未唯への手紙
未唯への手紙
人は、実はいつも「哲学」している
『AIが神になる日』より
この本は、AIがシンギュラリティーに近づきつつある時代に、「人間はそれにどう向かい合うべきか」という問題を、皆さんと一緒に考えようと書き始めたものです。
しかし、ここで、いったん、AIのことは完全に忘れてみたいと思います。そして、「私」という一人の人間、「あなた」という一人の人間に立ち戻り、「自分が生きていることの意味」を、もう一度一から考えなおしてみたいと思います。
なぜなら、もし本当に「将来の望ましいAIのあり方」を考えたいなら、まずは「自分がもしAIだったら」と考えることから始めるべきであり、そのためには、「自分とは何か」を考えることから始めなければならないと思うからです。
つまり、この節では、私は、皆さんと一緒に、純粋に「哲学」にふけってみたいと思うのです。無駄なことだと思われるかもしれませんが、このことは、後の議論にもきっと役立つと思いますから、しばしお付き合いください。
●「哲学する」とはどういうことか?
「哲学する」ということは、やさしい言葉で言い直せば「考える」ことです。(英語では、哲学者とか思想家のことを、単純にthinkerと呼ぶこともあります。)ただし、その考える対象によって、「哲学している」と言える場合と、言えない場合があります。
端的に言えば、「空いているこの電車に乗るべきか、次の特急電車を待つべきか」とか「この新しいプリンターを買うべきか」とか「この従業員をクビにするべきか」とかを考えるときは、「哲学している」とは言えません。「日常生活をスムーズにするため」(この中には、「生活の糧を得るため」も含む)に、ほぼ反射的に頭脳が働いているだけなのですから。
しかし、ここから、考えが「本質的な疑問」へと発展した場合には、「哲学している」状態になります。たとえば、「次の特急電車に乗る」選択は「時間を節約するために、長い間立ちっぱなしで相当に疲労することを覚悟する」選択ですから、「そんなにまでして、あくせく暮らす意味があるのか」という「哲学的な疑問」につながるかもしれません。
「プリンターなんか買うよりは、お金を貯めてどこか遠くに旅行したい」と考えるのも、かなり哲学的な考えです。従業員のクビの問題は、「自分がこの従業員だったらどう思うだろうか? 仕方ないと思うだろうか? 不条理だと思うだろうか?・」という考えにつながるでしょうし、「自分がこの会社を経営しているのは、そもそも何のためだったのだろうか?」という「経営哲学」上の疑問につながるかもしれません。
一般論をいうなら、「哲学」の対象は、大略左記の四つに大別されます。
第一は、「この世界とは何なのか?」「自分はなぜここに存在しているのか?」という「根源的な疑問」に関するもの。
第二は、「人間とは何か?」「自分は他の人間(あるいは、それが構成する社会)とどのように関わっていくべきなのか?」という「人間」に関わるもの。
第三は、「自分はどう生きればよいのか?」「何が大切で、何が大切ではないのか?」という「自分の価値観」に関するもの。
そして、第四は、「この世界はどうあるべきか?」「そのために自分は何をするべきか?」という「自分の世界観」に関するものです。(「自分の世界観」は「自分の価値観」の発展系とも言えますし、一つの構成要素であるとも言えます。)
「倫理観」や「道徳観」、「社会思想」や「政治思想」は、すべてひっくるめて、この「第四のカテゴリー」の中に含まれます。
●根源的な疑問に対する答え
人間の脳は、寝ているときにはあまり活動しておらず、起きているときが活発に活動している状態です。活動しているときは、主として右脳だけが働いて「感じて」いるか、あるいは、左脳が働いて「考えて」いるのです。
考えている状態を、その内容から分類すると、「何かの結論を出すことが求められている」状況にあるときと「それ以外」のときに分かれるでしょう。また、「信じていること」や「明らかな事実」をペースとして考えるときと、「まったく白紙から考える」ときに分かれるでしょう。
前者については、どちらでも「哲学」の対象になりますが、後者については「白紙で考える」場合のみ、が「哲学」の対象です。「哲学」とは「疑問」に対応するものであり、何かを信じているのなら、「哲学」する必要などないからです。その意味で、「信仰」は「哲学」の対極にあります。「哲学」とは、「あなたが、今、何ものにもとらわれず、何も前提にせずに、考えること」です。
哲学科の学生が、試験に備えて、難解なカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』と格闘しているとき、彼(彼女)は哲学していると言えるでしょうか? いや、必ずしもそうとは言えないと思います。彼(彼女)がやっているのは、おそらくは、カントやハイデガーがその著書の中で書いたことがどういう意味であるかを理解することであり、自分が一緒になって同じレベルで考えているわけではないと思われるからです。
これに対し、女子高生が花火を見て、「わあ、きれい。いったい誰がこんなものを考えたのかしら?」と考えることは、十分「哲学」です。そこには純粋な疑問があり、それは、実はかなり根源的な疑問だからです。
火薬や、それを利用した花火は、ずっと以前のいつかに、どこかの誰かが発明しました。そして、「人寄せ」とか色々な目的で、今でもときどき誰かがそれを作り、打ち上げています。しかし、あなたの前でパツと弾け、パツと散る大輪の花火の謎は、それだけでは解けません。「この花火は、自分にとって何なのか?」という一瞬の思いは、「自分はなぜ今ここにいるのか?(実はいなくてもいいのではないか?)」という「哲学的な疑問」につながります。
意識を持っている限り、人間は「なぜ?」と時折自分に問いかけます。そして、誰かがその答えをくれると、だいたいは納得します。
昔は「神様がそうしているから」というのが答えのほとんどでしたが、そのうちに人間が「科学」し始めると、事情は少し変わりました。科学的な答えはよく理解できたし、「おそらく正しいのだろう」と確信できる度合いも高まりました。まだ説明ができていないことについても、「そのうちに分かるだろう」と思えるようにもなりました。
今自分が見ているすべては、もしかしたら夢かもしれないが、たとえ夢であっても、「それを見ている自分というものは存在し、楽しかったり苦しかったりしている」ということは、まず間違いないと確信できます。同時に、「自分がなぜ存在しているのかは永久に分かりそうにない」ということも、かなり確信できるのです。
そうなると、「これは別に思い悩むことではない。今生きているように生きていくしかない」という結論めいたものに、考えは収斂していくのが普通です。
神を信じる人と信じない人とでは、ここに大きな差があるように思えるかもしれませんが、実はそんなに差はないのです。「私には分からないが、誰にも分からないだろう」というのも、「神様は分かっているのだろうが、私には分からない(だから神様に委ねる)」というのも、大同小異だと私は思います。
●他者(他の人間)との関わり
しかし、「確信できるのは、今存在している自分だけ」という哲理が揺るぎないものであったとしても、人間の意識はそこに留まってはいません。たとえ不確かなものであっても、人間はさらに色々と考えます。
そこで真っ先に考えるのは、「他者(私以外の人間)」のことです。「私に極めて似た人間という存在が、私以外にも存在して、色々感じたり考えたりしているようだ」と人は考え、そのような「他の人間」と「考え」や「感情」を共有したいという思いが生まれます。
前の章では「愛」と「憎しみ」について語りました。「愛」と「憎しみ」は色々に変形し、その対象も色々に変わりますが、その思いは、どうやら人間が持つ色々な思いの中でも、最も強いものであるかのようです。
人間には生まれながらにして強い生存本能があるはずなのに、人間は、しばしば、「子供のためなら」「恋人のためなら」「仲間のためなら」「国のためなら」と、自分以外の人間のために「自分は死んでもよい」と思うことがあります。これはなぜなのでしょうか?
