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未唯宇宙から書き出します

乃木坂へのスタンス

 生ちゃん+ひめたん、これで見納めになるので、乃木坂へのスタンスの方向を変えないといけない。

 さまざまなメディアの情報は後追いでも拾えるので、リアルタイムに固執しないようにしよう。

ツールを使い切る

 キンドルオアシスも一年になるけど、使い切っていません。コンテンツだけはかなり放り込んでいるけど。

絶対的な動機

 他者に頼らない動機を作るときです。絶対的な動機です。今できることは言葉で遊ぶことしかない。遊びが動機になるかもしれない。そう考えると、「仕事」というのは動機としては滑稽です。ものすごく機械的なことをしたいという誘惑に駆られている。

未唯宇宙から書き出します

 未唯宇宙の構造は上部と下部の世界が非同期に動きます。未唯宇宙を整理するよりも膨らませるようにしよう。ただし、同じことはダブらせない。

 未唯宇宙を本にしていこう。そのつもりで書きます。は、私の世界と他者の世界の境界線を示します。未唯空間そのものは全て、内なる世界。未唯宇宙は外とのインパクト。といっても、インパクトがないから、一つの境界線になります。そこには壁がなく、動き回ります。

 現状解析も未唯宇宙で行ないます。それがどういう意味を持つのか、その材料を集めて、個々から持って行きます。または雑記帳から持って行く。

 接続詞とか助動詞は関係ない世界です。本質的な言葉だけでつなげていきます。広大な世界を表現していく。未唯宇宙で本を書くというのは最終段階です。

 報告先は「大いなる意思」、つまり、自分自身です。ブラックの人は多くのものを書く。見える世界と見えない世界の境界線を示しましょう。

 参考にするのは、ハイデガー『存在と時間3』の書き方を参考にする。なぜ、3なのか。それは偶々です。偶然が導く世界。書くとした時に、何を考えるのか。それから分析していく。『存在と無』みたいなものを書きましょう。

スケジュールをなんとかしないと

 スケジュールをなんとかしないと。そこから何かが出てくるはずなのですが。

 とりあえず、項目の始まる時間と終わる時間をICレコーダーに記憶させましょうか。自分に対するタイムコントロールです。とりあえず、ブラックのICレコーダーをそれに当てはめましょうか。多分、何も生まれないでしょう。

 受験生的な気分になるけど、何を受験するのか不明。本来の受験生も同様な気分でしょう。目標があるのであれば、受験のように他者の評価は気にしないはずです。

「のだめ」のミュージカル

 これは乃木坂でやるべきです。自己満足のミュージカルではなく、エンターテインメントに徹したミュージカル。欅のような全体主義的ではなく、皆を楽しくさせるもの、歌が好きになるもの、生きていることが楽しくなるもの。

「存在と時間3」がある意味

 なぜ、手元に「存在と時間3」(中村元訳)があるのか、なんとなく分かってきた。通常なら3日か一週間で図書館に戻すのに三週間も借りている。これを参考にして、書けと言うことなんでしょう。

スピンゲーム

 スピンゲームで回転しているときに押すと、回転エネルギーに変わるものはないのかな? スピンしている姿が何となく、人間の存在のように思えたので。

 究極なムダなスピン、これを回せば、何かわかりそうです。

みのりさんの出勤条件

 やはり、みのりさんは旦那の休みの時に、出勤しないみたいです。

〈私〉という認識

 その時は、〈私〉という認識がないのでしょう。これは中学の時に風呂場で感じた恐怖そのものです。何も変わっていない。かといって、この他者の世界で認識してもらおうと思っていない。このループは完全に断ち切れています。

 自分という意識があるのが、不思議でしょうがない。生きている間に解けるのか。
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コミューン国家のユートピア

『ロシア革命とソ連の世紀』より ボリシェヴィキ政権の制度と言説 ⇒ カオスの中で夢は壊れる。未来からの発想をどれだけ、多くのにと見れるか

ボリシェヴィキの秩序構想

 ペトログラードをはじめとするロシア各地で政権奪取に臨んだとき、ボリシェヴィキはどのような秩序をつくろうとしていたのであろうか。恐らく多くの者には体系だった構想などなく、戦争の終結や漠然とした公正の実現を思い描いていたのであろう。レーニンたち党指導部にしても、ヨーロッパ革命の勃発という期待が念頭にあったため、世界規模での社会主義への移行という大状況を想定する以上のことはしなかった。

