未唯への手紙
未唯への手紙
ユダヤ人、アレクサンドロス大王
『ユダヤ人、世界と貨幣』より
紀元前三三八年、アルタクセルクセス三世が暗殺され、ダレイオス三世がその後を継ぐ。しかし、それはペルシア帝国の最後である。経済力はペルシアからギリシアヘ移動した。地中海が覇権を握る。マケドニアのフィリッポス二世の息子、アレクサンドロス大王はアリストテレスの弟子であり、二〇歳で王になり、テーベとアテネの領主であったが、ヘレニズム連合の長となる。金貨や銀貨にその肖像を刻印することで、彼はアテネの貨幣システムを採用し、すべての地域にそれをたちまち普及させた。多数の軍隊によって、三三二年彼はダレイオス三世をレリアのイッソスで破る。エジプトヘのルートが彼に開かれ、そしてユダを通過する。アレクサンドロスはティルス(七力月)とガザ(ニカ月)を包囲させ、紀元前三三二年、ユダヤ人の歓声のもとエルサレムを通過する。たちまちのうちに、ギリシアの衣装が大人気となる。豊かなユダヤ人はギリシア語を話し、衣服、すなわち新しい支配者の生活様式を真似た。神殿の若い家僕でさえ体育場でスポーツをたしなむ。ギリシアとの同化はュダでもその他の地域でも進んでいく。
ギリシアは商業も支配する。販売期限、遠洋漁業への貸付、担保、抵当、抵当金、交換契約、保険でさえこの時代のギリシア人の船乗りや商人の活動の中で出現する。こうしてこの時代から、ギリシアは奴隷の逃亡に対する保障システムをつくり、それは奴隷の各所有者による掛け金の支払いによって融資された。
アレクサンドロスは、エルサレムを離れ、エジプトを攻略し、サマリアのゲリジム山の上に神殿を建設するため、ユダヤ人商人を伴っていた。彼は、商業港であり戦略的拠点としてアレクサンドリアを創設した。そこにはマケドニア人と同じ権利を持つ、大きなユダヤ人共同体がたちまちのうちにできる。ユダヤ人は新しい都市の三〇万人のほぼ半分を、一挙に占めた。そこから、ユダヤ教がギリシアのすべての世界に普及する。その他のユダヤ人共同体は、ヘレニズム化されたエジプトに設立される。しかし、「出エジプト記」が語っている(少なくとも神話的次元で)思い出をみると、エジプト人はギリシアの支配者と一緒に来たこうした商人たちをむしろよく扱わなかった。
ユダヤ人は「高利貸」か、さもなくば、「殺人者」であるという最初のイメージができあがるのが、この場所から、そしてこの時代からである。反ユダヤ主義は、ギリシア、アレクサンドロス的なものであり、後にキリスト教的なものになる。エジプト人は、以前にも明らかにユダヤ人を嫌っていた。ダモクリトスという人物は、ユダヤ人は七年おきに外国人を捕まえ、神殿に連れて行き、ばらばらに切り離して殺すと述べていた。アレクサンドリアのアピエンは、ユダヤ人は毎年ギリシア人を太らせて食べると書いていた。マネトンという、エジプトの神官は、ユダヤ人は、ライ病の人種で、モーセの時代にもエジプトから追い出されていたので、新たに追い出さねばならないと説明していた。
紀元前三三一年、アレクサンドロスはエジプトから去り、ユダとティルスを再び通って、メソポタミアに進み、ペルシアの都ペルセポリスを焼く(ダレイオス三世は彼の軍隊に殺された)。そして金のダリク貨幣をスタテール貨幣に取り換えた。ベルシア王の財宝は、貨幣に換えられた。それが商業交換を都合よくし、驚くべき経済発展を引き出した。その大部分は、ユダヤ商人によってなされた。紀元前三二七年、マケドニア人は現アフガニスタンのカブールやバーミヤンに行き、インドヘと進み、やがてバビロニアまで悲惨な旅をしながら砂漠を戻って来た。そこで彼は紀元前三二三年、三三歳で突然亡くなった。彼は貨幣の上に顔が刻まれた、神の特権にまで進んだ最初の人物であった。
彼の部下だった将軍[ディアドコイ]が帝国を分割した。セレウコスはシリアとメソポタミア、エしゲ海がらアフガェスタンまでを支配した。プトレマイオスがエジプトとギリシアを簒奪する。セレウコスの統治のもとにあったユダは、すぐに二つのギリシア権力の間で不和の原因となる。実際賭けは商業ルートの支配であり、商業ルートはまだそこを通過していた。
アレクサンドリアの将軍である、プトレマイオス一世、ソテルは紀元前三一三年に、そこに首都を置き、ユダヤ人やギリシア人の知識人やユダヤ人銀行家の助けによって、灯台と図書館を建設した。彼はキプロスを取り、セレウコス一世がバビロニアに侵攻するのを助け、それと交換に、シリアを彼から受け取った。二人のギリシア人は二つの古いエジプト帝国とバビロニア帝国を意のままにする。
マケドニアの王アレクサンドロスの、驚くべき冒険に生き残った最後の人物であった、セレウコスは、ほぼ五〇年、紀元前二八一年まで、その首都に自分の名前をバビロンのすぐわきのチグリス河のセレウキアと付けて、統治する。彼の後、ギリシア人の王はバビロニアの権力を維持し、地方の、農民、商人、職人のユダヤ人共同体を支持する。彼らはパレスチナも統御する。そこでユダヤ人の間のさまざまの宗教グループの違いが明らかになり始める。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派。
サドカイ派は、大祭司の家族や貴族を代表し、政治・宗教の秩序に力を持った。彼らは税金、寄進、寺院、あらゆる金融的な回路を持った。
パリサイ派は、共同体の精神的案内人で、宗教指導者であり、世俗の指導者でもあり、素朴な生活を弁護し、祭司の富を批判し、自由な仲裁、永遠の生活へ、復活とメッシアヘの信仰を認めた。預言者エリヤは、貧困とは、神がその民に非常に美しい比喩をもって委ねた、最高の善であると宣言さえした。「赤い手綱が白い馬にうまく合うように、貧困はイスラエルに合う」。禁欲、そこから「パリサイ人」という言葉が生まれた)は、必ずしも救済を導かない。そしてそうだからといって、彼らは富が善のためになる限り、それを非難しない。
エッセネ派は、半修道僧のセクトで、富を拒否する点において、さらに過激である。彼らは所有、収入、食糧、衣服を平等にする。彼らは結婚や動物の生贅を拒否する。エッセネ派は、貞操、純潔を賞賛し、白い衣装を着ていた。
連帯の条件ははっきりする。共同体の各成員は、ツェダカに融資するために少なくともその資源の一〇分の一をつねに寄進しなければならない。共同体によって管理されることで、ツェダカは、貧しい娘への持参金、家族のない高齢者の収入、破産した者の労働の免除、利子のない貸付の授与、通過する外国人の受け入れ、奴隷の買戻し、最後に、とりわけ重要なことはすべての子供たちの教育の保障となる。
紀元前三〇一年、セレウコスの手に移ったユダは、プトレマイオスー世の手に移る。プトレマイオス一世は、シャバ″卜の日にエルサレムに入る。それはスキャンダルであったが、しかし神殿を再建し、国の内部のことにあまり口を挟まなかった。彼は毎年年貢を受け取ったが、にもかかわらず神殿の家僕の年貢は免除し、三年間はエルサレムのすべてのユダヤ人を免除した。認可された唯一の民族的権威である、大祭司だけが二〇分の一税をパレスチナやディアスポラで徴収する権利と、神殿の財宝の管理権を持った。
紀元前二八六年に父から王位を引き継いだプトレマイオスニ世(いわゆるフィラデルフォス〝兄弟愛〟という名称を持つ)は、パレスチナを支配し、以来紀元前二四六年までアレクサンドリアを支配した。エジプトは、その時代において、げっして力を持ってはいなかった。ヘレ三ズム化されたエジプトは次第に、新しい西洋の権力、ローマの影響のもとに入った。フィラデルフォスは『聖書』をギリシア語に翻訳しようとする。それがいわゆる「七〇人訳」といわれる『聖書』で、ギリシア語以外話さないユダヤ人にとって有用であった。
紀元前二四五年、その継承者、プトレマイオス三世はユダを強化し、神殿を豊かにした。大祭司の機能は、義人シメオンという人物とその二人の兄弟によって確認されている。シメオンはこの頃こう書いている。「ユダヤ人にとって、世界は三つの柱からなる。律法、神への奉仕、そして愛の行為」。紀元前二二二年、プトレマイオス三世は、パレスチナのヘレニズム化を促進し、ユダヤ人と支配者とのすべての公的関係はギリシア語で交わされた。国の経済は、新しいエジプト帝国の経済に含まれた。パリサイ派とエッセネ派は豊かなサドカイ派に対立し、裁判所を再獲得しようとする。サンヘドリンのサドカイ派のメンバー自身パリサイ派に置き換わっていく。商業経済は繁栄し続けた。地方も再び繁栄する。ユダは将来ギリシア語で暮らす、ギリシアの地方となる。