人は、明らかに、「自分は今ここに存在する」という確信とほとんど同じくらいに強く、「自分は、他の人間と同じように、今人間としてここに生きている」と確信しているかのようです。そして、それゆえに、「人間として、自分はどのように生きるべきか」と思い悩みます。
また、人間は、その思いの中で、「他の人間が自分に与えている喜びや苦しみ」を強く意識し、「自分が他の人間に与えられるかもしれない喜びや苦しみ」にも思いを馳せます。
こうして、人間の意識の大きな部分を占めている「人間としての思い」「他の人間への思い」は、当然のことながら、個々の人間の「価値観」にも大きな影響を与えます。
人間の行動の多くは、大脳には関係なく小脳だけで処理される「反射的な運動」を別にすれば、右脳や左脳の中で、あるいはその両者の連携の結果として生まれる「意志」によって決められます。そして、その「意志」は、その人間の「価値観」の反映として形成されることが多いのです。
個々の人間の「価値観」を決める要素としては、「遺伝」や「環境言が大きい部分を占めるのは事実でしょうが、それでも、その人間が幼い頃から続けてきた「哲学的な思考」も無視できない要素を占めるでしょう。言い換えれば、「人間は哲学によって自らの価値観を形成し、その価値観によって思い悩み、あるいは行動している」とも言えると思います。
この本は、AIがシンギュラリティーに近づきつつある時代に、「人間はそれにどう向かい合うべきか」という問題を、皆さんと一緒に考えようと書き始めたものです。
しかし、ここで、いったん、AIのことは完全に忘れてみたいと思います。そして、「私」という一人の人間、「あなた」という一人の人間に立ち戻り、「自分が生きていることの意味」を、もう一度一から考えなおしてみたいと思います。
なぜなら、もし本当に「将来の望ましいAIのあり方」を考えたいなら、まずは「自分がもしAIだったら」と考えることから始めるべきであり、そのためには、「自分とは何か」を考えることから始めなければならないと思うからです。
つまり、この節では、私は、皆さんと一緒に、純粋に「哲学」にふけってみたいと思うのです。無駄なことだと思われるかもしれませんが、このことは、後の議論にもきっと役立つと思いますから、しばしお付き合いください。
●「哲学する」とはどういうことか?
「哲学する」ということは、やさしい言葉で言い直せば「考える」ことです。(英語では、哲学者とか思想家のことを、単純にthinkerと呼ぶこともあります。)ただし、その考える対象によって、「哲学している」と言える場合と、言えない場合があります。
端的に言えば、「空いているこの電車に乗るべきか、次の特急電車を待つべきか」とか「この新しいプリンターを買うべきか」とか「この従業員をクビにするべきか」とかを考えるときは、「哲学している」とは言えません。「日常生活をスムーズにするため」(この中には、「生活の糧を得るため」も含む)に、ほぼ反射的に頭脳が働いているだけなのですから。
しかし、ここから、考えが「本質的な疑問」へと発展した場合には、「哲学している」状態になります。たとえば、「次の特急電車に乗る」選択は「時間を節約するために、長い間立ちっぱなしで相当に疲労することを覚悟する」選択ですから、「そんなにまでして、あくせく暮らす意味があるのか」という「哲学的な疑問」につながるかもしれません。
「プリンターなんか買うよりは、お金を貯めてどこか遠くに旅行したい」と考えるのも、かなり哲学的な考えです。従業員のクビの問題は、「自分がこの従業員だったらどう思うだろうか? 仕方ないと思うだろうか? 不条理だと思うだろうか?・」という考えにつながるでしょうし、「自分がこの会社を経営しているのは、そもそも何のためだったのだろうか?」という「経営哲学」上の疑問につながるかもしれません。
一般論をいうなら、「哲学」の対象は、大略左記の四つに大別されます。
第一は、「この世界とは何なのか?」「自分はなぜここに存在しているのか?」という「根源的な疑問」に関するもの。
第二は、「人間とは何か?」「自分は他の人間(あるいは、それが構成する社会)とどのように関わっていくべきなのか?」という「人間」に関わるもの。
第三は、「自分はどう生きればよいのか?」「何が大切で、何が大切ではないのか?」という「自分の価値観」に関するもの。
そして、第四は、「この世界はどうあるべきか?」「そのために自分は何をするべきか?」という「自分の世界観」に関するものです。(「自分の世界観」は「自分の価値観」の発展系とも言えますし、一つの構成要素であるとも言えます。)
「倫理観」や「道徳観」、「社会思想」や「政治思想」は、すべてひっくるめて、この「第四のカテゴリー」の中に含まれます。
●根源的な疑問に対する答え
人間の脳は、寝ているときにはあまり活動しておらず、起きているときが活発に活動している状態です。活動しているときは、主として右脳だけが働いて「感じて」いるか、あるいは、左脳が働いて「考えて」いるのです。
考えている状態を、その内容から分類すると、「何かの結論を出すことが求められている」状況にあるときと「それ以外」のときに分かれるでしょう。また、「信じていること」や「明らかな事実」をペースとして考えるときと、「まったく白紙から考える」ときに分かれるでしょう。
前者については、どちらでも「哲学」の対象になりますが、後者については「白紙で考える」場合のみ、が「哲学」の対象です。「哲学」とは「疑問」に対応するものであり、何かを信じているのなら、「哲学」する必要などないからです。その意味で、「信仰」は「哲学」の対極にあります。「哲学」とは、「あなたが、今、何ものにもとらわれず、何も前提にせずに、考えること」です。
哲学科の学生が、試験に備えて、難解なカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』と格闘しているとき、彼(彼女)は哲学していると言えるでしょうか? いや、必ずしもそうとは言えないと思います。彼(彼女)がやっているのは、おそらくは、カントやハイデガーがその著書の中で書いたことがどういう意味であるかを理解することであり、自分が一緒になって同じレベルで考えているわけではないと思われるからです。
これに対し、女子高生が花火を見て、「わあ、きれい。いったい誰がこんなものを考えたのかしら?」と考えることは、十分「哲学」です。そこには純粋な疑問があり、それは、実はかなり根源的な疑問だからです。
火薬や、それを利用した花火は、ずっと以前のいつかに、どこかの誰かが発明しました。そして、「人寄せ」とか色々な目的で、今でもときどき誰かがそれを作り、打ち上げています。しかし、あなたの前でパツと弾け、パツと散る大輪の花火の謎は、それだけでは解けません。「この花火は、自分にとって何なのか?」という一瞬の思いは、「自分はなぜ今ここにいるのか?(実はいなくてもいいのではないか?)」という「哲学的な疑問」につながります。