 この点でボリシェヅィキは、資本主義批判を深める一方で、社会主義の具体像はあえて描かなかったマルクスに似ていた。ドイツの師も、ロシアの弟子たちも、目の前にある社会が決して静態的なもの、所与のものではなく、日々ダイナミックに変わりつつある生きたシステムであることを見抜いていた。現状を批判的に論じることは、そのことだけですでに、それがどのように変化していくのかを明らかにするのと同じことであった。

 ましてボリシェヴィキが活躍した時代には、単に資本主義社会が内部矛盾によって社会主義に進みつつあるだけではなく、世界戦争がそうした前進運動を急激に加速しているように見えた。そのような認識を焼き付けたのが、レーニンの『帝国主義論』であり『国家と革命』であった。とくに『国家と革命』は、総力戦体制についての現状認識の延長線上にある、来るべき社会についての素描であった。この著作は十月革命に先立って書き上げられたものの、出版されたのはそのあとのことである。それゆえ権力奪取の段階ではその内容は党員のあいだに共有されてはいなかった。それに、そこに書かれていることは新生ロシアの国家制度に関する説明としては、あまりに一般的であった。そもそも、レーニンがこの著作のために構想ノートをつくりはじめたのは一九二六年のことであり、ロシアではなくョーロッパの革命が念頭におかれていた。

 それにもかかわらず、十月革命後に生まれた秩序と『国家と革命』とを切り離して考えることは難しい。そこに書かれたことのエッセンスは、同書が刊行される以前からレーニンの文章や発言に現れていた。社会主義革命を目指すことを宣言した「四月テーゼ」もそうである。そこには次のようにあった。「議会制共和国ではなくて--労働者代表ソヴィエトからそういうものへもどるのは、一歩後退であろう--、全国にわたる、上から下までの労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国。/警察、軍隊、官僚の廃止……。すなわち、常備軍にかえて全人民を武装させること。/官吏はすべて選挙され、いつでもかえることのできるものにし、その俸給は熟練労働者の平均賃金をこえないようにする」。

 そしてまた、『国家と革命』に示された国家像は、ソヴィエト・ロシアの現実との著しい懸隔にもかかわらず、ボリシェヴィキにとって唯一ではないにしても決して輝きを失わない導きの星となり、いくたびも彼らに霊感を与えたのである。

『国家と革命』

 では、レーニンは『国家と革命』のなかでどのような秩序構想を示していたのだろうか。それについて見ておくことは、ボリシェヴィキ政権のもとで実際につくられた制度や、関連する彼らの言説を考えるうえで有益である。以下では、マルクスやレーニンの議論のごく基本的な点に立ち返ることもいとわずに、検討を進めてみたい。

 マルクス主義の理解では、社会主義以前の社会は対立する諸階級からなる。資本主義社会の場合、支配する側には所有者たる地主や資本家がいる。支配される側には非所有者たるプロレタリアート(「財産をもたぬ者」)がいる。その典型は工場労働者である。農民は土地や家畜をもつ小所有者である。だが、農民の内部にはさらに所有のあり方に応じて階層があり、貧しい農民は労働者の側に近い。

 この社会観からさらに、次のような国家観が導かれる。国家とは中立な存在ではなく、階級支配の道具である。資本主義のもとでは、誰よりもまず資本家の利害が、国家の政策や法律の制定などを通じて貫徹される。言論や出版の自由といっても、メディアを牛耳る資本家にとっての自由に過ぎず、労働者の声を同じような強さで発することはできない。支配階級の手中にある国家はさらに、軍隊と警察という暴力を独占することによって、被抑圧階級の抵抗を鎮圧する。

 国家機構を直接に動かしている官僚も、中立的な存在ではない。彼らが官職にあるのは専門知識をもつことによってであるが、そのこと自体、彼らの多くが支配階級の出自であることと密接に結びついている。

 レーニンが十月革命に先立って提唱したソヴィエト共和国とは、資本主義のもとでの国家のあり方とは全く異なる、あたらしい国家である。そこでは労働者、それに彼らに率いられる農民が支配者となる。国家は今度は彼らによる支配の道具となるが、それはあくまで地主や資本家の抵抗を粉砕するための一定の期間のみである。旧支配階級に対する暴力的鎮圧と並行して、工場、鉄道、鉱山、土地といった生産手段の私的所有が廃止される。それらは労働者と農民が支配する国家の所有に帰する。こうして所有者と非所有者というパラダイム自体が徐々に消滅する。それにともない、ある階級による別の階級の支配も、階級支配の道具としての国家も消滅する。

