『AIが神になる日』より
この本は、AIがシンギュラリティーに近づきつつある時代に、「人間はそれにどう向かい合うべきか」という問題を、皆さんと一緒に考えようと書き始めたものです。
しかし、ここで、いったん、AIのことは完全に忘れてみたいと思います。そして、「私」という一人の人間、「あなた」という一人の人間に立ち戻り、「自分が生きていることの意味」を、もう一度一から考えなおしてみたいと思います。
なぜなら、もし本当に「将来の望ましいAIのあり方」を考えたいなら、まずは「自分がもしAIだったら」と考えることから始めるべきであり、そのためには、「自分とは何か」を考えることから始めなければならないと思うからです。
つまり、この節では、私は、皆さんと一緒に、純粋に「哲学」にふけってみたいと思うのです。無駄なことだと思われるかもしれませんが、このことは、後の議論にもきっと役立つと思いますから、しばしお付き合いください。
●「哲学する」とはどういうことか?
「哲学する」ということは、やさしい言葉で言い直せば「考える」ことです。(英語では、哲学者とか思想家のことを、単純にthinkerと呼ぶこともあります。)ただし、その考える対象によって、「哲学している」と言える場合と、言えない場合があります。
端的に言えば、「空いているこの電車に乗るべきか、次の特急電車を待つべきか」とか「この新しいプリンターを買うべきか」とか「この従業員をクビにするべきか」とかを考えるときは、「哲学している」とは言えません。「日常生活をスムーズにするため」(この中には、「生活の糧を得るため」も含む)に、ほぼ反射的に頭脳が働いているだけなのですから。
しかし、ここから、考えが「本質的な疑問」へと発展した場合には、「哲学している」状態になります。たとえば、「次の特急電車に乗る」選択は「時間を節約するために、長い間立ちっぱなしで相当に疲労することを覚悟する」選択ですから、「そんなにまでして、あくせく暮らす意味があるのか」という「哲学的な疑問」につながるかもしれません。
「プリンターなんか買うよりは、お金を貯めてどこか遠くに旅行したい」と考えるのも、かなり哲学的な考えです。従業員のクビの問題は、「自分がこの従業員だったらどう思うだろうか? 仕方ないと思うだろうか? 不条理だと思うだろうか?・」という考えにつながるでしょうし、「自分がこの会社を経営しているのは、そもそも何のためだったのだろうか?」という「経営哲学」上の疑問につながるかもしれません。
一般論をいうなら、「哲学」の対象は、大略左記の四つに大別されます。
第一は、「この世界とは何なのか?」「自分はなぜここに存在しているのか?」という「根源的な疑問」に関するもの。
第二は、「人間とは何か?」「自分は他の人間(あるいは、それが構成する社会)とどのように関わっていくべきなのか?」という「人間」に関わるもの。
第三は、「自分はどう生きればよいのか?」「何が大切で、何が大切ではないのか?」という「自分の価値観」に関するもの。
そして、第四は、「この世界はどうあるべきか?」「そのために自分は何をするべきか?」という「自分の世界観」に関するものです。(「自分の世界観」は「自分の価値観」の発展系とも言えますし、一つの構成要素であるとも言えます。)
「倫理観」や「道徳観」、「社会思想」や「政治思想」は、すべてひっくるめて、この「第四のカテゴリー」の中に含まれます。
●根源的な疑問に対する答え
人間の脳は、寝ているときにはあまり活動しておらず、起きているときが活発に活動している状態です。活動しているときは、主として右脳だけが働いて「感じて」いるか、あるいは、左脳が働いて「考えて」いるのです。
考えている状態を、その内容から分類すると、「何かの結論を出すことが求められている」状況にあるときと「それ以外」のときに分かれるでしょう。また、「信じていること」や「明らかな事実」をペースとして考えるときと、「まったく白紙から考える」ときに分かれるでしょう。
前者については、どちらでも「哲学」の対象になりますが、後者については「白紙で考える」場合のみ、が「哲学」の対象です。「哲学」とは「疑問」に対応するものであり、何かを信じているのなら、「哲学」する必要などないからです。その意味で、「信仰」は「哲学」の対極にあります。「哲学」とは、「あなたが、今、何ものにもとらわれず、何も前提にせずに、考えること」です。
