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この世に遊びに来た

『禅にまなぶ』より

「遊ぶ(プレイ)」は役割分担

 かくて、あなたのお子さんが観音菩薩であり、あなたの夫、あなたの妻が観音菩薩であることが分かりました。あるいはあなたの両親が観音菩薩です。

 では、観音菩薩は何のために、わざわざこの娑婆世界にやって来たのでしょうか?

 それははっきりしています。もちろん、

  --遊ぶ--

 ためです。『観音経』はそう言っています。

 けれども、ご遊ぶ〃といった言葉は、日本人には評判が悪いですね。なんだかふざけているように思います。日本人はまじめ人間で、遊んでいてはいけない、もっとまじめに働かないといけないと思っています。だからゴルフなどして遊んでいても、これはレクリエーションである。これによって明日から働くための英気が養われるのだ、といった自己弁護をします。おかしな民族です。

 それ故、先程は、遊ぶということは「遊学」することだとしました。故郷を出て、他の土地に行って学ぶことを〝遊学〟といいます。観音菩薩は、その故郷である極楽世界を出て、娑婆世界に来て学問をしておられる。修行をしておられる。そういう説明だと、まじめ人間である日本人にも通じそうです。

 まあ、それでもよいでしょうが、わたしは〝遊ぶ〟といった語をもっと違ったふうに解釈しています。〝遊ぶ〟といった語は、英語だと”play”になります。この〝プレイ〟という語に関しては、わたしにおもしろい思い出があります。というのは、国際オリンピック委員会の終身名誉会長であったクーペルタン男爵(一八六三-一九三七)に、次の名言があります。

  《オリンピックの精神は、勝つことではなく参加することである》

  そして、何かの機会にこの名言の英訳を読んだのですが、そこには、

  --Not to Win, But toTake Part

 と訳されていました。

 なるほど、“take part”には「参加する」といった意味があります。しかし、これを正しく訳せば、「役割を分担する」といった意味です。〝パート〟というのは「割り当てられた部分」です。オリンピックの精神とは、勝つことではありません。弱い者が弱い役割を果たすことです。

 わたしはプロ野球の阪神タイガースのファンなんですが、現在のところタイガースは弱いチームです。優勝なんかとてもできません。といっても、ひょっとしたら今年、優勝するかもしれませんが、まあ無理でしょう。しかし、わたしは、タイガースは優勝なんかしなくていいと思っています。弱いチームであれば、立派に弱いチームの役割を果たせばいいと思っています。そう言うよりほかに、タイガースのファンには何も言えませんよね。

 ともかく、強いチームは強いチームの役割を果たす。そして弱いチームは弱いチームの役割を果たす。それが役割分担の思想であり、その役割分担をつとめることが、わたしは「遊ぶ(プレイ)」だと思います。

「世界はすべてお芝居だ」

 だいぶはっきりしましたね。

 あなたの子が、夫が、妻が、両親が、隣の人が観音菩薩です。ということは、あなた自身が観音菩薩です。だって隣の隣はあなたですから、あなた自身も観音菩薩でなければなりません。

 それ故、みんな観音菩薩です。

 わたしたちはみんな極楽世界からこの娑婆世界に、それぞれの役割を果たすために来たのです。

 ここでちょっと脱線します。

  シェイクスピア(一五六四-一六一六)の『お気に召すまま』には

  《世界はすべてお芝居だ。

  男と女、とりどりに、すべて役者にすぎぬのだ。

  登場してみたり、退場してみたり》(阿部知二訳、岩波文庫)

  といった台詞があります。

  また、『マクベス』には、

  《人生は歩く影だ。あわれな役者だ。

  舞台の上を自分の時間だけ、のさばり歩いたり、

  じれじれしたりするけれど、やがては人に忘られてしまう。

  愚人の話のように、声と怒りに充ちてはいるか、

  何等の意味もないものだ》(野上豊一郎訳、岩波文庫)