 専門知識をもった官僚が国家機構を独占するという状態も、徐々に消滅する。ここでは第一次世界大戦という時代状況が大きな意味をもつ。大戦中にヨーロッパ各国では総力戦体制がしかれ、国家による経済生活の管理が進んだ。トラスト化、生産と分配の計画化、労働動員、配給制などである。「戦争社会主義」と呼ばれるほどに経済管理の一元化が進んだドイツが先進国であったが、帝政ロシアでも多かれ少なかれ同様の現象が見られた。そうした総力戦体制下の現代国家は巨大な郵便局のようなものであって、記帳、すなわち物資の数量の管理さえできれば、誰でも官僚になることができる。

 社会主義革命後、最初のうちはなお、旧来の官吏に仕事をさせなけれぱならないにしても、これまでのような高給ではなく、労働者の平均賃金での勤務を強制する。同時に輪番制で工場から労働者を行政機構に送りこみ、仕事の経験を積ませる。これにより誰もが徐々に「記帳」できるようになるので、特権的な階層としての官僚は消滅に向かう。一定の期間をへたあとに彼らは工場に戻ってくるので、特権的な階層が出現するおそれは二重に防がれる。

 ここにおいて、社会主義国家の行政機構として想定されているのは、従来のような強力な権限をもつ中央省庁とその出先機関ではない。二月革命の過程でロシア各地につくられたソヴィエト(評議会)が、あたらしい国家機関となることが想定された。工場労働者や兵士が代議員となり、リコールも常に可能である。普仏戦争の敗北時にフランスの首都に生まれた自治機関、パリーコミューンが、ソヴィエトの先行者とみなされた。ソヴィエト共和国は、フランスの革命運動の偉業を引き継ぐのである。無数のコミューンからなり、ローカルな発意を大事にするが、かといってアナーキストがいうように個々ばらばらでもなく、あくまで全体としての意志統一を重視する、それが「コミューン国家」としてのソヴィエト共和国の青写真であった。

 旧来の国家が独占していた暴力のうち、警察は住民みずからが地域の安寧を担う民警におきかえられる。そもそも生産手段の私的所有が廃絶されるとともに、利己主義も克服され、強大な警察力を必要とするほどの犯罪はなくなっていく。軍隊もまた、全人民の武装によっておきかえられることによって、旧来の閉鎖性を喪失する。かくしてソヴィエト共和国では、国家は徐々に死滅へと向かう。

 以上が、『国家と革命』において示された、コミューン国家の展望である。この展望に留意しながら、以下では、ボリシェヴィキ政権の実際の国家のあり方について見ていくことにしたい。
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戦争の記憶をめぐる三つの道徳観

『日本の長い戦後』より

戦争を道義的にどうとらえ、正当化するかは、時代や場所、歴史的文脈、政治・文化的伝統に左右される。アウグスティヌス神学から生まれた正戦論では、大規模な政治暴力の使用が道義的に妥当なこともありうるとの立場から戦争を理論化し、正当なものとしている。第二次世界大戦は連合国の立場からすると「正しい戦争」で、連合国は枢軸国を悪しき侵略者とみなして成敗した。とはいえ西洋神学起源のこうした見方に文化的普遍性があるわけではなく、人類史全体に当てはめることはできない。これよりも一般的なのは実利を重視する見方で、政治力や国益を拡大する勝利の戦争を「正しい戦争」とする、殺伐とした現実的認識である。日本には戦争の長い歴史があり、そこにはさまざまな基準を見いだすことができる。たとえば近代以前には朝廷の許可を得た者が戦いの名分を手に入れ、封建制の下では戦に勝った者が正しいとされた。近代に入ってからは、西洋発祥の国際戦争法規が断片的に取り入れられた。だから日本が良い戦争と悪い戦争という概念を組み立てるにあたって、絶対的基準をどこにも求めず、現実主義や相対主義を織りまぜているのはある意味で当然だ。さらに、日本の文化は多神教的伝統から生まれ、実社会では倫理相対主義が息づいている。ユダヤ・キリスト教文明とはほとんど無縁に発展したそんな文化に、正戦論がぴたりと「当てはまる」わけはないが、それでも日本は第一次世界大戦や第二次世界大戦における自国の行動を正戦論によって正当化した。日本の「正戦論」では、アジア太平洋戦争は欧米白人の植民地支配から「大東亜共栄圏」を守る、天皇のための「聖戦」を意味した。一九四五年に日本が降伏すると、道徳規範がさかさまになり、「正しい戦争」はたちまちのうちに「間違った戦争」に変わった。そこで多くの人は、現実的な倫理相対主義(「勝てば官軍、負ければ賊軍」という思考)にふたたび戻っていった。