紀元前二〇二年、新しい領主の変化が起こる。インドやアラブに至る侵略の長い旅によって、ギリシアのもう一人の王セレウシドーアンティオコス三世(紀元前二二三-一八七)は、マケドニアのフィリッポス五世と連合し、アジアの再獲得に乗り出す。彼はプトレマイオスからパレスチナを取り返し、ユダヤ人に信仰の権利を与える。
ギリシア都市の自由の商人の中で生まれた新しい力、古代ローマは、その商業力のためにますます近東に関心を持ち、アンティオコス三世の力の増大を心配する。ローマの盟主にとって、アジアルートは開かれたままでなければならない。マケドニアとセレウコス、プトレマイオスとローマの同盟が形成される。ユダは政治的にも商業的にもこの二つの間にあった。ディアスポラの共同体(プトレマイオス朝ではアレクサンドリアの、セレウコス朝ではバビロニアの、ローマ人ではローマの)は、ユダを別の権力者の保護に置いたことで、謀議を図ったとしばしば糾弾された。すでに二つのライバルの帝国の中で、ユダヤ人兄弟の共同体がそれぞれ存在することはユダヤ人は二重国籍者であるという批判を強めた。
ローマはますます軍事的にも、商業的にも、エジプトヘ展開していた。紀元前一九一年、執政官フラミニヌスが、エジプトのプトレマイオスと同盟し、マケドニアのフィリッポス五世と連合したセレウコスの軍隊と対決する。数の上では後者がはっきりと優越していた。しかしローマ人は、紀元前一八九年、テルモピュレ、そしてマグネシアを獲得する。アンティオコスはアパメイア条約にサインしなければならなくなる。これによって、彼はチグリス河を越えたアジアの所有をプトレマイオスに渡すことになる。敗北した王は非常に高い戦争の賠償金を支払うよう要求されたので、彼はそれを払うのに、あらゆる宗教の大祭司の領地を売るが、エルサレムからバビロンまで、近くにあるすべての州のすべての神殿から略奪するしかなかった。紀元前一八七年、スサのバールの神殿を略奪しようとして不意を突かれたアンティオコスは、そこで暗殺された。
ユダは、あらゆる軍の通過を許し、たえず主人を替えながら、大いに繁栄していた。土地では小麦、大麦、果実、ワイン、オイル、イチジクが生産された。牧畜は生贅の動物を供給した。漁業は、アクラやジャファの港で発展した。国土には金属が少なかったが、建築用の石は多くあった。羊という家畜がそこで多くの羊毛を産出した。建築や繊維の家内工業が発展した。僧侶は、利子付貸与で貸すことへの禁止を恐れながら、農業、漁業、アトリエに融資した。両替商は遍歴の旅に出た。その仕事が何であろうと、支配者のための徴税官として豊かになる者は、わずかだがいた。ディアスポラは国の再建、それとますます多くの祭司を神殿のまわりに住まわせるための企画に融資した。
エルサレム、バビロニア、アレクサンドリア以来、裁判所と宗教学校が律法を明確にする。教師と学生はいわゆる「ミシュナ」あるいは「反復」(それは暗記されていた)という講義ノートを編集しようとした。彼らは道徳的問題について、さらに財政、価格、企業、社会生活、連帯、環境といった経済的問題についての裁判所の決定を要約する資料を集めた。彼らは(彼らが退廃だと考えていた近隣のギリシアの社会と違って)肉体労働を賞賛し、「公正価格」を決め、利潤を制限し、組合的組織を統御し、町の通りにさまざまの職業団体を配置し、とりわけ道徳的退廃の疑いありとされる、香水のような女性用の商品に特化したある種の職人を監視し、皮のなめし、採堀、汚物の収集(悪臭のため)のような屈辱的だと考えられるある種の仕事を行っている者を排除し、彼らとの離婚を認めた。
その活動が環境や経済以外に悪影響を与えるならば、それを禁止することをある種の裁判所は行うようになる。たとえば、小さな家畜の飼育、とりわげヤギは、禁止されていた。その理由は農地を荒らすからである。別の判断では、町の境界から五〇クデ[二五タートル]以内に麦うち場を作ることを禁じた。それは、風によって運ばれる麦の皮が住民の健康に被害をもたらす恐れがあるからである。同様に、多くの煙を排出する竃を作ってはいけないし、神殿の祭壇の上でオリーブの木、ブドウの木、ナツメヤシの木を燃やしてもいけないし、すぐにナフサのランプに火を入れてもいけない。「なぜなら、自然の価値を損なうからである」。新しい町には、そのまわりに、木もない、畑もない、企業もない緩衝地帯をつくることが課せられた。
裁判所は、状況が不安定になった場合、すぐに出発する用意をしておく必要性から、次の教訓を引き出し、遺産の管理を行っていた。「人間は富を三つの形態で持っておくべきである。土地、家畜、金をそれぞれ三分の一ずつ」。裁判所は、貧民、未亡人、孤児、外国人、病人や債権者に支払われる援助の条件を明らかにする。
すべての借り手を貧民にし、解決不能にする危険があるので、利子付貸付は禁止された。利子は嘘や横領と同じであった。「もしあなたが貨幣を誰か同国民、あなたのところにいる貧民に貸すとすれば、借り手から担保を取ってはならないし、利子を課してはいけない」(「出エジプト記」二二章24節「人道的律法」、「レヴィ記」二五章37節「「安息の年とヨペルの年」])。利子付で借りたり、貸付行為をしたり、証文に判を押させたりすることも禁止されていた。同時に、債権者が貸付で間接的に利益を得るような、すべての行為も禁じられた(avaq ribbit 文字通り「利子は埃」)。実際には、こうした一般的な禁止にもかかわらず、テキストを詳細に検討することで、ある行為を裁判所に認めさせることになる。裁判所は、貧民に関する唯一の貸付である消費者への貸付を制限した。投資への貸付は非常にはっきりとしたメカニズムで承認された。たとえば、利子なし貸付の担保となった財は、借り手の支払いが終わればすぐに買い戻される。ただし利子に等しい手数料を取られる。しかしながら担保は、原理的には厳しく制限されていた。「すべての人は持っている財の場所に戻り、家庭に戻る」(「レヴィ記」二五章23~31節[「安息の年とヨベルの年」一)。すべてのものが、時間無制限に担保となりうる。ただし住居は別で、借り手は一年が過ぎると取り戻すことができる。貸し手に家族とともにそこに住むことを認めねばならない。
連帯と慈善を求める共同体の外では、利子は承認される。なぜならそれは非道徳的ではないからだ。「外国では、利子付で貸すこと、借りることができる」(「申命記」二三章20節[「利子比」。外国人は潜在的に貧民でない。非ユダヤ人は追放される危険がないからだ。
実際には(非常に微妙な判断の共同体からの排除以外は)どんな処罰もないので、裁判所はたえず遵法を呼びかけねばならない。そしてユダヤ人の直接の利子付貸与も多くあった。紀元前五世紀には、アスワンの前にある小さな島、エレファンティネス島のユダヤ人共同体によってエジプトで書かれたパピルスは、それを証明している。
ユダヤ人に対して発せられたスパイという批判は、継続していた。それがとりわけ劇的な形をとるのは、紀元前一八七年、東を支配するアンティオコス四世エピファネスが、メソポタミアとパレスチナのユダヤ人は、プトレマイオスやローマの側を通過しているではないか、と批判したときであった。彼はユダヤ人を認めたアンティオコス三世の法を廃止し、ユダヤ人根絶の最初の計画として、ユダのすべてでその信仰を禁止し、神殿の祭壇にゼウス像を建てさせ、割礼行為を死刑にし、ユダヤ人がギリシアの祭典に参加することを強制し、エルサレムをアソティオコスという名に変更した。
ユダにおけるユダヤ教の残存は、脅威を受けたわけではなかった。ユダヤ人はやがてローマに向かい、ローマか彼らを助けると考え、ローマに向かう。それは彼らの失敗になるだろう。
紀元前三三八年、アルタクセルクセス三世が暗殺され、ダレイオス三世がその後を継ぐ。しかし、それはペルシア帝国の最後である。経済力はペルシアからギリシアヘ移動した。地中海が覇権を握る。マケドニアのフィリッポス二世の息子、アレクサンドロス大王はアリストテレスの弟子であり、二〇歳で王になり、テーベとアテネの領主であったが、ヘレニズム連合の長となる。金貨や銀貨にその肖像を刻印することで、彼はアテネの貨幣システムを採用し、すべての地域にそれをたちまち普及させた。多数の軍隊によって、三三二年彼はダレイオス三世をレリアのイッソスで破る。エジプトヘのルートが彼に開かれ、そしてユダを通過する。アレクサンドロスはティルス(七力月)とガザ(ニカ月)を包囲させ、紀元前三三二年、ユダヤ人の歓声のもとエルサレムを通過する。たちまちのうちに、ギリシアの衣装が大人気となる。豊かなユダヤ人はギリシア語を話し、衣服、すなわち新しい支配者の生活様式を真似た。神殿の若い家僕でさえ体育場でスポーツをたしなむ。ギリシアとの同化はュダでもその他の地域でも進んでいく。
