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テルモピュレー

『ギリシア人の物語Ⅰ 民主政のはじまり』より テルモピュレー

紀元前四八〇年当時のペルシア軍には、テルモピュレーを通り抜けたところに開く海で、自国の船団からの補給を受ける必要もあった。

だからこそ、そのペルシア軍を迎え撃つギリシア連合は、テルモピュレーにはレオニダス率いる陸上軍を、その近くのアルテミシオン湾にはテミストクレス率いる海上軍を、送り出す戦略で臨んだのである。

スパルタの王レオニダスがこのテルモピュレーに、スパルタの重装歩兵を三百人しか率いて行かなかったという事実について、レオニダスは初めから玉砕を考えていたのかと、現代の研究者の中には問いかける人がいる。私の思うには、「初めから」ではなかった。しかし、スパルタの戦士たるもの、少年の頃から、敵に背を見せるな、という一事を叩きこまれて育っている。ゆえに彼らにとっての戦闘は、勝つか、それとも死か、でしかなかった。

テルモピュレーでの敵軍阻止という大任を負って北に発つ六十歳のレオニダスの頭の片すみにも、やむをえなくなった場合の玉砕は、あったのではないかと思う。

なぜなら、率いて行くスパルタの三百人は、いずれもすでに息子がいる父親であり、たとえ戦場で死んだとしても家系の断絶の心配はない兵士だけを選んでいたからである。スパルタの戦士は、初めからの玉砕などは考えない。簡単に玉砕したのでは、戦争に勝つことはできないからである。ただし、状況がそれを求めれば、甘んじて受ける覚悟ならばできている男たちであった。

とはいえ、南下してくるペルシア軍の二十万人に対し、迎え撃つギリシア軍は、補助兵まで加えても一万でしかない。兵力比は、二十対一になる。にもかかわらず、レオニダスは、自分の国であるスパルタにも、またアテネを始めとする他の都市国家にも、兵士の増員を求めていない。そのうえ、テルモピュレーの峠道以外にもある間道の要地の二カ所に、一万のうちの一千ずつを分けて送り出しさえした。

狭く険しい峠道で迎え撃つには、精鋭でさえあれば少数でも充分に闘える、と見たからだろう。少人数なのだから、より自由により敏速に闘える。スパルタの重装歩兵のこの面での能力は、少年期からの絶え間ない訓練によって、完成の域にまで達していたのである。

一方、ペルシア軍は、二十万の大軍だ。テルモピュレーでは、量で圧倒しようとするペルシア軍の力は、発揮されにくいと見たのだと思う。

テルモピュレーに先に着いたのは、レオニダスのギリシア軍であった。それでも、長く敵を待つ必要はなかった。テッサロニケを出た後はギリシア中央部の平坦な地方を南下するだけだったペルシア軍も行程を稼ぎ、十二日間の行軍の後にテルモピュレーに姿を現わしたからである。ペルシア王クセルクセスは、峠道への入口からは少し離れた町に本陣をかまえた。

翌日、王の命令を受けた各部隊の指揮官たちは、矢の射程距離内には入らないよう注意しながらも、なるべく多くのペルシア兵の姿を、峠の入口で待ちかまえるギリシア兵たちに見せたのである。ペルシア王がこのデモンストレーションを命じたのは、大軍を前にしておじ気づいたギリシア兵が、逃げ出すか、それとも降伏するかして、戦線から離れることを期待したからであった。

ところが、何千何万と姿を見せようと、ギリシア側の陣営では動きはまったく見られない。それどころか、近くまで接近して観察した偵察兵の持ち帰った報告では、ギリシア陣営では兵士たちが、頭髪の手入れに専念しているという。

三十九歳のペルシア王には、それが何を意味するのかがわからなかった。随行者の中にいたスパルタ人を呼んで問うたところ、次のような答えが返ってきた。

スパルタの戦士は、質実剛健をモットーにして日々を送っているが、ただ一つの贅沢は許されている。それは、肩にまで達するほどに長く伸ばした頭髪が、常に清潔でしかも美しくあるよう手入れをすることだ。

オリエントの貴公子にはそれでも納得いかなかったのだが、大軍勢を前にしておじ気づくどころか、平然と身だしなみに専念しているスパルタの兵士を、不気味に感じはしたのだった。

それでもペルシア王は、大軍勢の圧力によるテルモピュレーの強行突破の方針は変えなかった。翌日、オリエント風に仰々しく美麗な服を身にまとった特使を、ギリシア軍の本陣に派遣し、王からの次の勧告を伝えさせたのである。