意識を持っている限り、人間は「なぜ?」と時折自分に問いかけます。そして、誰かがその答えをくれると、だいたいは納得します。
昔は「神様がそうしているから」というのが答えのほとんどでしたが、そのうちに人間が「科学」し始めると、事情は少し変わりました。科学的な答えはよく理解できたし、「おそらく正しいのだろう」と確信できる度合いも高まりました。まだ説明ができていないことについても、「そのうちに分かるだろう」と思えるようにもなりました。
今自分が見ているすべては、もしかしたら夢かもしれないが、たとえ夢であっても、「それを見ている自分というものは存在し、楽しかったり苦しかったりしている」ということは、まず間違いないと確信できます。同時に、「自分がなぜ存在しているのかは永久に分かりそうにない」ということも、かなり確信できるのです。
そうなると、「これは別に思い悩むことではない。今生きているように生きていくしかない」という結論めいたものに、考えは収斂していくのが普通です。
神を信じる人と信じない人とでは、ここに大きな差があるように思えるかもしれませんが、実はそんなに差はないのです。「私には分からないが、誰にも分からないだろう」というのも、「神様は分かっているのだろうが、私には分からない(だから神様に委ねる)」というのも、大同小異だと私は思います。
●他者(他の人間)との関わり
しかし、「確信できるのは、今存在している自分だけ」という哲理が揺るぎないものであったとしても、人間の意識はそこに留まってはいません。たとえ不確かなものであっても、人間はさらに色々と考えます。
そこで真っ先に考えるのは、「他者(私以外の人間)」のことです。「私に極めて似た人間という存在が、私以外にも存在して、色々感じたり考えたりしているようだ」と人は考え、そのような「他の人間」と「考え」や「感情」を共有したいという思いが生まれます。
前の章では「愛」と「憎しみ」について語りました。「愛」と「憎しみ」は色々に変形し、その対象も色々に変わりますが、その思いは、どうやら人間が持つ色々な思いの中でも、最も強いものであるかのようです。
人間には生まれながらにして強い生存本能があるはずなのに、人間は、しばしば、「子供のためなら」「恋人のためなら」「仲間のためなら」「国のためなら」と、自分以外の人間のために「自分は死んでもよい」と思うことがあります。これはなぜなのでしょうか?
人は、明らかに、「自分は今ここに存在する」という確信とほとんど同じくらいに強く、「自分は、他の人間と同じように、今人間としてここに生きている」と確信しているかのようです。そして、それゆえに、「人間として、自分はどのように生きるべきか」と思い悩みます。
また、人間は、その思いの中で、「他の人間が自分に与えている喜びや苦しみ」を強く意識し、「自分が他の人間に与えられるかもしれない喜びや苦しみ」にも思いを馳せます。
こうして、人間の意識の大きな部分を占めている「人間としての思い」「他の人間への思い」は、当然のことながら、個々の人間の「価値観」にも大きな影響を与えます。
人間の行動の多くは、大脳には関係なく小脳だけで処理される「反射的な運動」を別にすれば、右脳や左脳の中で、あるいはその両者の連携の結果として生まれる「意志」によって決められます。そして、その「意志」は、その人間の「価値観」の反映として形成されることが多いのです。
個々の人間の「価値観」を決める要素としては、「遺伝」や「環境言が大きい部分を占めるのは事実でしょうが、それでも、その人間が幼い頃から続けてきた「哲学的な思考」も無視できない要素を占めるでしょう。言い換えれば、「人間は哲学によって自らの価値観を形成し、その価値観によって思い悩み、あるいは行動している」とも言えると思います。
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家庭の価値と役割--グローバル社会の家庭
『未来創造学としての生涯学習』より
価値の基準が、物質的価値や一義的価値から、人間の生命に転換したとき、すべてにわたって価値観は大きく転換せざるを得なくなりましょう。
現代の物金の価値観の優先する中で、古くさい過去の遺物として無価値視されてきたものに対し、逆に光を当てざるを得なくなった、というより、まったく新しい観点から創造的価値として新しく打ち立てなければならないと言えます。
生命の尊厳を基礎に置き、人間を最高の価値としたとき、そこに既成の家庭の概念や価値観がまったくの転換を迫られてきます。
そこに新しい家庭の概念が生まれ、新しい価値の創出となります。
人間の存在と生命の尊さの認識に立ったとき、その人間の発生の場である家庭の既成の概念や価値は、大きく変わらざるを得ません。
今や過去の家庭とはまったく違った開かれた場であるということにおいて、近代を超える概念において家庭・家族は捉えられます。
地球が宇宙に開かれた時代、家庭もまた地球に開かれた場であると言えましょう。過去の厚い壁で守られていた家庭とは違ってきています。テレビやインターネットやIT産業の普及により、世界が即刻茶の間に入ってきますし、衣食住に関しても世界の壁がなくなった思いがいたします。こうした中で家庭もまたグローバル社会の家庭として、概念の切り換えが必要であろうし、したがって家族もまた、運命共同体としての地球家族ということになりましょう。
無限大の宇宙においては、人間一人ひとりが核であり、中心を成す存在であります。まして地球や人類の運命の鍵を握っているその一人ひとりであってみれば、その人間形成に最も深い関わりを持つがゆえに、基礎教育の場となる家庭・家族がいかに重要な役割を持つかを認識したとき、改めて次元を変えた新しい価値として家庭が蘇ります。
私は長年、国内でも国外でも、近代を超える価値の概念として「家庭の価値と役割」を強調してまいりました。
七〇年代は生産第一主義、経済第一主義の時代、ウーマンリブ華やかなりし時代で、アメリカのベティ・フリーダンなどが「女性よ、家を出よ。子どもや夫の奴隷となるな」と気炎を吐いた時代でした。
ですから、家庭、家族とか、主婦の役割などと言いますと、摯璧を買うくらい時代おくれの言動として反発されました。
しかし、そのベティ・フリーダンも十年後、「家庭こそ大切な憩いの場」「家族こそ大切なもの」と自説を曲げた反省をされていました。
同じようなことを私も経験しました。
一九七七年、ドイツにまいりました折、ボンの教育大学のアネッタークーン女史と論争し、私が家庭の価値、主婦の役割の重要性を説いたとき、女史は「日本がまだ後進性の強い国だから、そうした前近代的な考え方をするのであろう」とおっしゃられたわけです。