戦後の日本社会で道徳規範がねじれ、日本人の戦争観がすっかりシニカルになっていったことにより、トラウマの相対立する語りを生み出す土壌ができていった。それから数十年を経て、三種類の卜ラウマの語りが育まれてきたわけだが、それらはさまざまな形で、しかし深く国民感情に刻み込まれていく。日本のとった軍事行動や政治行動は正しかったのか間違っていたのか、敗戦という負の遺産は屈辱なのか幸運なのか。こうしたいろいろな問いについて、それらの語りは評価を異にする。未来の日本がどこへ向かうべきかについても合意はない。

第一の類型は、戦争と敗戦を、勇敢に戦って戦死した英雄の話としてとらえるものである。こんにちの平和と繁栄は先人の尊い犠牲なしにはありえなかった、このような戦没者がいて初めて平和が成り立っていると結果論を唱え、戦争や国民の払った犠牲を正当化する。第一の類型に属する語りは、こうした「幸運な敗戦」観を道徳的基盤としている。終戦記念日の追悼行事や新聞の社説などで犠牲者に感謝を捧げるこのような言説がよく目にとまるが、この語りは特攻隊などの若者の死も無駄ではなかったという言説を補強する効果がある。これは日本国民であることへの誇りを養うこと、また国の開戦責任、敗戦責任から注意をそらすことにもつながる、美しい国の語りということができる。

第二の類型は、戦争を敗戦の犠牲になった被害者の話としてとらえ、その被害者の心情に寄り添い、自身を重ね合わせるというもの。前面に押し出されているのは「破局」--まぎれもない大悲劇--のイメージで、そこではすさまじい軍事暴力による大規模な殺戮と破壊に対する嫌悪が道徳的基盤になっている。人々の苦難を強調し軍国主義に反対するという言説はしばしば家族、学校、メディアのなかに見いだされ、被爆都市の広島や長崎、そして空襲の被害を中心にしたものも多い。しかし、この語りは日本に傷つけられたアジアの人々、すなわち遠くの他者の苦難から注意をそらすことにつながり、悲劇の国の語りになっている。

第三の類型は、戦争を中国や朝鮮、東南アジア各地における加害者の話としてとらえ、日本がおこなった帝国主義的支配や侵略、搾取を強調する点において、前二者と対照をなす。日本が暴力を行使したり人々を虐げたという過ちを反省し、後悔するという道徳的基盤に立ち、「地獄へ転落」したやましい国の語りになっている。この加害の語りは、三つの語りのなかでもっとも悩ましく、物議をかもしやすいが、歴史書、報道ドキュメンタリー、従軍経験者の証言のなかに見受げることが多く、そのなかにはベストセラーになった本などもある。東アジア諸国との和解と協調をめざす市民運動令友好団体の多くは、この加害者論に立脚している。

道徳観や利害を大きく異にする人々が、それぞれの記憶をかまびすしく語っている。そのことから、国の歴史をどう描くかについて国民が混乱しているというょりは、たがいに措抗している状態にあることがうかがえる。この戦争の呼び方一つにも、問題ははっきりあらわれている。米占領軍の定めた「太平洋戦争」は一般的な名称として、今も「美しい国」論のなかでよく使われる。これと対抗関係にあるのが日本の進歩派知識人や教育関係者が使う「一五年戦争」という名称で、「やましい国」論で使われることが多く、やはりこちらも社会に定着している。この名称では、太平洋での開戦の一〇年前から日本が進めていた帝国主義的侵略が強調されている。このほか、こうした名称に付いてまわる政治的な意味合いを避けようと「アジア太平洋戦争」や「昭和の戦争」、「第二次世界大戦」という呼び名も使われるようになった。また、「先の大戦」とか「あの戦争」、果ては「あの不幸な一時期」と言う人もいる。「あの戦争」をどう呼ぶかという問題は、追悼行事での挨拶や歴史教科書、博物館の展示など、あらゆる場面で頭をもたげる。日本各地にある「平和」博物館も、戦争の全体像を示すことができないまま、この歴史問題に対処せねばならない状況にある。そこで加害者、被害者、英雄のいずれかの語りに焦点を絞り、文化的トラウマの部分像だけを描く。欧米では日本が戦争の歴史を忘却しているという批判がよくなされるが、これは遺憾ながら、負の歴史遺産をめぐる膠着を忘却と混同した、まと外れな批判である。
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