ギリシアは商業も支配する。販売期限、遠洋漁業への貸付、担保、抵当、抵当金、交換契約、保険でさえこの時代のギリシア人の船乗りや商人の活動の中で出現する。こうしてこの時代から、ギリシアは奴隷の逃亡に対する保障システムをつくり、それは奴隷の各所有者による掛け金の支払いによって融資された。
アレクサンドロスは、エルサレムを離れ、エジプトを攻略し、サマリアのゲリジム山の上に神殿を建設するため、ユダヤ人商人を伴っていた。彼は、商業港であり戦略的拠点としてアレクサンドリアを創設した。そこにはマケドニア人と同じ権利を持つ、大きなユダヤ人共同体がたちまちのうちにできる。ユダヤ人は新しい都市の三〇万人のほぼ半分を、一挙に占めた。そこから、ユダヤ教がギリシアのすべての世界に普及する。その他のユダヤ人共同体は、ヘレニズム化されたエジプトに設立される。しかし、「出エジプト記」が語っている(少なくとも神話的次元で)思い出をみると、エジプト人はギリシアの支配者と一緒に来たこうした商人たちをむしろよく扱わなかった。
ユダヤ人は「高利貸」か、さもなくば、「殺人者」であるという最初のイメージができあがるのが、この場所から、そしてこの時代からである。反ユダヤ主義は、ギリシア、アレクサンドロス的なものであり、後にキリスト教的なものになる。エジプト人は、以前にも明らかにユダヤ人を嫌っていた。ダモクリトスという人物は、ユダヤ人は七年おきに外国人を捕まえ、神殿に連れて行き、ばらばらに切り離して殺すと述べていた。アレクサンドリアのアピエンは、ユダヤ人は毎年ギリシア人を太らせて食べると書いていた。マネトンという、エジプトの神官は、ユダヤ人は、ライ病の人種で、モーセの時代にもエジプトから追い出されていたので、新たに追い出さねばならないと説明していた。
紀元前三三一年、アレクサンドロスはエジプトから去り、ユダとティルスを再び通って、メソポタミアに進み、ペルシアの都ペルセポリスを焼く(ダレイオス三世は彼の軍隊に殺された)。そして金のダリク貨幣をスタテール貨幣に取り換えた。ベルシア王の財宝は、貨幣に換えられた。それが商業交換を都合よくし、驚くべき経済発展を引き出した。その大部分は、ユダヤ商人によってなされた。紀元前三二七年、マケドニア人は現アフガニスタンのカブールやバーミヤンに行き、インドヘと進み、やがてバビロニアまで悲惨な旅をしながら砂漠を戻って来た。そこで彼は紀元前三二三年、三三歳で突然亡くなった。彼は貨幣の上に顔が刻まれた、神の特権にまで進んだ最初の人物であった。
彼の部下だった将軍[ディアドコイ]が帝国を分割した。セレウコスはシリアとメソポタミア、エしゲ海がらアフガェスタンまでを支配した。プトレマイオスがエジプトとギリシアを簒奪する。セレウコスの統治のもとにあったユダは、すぐに二つのギリシア権力の間で不和の原因となる。実際賭けは商業ルートの支配であり、商業ルートはまだそこを通過していた。
アレクサンドリアの将軍である、プトレマイオス一世、ソテルは紀元前三一三年に、そこに首都を置き、ユダヤ人やギリシア人の知識人やユダヤ人銀行家の助けによって、灯台と図書館を建設した。彼はキプロスを取り、セレウコス一世がバビロニアに侵攻するのを助け、それと交換に、シリアを彼から受け取った。二人のギリシア人は二つの古いエジプト帝国とバビロニア帝国を意のままにする。
マケドニアの王アレクサンドロスの、驚くべき冒険に生き残った最後の人物であった、セレウコスは、ほぼ五〇年、紀元前二八一年まで、その首都に自分の名前をバビロンのすぐわきのチグリス河のセレウキアと付けて、統治する。彼の後、ギリシア人の王はバビロニアの権力を維持し、地方の、農民、商人、職人のユダヤ人共同体を支持する。彼らはパレスチナも統御する。そこでユダヤ人の間のさまざまの宗教グループの違いが明らかになり始める。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派。
サドカイ派は、大祭司の家族や貴族を代表し、政治・宗教の秩序に力を持った。彼らは税金、寄進、寺院、あらゆる金融的な回路を持った。
パリサイ派は、共同体の精神的案内人で、宗教指導者であり、世俗の指導者でもあり、素朴な生活を弁護し、祭司の富を批判し、自由な仲裁、永遠の生活へ、復活とメッシアヘの信仰を認めた。預言者エリヤは、貧困とは、神がその民に非常に美しい比喩をもって委ねた、最高の善であると宣言さえした。「赤い手綱が白い馬にうまく合うように、貧困はイスラエルに合う」。禁欲、そこから「パリサイ人」という言葉が生まれた)は、必ずしも救済を導かない。そしてそうだからといって、彼らは富が善のためになる限り、それを非難しない。
エッセネ派は、半修道僧のセクトで、富を拒否する点において、さらに過激である。彼らは所有、収入、食糧、衣服を平等にする。彼らは結婚や動物の生贅を拒否する。エッセネ派は、貞操、純潔を賞賛し、白い衣装を着ていた。
連帯の条件ははっきりする。共同体の各成員は、ツェダカに融資するために少なくともその資源の一〇分の一をつねに寄進しなければならない。共同体によって管理されることで、ツェダカは、貧しい娘への持参金、家族のない高齢者の収入、破産した者の労働の免除、利子のない貸付の授与、通過する外国人の受け入れ、奴隷の買戻し、最後に、とりわけ重要なことはすべての子供たちの教育の保障となる。
紀元前三〇一年、セレウコスの手に移ったユダは、プトレマイオスー世の手に移る。プトレマイオス一世は、シャバ″卜の日にエルサレムに入る。それはスキャンダルであったが、しかし神殿を再建し、国の内部のことにあまり口を挟まなかった。彼は毎年年貢を受け取ったが、にもかかわらず神殿の家僕の年貢は免除し、三年間はエルサレムのすべてのユダヤ人を免除した。認可された唯一の民族的権威である、大祭司だけが二〇分の一税をパレスチナやディアスポラで徴収する権利と、神殿の財宝の管理権を持った。
紀元前二八六年に父から王位を引き継いだプトレマイオスニ世(いわゆるフィラデルフォス〝兄弟愛〟という名称を持つ)は、パレスチナを支配し、以来紀元前二四六年までアレクサンドリアを支配した。エジプトは、その時代において、げっして力を持ってはいなかった。ヘレ三ズム化されたエジプトは次第に、新しい西洋の権力、ローマの影響のもとに入った。フィラデルフォスは『聖書』をギリシア語に翻訳しようとする。それがいわゆる「七〇人訳」といわれる『聖書』で、ギリシア語以外話さないユダヤ人にとって有用であった。
紀元前二四五年、その継承者、プトレマイオス三世はユダを強化し、神殿を豊かにした。大祭司の機能は、義人シメオンという人物とその二人の兄弟によって確認されている。シメオンはこの頃こう書いている。「ユダヤ人にとって、世界は三つの柱からなる。律法、神への奉仕、そして愛の行為」。紀元前二二二年、プトレマイオス三世は、パレスチナのヘレニズム化を促進し、ユダヤ人と支配者とのすべての公的関係はギリシア語で交わされた。国の経済は、新しいエジプト帝国の経済に含まれた。パリサイ派とエッセネ派は豊かなサドカイ派に対立し、裁判所を再獲得しようとする。サンヘドリンのサドカイ派のメンバー自身パリサイ派に置き換わっていく。商業経済は繁栄し続けた。地方も再び繁栄する。ユダは将来ギリシア語で暮らす、ギリシアの地方となる。
紀元前二〇二年、新しい領主の変化が起こる。インドやアラブに至る侵略の長い旅によって、ギリシアのもう一人の王セレウシドーアンティオコス三世(紀元前二二三-一八七)は、マケドニアのフィリッポス五世と連合し、アジアの再獲得に乗り出す。彼はプトレマイオスからパレスチナを取り返し、ユダヤ人に信仰の権利を与える。
ギリシア都市の自由の商人の中で生まれた新しい力、古代ローマは、その商業力のためにますます近東に関心を持ち、アンティオコス三世の力の増大を心配する。ローマの盟主にとって、アジアルートは開かれたままでなければならない。マケドニアとセレウコス、プトレマイオスとローマの同盟が形成される。ユダは政治的にも商業的にもこの二つの間にあった。ディアスポラの共同体(プトレマイオス朝ではアレクサンドリアの、セレウコス朝ではバビロニアの、ローマ人ではローマの)は、ユダを別の権力者の保護に置いたことで、謀議を図ったとしばしば糾弾された。すでに二つのライバルの帝国の中で、ユダヤ人兄弟の共同体がそれぞれ存在することはユダヤ人は二重国籍者であるという批判を強めた。