私は「これは近代を超える概念で、超近代的価値となる」と反論し、「もし価値の基準を物・金に置いたとき、一円の収入にもならない家事は無価値になるが、人間の尊厳、生命の尊厳を価値基準にしたときには、家庭・家族の価値はまったく逆転するはずである。したがって近代を超えた概念となり、価値となるはずである」と反論しました。
ターン女史が十年後「あのとき私はなぜあんな馬鹿なことを言ったのだろう。恥ずかしい」とおっしゃられ、前回の言葉を撤回されました。十年の月日の間には、急激に世界的家庭崩壊が加速していましたから。
地球が宇宙に開かれたこの世紀は、家庭もまたグローバル社会に開かれた家庭であり、その家族の概念はまったく違った発想の下に、近代を超えた概念として捉え直す必要があります。家庭・家族は、すでに小さな惑星地球の閉じた系の中に運命を共有する大家族に他なりません。
過去の閉じた家庭像とはまったく違った観念において捉え直さなければならないでしょう。
価値の基準が、物質的価値や一義的価値から、人間の生命に転換したとき、すべてにわたって価値観は大きく転換せざるを得なくなりましょう。
現代の物金の価値観の優先する中で、古くさい過去の遺物として無価値視されてきたものに対し、逆に光を当てざるを得なくなった、というより、まったく新しい観点から創造的価値として新しく打ち立てなければならないと言えます。
生命の尊厳を基礎に置き、人間を最高の価値としたとき、そこに既成の家庭の概念や価値観がまったくの転換を迫られてきます。
そこに新しい家庭の概念が生まれ、新しい価値の創出となります。
人間の存在と生命の尊さの認識に立ったとき、その人間の発生の場である家庭の既成の概念や価値は、大きく変わらざるを得ません。
今や過去の家庭とはまったく違った開かれた場であるということにおいて、近代を超える概念において家庭・家族は捉えられます。
地球が宇宙に開かれた時代、家庭もまた地球に開かれた場であると言えましょう。過去の厚い壁で守られていた家庭とは違ってきています。テレビやインターネットやIT産業の普及により、世界が即刻茶の間に入ってきますし、衣食住に関しても世界の壁がなくなった思いがいたします。こうした中で家庭もまたグローバル社会の家庭として、概念の切り換えが必要であろうし、したがって家族もまた、運命共同体としての地球家族ということになりましょう。
無限大の宇宙においては、人間一人ひとりが核であり、中心を成す存在であります。まして地球や人類の運命の鍵を握っているその一人ひとりであってみれば、その人間形成に最も深い関わりを持つがゆえに、基礎教育の場となる家庭・家族がいかに重要な役割を持つかを認識したとき、改めて次元を変えた新しい価値として家庭が蘇ります。
私は長年、国内でも国外でも、近代を超える価値の概念として「家庭の価値と役割」を強調してまいりました。
七〇年代は生産第一主義、経済第一主義の時代、ウーマンリブ華やかなりし時代で、アメリカのベティ・フリーダンなどが「女性よ、家を出よ。子どもや夫の奴隷となるな」と気炎を吐いた時代でした。
ですから、家庭、家族とか、主婦の役割などと言いますと、摯璧を買うくらい時代おくれの言動として反発されました。
しかし、そのベティ・フリーダンも十年後、「家庭こそ大切な憩いの場」「家族こそ大切なもの」と自説を曲げた反省をされていました。
同じようなことを私も経験しました。
一九七七年、ドイツにまいりました折、ボンの教育大学のアネッタークーン女史と論争し、私が家庭の価値、主婦の役割の重要性を説いたとき、女史は「日本がまだ後進性の強い国だから、そうした前近代的な考え方をするのであろう」とおっしゃられたわけです。
私は「これは近代を超える概念で、超近代的価値となる」と反論し、「もし価値の基準を物・金に置いたとき、一円の収入にもならない家事は無価値になるが、人間の尊厳、生命の尊厳を価値基準にしたときには、家庭・家族の価値はまったく逆転するはずである。したがって近代を超えた概念となり、価値となるはずである」と反論しました。
ターン女史が十年後「あのとき私はなぜあんな馬鹿なことを言ったのだろう。恥ずかしい」とおっしゃられ、前回の言葉を撤回されました。十年の月日の間には、急激に世界的家庭崩壊が加速していましたから。
地球が宇宙に開かれたこの世紀は、家庭もまたグローバル社会に開かれた家庭であり、その家族の概念はまったく違った発想の下に、近代を超えた概念として捉え直す必要があります。家庭・家族は、すでに小さな惑星地球の閉じた系の中に運命を共有する大家族に他なりません。
過去の閉じた家庭像とはまったく違った観念において捉え直さなければならないでしょう。
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FDR ヤルタ会談 裏の合意(秘密協定)、極東合意
『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』より
FDRはソビエトを対日戦に参戦させたがっていた。ヤルタ会談の四ヵ月前(一九四四年十月十日)には、ハリマン駐ソ大使がFDRに、スターリンの同意を報告していた。FDRはヤルタで、その同意を確実なものにしておきたかった。二月八日に詳細が詰められた。その結果は次のようなものだった。
〈米英ソ三国首脳は、ドイツ降伏のニカ月ないしは三ヵ月後にソビエトが対日戦争に連合国の側に立って参戦することで合意した。ソビエト参戦の条件は以下である。
一、外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持
二、一九〇四年の日本の攻撃によって失われたロシアの利権の回復
A、南サ(リンおよびその周辺の諸島のソビエトヘの返還
B、大連港の国際港化、同港におけるソビエトの利権の恒久的保護、ソビエトの軍港として利用することを前提にした旅順口の再租借
C、東清鉄道および南満州鉄道から大連への路線は、ソビエト・中国共同の会社によって運営される。これに伴うソビエトの利権は保障される一方、満州の主権は中国に属するものとする。
三、千島列島はソビエトに割譲されるものとする。
右記の、外モンゴル、港湾と鉄道に関わる合意については、蒋介石総統の同意を条件とする。大統領は、スターリンの助言を受けながら、蒋介石の同意を取りつける努力をする。
ソビエトの要求事項は、日本の敗戦後には確実に履行されることで合意した。一方ソビエトは、中国政府と友好条約および軍事同盟を結び、中国の日本からの解放の戦いに軍事力を提供する準備ができていることをここに表明する。
一九四五年二月十一日
(署名) J・スターリン
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィンストン・S・チャーチル〉
