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フェイスブック 2005年と1493年の類似点 内的世界のコロンブス交換

『フェイスブック 不屈の未来戦略』より フェイスブックが「勝った」なら?

フェイスブックがオンライン世界の端まで行き渡ったならどうなるか? ポスト・コネクティビティーの時代が来るのだろうか。ザッカーバーグは内的世界におけるコロンブスとなり、フェイスブックはコロンブス交換を引き起こすのだろうか。そして、別々に存在する社会をひとつのパングアとして編み上げることができるのだろうか?

何を言っているのかと眉をひそめるかもしれない。

この意味を伝えるには、もう少し説明が必要だ。1493年に時を巻き戻そう。より正確には、これについて書かれたチャーズ・マン著の『1493--世界を変えた大陸間の「交換」(原題:1493)』の話をしたい。2011年のベストセラーとなったこの本でチャールズ・マンは、コロンブスの航海で、それまで分断されていたヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカがつながり(コロンブスがこれを意図して行ったのではないだろうが)、それは、世界のグローバリゼーションに多大な影響を与えたと説明している。

このグローバリゼーションで重要だったのは、「コロンブス交換」だ。この概念は1972年にアルフレッド・クロスビーが提唱した。コロンブス交換により特定の地域にしかなかった品物、動物、食料、病が別の地域にもわたり、広まった。マンは「イタリアにトマト、アメリカにオレンジ、スイスにチョコレート、タイに唐辛子があるのはコロンブス交換の結果」と説明している。例えば、氷河期以降、北アメリカにはミミズはいなかったが、農業にとって重要なこの生物は、南アメリカより持ち込まれた。ヨーロッパからは馬がやってきた。ヨーロッパ人は南アメリカで、アフリカ人の奴隷に銀の採掘を命じた。その銀はアジアへとわたり、ヨーロッパ人が好む絹や磁器と交換された。ペルーからグアノをもとにした肥料、パプアニューギニアからさとうきび、中東から麦、ブラジルからゴム、カリブからタバコ、アフリカからはコーヒーが貿易により各国を行き来した。それと同時に、疫病が流行るきっかけとなった。アメリカには天然痘、麻疹、腸チフス、コレラ、マラリアが広まり、ョーロッパでは梅毒や、ジャガイモの疫病による飢饉が猛威を振るった。マンによると、このコロンブス交換は産業革命に農業革命、そしてヨーロッパの台頭が起きる基盤となったと説明している。

コロンブス交換は、過去500年間における世界の歴史の中で、今ある世界と人々の生活を形作るのに最も大きな影響を与えたと言うことができるだろう。クロスビーはこの交換の影響について「パングアをつなぎ合わせた」と表現している。1億7500万年前、地球上のすべての陸地が1枚の「パングア大陸」の一部であったことに由来している。

フェイスブックに話を戻すと、ザッカーバーグは彼を筆頭に、30億人のユーザーを抱えるフェイスブックで内的世界のコロンブス交換を起こせるのだろうか(コロンブスに対しては原住民の奴隷支配や直接的あるいは間接的な虐殺、乏しい航海術、狂信者として批判する声もあり、ザッカーバーグにとって良い比較対象ではないかもしれないが)。

フェイスブックとコロンブス交換は、新たなプラットフォームで人々の接点を作るという点で共通している。16世紀初頭、スベイン人はメキシコヘと航海し、その後フィリピンヘと向かった。そこで初めて中国の商人に出会ったように、現代の人々もフェイスブックを使って世界の反対側にいる友人とつながることができる。