ローマはますます軍事的にも、商業的にも、エジプトヘ展開していた。紀元前一九一年、執政官フラミニヌスが、エジプトのプトレマイオスと同盟し、マケドニアのフィリッポス五世と連合したセレウコスの軍隊と対決する。数の上では後者がはっきりと優越していた。しかしローマ人は、紀元前一八九年、テルモピュレ、そしてマグネシアを獲得する。アンティオコスはアパメイア条約にサインしなければならなくなる。これによって、彼はチグリス河を越えたアジアの所有をプトレマイオスに渡すことになる。敗北した王は非常に高い戦争の賠償金を支払うよう要求されたので、彼はそれを払うのに、あらゆる宗教の大祭司の領地を売るが、エルサレムからバビロンまで、近くにあるすべての州のすべての神殿から略奪するしかなかった。紀元前一八七年、スサのバールの神殿を略奪しようとして不意を突かれたアンティオコスは、そこで暗殺された。
ユダは、あらゆる軍の通過を許し、たえず主人を替えながら、大いに繁栄していた。土地では小麦、大麦、果実、ワイン、オイル、イチジクが生産された。牧畜は生贅の動物を供給した。漁業は、アクラやジャファの港で発展した。国土には金属が少なかったが、建築用の石は多くあった。羊という家畜がそこで多くの羊毛を産出した。建築や繊維の家内工業が発展した。僧侶は、利子付貸与で貸すことへの禁止を恐れながら、農業、漁業、アトリエに融資した。両替商は遍歴の旅に出た。その仕事が何であろうと、支配者のための徴税官として豊かになる者は、わずかだがいた。ディアスポラは国の再建、それとますます多くの祭司を神殿のまわりに住まわせるための企画に融資した。
エルサレム、バビロニア、アレクサンドリア以来、裁判所と宗教学校が律法を明確にする。教師と学生はいわゆる「ミシュナ」あるいは「反復」(それは暗記されていた)という講義ノートを編集しようとした。彼らは道徳的問題について、さらに財政、価格、企業、社会生活、連帯、環境といった経済的問題についての裁判所の決定を要約する資料を集めた。彼らは(彼らが退廃だと考えていた近隣のギリシアの社会と違って)肉体労働を賞賛し、「公正価格」を決め、利潤を制限し、組合的組織を統御し、町の通りにさまざまの職業団体を配置し、とりわけ道徳的退廃の疑いありとされる、香水のような女性用の商品に特化したある種の職人を監視し、皮のなめし、採堀、汚物の収集(悪臭のため)のような屈辱的だと考えられるある種の仕事を行っている者を排除し、彼らとの離婚を認めた。
その活動が環境や経済以外に悪影響を与えるならば、それを禁止することをある種の裁判所は行うようになる。たとえば、小さな家畜の飼育、とりわげヤギは、禁止されていた。その理由は農地を荒らすからである。別の判断では、町の境界から五〇クデ[二五タートル]以内に麦うち場を作ることを禁じた。それは、風によって運ばれる麦の皮が住民の健康に被害をもたらす恐れがあるからである。同様に、多くの煙を排出する竃を作ってはいけないし、神殿の祭壇の上でオリーブの木、ブドウの木、ナツメヤシの木を燃やしてもいけないし、すぐにナフサのランプに火を入れてもいけない。「なぜなら、自然の価値を損なうからである」。新しい町には、そのまわりに、木もない、畑もない、企業もない緩衝地帯をつくることが課せられた。
裁判所は、状況が不安定になった場合、すぐに出発する用意をしておく必要性から、次の教訓を引き出し、遺産の管理を行っていた。「人間は富を三つの形態で持っておくべきである。土地、家畜、金をそれぞれ三分の一ずつ」。裁判所は、貧民、未亡人、孤児、外国人、病人や債権者に支払われる援助の条件を明らかにする。
すべての借り手を貧民にし、解決不能にする危険があるので、利子付貸付は禁止された。利子は嘘や横領と同じであった。「もしあなたが貨幣を誰か同国民、あなたのところにいる貧民に貸すとすれば、借り手から担保を取ってはならないし、利子を課してはいけない」(「出エジプト記」二二章24節「人道的律法」、「レヴィ記」二五章37節「「安息の年とヨペルの年」])。利子付で借りたり、貸付行為をしたり、証文に判を押させたりすることも禁止されていた。同時に、債権者が貸付で間接的に利益を得るような、すべての行為も禁じられた(avaq ribbit 文字通り「利子は埃」)。実際には、こうした一般的な禁止にもかかわらず、テキストを詳細に検討することで、ある行為を裁判所に認めさせることになる。裁判所は、貧民に関する唯一の貸付である消費者への貸付を制限した。投資への貸付は非常にはっきりとしたメカニズムで承認された。たとえば、利子なし貸付の担保となった財は、借り手の支払いが終わればすぐに買い戻される。ただし利子に等しい手数料を取られる。しかしながら担保は、原理的には厳しく制限されていた。「すべての人は持っている財の場所に戻り、家庭に戻る」(「レヴィ記」二五章23~31節[「安息の年とヨベルの年」一)。すべてのものが、時間無制限に担保となりうる。ただし住居は別で、借り手は一年が過ぎると取り戻すことができる。貸し手に家族とともにそこに住むことを認めねばならない。
連帯と慈善を求める共同体の外では、利子は承認される。なぜならそれは非道徳的ではないからだ。「外国では、利子付で貸すこと、借りることができる」(「申命記」二三章20節[「利子比」。外国人は潜在的に貧民でない。非ユダヤ人は追放される危険がないからだ。
実際には(非常に微妙な判断の共同体からの排除以外は)どんな処罰もないので、裁判所はたえず遵法を呼びかけねばならない。そしてユダヤ人の直接の利子付貸与も多くあった。紀元前五世紀には、アスワンの前にある小さな島、エレファンティネス島のユダヤ人共同体によってエジプトで書かれたパピルスは、それを証明している。
ユダヤ人に対して発せられたスパイという批判は、継続していた。それがとりわけ劇的な形をとるのは、紀元前一八七年、東を支配するアンティオコス四世エピファネスが、メソポタミアとパレスチナのユダヤ人は、プトレマイオスやローマの側を通過しているではないか、と批判したときであった。彼はユダヤ人を認めたアンティオコス三世の法を廃止し、ユダヤ人根絶の最初の計画として、ユダのすべてでその信仰を禁止し、神殿の祭壇にゼウス像を建てさせ、割礼行為を死刑にし、ユダヤ人がギリシアの祭典に参加することを強制し、エルサレムをアソティオコスという名に変更した。
ユダにおけるユダヤ教の残存は、脅威を受けたわけではなかった。ユダヤ人はやがてローマに向かい、ローマか彼らを助けると考え、ローマに向かう。それは彼らの失敗になるだろう。
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怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント
『隠れナチスを探し出せ』より 怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント
アーレントが一九六三年に『イェルサレムのアイヒマン』を出版するやいなや、批判の集中砲火が浴びせられた。検事たちは当然ながら、アイヒマンに関する彼女の意見に賛成しなかった。「彼は命令に従っていただけだというハンナ・アーレントの考え方はまったくばかげている」とバッハは言い切った。ジェノサイドに情熱を燃やしていると見られていたからこそ、彼はホロコーストの間中、公安組織のなかでユダヤ人問題を任されていたのだとも語った。敗色が濃くなり、上官がホロコーストの物的証拠を隠そうとしはじめてからずいぶんたっても、ユダヤ人を殺そうというアイヒマンの意欲は衰えなかったと。しかし、マスコミや公開討論会でアーレントに反撃したのはほかの人々だった。
先頭に立った一人は、ニュルンベルクでアインザッツグルッベン裁判の裁判長を務めたマイケル・マスマノだ。マスマノはアイヒマンが逮捕されたあと、『アイヒマン特別部隊』を著し、エルサレムで行われた裁判では検察側の証人として証言もした。被告弁護人のゼヴァティオスに求められて、彼はニュルンベルクでの元ナチ幹部の発言について語った。ゲーリングは「ユダヤ人の絶滅計画に関してはアイヒマンが全権を握っていたとはっきり述べた……どのユダヤ人を殺すかについて事実上、絶対的な決定権を持っていたと」。これは自分にはなんの決定権もなかったというアイヒマンの主張に真っ向から反駁するものだった。