ここに書かれた内容はすべて秘密協定であった。秘密にした理由は二つある。一つは日ソ中立条約の存在である。同条約は一九四一年四月に調印され、五年間の中立が定められていた。したがって、法律上はソビエトが日本との戦いに参戦することはできなかった。もう一点は、中国の主権に関わる問題だった。大連、旅順両港の扱い、モンゴル周辺のソビエトの影響力、東清鉄道・南満州鉄道の経営など、すべてが中国の主権と関わっていた。それを蒋介石の了解なく三国が取り決めたのである。中国に知らせると日本に情報が洩れるという懸念も理由にされた。
チャーチルは、大連と旅順両港が租借されることに反対しなかった。日露戦争時代の英国は、口シアが極東に不凍港を持つことを嫌った。チャーチルには反対しない理由があった。それは香港の将来である。アメリカはイギリスの植民地は解放されるべきだと考えていることをチャーチルは知っていた。しかしFDRがスターリンに両港の租借を認めたことで、英国に対して租借地香港からの撤退を強要するロジックがなくなるのである。
FDRは、スターリンが日露戦争敗北の恨みを強く持っていることを感じていた。南満州鉄道利権、旅順港の租借、南サハリン(南樺太)領土の回復が容認されたのは、その恨みを解消させるためであった。FDRには、ソビエト参戦の条件としてこれを承諾することに何の躊躇もなかった。
しかし問題は「その周辺の諸島」であった。それは当然に千島列島を意味したが、FDRも交渉に参加していたハリマン駐ソ大使も、ソビエトの要求に根拠がないことを問題にしなかった。国務省専門家の意見を聞かないFDRの悪癖の結果だった。日本とロシアの間には千島こ悍太交換条約二八七五年)が締結されており、千島列島はソビエト領土ではなかったのである。おそらくハリマンもFDRもそのことを知らなかったと思われる。
軍関係者の意見に耳を傾けなかったことも明らかになっている。ヤルタ会談のメンバーの一人アーネスト・キング(海軍最高司令官、作戦本部長)は、「統合参謀本部は、対日戦争に参加させるためにスターリンに甘い譲歩を提示することに反対であった。(キングを含む)軍関係者は、スターリンの要求する条件はあまりに高いとの意見で一致していた。ロシアは満州の鉄道利権と不凍港、日本の支配する南サハリン、そして千島列島全島を要求していた。統合参謀本部は、スターリンには南サハリンをやれば十分だと考えていた。しかし参謀本部に政治的判断はできない。参謀本部の考え方は採用されなかった」と自著の中で告白している。
日本固有の領土である千島列島をスターリンに「差し上げた」ことの愚かさは、秘密合意の存在が明らかになるにしたがってアメリカのメディアも指摘した。合意内容が国民の前に明らかにされたのは、一九四六年二月十一日のことだった。翌日の『ニューヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように書いた(第3部第2編「序」)。
〈合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんな意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか。ようやくルーズベルト、チャーチル、スターリンの合意が公になったが、恐れていた以上にひどいものであった。これまで大統領も国務省も秘密協定は一切結んでいないし、これからも結ばないと言っていたのではなかったか。
千島列島とサハリンを差し上げることは、大西洋憲章第二項の領土的変更不可の精神に違背し、国際連合の宣言にも反する。カイロ宣言にも反する。日本には、暴力と欲望を以て獲得した領土は認められないが、千島列島はそのような領土ではない。〉
ヤルタ会談ではこのほかにも秘密合意があったことをフーバーは明かしている。
現在も日本を苦しめる北方領土問題は、ヤルタ会談におけるルーズペルトの判断の愚かさに起因している。筆者はこの問題の解決は、アメリカがヤルタ会談の秘密合意の失敗を認めることがその第一歩だと考えている。しかしそれをすることは、FDR・チャーチルの戦争指導を是とする釈明史観の変更を意味する01二人の進めた外交を懐疑的に見る歴史修正主義が歴史解釈の主流にならないかぎり、変更は難しいであろう。二人の戦争指導者が見せた対スターリン交渉の愚かさは、二十一世紀に入っても日本を苦しめている。日本とロシアの関係を進展させない阻害要因になっている。両国にとっても不幸な状態が続いているのである。
FDRはソビエトを対日戦に参戦させたがっていた。ヤルタ会談の四ヵ月前(一九四四年十月十日)には、ハリマン駐ソ大使がFDRに、スターリンの同意を報告していた。FDRはヤルタで、その同意を確実なものにしておきたかった。二月八日に詳細が詰められた。その結果は次のようなものだった。
〈米英ソ三国首脳は、ドイツ降伏のニカ月ないしは三ヵ月後にソビエトが対日戦争に連合国の側に立って参戦することで合意した。ソビエト参戦の条件は以下である。
一、外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持
二、一九〇四年の日本の攻撃によって失われたロシアの利権の回復
A、南サ(リンおよびその周辺の諸島のソビエトヘの返還
B、大連港の国際港化、同港におけるソビエトの利権の恒久的保護、ソビエトの軍港として利用することを前提にした旅順口の再租借
C、東清鉄道および南満州鉄道から大連への路線は、ソビエト・中国共同の会社によって運営される。これに伴うソビエトの利権は保障される一方、満州の主権は中国に属するものとする。
三、千島列島はソビエトに割譲されるものとする。
右記の、外モンゴル、港湾と鉄道に関わる合意については、蒋介石総統の同意を条件とする。大統領は、スターリンの助言を受けながら、蒋介石の同意を取りつける努力をする。
ソビエトの要求事項は、日本の敗戦後には確実に履行されることで合意した。一方ソビエトは、中国政府と友好条約および軍事同盟を結び、中国の日本からの解放の戦いに軍事力を提供する準備ができていることをここに表明する。
一九四五年二月十一日
(署名) J・スターリン
フランクリン・D・ルーズベルト
ウィンストン・S・チャーチル〉
ここに書かれた内容はすべて秘密協定であった。秘密にした理由は二つある。一つは日ソ中立条約の存在である。同条約は一九四一年四月に調印され、五年間の中立が定められていた。したがって、法律上はソビエトが日本との戦いに参戦することはできなかった。もう一点は、中国の主権に関わる問題だった。大連、旅順両港の扱い、モンゴル周辺のソビエトの影響力、東清鉄道・南満州鉄道の経営など、すべてが中国の主権と関わっていた。それを蒋介石の了解なく三国が取り決めたのである。中国に知らせると日本に情報が洩れるという懸念も理由にされた。
チャーチルは、大連と旅順両港が租借されることに反対しなかった。日露戦争時代の英国は、口シアが極東に不凍港を持つことを嫌った。チャーチルには反対しない理由があった。それは香港の将来である。アメリカはイギリスの植民地は解放されるべきだと考えていることをチャーチルは知っていた。しかしFDRがスターリンに両港の租借を認めたことで、英国に対して租借地香港からの撤退を強要するロジックがなくなるのである。
