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皇統護持

皇統護持

 戦争が終わって、自由主義と共産主義の対立となり、そこに日本の立ち直る機会ができる。幸い、民族は残った。新しい日本を育てよう。

 これが大本営の一部の認識があったとは。

 これは未来から見る眼です。日本のことだけ考えるのではなく、世界のことを考える。今を考えるだけでなく、先を考える。そこから、行動を決める。

 その時の行動が「皇統護持」なのは、情けない。
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原爆投下の経緯

『核の恐怖全史』より 世界の破壊者

第二次世界大戦を戦う大国は、随分と自制心を働かせていた。予想に反して、彼らは毒ガスを使用しなかった。毒ガスは道徳の腐敗だとみなされ、大国は自分たちがやりかえされると困るような先例を作らないようにしていた。いずれにせよ、彼らはより効果的な殺戮の手段を手にしていたのだ。

都市の破壊については、新しいものは何もなかった。広島への原爆投下を含めても、極東地域における最悪の殺戮は、日本軍が南京を攻略した一九三七年にすでに先例があるのではないだろうか。日本軍は残忍に暴れまわり、中国人の大人から子どもまでを、文字通り刀の錆にした。こうした時代遅れの方法によって殺された人の数は、確定していないが、二五万人に及んだと報じられることもある。時代遅れの方法による殺戮は、一九四一年冬、ドイツ軍に包囲されたレニングラードでも起こった。一〇〇万人を超えるロシア人が飢え死にしたレニングラードの戦いは、一つの地域で起きた軍事的殺戮としては、歴史上最悪のものだった。

ロシアからの援助要求に急き立てられ、一九四三年までにイギリスの爆撃隊がドイツの都市を空襲した。最初に空襲が成功したのは、ハンブルグだった。炎に包まれたハンブルグでは、街路が地獄に変わり、叫びまわる群衆が黒焦げの死体の山になった。一九四四年までには、枢軸国の市民はあらゆる種類の爆撃を受けることになった。敵の残虐行為が報じられると、人びとは、ドイツ人は生まれつき冷酷で、日本人は人間ではないと決めつけた。良心が咎めたとしても、指導者たちは、イタリアの軍事学者ジュリオ・ドゥーエの言葉を追い求めた。ドゥーエはその著書『制空』のなかで、航空爆撃が戦争終結を早める、と主張していたのだ。しかし、指導者たちが成し遂げたものは、ドゥーエの予見とは異なっていた。空襲は、古くからあった兵士と市民との境界を消し去ってしまったのである。

一九四五年三月、アメリカのカーチス・ルメイ将校は、約三〇〇機の爆撃団を東京に送り、焼夷弾による攻撃をしかけた。一五マイル四方が焼け野原になった。これは、その後の広島と長崎の焦土を併せた面積よりも広かった。炎から逃れて水路に飛び込んだ人びとには不幸なことに、空襲とそれによる火事で東京の熱が上昇し、小さな水路の水は干上がっていた。東京大空襲による即死者は広島とほぼ同数で、火傷を負った者や怪我人もあわせると、死傷者は一〇〇万人に及んだ。ルメイはこの戦術を何週にもわたって繰り返し、機械的に都市を焼き尽くしていった。一九四五年の中頃までに、アメリカの航空隊は、一スクエアあたり約三〇〇万ドルもの費用をかけて、日本の都市部を破壊したのだが、それでもまだ最初の原爆に比べれば随分と安かったのである。

しかし、原子科学者たちは、自分たちが国際関係を革命的に変える存在になることを確信していた。彼らは、一九四一年以来、原爆はあらゆる戦争をほんの数週間で終わらせる最終兵器だと主張していた。チャーチルからルーズベルトまで、政治的指導者たちは、新たな事実よりも古くからあるSFの核の想像力に強い影響を受けていた。彼らは、原爆をあらゆる問題を解決してくれるものだと見なすようになっていた。戦争に関する問題も、その後に来ると思われたソ連との対立も、原爆が解決してくれるかもしれないと。では、いつになれば原爆投下の準備は整うのだろうか。