 といった台詞もあります。シェイクスピアは、わたしたちの人生を一つのお芝居と見ているのですね。

 じつをいえば、神がシナリオライターであり、演出家であり、われわれ人間は神にあやつられてそれぞれの役を演ずる役者で、世界はそのための舞台であるという、いわゆる、

  --世界劇場--

 といった観念は、ヨーロッパに古くからありました(小田島雄志『シェイクスピア名言集』岩波ジュニア新書によりました)。シェイクスピアは、そのような「世界劇場」の観念にしたがって、これらの台詞を書いたのだと思います。

 この「世界劇場」の考え方は、なかなかいいですね。神がこの世の配役を決められているのです。神によって、ある人は主役を貰い、ある人は傍役を貰い、また悪役を与えられる人もいます。金持ちの役もあれば、貧乏人の役もあります。人生というドラマの中で苦しみ・悲しみに耐える役割を与えられた人は、その苦しみ・悲しみにしっかりと耐える役を演ずればいい。わたしはこんな配役はいやだ。もっと幸せに生きる役柄をやりたい。そんなふうに言うことは、神に楯突いていることになります。人間は与えられた役をしっかりと演ずればよい。それがキリスト教の考え方でしょう。

 でも、この考え方は、いささか暗いですね。

 まあ、キリスト教においては、人間は神の奴隷なんだから、こう考えるよりほかないでしょう。キリスト教においては、神がオールマイティーの存在であって、人間は神の意のままに動かされます。だから、どうしても暗い考え方になります。

 そこでわたしは、観音菩薩が、

  --娑婆世界に学ぶ--

 という仏教の考え方に惹かれるのです。といったところで、話を元に戻します。

偶然に決まったこの世の配役

 もちろん仏教においても、この世にはさまざまな配役があります。優等生/劣等生、金持ち/貧乏人、努力家/怠け者、権力者/庶民、健康な人/病人……と、さまざまです。

 わたしたちはいずれかの配役をつとめるのですが、もちろん神に命じられてするのではありません。仏教では、それを因縁によるとしています。

 因縁とは、ある意味では偶然です。たまたま周囲に勉強のよくできる者が多かった。そういう因縁によって、あなたは劣等生になってしまうのです。

 たとえば、アリの世界において、勤勉なアリ、普通のアリ、怠け者のアリの比率が、だいたい二対六対二になっているそうです。そこで勤勉な二割のアリばかり集めてコロニー(集団)をつくると、すぐに六割のアリが勤勉でなくなり、そのうちの二割が怠け者になるといいます。反対に二割の怠け者のアリばかりを集めてコロニーをつくると、二割が猛烈に働き始め、六割が普通になるそうです。

 ということは、自分がたまたま勤勉なアリの役目になるか/怠け者のアリの役目になるかは、偶然によって決まるわけです。そのことは、高校のときの優等生ばかりを集めた一流大学においても、卒業の時点では優等生/普通/劣等生か出来るのと同じです。

 このように、キリスト教においては、この世の役目を神が決められますが、仏教においては、それは因縁(あるいは偶然)によって決まるのです。その点が根本的に違っていることを知っておいてください。

 それから、もう一つあります。キリスト教は、この世の配役の差を、世間の物差しで測ります。優等生・金持ちはいい配役で、劣等生・貧乏人は悪い配役です。じつはキリスト教は、その世間の物差しを否定しようとしているのですが(たとえば「貧しい人々は、幸いである」「ルカによる福音書」6)、そこまで言えば話がややこしくなるので、キリスト教においては世間の物差しが使われていると思ってください。

 それに対して仏教では、この世の配役の差を仏の物差しで測ります。仏の物差しで測るということは、結果的には測らないことになります。つまり、なんだっていいと考えます。優等生でもいいし、劣等生でもいいのです。金持ちでもいいし、貧乏人でもいい。健康でもいいし、病気があってもいいのです。われわれは偶然に決まった役割りですから、その役割をしっかりとつとめればいいのです。それが仏教の考え方です。
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