劇的な表現を躊躇せず使う人物だったマスマノは別の機会に、ニュルンベルクでアイヒマンの名前は「証言のなかで何度もくり返されたが、それはまるで人気のない空っぽの家を吹き抜ける風の囁き、屋根に枝がそっと触れて霊の訪問をほのめかすカサコソという音に似ていた」と述べてい
「ニューヨーク・タイムズ」からアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』の書評を依頼されたマスマノは、非常に大きな討論の場を得ることになった。彼は予想されたとおりの痛烈な批判を加え、アーレントの言うとおりなら「アイヒマンは心の底ではナチではなく、ヒトラーの計画を知らずにナチ党に入党し、ゲシュタポはユダヤ人のパレスチナ移住に協力的で、ヒムラーが(あのヒムラーが!)慈悲の心を持っていたことになる」として、彼女の主張を軽蔑もあらわに退けた。ユダヤ人を憎んでいたわけではないというアイヒマンの抗議など誰も信じなかったのに、アーレントは彼に同情し、嘘で固められた過去と考え方にまんまと騙されてしまったのだとも述べた。
マスマノが一番辛辣な言葉を投げつけたのは、「くり返し」アウシュヴィッツを訪れながら、「殺人設備」は見たことがなかったというアイヒマンの発言をアーレントが信じた点だった。「それはまるでナイアガラフォールズ市にくり返し滞在しながら、滝に気づかなかったと言うに等しい」。ユダヤ人会議に対する非難については、怒りを向ける相手が完全に間違っていると考えた人々と同意見だった。「アイヒマンが死の脅しを使ったせいでクヴィスリング(訳注 ドイツ占領下のノルウェーで首相を務めた)やラヴァル(訳注 ヴィシー政権で副首相・首相を務めた)などの〝親ナチ〟が生まれたことは、アイヒマンが犯した罪の恐ろしさを強調するだけだ」とマスマノは結論している。
この書評はアーレントの本に劣らず世間を騒がせ、読者も二手に分かれて著名人二人による戦いを見守った。「ニューヨーク・タイムズ」紙は続けて書評欄にアーレントからの反駁、マスマノからの〝反駁に対する反駁〟を、さらにはそれぞれの支持者から寄せられた熱のこもった手紙を掲載した。反駁のなかでアーレントはマスマノを書評家として指名した新聞社の「突飛な」選択をきびしく批判した。過去に彼女は全体主義とアイヒマンの果たした役割に関するマスマノの見解を「危険でくだらない」と退けたことがあったからだ。にもかかわらず、新聞社もマスマノもその事実を読者に知らせなかったのは「通常編集業務の目に余る失態」ではないかと非難した。書評については「わたしの知るかぎり、書かれも出版されてもいない本」に対する攻撃だと述べた。つまり、マスマノは本の内容を少しも正確に伝えていないというのである。
マスマノは「アイヒマン裁判の真実をミス・アーレントがいくつも間違って伝えている」ので、それを指摘するのは自分の義務であり、「いかなる種類の不正確さ」も責められる立場にないと反撃した。アーレント支持派はマスマノの書評を「過去最低の書評」「はなはだしい誤読」と呼び、「アーレントの巧みな皮肉が理解できない」のだと指摘した。反アーレント派は「事実関係を明確にしよう」と努力したマスマノを讃え、アイヒマンを理解することに「必死になる」あまり「史実に関して無知であるか無視を決めこんだ」アーレントを責めたてた。
論争はそこで終わらなかった。ニュルンベルク裁判でロバート・ジャクソン判事のユダヤ人関係相談役を務め、のちにはイスラエルの国連代表団の法律顧問にも任じられたジェイコブ・ロビンソンがアーレントの主張を突き崩すためだけに一冊の本を書きあげた。『歪んだ見方を正す--アイヒマン裁判とユダヤ人の惨劇、ハンナ・アーレントの物語』は一九六五年に刊行された。弁護士で学者でもあるロビンソンにとっては、どんな細かな点も些細とはいえず、取りあげて争わずにはいられなかった。
当然、アーレントがホロコーストにおけるアイヒマンの役割は検察側による誇張だとしたことは槍玉に挙げられた。「ハンナ・アーレントが描くアイヒマン像を前にすると困惑せずにいられない」。「実際のアイヒマン」は「尋常ならざる活力を持ち、狭滑な詐欺の達人で、専門分野においては賢く有能であり、ヨーロッパから〝ユダヤ人を一掃する〟という任務に一意専心し、ひと言で言うなら、ユダヤ人絶滅計画の監督者としてこれ以上ない適任者」だったことが文書からもわかると彼は述べた。
ロビンソンが特に「仰天した」のは、ナチ占領下のヨーロッパにおけるユダヤ人会議の役割を論じた部分でアーレントが「史実を歪めた」点だった。ドイツ人がゲットーを治めるために利用したユダヤ人組織の起源を、ロビンソンは長々と説明し、ユダヤ人会議は「どんな状況でも共同体を物理的にも精神的にも存続させようと前向きな努力をした」と指摘した。彼らが「より大きな災難からコミュニティを守れると信じこみ、ナチの支配に公然と抵抗しないよう必死になった」ことは認めたが。さらに、ユダヤ人警察は強制移送のための一斉検挙にたびたび利用されたものの、そうした場合はドイツ人から直接命令を受けたとして、会議との関係を否定した。
そのような主張に納得しなかったのはアーレント一人ではなかった。ユダヤ人会議とユダヤ人警察の果たした役割について議論した、がらない風潮を、ジーモン・ヴィーゼンタールも批判し、真の悪者であるナチの罪が軽く見えてしまうという懸念を一蹴した。「われわれはこれまでユダヤ人がナチに協力した事実をほとんど糾弾せずにきた」「ユダヤ人を責める権利はほかの誰にもない--だが、われわれ自身がいつかその事実と向き合う必要がある」
しかし、こういう声は概して極端に少なかった。ロビンソンが多数派の考え方を要約して次のように述べている。「法的にも倫理的にも、ユダヤ人会議をナチの共犯として断じるのは、銃を突きつけられて店を明け渡した店主を武装強盗の共犯と断じるに等しい」
アイヒマンが象徴する悪の性質という問題になると、特に反アーレント派の声が大きくなる。少なくとも識者のあいだではその傾向があり、彼女はしばしば村八分に遭った。二〇一二年の映画『ハンナ・アーレント』で、ドイツ人監督マルガレーテ・フォン・トロッタは、アーレントが友人や同僚から見放され、両者のあいだで非難の応酬が激しさを増していく様子を描き出した。
しかし、アイヒマンを捕らえたイスラエル人工作員のなかにも、アーレントの考え方に共感を覚える者がいた。「ある意味、彼女は正しかった」と、ブエノスアイレスで工作班を指揮したラフィ・エイタンは語った。「アイヒマン自身はユダヤ人を憎んでいなかった--わたしはそう感じた。あれが悪の凡庸さなのだろう。あの男にフランス人を殺せと言ったら、同じく命令に従ったにちがいない」
アイヒマンが象徴するものをめぐる論争は何十年も続いている。二〇一一年、ドイツ人哲学者ベッティーナ・シュタングネトが、オランダ人ナチ・ジャーナリストのヴィレム・ザッセンによるインタビューの資料をはじめとして広範な追加調査を行い、本を刊行した。英語版は『エルサレム以前のアイヒマン--大量殺人犯の検証されていない人生』と題して二〇一四年に出版された。その内容はロビンソンらの主張を支持する証拠の集大成だった。
アイヒマンはたまたま大量殺人システムの重要な一部を担うことになった凡庸な官僚などではないと、シュタングネトは論じた。「全体主義思想に取り憑かれた」狂信的な反ユダヤ主義者で、どんな命令にもただ従っただけの男にはほど遠かった。「人の命を軽んじるイデオロギーは、伝統的な正義の概念や倫理観を否定する行動が合法化される場合、自称支配民族の一員にとってきわめて魅力的に映る」と彼女は記している。
シュタングネトは、アーレントがホロコースト研究の初期に大いに必要だった議論を始めた点は評価している。アーレントの本は「ソクラテスの時代からの哲学者の目標を達成した。理解のための論争である」。しかし、アーレントは主題とした人物の嘘で固めた話に臨されてしまった。「エルサレムのアイヒマンは仮面にすぎなかった」とシュタングネトは記している。「彼女はそれに気づかなかった。自分が望むほどには研究対象を理解できていないと、強く自覚していたにもかかわらず」
アイヒマンの取調べ記録と裁判後半での本人の証言をおもな論拠としたアーレントが、ユダヤ人に個人的憎しみは抱いていなかった、自分は従属的役割を演じただけだという彼の異議申し立てを額面通りに受け取ったのはほぼ間違いない。確固たる自信のない凡庸な人間を、全体主義体制が巧みに利用したという自説を証明したくてしかたがなかったのだろう。傲慢さも否定できない。アイヒマンはどうしてあんなことができたのか、その精神構造を正しく突きとめられたのは自分だけだと彼女は確信していた。