FDRは、スターリンが日露戦争敗北の恨みを強く持っていることを感じていた。南満州鉄道利権、旅順港の租借、南サハリン(南樺太)領土の回復が容認されたのは、その恨みを解消させるためであった。FDRには、ソビエト参戦の条件としてこれを承諾することに何の躊躇もなかった。
しかし問題は「その周辺の諸島」であった。それは当然に千島列島を意味したが、FDRも交渉に参加していたハリマン駐ソ大使も、ソビエトの要求に根拠がないことを問題にしなかった。国務省専門家の意見を聞かないFDRの悪癖の結果だった。日本とロシアの間には千島こ悍太交換条約二八七五年)が締結されており、千島列島はソビエト領土ではなかったのである。おそらくハリマンもFDRもそのことを知らなかったと思われる。
軍関係者の意見に耳を傾けなかったことも明らかになっている。ヤルタ会談のメンバーの一人アーネスト・キング(海軍最高司令官、作戦本部長)は、「統合参謀本部は、対日戦争に参加させるためにスターリンに甘い譲歩を提示することに反対であった。(キングを含む)軍関係者は、スターリンの要求する条件はあまりに高いとの意見で一致していた。ロシアは満州の鉄道利権と不凍港、日本の支配する南サハリン、そして千島列島全島を要求していた。統合参謀本部は、スターリンには南サハリンをやれば十分だと考えていた。しかし参謀本部に政治的判断はできない。参謀本部の考え方は採用されなかった」と自著の中で告白している。
日本固有の領土である千島列島をスターリンに「差し上げた」ことの愚かさは、秘密合意の存在が明らかになるにしたがってアメリカのメディアも指摘した。合意内容が国民の前に明らかにされたのは、一九四六年二月十一日のことだった。翌日の『ニューヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように書いた(第3部第2編「序」)。
〈合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんな意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか。ようやくルーズベルト、チャーチル、スターリンの合意が公になったが、恐れていた以上にひどいものであった。これまで大統領も国務省も秘密協定は一切結んでいないし、これからも結ばないと言っていたのではなかったか。
千島列島とサハリンを差し上げることは、大西洋憲章第二項の領土的変更不可の精神に違背し、国際連合の宣言にも反する。カイロ宣言にも反する。日本には、暴力と欲望を以て獲得した領土は認められないが、千島列島はそのような領土ではない。〉
ヤルタ会談ではこのほかにも秘密合意があったことをフーバーは明かしている。
現在も日本を苦しめる北方領土問題は、ヤルタ会談におけるルーズペルトの判断の愚かさに起因している。筆者はこの問題の解決は、アメリカがヤルタ会談の秘密合意の失敗を認めることがその第一歩だと考えている。しかしそれをすることは、FDR・チャーチルの戦争指導を是とする釈明史観の変更を意味する01二人の進めた外交を懐疑的に見る歴史修正主義が歴史解釈の主流にならないかぎり、変更は難しいであろう。二人の戦争指導者が見せた対スターリン交渉の愚かさは、二十一世紀に入っても日本を苦しめている。日本とロシアの関係を進展させない阻害要因になっている。両国にとっても不幸な状態が続いているのである。
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FDR 戦争への道:ドイツと日本を刺激する 日本を追い込む
『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』より
日本国内では近衛文麿を肯定的に語らない本が多い。保守論客も近衛を評価しない。その理由はいくつかある。第一次近衛内閣(一九三七年六月四日から三九年一月五日)はあまりに期待外れだった。後にロシアのスパイだったことが明らかになった尾崎秀実をブレーンに登用し、日華事変にけりがつけられる可能性のあった、ドイツ駐中国大使オスカー・トラウトマンの調停工作(トラウトマン工作)を蹴った。一九三八年一月には「爾後、国民政府は対手にせず」という声明を出し、日中の戦いの出口を見えなくした。近衛が学生時代に共産主義思想に染まっていたことも彼の評価を落とす一因となっている。
しかし、世界史的視点からの評価は若干異なっている。第三次近衛内閣(一九四一年七月十八日から十月十八日)時代の彼の戦争回避努力は、修正主義史観に立つ歴史家に評価されている。フーバーも近衛を評価する一人である。
FDR政権は日本を徹底的に敵視する外交を進めていた。ルーズベルトは「隔離演説」以来、日本をアメリカの敵国と見倣した。一九三九年七月には日米通商航海条約の破棄を通告し、条約は翌四〇年一月に失効した。同年八月にはオクタン価の高い航空機燃料を、九月には屑鉄を禁輸した。一九四一年六月には石油製品そのものが許可制となり、七月には日本の在米資産を凍結した。八月には石油製品が全面禁輸となった。
このようにとどまるところを知らない経済制裁は、FDR政権が仕掛けた戦争行為そのものであったことは、現代の歴史家、特に軍関係者の間では常識になっている「これについては筆者が解説を試みた米国空軍大学のジェフリー」レコード氏の論文に詳しい〔『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』草思社〕)。
レコード氏は、「我が国の対日経済戦争は一九四一年の夏の終わり頃には、最高潮に達してしまっている」と分析している。そんな中にあって、日本は米国への歩み寄りの姿勢を見せた。
〈一九四〇年九月、グルー駐日大使は対日禁輸政策を実行すべき時期に至ったと伝えていたが、一九四一年に入ってからは日本との関係改善は可能であり、経済制裁はむしろ危険であると訴えていた。〉(第38章)
しかしFDR政権は東京からの報告を一顧だにせず、英国とオランダをも巻き込んで対日強硬外交をエスカレートさせた。フーバーは、こうした環境の中でも、近衛政権が対米戦争回避に積極的に動いたことを評価する。
〈八月四日、近衛首相は陸海軍両大臣と協議し、ルーズベルト大統領との直接会談の道を探ると発表した。引き続き和平の条件を探るという決定は、海軍の支持を得、陸軍も同意していた。天皇は、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示した。八月八日、東京からの指示に基づいて、野村〔吉三郎〕大使はハル国務長官に対して、ルーズベルト大統領との首脳会談を正式に申し入れた。〉(第38章)