 「武器を差し出せば、各自の国への自由な帰国を許す」

ペルシア王の使節を引見したレオニダスの口から出た答えは、ただの一句だった。

 「モロン・ラペ」--「取りに来たらよかろう」

後世、スパルタの戦士と言えば返ってくる、山びこのようになる一句である。

だがこうして、ペルシア王の、戦闘無しでのテルモピュレー通過への期待は裏切られたのだった。

それでもまだ、クセルクセスは決心がつかなかった。この人は、絶対専制君主にしては家臣たちに、何であろうが相談する人なのだ。とは言っても最終の判断は彼が下すしかないのだから、そのようなことをやっても子不ルギーの無駄のように思うが、歴史家ヘロドトスもこの人を、善人ではあった、と評している。

だが、こういうわけでテルモピュレーでは、二十万という大軍で来ているにかかわらず、軍事的な動きはほとんど成されないままで、四日間が過ぎていったのである。

一方、海上では、テッサロニケで以後は陸上を行く王と別れて南下中のペルシア海軍と、こちらは北上するギリシア連合海軍が、アルテミシオンの岬前の海上で接近しつつあった。

だが、そこまで来る間にペルシア海軍は、相当な被害をこうむっていたのである。エーゲ海に不慣れなエジプトからの船には、海上の嵐をまともに受けて沈没したり、沈没まではしなくても使いものにならない状態の船が多かった。ヘロドトスによれば一千二百隻であったというペルシア海軍のほぼ三分の一が、この時期に戦線から離脱してしまったことになる。それでもなお、ベルシア海軍とギリシア海軍の戦力の差は、八対三の関係にあった。

ギリシア側は、「ホーム」で闘っている。それゆえの利点は、やはりあった。

エウボエア半島との間の海峡を北上したために嵐にも会うことなく無傷でアルテミシオンに到着したギリシア海軍の船の数の総計は、二百七十一隻であったと言われている。

そのうち、アテネ船は、ペルシアの侵攻から逃れてきた難民たちを乗せた二十隻を加えて、百四十七隻になる。コリントからは四十隻。スパルタからは十隻。残りは、他の都市国家からの参加船力。

このギリシア海軍を率いるのは、すでに述べた妥協人事の結果、参加船数は十隻と少ないにかかわらず、スパルタ人のエウリビアデスが、公式には総司令官に就任していた。

とはいえアテネ船は、百五十隻に迫る数の全船がテミストクレスの指揮下。そのテミストクレスの総司令官就任には断固反対したコリントは、四十隻になる自分のところの海軍の指揮はコリント人のアディマントスが取ることを、他の都市国家にも認めさせている。

ゆえにこの年のギリシア都市国家連合海軍には、三人もの司令官が並立していたことになる。

この状態を、指揮系統の一本化を最重要視するテミストクレスが放置するはずはない。エウボエア海峡をアルテミシオンに向って北上中に、同僚二人を説得したのだ。

すでに総司令官の職務に自信がなかったスパルタ人のエウリビアデスの説得は、簡単に済んだ。また、アテネはライヴァルだが彼自身は海将としての経験の長いコリント人のアディマントスも、説得されたのである。この二人は、これ以後もずっと、テミストクレスにとっての最上の協力者になる。

だがこうして、アルテミシオンの海上に着く前にすでに、問題は解決した。公式には二人とも、ギリシア 18海軍の総司令官でありコリント海軍の司令官ではあっても、ギリシア海軍の事実上の総司令官はテミストクレス、で同意が成ったのだ。指揮系統の一本化は、実現したのだった。

説得力とは、他者をも自分の考えに巻きこむ能力である。他者の意見を尊重し、それを受け入れ歩み寄ることによって、着地点を見出すことではない。

何となく、専制君主国のリーダーのクセルクセスのほうが民主的で、民主政アテネのリーダーのテミストクレスの〝民主度〟は低いように見えて笑ってしまうが、第二次ペルシア戦役の絶対的な主役二人、三十九歳のクセルクセスと四十四歳のテミストクレスは、一方がペルシア人、他方はギリシア人、という民族の別を越えて、気質的にもちかっていたのだった。