最も重圧を感じる立場にいたのは、ロバート・オッペンハイマーだった。オッペンハイマーは、子どもの頃から精神的に不安定で、青年期には奇怪な行動で友人や両親をうろたえさせることもあった。社会に適応できず、自殺と殺人を考えるような若者だったのだ。彼を救ったのは、発見と教育に自らを捧げる物理学者になるという将来の夢だった。そして、大人になったオッペンハイマーは多くの人びとから尊敬を勝ち得る。グローブスが、ニューメキシコのロスアラモスに新しくできた研究所の責任者に、オッペンハイマーを選んだのである。その研究所は、原爆が設計され、組み立てられる場所だった。彼は、物理学者を集めるためにアメリカ中を飛び回り、こう言って説得するのだった。「ヒトラーに先に原爆を作らせるわけにはいかない。」

しかし、オッペンハイマーが後年に回想しているように、そこにはもう一つ、人びとを山の上の秘密の街に集める理由があった。「ほとんど全員が、歴史的な巨大プロジェクトだと理解していた。」原爆は速やかに戦争を終結させ、おそらく大戦争そのものを過去の遺物にするだろう。そして、長く期待されてきた核エネルギーの恩恵は、もうすぐそこまで来ている。まさに「解放された世界」だ!。

大量のプルトニウムとウラン235を爆発させるというのは、相当に扱いにくい計画で、誰もが順調にはいかないだろうと予想していた。ロスアラモスの研究所でなされた推計では、一つの原爆の威力は、通常の爆撃機一〇〇機による空襲に相当するとされた。最初の原爆が投げかけた新しい倫理的問題は、それが結局は、これまで人類が経験したことのないもので、SFから出てきた脅威であるということだった。物理的には、原爆投下は焼夷弾による夜間空襲と変わらなかった。しかし、心理的な衝撃は、また別の問題だった。

指導者たち、とくに政府首脳部は、頑固なソ連政府に与える影響を考えていた。他の人間、たとえばグローブスは、アメリカ議会に与える衝撃について考慮していた。彼らは、二〇億ドルはどこにいったのかを知りたいと思うはずだ。しかし、サイパン島での苛酷な戦闘の記憶はまだ生々しかった。そこでは、女性と子どもを含む住民の半数以上が、降伏よりも自殺を選んだ。文字通り「自滅する軍隊」に直面して、指導者たちは、日本人に原爆はいったいどれほど有効なのかと考えるようになった。したがって、オッペンハイマーや他の指導者たちは共に、「労働者の住宅に囲まれた重要な軍事工場」に最初の原爆を落としてはどうかと提案している。閃光と突風による阿鼻叫喚によって、日本人が目覚めることを期待したのだった。その意味では、最初の原爆は敵の都市よりも敵の精神に落とされたのだ。

七月に実施された原爆実験によって、科学者たちは自分たちが何をつくったのかを思い知ることになった。しかし、しかし、その意味を考え直すには、もう遅すぎた。

シカゴを覆っていたのは異なるムードだった。プルトニウム生産のための原子炉を完成させたコンプトンの研究所は、もはや切迫した作業目標を持だなかった。科学者たちは考える時間があり、もしかしたら、ウェルズの『解放された世界』を読みさえしたかもしれない(研究所の図書室には、誰かが『解放された世界』のコピーを置いていたのだ)。思いついたら居ても立ってもいられなくなるシラードとシカゴグループの研究者たちは、無人島に原爆を見せしめのために落とし、日本を降伏へと導いてはてはどうかとアメリカ政府に向けて請願している。しかし、科学者たちは日本人を殺すことに反対はしなかった。関心は戦後世界にあったからだ。原爆後の世界を安全に保つには、国際関係の革命的礎化が必繁だった。