しかし、そこには大きな違いもある。フェイスブックでは確かに何億人もの人々がつながっているが、コロンブス交換と比べると「交換」の意味合いは薄い。スペイン人とフィリピンの中国人との間で行われた貿易は「ガレオン貿易」と呼ばれている。フェイスブックのサービス上で、ユーザーはそれぞれの感情やストーリー、アイデアという人々の内的世界の産物をシェアしているが、コロンブス交換がもたらしたような人々の新しい交流はさほど起きていないだろう。私たちはみなグローバルコミュニティーの一員であるが、フェイスブックでグローバルコミュニティーが形成されているとは言えない。私たちは、すでに知っている人々や事柄とこれまで以上に密につながっている。ニュースフィードは私たちが過去に「いいね!」した人や事柄に関連する投稿を多く表示することに最適化している。フェイスブックは、良くも悪くも「交換」ではなく、自分の独自の考えが反響するエコーチャンバーを形成する傾向にあるのだ。ニュースフィードの弱点は、確証バイアスを強化するシステムであることだ。アルゴリズムは各ユーザーの意見や好みを特定し、記録することで、それに似た意見を表示することを優先している。その環境では、ューザーはさらに自分と同じ意見の情報に囲まれることになる。
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「長州ファイブ」と明治維新

『ユニオンジャックの矢』より

アメリカのペリー艦隊が浦賀に来港し、日本に開国を迫るのはフハ五三年のことであった。日本とアメリカの関係に目を奪われがちだが、そこには日本に迫り来る英国の影があった。ペリーの艦隊はアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークから大西洋を渡り、アフリカ南端・喜望峰を回ってインド洋に抜け、英国の植民地であるセイロン(現スリランカ)、シンガポール、香港、さらには南京条約で開港された上海を経由して、琉球に立ち寄って浦賀にやってきていた。翌一八五四年には日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(現在の函館)を開港することになった。このあと一八六七年の大政奉還に至るまで、攘夷かそれとも倒幕かを巡って、日本は動乱期に入っていく。

一八五八年、日米修好通商条約が締結された一か月後には、英国との間でも日英修好通商条約が結ばれた。平戸のイギリス商館閉鎖から実に二三五年後のことである。一八六〇年代に入ると、日英関係はさまざまな意味で密度を深め、複雑な軌跡を見せ始める。

江戸幕府は一八六〇年にアメリカヘ使節を送ったのに続いて、翌一八六一年には欧州へ公式使節団を派遣する。主な目的は修好通商条約で約束した江戸、大坂、兵庫、新潟の開港の延期を欧州各国に要請するためである。一行は三八名で、正使は勘定奉行兼外国奉行の竹内下野守保徳、副使は松平石見守康英、監察使は京極能登守高朗だった。彼らは一八六二年五月、フランスを経てドーバー海峡を渡ってロンドンに到着し、約一か月半の間、ハイドパークに近いブルック街のクラリッジズ・ホテルに宿泊した。当時、第二回ロンドン万国博覧会が開催されており、一行は何度も足を運んでいる。

同じ年の八月、日本では薩摩藩主の行列の間を騎乗したまま通り過ぎようとした英国人が殺傷されるという「生麦事件」が起きている。翌年には、その補償をめぐって鹿児島湾に現れた英国艦隊と薩摩藩の間で薩英戦争が起きた。

この動乱期にあって、英国の影を感じさせる象徴的な出来事は「長州ファイブ」だろう。一八六三年五月に若き長州藩士五名が密航船に乗って上海経由で英国に渡り、ロンドン大学(UCL)で学んだのである。当時、英国の新聞は彼らを「長州ファイブ」と呼んだが、日本と英国の歴史にとって重要なのは、この五人の中にのちに明治政府の初代総理大臣となる二二歳の伊藤博文や、初代外務大臣となる二八歳の井上馨が含まれていたことである。一緒に英国に渡った遠藤謹助、山尾庸三、井上勝も、後述するように、それぞれ明治政府で中心的な役割を果たすのである。

長州藩の若い藩士が英国を目指したのには理由がある。一八五三年のペリー来航は日本の知識人たちの間に、日本は清国のように外国の力に屈して植民地になるのではないかという強烈な危機感を呼び起こしていた。吉田松陰は自ら西欧に渡り、海軍術や国防の基礎を学ぶ必要があると考え、翌年、日米和親条約締結を目指して下田に再度訪れたペリーの艦隊に乗船を試みている。

松陰は討幕運動で幕府に危険視され、五年後には獄死する。松陰の影響を受けていた長州藩の若者たちがその遺志を継ごうと、強大な海軍を持つ英国への渡航を企てたのである。井上馨から山尾庸三、井上勝とともに三名で渡航するという計画を打ち明けられた長州藩主の毛利敬親は一人二〇〇両ずつの資金を密かに与えた。この三名に伊藤博文、遠藤謹助か加わり、英国へと向かったのである。高杉晋作の上海密航の翌年であった。

