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コミューン国家のユートピア

『ロシア革命とソ連の世紀』より ボリシェヴィキ政権の制度と言説 ⇒ カオスの中で夢は壊れる。未来からの発想をどれだけ、多くのにと見れるか

ボリシェヴィキの秩序構想

 ペトログラードをはじめとするロシア各地で政権奪取に臨んだとき、ボリシェヴィキはどのような秩序をつくろうとしていたのであろうか。恐らく多くの者には体系だった構想などなく、戦争の終結や漠然とした公正の実現を思い描いていたのであろう。レーニンたち党指導部にしても、ヨーロッパ革命の勃発という期待が念頭にあったため、世界規模での社会主義への移行という大状況を想定する以上のことはしなかった。

 この点でボリシェヅィキは、資本主義批判を深める一方で、社会主義の具体像はあえて描かなかったマルクスに似ていた。ドイツの師も、ロシアの弟子たちも、目の前にある社会が決して静態的なもの、所与のものではなく、日々ダイナミックに変わりつつある生きたシステムであることを見抜いていた。現状を批判的に論じることは、そのことだけですでに、それがどのように変化していくのかを明らかにするのと同じことであった。

 ましてボリシェヴィキが活躍した時代には、単に資本主義社会が内部矛盾によって社会主義に進みつつあるだけではなく、世界戦争がそうした前進運動を急激に加速しているように見えた。そのような認識を焼き付けたのが、レーニンの『帝国主義論』であり『国家と革命』であった。とくに『国家と革命』は、総力戦体制についての現状認識の延長線上にある、来るべき社会についての素描であった。この著作は十月革命に先立って書き上げられたものの、出版されたのはそのあとのことである。それゆえ権力奪取の段階ではその内容は党員のあいだに共有されてはいなかった。それに、そこに書かれていることは新生ロシアの国家制度に関する説明としては、あまりに一般的であった。そもそも、レーニンがこの著作のために構想ノートをつくりはじめたのは一九二六年のことであり、ロシアではなくョーロッパの革命が念頭におかれていた。

 それにもかかわらず、十月革命後に生まれた秩序と『国家と革命』とを切り離して考えることは難しい。そこに書かれたことのエッセンスは、同書が刊行される以前からレーニンの文章や発言に現れていた。社会主義革命を目指すことを宣言した「四月テーゼ」もそうである。そこには次のようにあった。「議会制共和国ではなくて--労働者代表ソヴィエトからそういうものへもどるのは、一歩後退であろう--、全国にわたる、上から下までの労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国。/警察、軍隊、官僚の廃止……。すなわち、常備軍にかえて全人民を武装させること。/官吏はすべて選挙され、いつでもかえることのできるものにし、その俸給は熟練労働者の平均賃金をこえないようにする」。

 そしてまた、『国家と革命』に示された国家像は、ソヴィエト・ロシアの現実との著しい懸隔にもかかわらず、ボリシェヴィキにとって唯一ではないにしても決して輝きを失わない導きの星となり、いくたびも彼らに霊感を与えたのである。

『国家と革命』

 では、レーニンは『国家と革命』のなかでどのような秩序構想を示していたのだろうか。それについて見ておくことは、ボリシェヴィキ政権のもとで実際につくられた制度や、関連する彼らの言説を考えるうえで有益である。以下では、マルクスやレーニンの議論のごく基本的な点に立ち返ることもいとわずに、検討を進めてみたい。

 マルクス主義の理解では、社会主義以前の社会は対立する諸階級からなる。資本主義社会の場合、支配する側には所有者たる地主や資本家がいる。支配される側には非所有者たるプロレタリアート(「財産をもたぬ者」)がいる。その典型は工場労働者である。農民は土地や家畜をもつ小所有者である。だが、農民の内部にはさらに所有のあり方に応じて階層があり、貧しい農民は労働者の側に近い。