コンプトンが一九四四年にメモに書き残したように、民主主義には進めるべき一つのプロジェクトがある。それは「公衆教育」だ。戦時の情報統制が終わるとすぐに、シカゴの科学者たちは核戦争の危険を説明するための準備をし始めた。彼らには他にもう一つ説明したいことがあった。大まかな計算ではあるが、原子炉は石炭や石油と同じくらいの金額で電気を生む可能性があったのだ。シカゴの科学者たちは、新たな仕事の見込みに盛り上がった。原子力工学は、未来の繁栄へと人類を導きながら、終戦後の就職先を確保してくれるものだった。もしそうだとすれば、核エネルギーの重要性を公衆に教えなければならない。

公衆教育に関して最も賢明なコメントをしたのは、カール・ダローだった。彼は辛辣な洞察力で知られる古参の物理学者だった。シカゴの科学者の一人に彼は手紙を書いた。「方法は二つ。一つは科学自体の関心から離れてでも、人びとに歓迎されるような有益な原子力の使い方の見通しを与えること。もう一つは、新たな兵器で心の底から怖がらせることだ。」彼は二つの道が同時に達成されることはないと考えていた。
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〈電子書籍問題〉

『ブックデザイナ--鈴木一誌の生活と意見』より

脆さの強さ

 開店間もない新宿東口・ヨドバシカメラの店頭に並び、米国アップル社のiPadの予約をしてきた。一三番目だった。予約の受け付け初日の今日、全国の家電量販店で、似たような光景が見られたはずだ。

 先日、米アマゾン社のキンドルは手に入れた。このアイパッドとキンドルをいわゆる「電子書籍」と見なす。平穏をむさぼっていた日本の出版業界にとって、「黒船襲来」だとも言う。電子書籍が普及すれば、紙の本が滅びると危惧する人びともいる。最近、出版関係の団体が催した「電子書籍を考えるシンポジウム」では、五百を超える席が瞬時に予約で埋まったと聞く。関心は高く、浮き足だってさえいる。

 ブックデザインを仕事にしていて、紙との付き合いは深いつもりだが、あらためて、紙とはつくづく不思議なものだと思う。脆いようでいて強い。強そうで脆い、適度なしなやかさが魅力だ。ティッシュペーパーの心地よさは、柔らかさからだけくるのではない。強靭さがなければ、ボロボロと崩れてしまうはずだ。油断して、紙のエッジで指を切ったひとも多いだろう。紙で切った指の痛さは特別だ。食品などの包装にしても、紙のよさは、空気や湿度をよいあんばいで遮断しかつ流通させる点だ。光にしてもそうだ。混雑した飲食店でも、隣の客とのあいだに紙の仕切りがあるだけで、雰囲気が変わる。

 ある建築家から聞いた話では、住宅にはところどころに脆い場所をつくっておくとよいそうだ。脆さの前では、振る舞いがていねいになるからだ。たしかに、障子や土壁の近辺では、仕草に気を配る。いっぽう、疲れていて気ぜわしいときにかぎって、へやのあちこちに額をぶつけたりする。本も、紙一枚ずつの脆さゆえ、ページを繰るひとの動作と気持ちをしとやかにするのかもしれない。

 鉄道や地下鉄の駅構内のデザインはずいぷんと改善されてきているが、素材はどうかと見ると、無味乾燥で強固である。ほかの公共スベースでも、プライバシーの保護もあって、空間を画然と区切ってしまう。凶暴になりがちな人びとの気持ちを受け止めるには、紙のような脆さも必要ではないか。透けているのか透けていないのかの曖昧さに、社会の共通感覚が境界線を引いていくのだ。セキュリティや防衛論議に通じる話かもしれない。

 紙は、そこにあって当たり前と思われている。無くてあわてるのは、洟をかみたいときやトイレをもちだすまでもない。まるで空気のような紙は、だからといって存在感がないのではない。空気が人間にとって不可欠であるように、だ。こう言えるだろう。人びとは危機に面して、はじめて紙の存在に気づく。消えはじめて、レコードの紙ジャケットやCDの歌詞カードを惜しむのだ。いまは、本であわてている。

 同時に紙は、空気のような存在に形を与える。わたしたちが折々に抱く感情は、日記や短歌、俳句や川柳として紙に書き留められたとき、姿を地上に現わす。感謝のひとことは(ガキに記されなければ可視化しない。写真の印画紙や印刷もまた、思いを紙に残す行為の延長だ。空気のようだからこそ紙は、人びとの見定めがたい心の揺らぎを写しとれる。脆さは、脆さを理解する。