興味深いのは、この渡航を仲介したのが英国商社のジャーディン・マセソン商会横浜支店だということである。すでに触れたように、ジャーディン・マセソン商会はイギリス東インド会社の流れをくむ商社で香港に本店を持っていた。現在では世界最大の金融機関となったHSBCホールディングスの母体である香港上海銀行は、主に同商会の送金業務を行うために設立された。また、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーが設立したグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店であり、実質的にジャーディン・マセソン商会の配下にあった。グラバーは坂本竜馬の設立した亀山社中に対して武器売却を行うほか、薩摩藩士の英国留学の手助けも行っている。幕末維新史においてジャーディン・マセソン商会が果たした役割はきわめて大きかったのである。

ちなみに、ジャーディン・マセソン商会の社名は共同創設者であるウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの名前をとったものである。二人ともスコットランド出身のユダヤ人で、トーマス・グラバーも含めて、フリーメーソンのメンバーであったことから、日本の維新もフリーメーソンが影響を与えているという説を唱える論者もいるほどである。

さて、長州ファイブの五人は密航船で上海に着くと、ジャーディン・マセソン商会の上海支店の手配でロンドンヘ向かう英国船に乗せてもらった。それだけでなく、ロンドンでは宿泊先の紹介も受けている。彼らはロンドン大学の教授の世話になりながら、ロンドン大学で主に理工学系の学問を学んだ。

宮地ゆうの『密航留学生「長州ファイブ」を追って』(二〇〇五年、萩ものがたり刊)によると、勉学の合間にはイングランド銀行の当時世界一と言われた造幣技術を見学し、訪問時の名簿も残っているという。井上馨と伊藤博文は、一八六四年に英国、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊が長州藩を攻撃しようとしていることを知ると、留学を半年で切り上げて帰国した。二人は横浜で英国公使のアーネスト・サトウと会うなどして、衝突を回避するための努力をしたが、長州藩の強硬政策を覆すことができず、下関戦争(馬関戦争)が起きてしまう。この戦争で列強の軍事力を見せつけられ敗北した長州藩は、攘夷から倒幕へと転換していくのである。

遠藤謹助は一八六六年まで、山尾庸三、井上勝は明治元年の一八六八年まで英国に留まり、先端の技術を学び続けた。大阪造幣局というと今では「桜の通り抜け」が有名で、花の時期になると桜並木が開放され見物客でごった返すが、この桜の通り抜けを発案したのは遠藤謹助である。

長州ファイブは帰国後、明治政府のさまざまな役職に就くが、造幣局長は五名のうち四名が務めている。井上馨が初代局長を務めた時期に、遠藤謹助は造幣権頭として新貨幣の造幣に当たった。英国政府が香港で二年間使っていた中古の造幣機を、日本政府はグラバー商会を通じて六万両もの高額で購入したのである。当初、技術者はすべて英国人だったが、彼らが帰国したあと、遠藤は造幣局長となり、日本人の技術による貨幣製造を行うのである。結果的に見ると、ジャーディン・マセソン商会は、長州藩の若者たちの英国留学を支援するという投資に対して、十分な元をとったと言えるのである。

山尾庸三、井上勝も日本に英国の最先端の技術を持ち込むことに尽力した。山尾庸三はロンドン大学だけでなく、エンジンで優れた技術を持っていたグラスゴーのネイピア造船所でも学ぶ。明治元年に帰国すると、横須賀製鉄所に船のドックをつくり、工学寮(東京大学工学部の前身)を創設し、エンジニアの育成に力を注いだ。井上勝は鉱山技術・鉄道技術を学び、帰国したあとは鉄道敷設に尽力した。新橋・横浜間の鉄道建設は英国の技術と資金援助によって行われ、建築師長には英国人のエドモンド・モレルが当たり、鉄道頭として日本側を代表した。このことから井上勝はのちに「日本の鉄道の父」と呼ばれるようになった。

