちの人生を一つのお芝居と見ているのですね。

 じつをいえば、神がシナリオライターであり、演出家であり、われわれ人間は神にあやつられてそれぞれの役を演ずる役者で、世界はそのための舞台であるという、いわゆる、

  --世界劇場--

 といった観念は、ヨーロッパに古くからありました(小田島雄志『シェイクスピア名言集』岩波ジュニア新書によりました)。シェイクスピアは、そのような「世界劇場」の観念にしたがって、これらの台詞を書いたのだと思います。

 この「世界劇場」の考え方は、なかなかいいですね。神がこの世の配役を決められているのです。神によって、ある人は主役を貰い、ある人は傍役を貰い、また悪役を与えられる人もいます。金持ちの役もあれば、貧乏人の役もあります。人生というドラマの中で苦しみ・悲しみに耐える役割を与えられた人は、その苦しみ・悲しみにしっかりと耐える役を演ずればいい。わたしはこんな配役はいやだ。もっと幸せに生きる役柄をやりたい。そんなふうに言うことは、神に楯突いていることになります。人間は与えられた役をしっかりと演ずればよい。それがキリスト教の考え方でしょう。

 でも、この考え方は、いささか暗いですね。

 まあ、キリスト教においては、人間は神の奴隷なんだから、こう考えるよりほかないでしょう。キリスト教においては、神がオールマイティーの存在であって、人間は神の意のままに動かされます。だから、どうしても暗い考え方になります。

 そこでわたしは、観音菩薩が、

  --娑婆世界に学ぶ--

 という仏教の考え方に惹かれるのです。といったところで、話を元に戻します。

偶然に決まったこの世の配役

 もちろん仏教においても、この世にはさまざまな配役があります。優等生/劣等生、金持ち/貧乏人、努力家/怠け者、権力者/庶民、健康な人/病人……と、さまざまです。

 わたしたちはいずれかの配役をつとめるのですが、もちろん神に命じられてするのではありません。仏教では、それを因縁によるとしています。

 因縁とは、ある意味では偶然です。たまたま周囲に勉強のよくできる者が多かった。そういう因縁によって、あなたは劣等生になってしまうのです。

 たとえば、アリの世界において、勤勉なアリ、普通のアリ、怠け者のアリの比率が、だいたい二対六対二になっているそうです。そこで勤勉な二割のアリばかり集めてコロニー(集団)をつくると、すぐに六割のアリが勤勉でなくなり、そのうちの二割が怠け者になるといいます。反対に二割の怠け者のアリばかりを集めてコロニーをつくると、二割が猛烈に働き始め、六割が普通になるそうです。

 ということは、自分がたまたま勤勉なアリの役目になるか/怠け者のアリの役目になるかは、偶然によって決まるわけです。そのことは、高校のときの優等生ばかりを集めた一流大学においても、卒業の時点では優等生/普通/劣等生か出来るのと同じです。

 このように、キリスト教においては、この世の役目を神が決められますが、仏教においては、それは因縁(あるいは偶然)によって決まるのです。その点が根本的に違っていることを知っておいてください。

 それから、もう一つあります。キリスト教は、この世の配役の差を、世間の物差しで測ります。優等生・金持ちはいい配役で、劣等生・貧乏人は悪い配役です。じつはキリスト教は、その世間の物差しを否定しようとしているのですが(たとえば「貧しい人々は、幸いである」「ルカによる福音書」6)、そこまで言えば話がややこしくなるので、キリスト教においては世間の物差しが使われていると思ってください。

 それに対して仏教では、この世の配役の差を仏の物差しで測ります。仏の物差しで測るということは、結果的には測らないことになります。つまり、なんだっていいと考えます。優等生でもいいし、劣等生でもいいのです。金持ちでもいいし、貧乏人でもいい。健康でもいいし、病気があってもいいのです。われわれは偶然に決まった役割りですから、その役割をしっかりとつとめればいいのです。それが仏教の考え方です。
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未唯宇宙 3.4.4

3.4.4「循環領域拡大」

 細かく書いてると第3章から抜け出せないので かなり端折ります。

 循環するには、それぞれの要素が自律分散することがまず必要 。ハイアラキーのように決められるのではなく、自ら配置して 役割を果たしていく。

 コミュニティを中心に、地域でまとまり、コンパクト性を追求する。地域での雇用を拡大する。コンパクト化することで、全体の見える化が進める。

 地域の利点は自分たちの要望で優先順位が決められる。多数決ではない。新しい意思決定のルールを採用する。一律ではなく個別にこだわる。
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