 ワープロやメールも、紙に書くおこないの延長線上にあり、もはや空気のようになってしまった。電子書籍の成否は、空気のようになれるかどうかにかかっている。電子書籍が空気のようになるとき、本の世界はさらに拡張する。

〈電子書籍問題〉

 電子書籍の定義をとりあえず、電子的な端末で読む本、とでもしておこうか。紙の本では、内容と容れ物が一致していた。紙と印刷された文字は切り離せず、無理やりページを引きちぎれば、文字も崩壊した。対して電子書籍では、内容と容れ物が分かれている。キンドルやiPadなど電子端末の画面に、本の内容を映しださなければならない。

 紙の本一冊には内容と容れ物が一体としてあり、便利である。いっぽう、本ごとに新たなページやパッケージが必要となり、効率的ではないとの見方もある。キンドルやiPadの初期投資は安くはないが、しかしいったん買ってしまえば、理論上はその画面に何万冊の本を表示しても摩滅しない。さて、どちらがすぐれているのか。

 画面に映しだしさえすれば、その文字列は電子書籍なのか。これも議論が定まってない。①構造化されたテクストを保有し、①書誌データが揃い、③その本固有の番号たとえばISBNなどをもつ。この三点あたりが、内容としての電子書籍を穏当に定義づけている。のの「構造化されたテクスト」は、文章のどこが本文で、どれが見出しなのかが明示されている、つまりは目次だてができる、くらいに理解しておとう。②の「書誌データ」は、書名、副題、著訳者名などが明示できることで、どれが欠けても、仲間内ならともかく、流通や図書館では困ってしまう。

 わたしたちの読書行為が、電子書籍によってどう変わるのだろうか。音楽の聴取法が弓乱などで変わったように、読書が部分読みに変わるというひともいる。読んだ箇所が記憶に残らないとの指摘もある。取次や書店の行方も気にかかる。もちろん、ブックデザイナーにとってもひとどとではない。いずれにせよ、ユーザーひとりひとりの生身を使っての実験が始まる。

 取材の過程で、電子書籍は、ビジネスの話題としてだけ盛りあがっているのではない、と気づく。非営利の電子図書館活動「オープンライブラリー」なども、同時に進行中なのだ。「オープンライブラリー」は、「世界中のどこにどのような本があり、どうしたらその本にアクセスできるか」をガイドする無料検索サービスである。電子書籍をめぐる動きとは、営利と非営利との両極に挟まれた、広い川幅をもつ流れなのだ。

 「世界中のどこにどのような本があり、どうしたらその本にアクセスできるか」とのくだりから、伝説のカタログ書『ホール・アース・カタログ』を思いだすひともいるだろう。スチュワート・ブランドによって一九六八年に創刊された『ホール・アース・カタログ』は、カウンターカルチャーのバイブルとして多くの愛読者を生んだ。課金か無料かはともかく、電子書籍の動静を「世界中の本どうしが繋がろう。
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戦争が終わると、必ず自由主義と共産主義の対立になる

『極秘指令 皇統護持作戦』より 肉親友人にも絶対に秘密を洩らすな ⇒ 未来からの発想

肉親友人にも絶対に秘密を洩らすな

 八月十七日、横須賀飛行場から横須賀線で霞ケ関にある海軍省の軍令部地下作戦室に出向いた時の経緯から源田の話は始まった。

 命にかえても徹底抗戦を唱えるつもりで肩を怒らせ作戦室に乗り込んだ源田を待ち構えていたのは、軍令部第一部長の富岡定俊少将たった。

 前日の十六日にも、源田の上官である第五航空艦隊参謀長の横井俊之少将が乗り込んできていた。厚木航空隊の叛乱で混乱している中、最有力の三四三空まで叛乱を起こされると、天下の動乱になる。富岡は何としても源田を説き伏せなければならなかった。