長州ファイブとは、明治維新史において英国が果たした微妙な役割を象徴している。幕府はフランスとの関係を強め、軍事顧問の受け入れなど支援を受けていた。万延元年(一八六〇年)の遣米使節でワシントンを訪れた小栗上野介はフランスの借款と技術援助で横須賀に日本初の造船所(のちの横須賀工廠)を建設する事業を進めた。これに対して英国は、薩英戦争(一八六三年)、下関戦争(一八六三~六四年)など、薩摩、長州との軍事衝突を通じて反幕府勢力への影響力を強めていく。長州ファイブの密航はまさにこれらの時期と重なる。長州ファイブを受け入れた英国の深慮遠謀は驚くべきものである。

ただし、幕末維新から明治にかけて英国を訪れた日本人は、産業革命を進めた英国の科学技術と産業力には驚嘆し、敬服したが、王権と議会を共生させ「立憲君主制」に辿り着いた英国の政治史にはあまり学ばなかった。明治期の日本は、欧州の新興勢力たるプロイセン主導のドイツに魅かれていく。政治体制から明治憲法まで、ドイツの影響を受けた天皇制絶対主義、国権主義的体制を確立していく。明治という時代に国費留学生として海外留学した日本人の約六割はドイツに留学した。そして、このドイツ・モデルヘの過剰なまでの傾斜が日本近代史における「戦争の悲劇」に繋がっていったといえる。
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教科書にみるイスラーム世界


『新もういちど読む山川世界史』より イスラーム世界 普遍性と多様性

イスラーム世界の成立

 預言者ムハンマド

  7世紀の初め、唯一神アッラーの啓示をうけたと信じ、神の使徒であることを自覚したムハンマド(570頃~632)は、アラビアのメッカで、偶像崇拝をきびしく禁ずる一神教をとなえた。これがイスラーム教のはじまりである。その聖典『クルアーン(コーラン)』は、ムハンマドにくだされた啓示を、彼の死後あつめ、編集したものである。

  多神教を信じるメッカの人びとの迫害をうけたムハンマドは、622年、メディナに移住(ヒジュラ〈聖遷〉)し、この地に彼自身を最高指導者とする信徒の共同体(ウンマ)をつくった。この622年はイスラーム暦の元年とされている。その後ウンマの拡大に成功したムハンマドは、彼にしたがう信徒をひきいてメッカを征服し、多神教の神殿カーバから偶像をとりのぞいて、これをイスラーム教の聖殿とした。こうしてムハンマドが死ぬまでには、アラビア半島のほぼ全域がその共同体の支配下にはいった。

 アラブ帝国

  ムハンマドの死後、イスラーム教徒(ムスリム)は全員で新しい指導者を選んだ。この指導者のことをカリフ(後継者、代理の意)とよぶ。最初の4人のカリフは選挙で選ばれ、正統カリフとよばれる。カリフの指導のもとでアラブ人ムスリムは征服活動(ジハード〈聖戦〉)を開始し、7世紀のなかばまでにササン朝をほろぼし、シリア・エジプトをビザンツ帝国からうばった。多くのアラブ人が新しい征服地に移住した。征服地が広がると、カリフ位をめぐって争いがおこった。その結果、第4代カリフのアリー〈位656~661〉が暗殺され、彼と対立していたウマイヤ家のムアーウィヤ〈位661~680〉がカリフとなって、ダマスクスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)をたてた。ムアーウィヤは息子を後継カリフに指名し、以後カリフ位は世襲されるようになった。

  ウマイヤ朝は8世紀の初め、東方では中央アジアの西半分とインダス川下流域、西方では北アフリカを征服し、やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国をほろぼした(711年)。さらにフランク王国にまで進出したが、トゥール・ポワティエ間の戦いに敗れ、ピレネー山脈の南側に領土はかぎられた。この広大な領土をもつ帝国では、征服者アラブ人のムスリムが特権的な地位にあり、膨大な数の被征服民を支配していた。国家財政をささえる地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課され、彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。その意味で、正統カリフとウマイヤ朝カリフが統治した国家はアラブ帝国ともよばれる。