しかしFDR政権は聞く耳をもたなかった。日本を極端に嫌うスチムソン陸軍長官は、「この会談の申し込みは、我々に断固とした行動を起こさせないための目くらましである」(同前)とまで日記に書いた。これでは何のための経済制裁かわからない。日本の対中国政策を変えさせたいというFDR政権の主張が真摯なものであれば、頂上会談がその出発点になるはずであった。
野村駐米大使は近衛の指示を受けて、チャーチルとの会談(大西洋憲章構想会談)を終えて帰国したFDRと会談した(八月十七日)。八月二十八日には近衛の親書(前日付)をFDRに手交した。グルー駐日大使も首脳会談に応じるべきだと本省に建言していた(同前)。
〈私は、現在の日米関係の悪化の理由は、相互理解の欠如に起因する思い違いと相互不信にあると考えます。両国関係の悪化が、第三国〔訳注:英国、中国あるいはソビエトの外交を指しているのだろう〕の策謀に拍車をかけています。
私自身、大統領にお会いして忌憚なく意見を交換したいと考えるのはそのためです。
私は、両首脳はすぐにでも会談すべきだと考えます。そして広い見地から太平洋地域全般にかかわる懸案について協議し、解決策を探るべきなのです。その他の細かな案件は首脳会談後に両国の有能な官吏に対処させればよいのです。〉
しかし首脳会談はついに実現しなかった。近衛は日本国内の政情に鑑み(対米強硬派を刺激することを恐れ)、首脳会談の要請を極秘にしたいとしていた。しかしFDR政権内部から情報が漏洩し、九月三日付の『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙がこれを報じた(同前)。日米和解を嫌う政府高官の誰かが漏らしたのであろう。
近衛の首脳会談を願う気持ちは強かった。九月六日にグルー大使と会談し、あらためて親書を届けるよう依頼している。それを受けてグルー大使は会談の実現に向けて再び動いた。以下がグルーの本省宛ての報告書である(同前)。
〈米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相にそれができる可能性はありません。少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。そのため、近衛公は、彼に反対する勢力があっても、いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。
(首相は)現今の日本の国内情勢を鑑みれば、大統領との会談を一刻の遅滞もなく、できるだけ早い時期に実現したいと考えています。近衛首相は、両国間のすべての懸案は、その会談で両者が満足できる処理が可能になるとの強い信念を持っています。彼は私との会談の最後に、自らの政治生命を犠牲にし、あるいは身の危険を冒してでも日米関係の再構築をやり遂げると言明しています。〉
首脳会談を勧めたのはグルー大使だけではなかった。ロバートークレイギー英駐日大使も本国に対して次のような公電を発していた(九月二十九、二十日。第38章)
〈アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌していないこと、そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。アメリカがいまのような要求を続ければ、極東問題をうまく解決できる絶好の機会をみすみす逃すことになるでしょう。私が日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。
アメリカ大使館の同僚も、そして私も、近衛公は、三国同盟および枢軸国との提携がもたらす危険を心から回避しようとしている、と判断しています。もちろん彼は、日本をそのような危機に導いた彼自身の責任もわかっています。日本政府の大きな方針転換を支える勢力は、米日関係を改善する明確な動き(首脳会談)が早期に起きなければ、枢軸国側の激しい怒りに直面することを理解し恐れています。(近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。そのことは天皇の支持を得ています。もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くようなことがあれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。
アメリカ大使館の同僚も本官も、この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。〉
日本政府(近衛首相)も米英両駐日大使も、首脳会談の実現を願った。しかし首脳会談は叶わなかった。明らかに、会談による解決、つまり外交交渉による解決を望まず、武力衝突を望んだ勢力がFDR政権内にあった。釈明史観に立つ日本の歴史家は、こういった事実を書かない。あくまで日本が「それでも戦争を選んだ」と主張するのである。
日本国内では近衛文麿を肯定的に語らない本が多い。保守論客も近衛を評価しない。その理由はいくつかある。第一次近衛内閣(一九三七年六月四日から三九年一月五日)はあまりに期待外れだった。後にロシアのスパイだったことが明らかになった尾崎秀実をブレーンに登用し、日華事変にけりがつけられる可能性のあった、ドイツ駐中国大使オスカー・トラウトマンの調停工作(トラウトマン工作)を蹴った。一九三八年一月には「爾後、国民政府は対手にせず」という声明を出し、日中の戦いの出口を見えなくした。近衛が学生時代に共産主義思想に染まっていたことも彼の評価を落とす一因となっている。
しかし、世界史的視点からの評価は若干異なっている。第三次近衛内閣(一九四一年七月十八日から十月十八日)時代の彼の戦争回避努力は、修正主義史観に立つ歴史家に評価されている。フーバーも近衛を評価する一人である。
FDR政権は日本を徹底的に敵視する外交を進めていた。ルーズベルトは「隔離演説」以来、日本をアメリカの敵国と見倣した。一九三九年七月には日米通商航海条約の破棄を通告し、条約は翌四〇年一月に失効した。同年八月にはオクタン価の高い航空機燃料を、九月には屑鉄を禁輸した。一九四一年六月には石油製品そのものが許可制となり、七月には日本の在米資産を凍結した。八月には石油製品が全面禁輸となった。
このようにとどまるところを知らない経済制裁は、FDR政権が仕掛けた戦争行為そのものであったことは、現代の歴史家、特に軍関係者の間では常識になっている「これについては筆者が解説を試みた米国空軍大学のジェフリー」レコード氏の論文に詳しい〔『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』草思社〕)。
レコード氏は、「我が国の対日経済戦争は一九四一年の夏の終わり頃には、最高潮に達してしまっている」と分析している。そんな中にあって、日本は米国への歩み寄りの姿勢を見せた。