  「御詔勅が果たして陛下の真意であらせられるか、それとも君側の奸のなせる策か。われわれ前線の将士は態度を決しかねる」

 怒鳴るように問う源田はいまにも腰の軍刀を抜きかねない勢いだ。

  「申すまでもなく陛下の御真意です。終戦は断じて君側の奸の仕業ではない。われわれ軍人には悲憤やる方ない気持ちであるが、大御心には従わなければならない」

  「だが、このままでは収まりません。私も収める自信がない。まだ停戦命令が出ていないため、今朝も索敵を命じてきた。敵機を発見すると、進撃する気概であります。事と次第によれば全員で特攻する覚悟でいます」

 富岡が「決して君側の奸の仕業ではない」と言ってもどうしても源田は受け入れない。八月九日と十日の御前会議の記録を手渡した。

  --朕の股肱とたのむ陸海軍人より武器を奪い、朕が杖柱とたのんだ重臣たちを戦犯として連合国法廷に送ることはまことに堪え難い所であるが--

 その後にこう続いた。

  --のお言葉の後(御涙)--

 ここまで読むと、源田は軽く目を閉じ、うつむいた頬に涙がつたう。陛下がそこまでお心を痛めておられた。

  「軽々に判断したものではない。このたびの処置は国体の破壊になるか、しからず敵は国体を認めると思う。これについては不安は毛頭ない。敵に我が国土を保障占領された後にどうなるか、これについて不安はある。しかし戦争を継続すれば、国体も何もみななくなってしまい玉砕あるのみだ。忠勇なる日本の軍隊を、武装解除することは堪えられぬことだ。しかし国家のためにはこれを実行せねばならぬ。賛成してくれ」

  「よくわかりました。部下を収めることができそうです」

  「戦争が終わると、必ず自由主義と共産主義、つまり米ソの対立になる。その谷間に日本の立ち直る機会ができる。幸い民族は残った。そこから新しい日本を育てよう」

 普段の鋭い眼光が消え、悄然と書類を閉じ席を立とうとする源田に告げる。

  「待て、密命がある」

 この期に及んで密命とは何か。納得できない様子の源田を別室に招き入れる。

 富岡は話を続けた。

  「連合軍がどんな占領政策を取るかわかっていない。それが故、天皇陛下の運命がどうなるかもわからぬ。我々としては天皇家の血筋を守り通さねばならない。若宮様を隠匿して、万が一のために皇統を護持する」

 占領軍によって天皇家が断絶させられた際、天皇家の血筋を引く幼い宮様を行在所に密かに隠して養育する皇統護持作戦であった。

 すでに軍令部総長の豊田副武大将と海軍大臣の米内光政大将、高松宮宣仁親王の了承を取っており、大金益次郎宮内次官とも話し合いを持ち、機密費二十万円を用意したと説明した。米十キロ六円だから現在でいえば四、五千万円に相当する。

 終戦の報に「天皇陛下は中国に流刑、皇太子はアメリカに連行され、残った皇族は全員死刑になる」という流言憶測が巷に飛び交っていた。

 国体を護持しようにも武装解除された海軍にはその手立てはなく、占領軍に好きなように解体されるのを海軍は待つばかりだった。源田に限らず日本人は皇室の行く末を案じていた。皇室に万一の事があれば、靖国で会おうと死んだ者に顔向けができない。

 安堵するとともに三四三航空隊が国運を賭けた密命を授かったことに源田の心身は奮い立った。

  「謹んでお引き受け致します」

  「この仕事は勇気だけでできる仕事ではない。四十七士の大石内蔵助、それが君の立場だ。連合軍がいつ進駐してくるかわからないが、その前にできるだけ早く展開してもらいたい。ただし若宮様の隠匿は最悪の場合が来た時だけ発動される。どなたを選ぶか、その直前まで決めない。皇女の場合もありうる。任務はいつまでとはいえないが、とりあえずは二年、いや三年位と思っている。しかし隊員諸君には無期限の覚悟でやってもらいたい」

 はやる馬を諌めるかのように感情の起伏なく富岡は源田に言い含めた。
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