 イスラーム帝国

  シーア派の人びとやイスラーム教に改宗してもなお不平等なあつかいをうけていた被征服民など、ウマイヤ朝の支配に反対する人びとは、8世紀初め頃から反ウマイヤ朝運動を組織した。ムハンマドの叔父の子孫アッバース家はこの運動をうまく利用してウマイヤ朝をほろぼし、イラクを根拠地としてあらたにアッバース朝(750~1258年)をたてた。まもなく建設された新首都バグダードは国際商業網の中心として発展し、王朝はハールーン・アッラシード〈位786~809〉の時代に最盛期をむかえた。

  9世紀頃までに宰相を頂点とする官僚制度が発達し、行政の中央集権化が進んだ。イラン人を主とする新改宗者が政府の要職にっくようになり、アラブ人ムスリムだけが支配者とはいえなくなった。イスラーム教徒であればアラブ人以外でも人頭税は課されず、征服地に土地を所有すればアラブ人にも地租が課されるようになった。イスラームの信仰のもとでの信徒の平等という考えが徐々に浸透していった。また、イスラーム法(シャリーア)の体系化も進み、この法を施行して、ウンマを統治することがカリフのもっとも重要な職務となった。アラブ人だけではなく、イスラーム教徒全体の指導者となったカリフが統治するこの時期のアッバース朝国家は、イスラーム帝国ともよばれる。

イスラーム世界の変容と拡大

 イスラーム世界の政治的分裂

  アッバース朝の成立後まもなく、後ウマイヤ朝(756~1031年)がイベリア半島に自立した。一つの政治権力が支配するにはイスラーム世界は拡大しすぎていた。9世紀になるとアッバース朝の領内でも各地で地方王朝が自立するようになった。このうち、中央アジアに成立したサーマーン朝(875~999年)は、トルコ人奴隷貿易を管理し、経済的に繁栄した。また、この王朝のもとでペルシア語がアラビア語とならんで用いられるようになり、のちに発展するイラン・イスラーム文化の芽生えがみられた。チュニジアにうまれ、のちエジプト・シリアを征服して新都カイロを建設したシーア派のファーティマ朝(909~1171年)の支配者は、建国当初からカリフと称し、アッバース朝と正面から対立した。

  このような政治的分裂にくわえ、9世紀頃からカリフの親衛隊として用いられるようになった、トルコ系の奴隷であるマムルークが、やがてカリフの位を左右するようになりアッバース朝カリフの威信は低下した。

 国家と社会の変容

  946年、シーア派のブワイフ朝(932~1062年)がバグダードを征服し、カリフから大アミール(軍事司令のなかの第一人者)に任じられて政治・軍事の実権をにぎった。アッバース朝カリフはこれ以後実際の統治権を失い、イスラーム教徒の象徴としての役割をはたすだけとなった。

  ブワイフ朝の時代、軍隊への俸給支払いがむずかしくなると、俸給にみあう額を租税として徴収できる土地の徴税権を軍人にあたえる制度がうまれた。これをイクター制という。イクター制は,セルジューク朝(1038~1194年)にひきつがれ、やがて西アジア・イスラーム社会でひろく用いられるようになった。

  元来ユーラシア草原の遊牧民であったトルコ人は、10世紀頃からしだいに南下し、11世紀には、その一派で、イスラーム教スンナ派に改宗したセルジューク朝が西アジアに進出した。1055年、ブワイフ朝を追ってバグダードにはいったトゥグリル・ベク〈位1038~63〉に、カリフはスルタン(支配者)の称号をあたえた。セルジューク朝はビザンツ帝国領だった小アジアを征服し、以後、小アジアはしだいにイスラーム化・トルコ化していった。彼らは領内の主要都市にマドラサ(学院)を設けてスンナ派の法学・神学を奨励した。しかし、王族のあいだでの権力争いが激しく、統一は長続きしなかった。

  11世紀以後の西アジア・イスラーム社会では、修行によって神との合一をめざす神秘主義思想が力をもつようになった。12世紀になると、神秘主義者(スーフィー)とその崇拝者たちを中心として各地に神秘主義教団が組織され、都市の手工業者や農民のあいだに熱心な信者をえた。教団は貿易路にそってアフリカやインド・東南アジアに進出し、これらの地域にイスラームの信仰を広めていった。
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日英同盟の二○年--日本近代史の成功体験