しかし、感情的になった批評家のせいでアーレントの見解が原形を留めないほど歪められたというのは確かで、彼女は『イェルサレムのアイヒマン』の出版から十年間ほど、ドイツやフランスのインタビュー番組で反撃した。彼女の発言は誤解されやすく、混乱の原因となった文句をくり返したところで状況は改善されなかった。初期のインタビューでは、アイヒマンは「道化」だったとくり返し、取調べ記録を読んだときに「声をあげて笑ってしまった」と述べている。
その後のインタビューでは、意味するところをもう少しわかりやすく説明するようになった。ドイツ人歴史学者ョアヒム・フェストとの対談で、〝凡庸な行動〟という言葉にはなんら肯定的な意味がないことを指摘した--正反対である。自分は命令に従っただけなので大量殺人の責任を負う立場にない、無罪だと主張したアイヒマンやニュルンベルク裁判の被告を、アーレントは「詐欺師」だと激しく非難した。「どうしようもないほどばかばかしい」「何もかもが滑稽としか言いようがない!」インタビューのなかで彼女が使った「滑稽」は決して〝面白い〟という意味ではなかった。
とはいえアーレントは、アイヒマンは「単なる役人」であり、彼のとった行動にイデオロギーは大きな意味を持たなかったという自説については固持した。彼女を批判した人々の多くはアイヒマンを怪物、悪魔の化身と考えたが、その解釈はドイツ人がとった行動に言い訳を与えることになるのできわめて危険だと、彼女は言った。「奈落に潜んでいた獣に屈服したほうが、アイヒマンのようなごくふつうの男に屈服したよりも、当然ながら罪はずっと軽くなる」。だからこそ、アーレントはアイヒマンとその同類を悪魔と見なす説明を退けつづけたのだ。
アイヒマンの解釈についてはきわめて如才ない議論を展開し、興奮した反対派を黙らせる一方で、ナチに協力したユダヤ人に対する責任追及の論調はほとんど緩めなかった。それでも、当初よりは理解を示すようになり、ユダヤ人会議の指導者は「犠牲者」だった、いかに問題となる行動をとったにしても、彼らは決して加害者ではなかったと述べた。これは当初の意見があまりに批判的すぎると受け取られたことに対する間接的な譲歩だった。
『イェルサレムのアイヒマン』で見過ごされてしまった部分を読むと、アーレントは、彼女を批判した人々がしばしば言い張ったのとは異なり、犠牲者を責めていたわけではないことがわかる。バッハが指摘したように、イスラエルの指導部が裁判を行った目的の一つは、若い世代にドイツのやり方、すなわち犠牲者に最後の最後までありもしない期待を抱かせつづけたことを明らかにするためだった。アーレントはユダヤ人が「羊のようにおとなしく殺された」と言いながらも、次のように記している。「しかし、残念なことに、ここで誤解が生じてしまった。なぜなら、ユダヤ人以外のどの人種であろうと、まったく同じ行動をとったはずだからだ」。この点ではアーレントも反アーレント派も意見が二致していたのである。
半世紀後に振り返ってみると、アイヒマンは相反する特性、つまりアーレントが主張した特性と反アーレント派が主張した特性のいずれも併せ持っていたと考えるのが妥当だろう。彼は全体主義体制のなかで上官を喜ばせるためなら何でもする出世主義者であったと同時に、人々を死に追いやることに無上の喜びを覚え、ナチの手を逃れようとする者は一人残さずつかまえる悪意に満ちた反ユダヤ主義者だった。アーレントは認めなかったが、彼は意図的に悪を行い、なおかつアーレントの考える悪の凡庸さを体現していた。この二つは必ずしも相反する考え方ではない。アイヒマンは極悪非道の体制のもと、極悪非道なことをしたが、彼に怪物というレッテルを貼ってしまうと、多くの人間が罪に問われなくなり、専制的な体制の下では平凡な市民が簡単に犯罪行為に走るという事実を無視する結果になってしまう。
アーレントが一九六三年に『イェルサレムのアイヒマン』を出版するやいなや、批判の集中砲火が浴びせられた。検事たちは当然ながら、アイヒマンに関する彼女の意見に賛成しなかった。「彼は命令に従っていただけだというハンナ・アーレントの考え方はまったくばかげている」とバッハは言い切った。ジェノサイドに情熱を燃やしていると見られていたからこそ、彼はホロコーストの間中、公安組織のなかでユダヤ人問題を任されていたのだとも語った。敗色が濃くなり、上官がホロコーストの物的証拠を隠そうとしはじめてからずいぶんたっても、ユダヤ人を殺そうというアイヒマンの意欲は衰えなかったと。しかし、マスコミや公開討論会でアーレントに反撃したのはほかの人々だった。
先頭に立った一人は、ニュルンベルクでアインザッツグルッベン裁判の裁判長を務めたマイケル・マスマノだ。マスマノはアイヒマンが逮捕されたあと、『アイヒマン特別部隊』を著し、エルサレムで行われた裁判では検察側の証人として証言もした。被告弁護人のゼヴァティオスに求められて、彼はニュルンベルクでの元ナチ幹部の発言について語った。ゲーリングは「ユダヤ人の絶滅計画に関してはアイヒマンが全権を握っていたとはっきり述べた……どのユダヤ人を殺すかについて事実上、絶対的な決定権を持っていたと」。これは自分にはなんの決定権もなかったというアイヒマンの主張に真っ向から反駁するものだった。
劇的な表現を躊躇せず使う人物だったマスマノは別の機会に、ニュルンベルクでアイヒマンの名前は「証言のなかで何度もくり返されたが、それはまるで人気のない空っぽの家を吹き抜ける風の囁き、屋根に枝がそっと触れて霊の訪問をほのめかすカサコソという音に似ていた」と述べてい
「ニューヨーク・タイムズ」からアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』の書評を依頼されたマスマノは、非常に大きな討論の場を得ることになった。彼は予想されたとおりの痛烈な批判を加え、アーレントの言うとおりなら「アイヒマンは心の底ではナチではなく、ヒトラーの計画を知らずにナチ党に入党し、ゲシュタポはユダヤ人のパレスチナ移住に協力的で、ヒムラーが(あのヒムラーが!)慈悲の心を持っていたことになる」として、彼女の主張を軽蔑もあらわに退けた。ユダヤ人を憎んでいたわけではないというアイヒマンの抗議など誰も信じなかったのに、アーレントは彼に同情し、嘘で固められた過去と考え方にまんまと騙されてしまったのだとも述べた。
マスマノが一番辛辣な言葉を投げつけたのは、「くり返し」アウシュヴィッツを訪れながら、「殺人設備」は見たことがなかったというアイヒマンの発言をアーレントが信じた点だった。「それはまるでナイアガラフォールズ市にくり返し滞在しながら、滝に気づかなかったと言うに等しい」。ユダヤ人会議に対する非難については、怒りを向ける相手が完全に間違っていると考えた人々と同意見だった。「アイヒマンが死の脅しを使ったせいでクヴィスリング(訳注 ドイツ占領下のノルウェーで首相を務めた)やラヴァル(訳注 ヴィシー政権で副首相・首相を務めた)などの〝親ナチ〟が生まれたことは、アイヒマンが犯した罪の恐ろしさを強調するだけだ」とマスマノは結論している。
この書評はアーレントの本に劣らず世間を騒がせ、読者も二手に分かれて著名人二人による戦いを見守った。「ニューヨーク・タイムズ」紙は続けて書評欄にアーレントからの反駁、マスマノからの〝反駁に対する反駁〟を、さらにはそれぞれの支持者から寄せられた熱のこもった手紙を掲載した。反駁のなかでアーレントはマスマノを書評家として指名した新聞社の「突飛な」選択をきびしく批判した。過去に彼女は全体主義とアイヒマンの果たした役割に関するマスマノの見解を「危険でくだらない」と退けたことがあったからだ。にもかかわらず、新聞社もマスマノもその事実を読者に知らせなかったのは「通常編集業務の目に余る失態」ではないかと非難した。書評については「わたしの知るかぎり、書かれも出版されてもいない本」に対する攻撃だと述べた。つまり、マスマノは本の内容を少しも正確に伝えていないというのである。
マスマノは「アイヒマン裁判の真実をミス・アーレントがいくつも間違って伝えている」ので、それを指摘するのは自分の義務であり、「いかなる種類の不正確さ」も責められる立場にないと反撃した。アーレント支持派はマスマノの書評を「過去最低の書評」「はなはだしい誤読」と呼び、「アーレントの巧みな皮肉が理解できない」のだと指摘した。反アーレント派は「事実関係を明確にしよう」と努力したマスマノを讃え、アイヒマンを理解することに「必死になる」あまり「史実に関して無知であるか無視を決めこんだ」アーレントを責めたてた。