テルモピュレーでは、睨み合いだけの四日間が過ぎていた。ついにクセルクセスも、決心する。

「取りに来たらよかろう」と答えたレオニダスに、「取りに行く」ことにしたのだ。翌朝を期しての総攻撃が決まった。

ところが、量で圧倒しようとしたペルシア軍の攻撃は、完全な失敗に終わった。なんとペルシア側は、二万人もの兵士を戦死させてしまったのである。

ペルシア軍の兵士たちは、峠道を少しばかり進んだと思ったとたんに、曲がり角から現れたスパルタの精鋭の無駄のない闘いぶりの前に、ただただ死体の山を築くだけだった。その日の戦闘だけで、ペルシア側は全兵力の一割を失ってしまったことになる。本営でそれを知ったクセルクセスが、いつもの温和さはどこへやら、怒りを爆発させたのも無理はなかった。

同じ日、アルテミシオンの岬前の海上では、ペルシア海軍とギリシア海軍の間でも、初めての海戦が行われた。

しかし、テミストクレスは、敵海軍の撃破よりも、敵海軍の湾内への侵入を許すことで敵陸軍と合流することへの阻止を、最重要課題と考えている。それで、すでに嵐で相当な損失を出しているペルシア海軍にさらなる痛手を与えることには成功したが、その日の戦果はそれ留まりで終わる。両軍とも、日没時にはそれぞれの基地に引き揚げていた。

次の日、テルモピュレーでは、ベルシア軍による二度目の総攻撃が行われた。

ペルシア王もその日は、王の近衛軍団でもある「不死身の男たち」の一万を投入する。しかもこのペルシア軍の精鋭中の精鋭を、王弟二人に率いさせて投入したのだった。

しかし、この日も、散々な戦果で終わるしかなかった。不死身と言われた精鋭が次々と倒れて行っただけでなく、彼らを指揮していた王弟二人も、遺体になって本営にもどってきたのだ。ギリシア側は、二千人もの犠牲者は出しながらも、二度もつづけて迎撃に成功したのであった。

だが、その夜、戦闘を終えて本陣にもどってきたレオニダスは、そこで待っていた、間道の要地の防衛に送り出していた兵士の一人から報告を受けることになる。

それは、ベルシア軍が間道の所在を知り、すでにそこを守るギリシア兵に攻撃をかけてきた、というものであった。

川を遡る間道はあくまでも間道で、大軍の行軍には適していない。だが、大規模でない部隊の移動は可能だ。そして、この間道を通って来れば、テルモピュレーの峠道の出口に達することができる。そうなれば、テルモピュレーを守るギリシア軍は、はさみ撃ちになるということであった。

レオニダスはただちに、彼が率いるギリシア陸軍の指揮官全員を召集した。そして、彼らを前にして状況の現実を説明した後で言った。

われわれは残る。だが、去りたい者は去って行ってよろしい。この状況下での撤退は、不名誉ではない。ただし、去るのはすぐに始める。間道を通って来る敵の姿がまだ見えない時刻には、終わっていなければならない。明日は、最後の戦闘になるだろう。

総司令官の言葉に、指揮官の多くは、配下の兵士とともにテルモピュレーを去ることにした。

残ると決めたのは、スパルタの三百、テスピアイの七百、テーベからの四百の、計千四百の兵士になる。

ただしこの数字は、ペルシア軍との戦闘がまだ始まっていない時点での数字だ。二度にわたった総攻撃で、ペルシア側の戦死者二万、ギリシア側の戦死者二千、と言われているので、テルモピュレーに到着したときの一万のうちの二千はすでに戦死していたことになり、ゆえに千四百という数字も、大幅に割引きする必要がある。

とはいえ、戦闘ではプロ中のプロであるスパルタの三百は、重傷を負って戦場から退去させられた一人を除く全員が、二度にわたった敵の総攻撃にも生き残っていたのだった。スパルタの戦士の戦闘能力が、他のギリシアの都市国家はもちろんのこと、当時の陸軍大国のペルシアと比べてさえも、圧倒的に優れていたことを示している。

いずれにしても、このスパルタの三百と他の八百人前後の兵士のみを率いて、レオニダスは、十八万が相手のテルモピュレー最後の戦闘に臨むのであった。ペルシア軍の本営でも、翌日の戦闘のために戦術は変えていた。前二回の失敗で、接近戦ではスパルタ兵の敵ではないと、わかったからである。それでペルシア軍は、離れて闘うことにしたのだ。離れたところから矢を雨と浴びせるのだから、これもまた物量作戦ではあった。
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