『ユニオンジャックの矢』より

日本と英国の関係で歴史的に特に重要なのは、一九〇二年に結ばれた日英同盟だろう。明治期に入って日本は次第に国家形成のモデルを新興のプロイセンに採り始める。英国では一九世紀後半のヴィクトリア期に英国流の立憲君主制の形を整えていくが、岩倉具視をはじめとする当時の日本の指導者は「王政」と「代議制民主主義」を絶妙にバランスさせる英国的知恵が理解できなかった。国王・国家元首の権限が議会によって制約一棚上げされることへの拒否感が強かったのである。

ところがその日本が、二〇世紀に入ると日英同盟という外交軸を選択することになる。日露戦争から第一次世界大戦までは、世界という舞台に日本が彗星のごとく台頭する時期にあたり、日本近代史においていまだに成功体験として語り継がれている。その後ろ楯となったのが、まさに英国との同盟関係であり、日露戦争に勝利できた理由もこの同盟にあったと言える。その後、日英同盟は第一次世界大戦後に開催された一九二一年のワシントン会議の四か国条約で解消されるまで約二〇年にわたって続き、この間、日本は日英同盟を主軸に外交を行った。

英国が日本と同盟を結んだのは、何よりも極東地域で南下を企てるロシアを牽制するためだったと言える。しかし、英国が新興勢力の日本を同盟のパートナーとして信頼の置ける相手であると考える理由があったはずである。

戊辰戦争で逆賊とされた会津藩士の生き残りに柴五郎という人物がいる。一八五九年に会津藩士の五男として生まれ、九歳のときに会津城は落城し、祖母、母、姉妹の自害と白虎隊の白刃を直接体験している。会津は下北半島の斗南に移封され、柴五郎も青森県庁の給仕からスタートして一五歳で設立間もない東京の陸軍幼年学校に入学。明治という時代が生んだ運命なのか、驚くべきことに薩長藩閥の陸軍において、のちには大将にまで登りつめた。東京帝国大学総長になった山川健次郎も同じように会津白虎隊士の生き残りで、若いころには後輩で友人でもあった柴五郎の面倒を見たと言われている。

柴五郎が歴史に名を残したのは、清国での駐在武官として赴任後に起きた一九○○年の義和団事件(北清事変)においてである。当時、中国では列強による支配に対する反発から義和団と呼ばれる宗教的秘密結社が生まれ、外国人やキリスト教徒を襲撃、殺害するなどの排外運動を各地で繰り返していた。義和団は急速に勢力を拡大し、約二〇万人の反乱軍となり、北京に進入して列強公使館を包囲した。これを見た清朝政府は義和団弾圧から支援へと方向を変え、列強に対して宣戦布告したのである。二コラス・レイ監督の『北京の55日』という映画があるが、義和団に包囲された一一か国の居留民が北京に龍城して戦った過程を西洋の側から描いたものである。実はこのとき、北京に侵攻した多国籍軍の中で、日本派遣軍を指揮して日本進駐地区の軍政官となったのが柴五郎中佐である。他の列強の軍隊が戦利品を求めて略奪行為に走るなか、柴中佐が率いた日本軍は規律と統制を守り抜き、中国人を保護したため、日本管区に移住する住民が続出した。籠城が持ちこたえることができたのは、日本軍の奮闘があったからだと「ロンドンタイムス」紙などでも讃えられた。「コロネル・シバ」の凛とした存在感は、英国の日本への信頼と期待を醸成し、二年後の一九〇二年に日英同盟を成立させる一因になったとも言われる。

日英同盟については、当時さまざまな見方があった。フランスの「ル・タン」紙は「(日英同盟は)日本人の自尊心を大いに満足させている。なぜなら、今なお成り上がり者と感じているこの国民にとって、これは貴族社会での結婚のようなものだから」(一九〇二年二月一四日付)と揶揄した。当時、在英中だった夏目漱石は浮かれた日本の論調を知り、「斯の如き事に騒ぎ候は、恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り、鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん」と冷笑している。興味深いのは、かつての長州ファイブである伊藤博文、井上馨の二人ともが日英同盟に反対したことである。そこには「栄光ある孤立を標榜する英国が日本を真剣な同盟相手として評価するはずがない」という認識があったようだ。英国の実像を知る者ほど、日英同盟に対して楽観的になれなかったのであろう。