論争はそこで終わらなかった。ニュルンベルク裁判でロバート・ジャクソン判事のユダヤ人関係相談役を務め、のちにはイスラエルの国連代表団の法律顧問にも任じられたジェイコブ・ロビンソンがアーレントの主張を突き崩すためだけに一冊の本を書きあげた。『歪んだ見方を正す--アイヒマン裁判とユダヤ人の惨劇、ハンナ・アーレントの物語』は一九六五年に刊行された。弁護士で学者でもあるロビンソンにとっては、どんな細かな点も些細とはいえず、取りあげて争わずにはいられなかった。
当然、アーレントがホロコーストにおけるアイヒマンの役割は検察側による誇張だとしたことは槍玉に挙げられた。「ハンナ・アーレントが描くアイヒマン像を前にすると困惑せずにいられない」。「実際のアイヒマン」は「尋常ならざる活力を持ち、狭滑な詐欺の達人で、専門分野においては賢く有能であり、ヨーロッパから〝ユダヤ人を一掃する〟という任務に一意専心し、ひと言で言うなら、ユダヤ人絶滅計画の監督者としてこれ以上ない適任者」だったことが文書からもわかると彼は述べた。
ロビンソンが特に「仰天した」のは、ナチ占領下のヨーロッパにおけるユダヤ人会議の役割を論じた部分でアーレントが「史実を歪めた」点だった。ドイツ人がゲットーを治めるために利用したユダヤ人組織の起源を、ロビンソンは長々と説明し、ユダヤ人会議は「どんな状況でも共同体を物理的にも精神的にも存続させようと前向きな努力をした」と指摘した。彼らが「より大きな災難からコミュニティを守れると信じこみ、ナチの支配に公然と抵抗しないよう必死になった」ことは認めたが。さらに、ユダヤ人警察は強制移送のための一斉検挙にたびたび利用されたものの、そうした場合はドイツ人から直接命令を受けたとして、会議との関係を否定した。
そのような主張に納得しなかったのはアーレント一人ではなかった。ユダヤ人会議とユダヤ人警察の果たした役割について議論した、がらない風潮を、ジーモン・ヴィーゼンタールも批判し、真の悪者であるナチの罪が軽く見えてしまうという懸念を一蹴した。「われわれはこれまでユダヤ人がナチに協力した事実をほとんど糾弾せずにきた」「ユダヤ人を責める権利はほかの誰にもない--だが、われわれ自身がいつかその事実と向き合う必要がある」
しかし、こういう声は概して極端に少なかった。ロビンソンが多数派の考え方を要約して次のように述べている。「法的にも倫理的にも、ユダヤ人会議をナチの共犯として断じるのは、銃を突きつけられて店を明け渡した店主を武装強盗の共犯と断じるに等しい」
アイヒマンが象徴する悪の性質という問題になると、特に反アーレント派の声が大きくなる。少なくとも識者のあいだではその傾向があり、彼女はしばしば村八分に遭った。二〇一二年の映画『ハンナ・アーレント』で、ドイツ人監督マルガレーテ・フォン・トロッタは、アーレントが友人や同僚から見放され、両者のあいだで非難の応酬が激しさを増していく様子を描き出した。
しかし、アイヒマンを捕らえたイスラエル人工作員のなかにも、アーレントの考え方に共感を覚える者がいた。「ある意味、彼女は正しかった」と、ブエノスアイレスで工作班を指揮したラフィ・エイタンは語った。「アイヒマン自身はユダヤ人を憎んでいなかった--わたしはそう感じた。あれが悪の凡庸さなのだろう。あの男にフランス人を殺せと言ったら、同じく命令に従ったにちがいない」
アイヒマンが象徴するものをめぐる論争は何十年も続いている。二〇一一年、ドイツ人哲学者ベッティーナ・シュタングネトが、オランダ人ナチ・ジャーナリストのヴィレム・ザッセンによるインタビューの資料をはじめとして広範な追加調査を行い、本を刊行した。英語版は『エルサレム以前のアイヒマン--大量殺人犯の検証されていない人生』と題して二〇一四年に出版された。その内容はロビンソンらの主張を支持する証拠の集大成だった。
アイヒマンはたまたま大量殺人システムの重要な一部を担うことになった凡庸な官僚などではないと、シュタングネトは論じた。「全体主義思想に取り憑かれた」狂信的な反ユダヤ主義者で、どんな命令にもただ従っただけの男にはほど遠かった。「人の命を軽んじるイデオロギーは、伝統的な正義の概念や倫理観を否定する行動が合法化される場合、自称支配民族の一員にとってきわめて魅力的に映る」と彼女は記している。
シュタングネトは、アーレントがホロコースト研究の初期に大いに必要だった議論を始めた点は評価している。アーレントの本は「ソクラテスの時代からの哲学者の目標を達成した。理解のための論争である」。しかし、アーレントは主題とした人物の嘘で固めた話に臨されてしまった。「エルサレムのアイヒマンは仮面にすぎなかった」とシュタングネトは記している。「彼女はそれに気づかなかった。自分が望むほどには研究対象を理解できていないと、強く自覚していたにもかかわらず」
アイヒマンの取調べ記録と裁判後半での本人の証言をおもな論拠としたアーレントが、ユダヤ人に個人的憎しみは抱いていなかった、自分は従属的役割を演じただけだという彼の異議申し立てを額面通りに受け取ったのはほぼ間違いない。確固たる自信のない凡庸な人間を、全体主義体制が巧みに利用したという自説を証明したくてしかたがなかったのだろう。傲慢さも否定できない。アイヒマンはどうしてあんなことができたのか、その精神構造を正しく突きとめられたのは自分だけだと彼女は確信していた。
しかし、感情的になった批評家のせいでアーレントの見解が原形を留めないほど歪められたというのは確かで、彼女は『イェルサレムのアイヒマン』の出版から十年間ほど、ドイツやフランスのインタビュー番組で反撃した。彼女の発言は誤解されやすく、混乱の原因となった文句をくり返したところで状況は改善されなかった。初期のインタビューでは、アイヒマンは「道化」だったとくり返し、取調べ記録を読んだときに「声をあげて笑ってしまった」と述べている。
その後のインタビューでは、意味するところをもう少しわかりやすく説明するようになった。ドイツ人歴史学者ョアヒム・フェストとの対談で、〝凡庸な行動〟という言葉にはなんら肯定的な意味がないことを指摘した--正反対である。自分は命令に従っただけなので大量殺人の責任を負う立場にない、無罪だと主張したアイヒマンやニュルンベルク裁判の被告を、アーレントは「詐欺師」だと激しく非難した。「どうしようもないほどばかばかしい」「何もかもが滑稽としか言いようがない!」インタビューのなかで彼女が使った「滑稽」は決して〝面白い〟という意味ではなかった。
とはいえアーレントは、アイヒマンは「単なる役人」であり、彼のとった行動にイデオロギーは大きな意味を持たなかったという自説については固持した。彼女を批判した人々の多くはアイヒマンを怪物、悪魔の化身と考えたが、その解釈はドイツ人がとった行動に言い訳を与えることになるのできわめて危険だと、彼女は言った。「奈落に潜んでいた獣に屈服したほうが、アイヒマンのようなごくふつうの男に屈服したよりも、当然ながら罪はずっと軽くなる」。だからこそ、アーレントはアイヒマンとその同類を悪魔と見なす説明を退けつづけたのだ。
アイヒマンの解釈についてはきわめて如才ない議論を展開し、興奮した反対派を黙らせる一方で、ナチに協力したユダヤ人に対する責任追及の論調はほとんど緩めなかった。それでも、当初よりは理解を示すようになり、ユダヤ人会議の指導者は「犠牲者」だった、いかに問題となる行動をとったにしても、彼らは決して加害者ではなかったと述べた。これは当初の意見があまりに批判的すぎると受け取られたことに対する間接的な譲歩だった。
『イェルサレムのアイヒマン』で見過ごされてしまった部分を読むと、アーレントは、彼女を批判した人々がしばしば言い張ったのとは異なり、犠牲者を責めていたわけではないことがわかる。バッハが指摘したように、イスラエルの指導部が裁判を行った目的の一つは、若い世代にドイツのやり方、すなわち犠牲者に最後の最後までありもしない期待を抱かせつづけたことを明らかにするためだった。アーレントはユダヤ人が「羊のようにおとなしく殺された」と言いながらも、次のように記している。「しかし、残念なことに、ここで誤解が生じてしまった。なぜなら、ユダヤ人以外のどの人種であろうと、まったく同じ行動をとったはずだからだ」。この点ではアーレントも反アーレント派も意見が二致していたのである。