〈一九四〇年九月、グルー駐日大使は対日禁輸政策を実行すべき時期に至ったと伝えていたが、一九四一年に入ってからは日本との関係改善は可能であり、経済制裁はむしろ危険であると訴えていた。〉(第38章)
しかしFDR政権は東京からの報告を一顧だにせず、英国とオランダをも巻き込んで対日強硬外交をエスカレートさせた。フーバーは、こうした環境の中でも、近衛政権が対米戦争回避に積極的に動いたことを評価する。
〈八月四日、近衛首相は陸海軍両大臣と協議し、ルーズベルト大統領との直接会談の道を探ると発表した。引き続き和平の条件を探るという決定は、海軍の支持を得、陸軍も同意していた。天皇は、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示した。八月八日、東京からの指示に基づいて、野村〔吉三郎〕大使はハル国務長官に対して、ルーズベルト大統領との首脳会談を正式に申し入れた。〉(第38章)
しかしFDR政権は聞く耳をもたなかった。日本を極端に嫌うスチムソン陸軍長官は、「この会談の申し込みは、我々に断固とした行動を起こさせないための目くらましである」(同前)とまで日記に書いた。これでは何のための経済制裁かわからない。日本の対中国政策を変えさせたいというFDR政権の主張が真摯なものであれば、頂上会談がその出発点になるはずであった。
野村駐米大使は近衛の指示を受けて、チャーチルとの会談(大西洋憲章構想会談)を終えて帰国したFDRと会談した(八月十七日)。八月二十八日には近衛の親書(前日付)をFDRに手交した。グルー駐日大使も首脳会談に応じるべきだと本省に建言していた(同前)。
〈私は、現在の日米関係の悪化の理由は、相互理解の欠如に起因する思い違いと相互不信にあると考えます。両国関係の悪化が、第三国〔訳注:英国、中国あるいはソビエトの外交を指しているのだろう〕の策謀に拍車をかけています。
私自身、大統領にお会いして忌憚なく意見を交換したいと考えるのはそのためです。
私は、両首脳はすぐにでも会談すべきだと考えます。そして広い見地から太平洋地域全般にかかわる懸案について協議し、解決策を探るべきなのです。その他の細かな案件は首脳会談後に両国の有能な官吏に対処させればよいのです。〉
しかし首脳会談はついに実現しなかった。近衛は日本国内の政情に鑑み(対米強硬派を刺激することを恐れ)、首脳会談の要請を極秘にしたいとしていた。しかしFDR政権内部から情報が漏洩し、九月三日付の『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙がこれを報じた(同前)。日米和解を嫌う政府高官の誰かが漏らしたのであろう。
近衛の首脳会談を願う気持ちは強かった。九月六日にグルー大使と会談し、あらためて親書を届けるよう依頼している。それを受けてグルー大使は会談の実現に向けて再び動いた。以下がグルーの本省宛ての報告書である(同前)。
〈米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相にそれができる可能性はありません。少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。そのため、近衛公は、彼に反対する勢力があっても、いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。
(首相は)現今の日本の国内情勢を鑑みれば、大統領との会談を一刻の遅滞もなく、できるだけ早い時期に実現したいと考えています。近衛首相は、両国間のすべての懸案は、その会談で両者が満足できる処理が可能になるとの強い信念を持っています。彼は私との会談の最後に、自らの政治生命を犠牲にし、あるいは身の危険を冒してでも日米関係の再構築をやり遂げると言明しています。〉
首脳会談を勧めたのはグルー大使だけではなかった。ロバートークレイギー英駐日大使も本国に対して次のような公電を発していた(九月二十九、二十日。第38章)
〈アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌していないこと、そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。アメリカがいまのような要求を続ければ、極東問題をうまく解決できる絶好の機会をみすみす逃すことになるでしょう。私が日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。
アメリカ大使館の同僚も、そして私も、近衛公は、三国同盟および枢軸国との提携がもたらす危険を心から回避しようとしている、と判断しています。もちろん彼は、日本をそのような危機に導いた彼自身の責任もわかっています。日本政府の大きな方針転換を支える勢力は、米日関係を改善する明確な動き(首脳会談)が早期に起きなければ、枢軸国側の激しい怒りに直面することを理解し恐れています。(近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。そのことは天皇の支持を得ています。もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くようなことがあれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。
アメリカ大使館の同僚も本官も、この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。〉
日本政府(近衛首相)も米英両駐日大使も、首脳会談の実現を願った。しかし首脳会談は叶わなかった。明らかに、会談による解決、つまり外交交渉による解決を望まず、武力衝突を望んだ勢力がFDR政権内にあった。釈明史観に立つ日本の歴史家は、こういった事実を書かない。あくまで日本が「それでも戦争を選んだ」と主張するのである。
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本格的にスケジュールを考えよう
夢見
覚醒してケアする世界。救われる今。どうなるかと思ったが、最後は存在の力で人類は目覚めた。そして、私の目も覚めた
本格的にスケジュールを考えよう
スケジュールの出発点を変えよう。日程を埋めるのではなく、動機から始めます。割り当てます。
覚醒してケアする世界。救われる今。どうなるかと思ったが、最後は存在の力で人類は目覚めた。そして、私の目も覚めた
本格的にスケジュールを考えよう
スケジュールの出発点を変えよう。日程を埋めるのではなく、動機から始めます。割り当てます。
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