しかし、日本は大英帝国を後ろ楯にしながら、ロシアと戦って日露戦争に生き延びた。次に日英同盟を理由に参戦したのが第一次世界大戦であり、今でいうと集団的自衛権の発動だった。戦争は欧州で行われていて、日本とドイツとの間に際立った争いごとがあったわけではなく、英国に参戦を要請されるどころか、英国の外務大臣らが日本の自制を訴えるなかを、押しかけ同盟責任を口実にドイツの山東利権に襲いかかる。どこかで聞いたような論理で戦争にしやしやり出ていったのである。ドイツ軍の青島要塞を攻略し、さらに山東半島へと支配を広げた。日本は戦勝国として、ベルサイユ講和会議に列強の一翼を担う形で出席したのである。

一九二一年の日米仏英によるワシントン会議での四か国条約締結で、日英同盟は破棄されるが、これはアメリカの思惑を強く反映した条約であり、「国際協調主義」の名の下にアメリカのイニシアティブによる多国間の国際協調・勢力均衡体制を構築しようとするものであった。アメリカ側には、このまま日本が日英同盟を固めて行動をしていくと、やがてアメリカとの間で軍事衝突が避けられなくなるのではないかという不安と懸念があったためと思われる。アメリカにとっては宗主国であった英国が日本と同盟関係を維持しながらアメリカに向き合ってくるのを避けたかったのである。

日本は日英同盟を失って多国間関係の中に置かれて、遅れてきた植民地帝国として列強間の力比べの中でダッチロールを始めることになる。満州国問題をめぐって国際的孤立を招き、中国での戦線を拡大し、ついに真珠湾攻撃の道へと突っ込んでいくのである。日本にとって日英同盟の一九〇二年から一九二一年までは栄光の二〇年だったが、一九二一年から真珠湾攻撃へと至る期間は迷走の二〇年となったのである。

戦後首相を務めた吉田茂は、外交官として一九〇九年に約一年間ロンドンに赴任し、また一九三六年には駐英大使として赴任している。日英同盟の復活を模索し、日独伊の同盟には反対の立場だった。のちに『回想十年』(中公文庫)で次のように述べている。

「日英同盟成立の頃のイギリスは七つの海を制覇し、その領土に日の没する時なきを謳われていた時代である。しかもわが日本は漸く世界史に登場しかかったばかりの一小国に過ぎなかった。つまり当時の大英国と日本との国力の懸隔は、到底今日のアメリカ対日本のごときものではなく、もっとへだたりの大なるものだったのである。それにも拘らず、日英同盟が成立するや、前述の如く、朝野に亘って快くこれを迎えた。

そして、やれ、これで日本はイギリスの帝国主義の手先になるとか、イギリスの植民地化するとかいうが如き、猪疑的悲観論を唱えるものは、何ら見当らず、むしろご果洋のイギリスたることを誇りとして、その間少しも劣等感がみられなかったのである」

考えてみると、第二次世界大戦の敗戦から今日に至る七〇年間、新しいアングロサクソンの国アメリカとの同盟関係で日本は生きてきた。二〇世紀に限ってアジアの国々を冷静に見渡してみても、前半の二〇年間を英国と、後半の五〇年以上をアメリカと、合計七〇年以上もアングロサクソンとの同盟で生きた国は日本以外にないことに気づかされる。現在でも「アングロサクソンとの同盟こそが日本の生きる道だ」と訴える人が出てくるのは、日英同盟の成功体験を忘れることができず、トラウマのようになっているからかもしれない。
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年収と未婚率は完全にリンク

年収と未婚率は完全にリンク

 年収と未婚率は完全にリンクしている。これは何を意味しているのか。個人としての結婚というもの、それを前提とした子どもとの関係を変えていかないといけない。それが家族制度の変革の中枢部分。

 こんな方程式が成り立つ社会はおかしいという感覚をどう作っていくか。

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