半世紀後に振り返ってみると、アイヒマンは相反する特性、つまりアーレントが主張した特性と反アーレント派が主張した特性のいずれも併せ持っていたと考えるのが妥当だろう。彼は全体主義体制のなかで上官を喜ばせるためなら何でもする出世主義者であったと同時に、人々を死に追いやることに無上の喜びを覚え、ナチの手を逃れようとする者は一人残さずつかまえる悪意に満ちた反ユダヤ主義者だった。アーレントは認めなかったが、彼は意図的に悪を行い、なおかつアーレントの考える悪の凡庸さを体現していた。この二つは必ずしも相反する考え方ではない。アイヒマンは極悪非道の体制のもと、極悪非道なことをしたが、彼に怪物というレッテルを貼ってしまうと、多くの人間が罪に問われなくなり、専制的な体制の下では平凡な市民が簡単に犯罪行為に走るという事実を無視する結果になってしまう。
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OCR化した8冊
『人的資源管理』
多様化する働く意味づけを組織はどう管理するのか
ワーク・ライフ・バランスとは
2つのレベル:狭義と広義
働くことの意味づけ
人間的な労働とワーク・ライフ・バランス
「労働の人間化」の考え方
ディーセント・ワーク
ワーク・ライフ・バランスの取り組みの世界的動向
ヨーロッパ方式
アメリカ方式
日本におけるワーク・ライフ・バランスの展開
行政の動き:ワーク・ライフ・バランス憲章の策定
日本企業の取り組み
今後の課題
ワーク・ライフ・バランスがめざすもの
『ムハンマドとアラブ社会』
研究対象となる六~七世紀のアラブ社会について
本書の研究方法・意義
本書で利用した史料、研究文献について
『レベノンの歴史』
ヴェネチアおよびジェノヴァとレバノン
シーア派とヒズボラの躍進の意味するもの
シーア派とアマルの結成
ヒズボラの台頭とシリア
ヒズボラ綱領の見直しと支持拡大
ヒズボラと「人質作戦」
社会福祉組織としてのヒズボラ
国民的認知の獲得
『隠れナチスを探し出せ』
怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント
『禅にまなぶ』
この世に遊びに来た
「娑婆世界に遊ぶ」
観音菩薩の変身
「遊ぶ(プレイ)」は役割分担
「世界はすべてお芝居だ」
偶然に決まったこの世の配役
世の中の役に立つ人
すべての人が世の中の役に立っている
客として来た
「遊び」の精神を忘れるな!
『ユダヤ人、世界と貨幣』
アレクサンドロス大王
ローマのもとで--イエスとキリスト教の登場
ノマードがいなければ定住者もいない
オリエントの環、イスラエル
『ギリシア人の物語Ⅰ 民主政のはじまり』
テルモピュレー
『ローマ人の物語Ⅰ ローマは一日にして成らず』
ギリシアヘの視察団派遣
ギリシア文明
アテネ
スパルタ
多様化する働く意味づけを組織はどう管理するのか
ワーク・ライフ・バランスとは
2つのレベル:狭義と広義
働くことの意味づけ
人間的な労働とワーク・ライフ・バランス
「労働の人間化」の考え方
ディーセント・ワーク
ワーク・ライフ・バランスの取り組みの世界的動向
ヨーロッパ方式
アメリカ方式
日本におけるワーク・ライフ・バランスの展開
行政の動き:ワーク・ライフ・バランス憲章の策定
日本企業の取り組み
今後の課題
ワーク・ライフ・バランスがめざすもの
『ムハンマドとアラブ社会』
研究対象となる六~七世紀のアラブ社会について
本書の研究方法・意義
本書で利用した史料、研究文献について
『レベノンの歴史』
ヴェネチアおよびジェノヴァとレバノン
シーア派とヒズボラの躍進の意味するもの
シーア派とアマルの結成
ヒズボラの台頭とシリア
ヒズボラ綱領の見直しと支持拡大
ヒズボラと「人質作戦」
社会福祉組織としてのヒズボラ
国民的認知の獲得
『隠れナチスを探し出せ』
怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント
『禅にまなぶ』
この世に遊びに来た
「娑婆世界に遊ぶ」
観音菩薩の変身
「遊ぶ(プレイ)」は役割分担
「世界はすべてお芝居だ」
偶然に決まったこの世の配役
世の中の役に立つ人
すべての人が世の中の役に立っている
客として来た
「遊び」の精神を忘れるな!
『ユダヤ人、世界と貨幣』
アレクサンドロス大王
ローマのもとで--イエスとキリスト教の登場
ノマードがいなければ定住者もいない
オリエントの環、イスラエル
『ギリシア人の物語Ⅰ 民主政のはじまり』
テルモピュレー
『ローマ人の物語Ⅰ ローマは一日にして成らず』
ギリシアヘの視察団派遣
ギリシア文明
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未唯宇宙 3.4.3
3.4.3「主体的行動」
市民の覚醒が出発点なるけど、これが一番の難関。あまりにも「存在」を無視して生きている。生きることが目的になってる。存在をいかに認識させるか、手数がかかる。それで苦労したけど結ばれてない。
市民が主体的行動をしていくにはどうするか。覚醒するための条件。そんな甘えたものではなくて、存在するがゆえに覚醒するものでなければならないけど、仏教じゃないけど、そのままのほほんと過ごしていけばいいんだっていう人も多い。
哲学と数学の答えから、覚醒しない限り先はないと脅かす手はあるけど、今の人類では無理。歴史上で覚醒したのは、6世紀のムハンマドの活動。となると、宗教活動と一緒にしてくしかないのか。ハリーまではまともだったけどそれ以降は いかがなものか。
Flip-flapしながら、ゆっくりと覚醒と分化を続けるしかない。そのためには存在の危機感。参考にするのは6世紀のアラブ社会。
行動に対しては、ファシリテーターが必要です。ベースは寄り添う女性。社会を超えた発想ができる。死から<今>の自由を考えられる。
行政に何をしてもらうのか、というよりも何をさせるか。ハイアラキーの体現である行政にできるのは組織の分化に挑戦してもらう。何をすべきかを内から考え、自主的な行動を開始する。ロシア革命の時の 兵士のように。
これといったことはない2017年
2017年報道写真集を見ていたけど、これといったことは行っていない。皇室の婚約ぐらいです。それも今年になって、延期になった。このスローペースは一気に何か起こる前兆とみていけばいいのか。2011年2月のクライストチャーチの地震ぐらいは起こりそうだけど。
奥さんが突如として、部屋に現れた。私の部屋の物置にあるストーブを取り来た。全部捨てればいいと言っていた。私がなくなったら思う存分やればいいと言いたかったけどやめた。私が亡くなった時に、この世界の全てが理されるのに。
市民の覚醒が出発点なるけど、これが一番の難関。あまりにも「存在」を無視して生きている。生きることが目的になってる。存在をいかに認識させるか、手数がかかる。それで苦労したけど結ばれてない。
市民が主体的行動をしていくにはどうするか。覚醒するための条件。そんな甘えたものではなくて、存在するがゆえに覚醒するものでなければならないけど、仏教じゃないけど、そのままのほほんと過ごしていけばいいんだっていう人も多い。
哲学と数学の答えから、覚醒しない限り先はないと脅かす手はあるけど、今の人類では無理。歴史上で覚醒したのは、6世紀のムハンマドの活動。となると、宗教活動と一緒にしてくしかないのか。ハリーまではまともだったけどそれ以降は いかがなものか。
Flip-flapしながら、ゆっくりと覚醒と分化を続けるしかない。そのためには存在の危機感。参考にするのは6世紀のアラブ社会。
行動に対しては、ファシリテーターが必要です。ベースは寄り添う女性。社会を超えた発想ができる。死から<今>の自由を考えられる。
行政に何をしてもらうのか、というよりも何をさせるか。ハイアラキーの体現である行政にできるのは組織の分化に挑戦してもらう。何をすべきかを内から考え、自主的な行動を開始する。ロシア革命の時の 兵士のように。
これといったことはない2017年
2017年報道写真集を見ていたけど、これといったことは行っていない。皇室の婚約ぐらいです。それも今年になって、延期になった。このスローペースは一気に何か起こる前兆とみていけばいいのか。2011年2月のクライストチャーチの地震ぐらいは起こりそうだけど。
奥さんが突如として、部屋に現れた。私の部屋の物置にあるストーブを取り来た。全部捨てればいいと言っていた。私がなくなったら思う存分やればいいと言いたかったけどやめた。私が亡くなった時に、この世界の全てが理されるのに。
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