 この社会観からさらに、次のような国家観が導かれる。国家とは中立な存在ではなく、階級支配の道具である。資本主義のもとでは、誰よりもまず資本家の利害が、国家の政策や法律の制定などを通じて貫徹される。言論や出版の自由といっても、メディアを牛耳る資本家にとっての自由に過ぎず、労働者の声を同じような強さで発することはできない。支配階級の手中にある国家はさらに、軍隊と警察という暴力を独占することによって、被抑圧階級の抵抗を鎮圧する。

 国家機構を直接に動かしている官僚も、中立的な存在ではない。彼らが官職にあるのは専門知識をもつことによってであるが、そのこと自体、彼らの多くが支配階級の出自であることと密接に結びついている。

 レーニンが十月革命に先立って提唱したソヴィエト共和国とは、資本主義のもとでの国家のあり方とは全く異なる、あたらしい国家である。そこでは労働者、それに彼らに率いられる農民が支配者となる。国家は今度は彼らによる支配の道具となるが、それはあくまで地主や資本家の抵抗を粉砕するための一定の期間のみである。旧支配階級に対する暴力的鎮圧と並行して、工場、鉄道、鉱山、土地といった生産手段の私的所有が廃止される。それらは労働者と農民が支配する国家の所有に帰する。こうして所有者と非所有者というパラダイム自体が徐々に消滅する。それにともない、ある階級による別の階級の支配も、階級支配の道具としての国家も消滅する。

 専門知識をもった官僚が国家機構を独占するという状態も、徐々に消滅する。ここでは第一次世界大戦という時代状況が大きな意味をもつ。大戦中にヨーロッパ各国では総力戦体制がしかれ、国家による経済生活の管理が進んだ。トラスト化、生産と分配の計画化、労働動員、配給制などである。「戦争社会主義」と呼ばれるほどに経済管理の一元化が進んだドイツが先進国であったが、帝政ロシアでも多かれ少なかれ同様の現象が見られた。そうした総力戦体制下の現代国家は巨大な郵便局のようなものであって、記帳、すなわち物資の数量の管理さえできれば、誰でも官僚になることができる。

 社会主義革命後、最初のうちはなお、旧来の官吏に仕事をさせなけれぱならないにしても、これまでのような高給ではなく、労働者の平均賃金での勤務を強制する。同時に輪番制で工場から労働者を行政機構に送りこみ、仕事の経験を積ませる。これにより誰もが徐々に「記帳」できるようになるので、特権的な階層としての官僚は消滅に向かう。一定の期間をへたあとに彼らは工場に戻ってくるので、特権的な階層が出現するおそれは二重に防がれる。

 ここにおいて、社会主義国家の行政機構として想定されているのは、従来のような強力な権限をもつ中央省庁とその出先機関ではない。二月革命の過程でロシア各地につくられたソヴィエト(評議会)が、あたらしい国家機関となることが想定された。工場労働者や兵士が代議員となり、リコールも常に可能である。普仏戦争の敗北時にフランスの首都に生まれた自治機関、パリーコミューンが、ソヴィエトの先行者とみなされた。ソヴィエト共和国は、フランスの革命運動の偉業を引き継ぐのである。無数のコミューンからなり、ローカルな発意を大事にするが、かといってアナーキストがいうように個々ばらばらでもなく、あくまで全体としての意志統一を重視する、それが「コミューン国家」としてのソヴィエト共和国の青写真であった。

 旧来の国家が独占していた暴力のうち、警察は住民みずからが地域の安寧を担う民警におきかえられる。そもそも生産手段の私的所有が廃絶されるとともに、利己主義も克服され、強大な警察力を必要とするほどの犯罪はなくなっていく。軍隊もまた、全人民の武装によっておきかえられることによって、旧来の閉鎖性を喪失する。かくしてソヴィエト共和国では、国家は徐々に死滅へと向かう。

 以上が、『国家と革命』において示された、コミューン国家の展望である。この展望に留意しながら、以下では、ボリシェヴィキ政権の実際の国家のあり方について見ていくことにしたい。
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