哲学科の学生が、試験に備えて、難解なカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』と格闘しているとき、彼(彼女)は哲学していると言えるでしょうか? いや、必ずしもそうとは言えないと思います。彼(彼女)がやっているのは、おそらくは、カントやハイデガーがその著書の中で書いたことがどういう意味であるかを理解することであり、自分が一緒になって同じレベルで考えているわけではないと思われるからです。
これに対し、女子高生が花火を見て、「わあ、きれい。いったい誰がこんなものを考えたのかしら?」と考えることは、十分「哲学」です。そこには純粋な疑問があり、それは、実はかなり根源的な疑問だからです。
火薬や、それを利用した花火は、ずっと以前のいつかに、どこかの誰かが発明しました。そして、「人寄せ」とか色々な目的で、今でもときどき誰かがそれを作り、打ち上げています。しかし、あなたの前でパツと弾け、パツと散る大輪の花火の謎は、それだけでは解けません。「この花火は、自分にとって何なのか?」という一瞬の思いは、「自分はなぜ今ここにいるのか?(実はいなくてもいいのではないか?)」という「哲学的な疑問」につながります。
意識を持っている限り、人間は「なぜ?」と時折自分に問いかけます。そして、誰かがその答えをくれると、だいたいは納得します。
昔は「神様がそうしているから」というのが答えのほとんどでしたが、そのうちに人間が「科学」し始めると、事情は少し変わりました。科学的な答えはよく理解できたし、「おそらく正しいのだろう」と確信できる度合いも高まりました。まだ説明ができていないことについても、「そのうちに分かるだろう」と思えるようにもなりました。
今自分が見ているすべては、もしかしたら夢かもしれないが、たとえ夢であっても、「それを見ている自分というものは存在し、楽しかったり苦しかったりしている」ということは、まず間違いないと確信できます。同時に、「自分がなぜ存在しているのかは永久に分かりそうにない」ということも、かなり確信できるのです。
そうなると、「これは別に思い悩むことではない。今生きているように生きていくしかない」という結論めいたものに、考えは収斂していくのが普通です。
神を信じる人と信じない人とでは、ここに大きな差があるように思えるかもしれませんが、実はそんなに差はないのです。「私には分からないが、誰にも分からないだろう」というのも、「神様は分かっているのだろうが、私には分からない(だから神様に委ねる)」というのも、大同小異だと私は思います。
●他者(他の人間)との関わり
しかし、「確信できるのは、今存在している自分だけ」という哲理が揺るぎないものであったとしても、人間の意識はそこに留まってはいません。たとえ不確かなものであっても、人間はさらに色々と考えます。
そこで真っ先に考えるのは、「他者(私以外の人間)」のことです。「私に極めて似た人間という存在が、私以外にも存在して、色々感じたり考えたりしているようだ」と人は考え、そのような「他の人間」と「考え」や「感情」を共有したいという思いが生まれます。
前の章では「愛」と「憎しみ」について語りました。「愛」と「憎しみ」は色々に変形し、その対象も色々に変わりますが、その思いは、どうやら人間が持つ色々な思いの中でも、最も強いものであるかのようです。
人間には生まれながらにして強い生存本能があるはずなのに、人間は、しばしば、「子供のためなら」「恋人のためなら」「仲間のためなら」「国のためなら」と、自分以外の人間のために「自分は死んでもよい」と思うことがあります。これはなぜなのでしょうか?
人は、明らかに、「自分は今ここに存在する」という確信とほとんど同じくらいに強く、「自分は、他の人間と同じように、今人間としてここに生きている」と確信しているかのようです。そして、それゆえに、「人間として、自分はどのように生きるべきか」と思い悩みます。
また、人間は、その思いの中で、「他の人間が自分に与えている喜びや苦しみ」を強く意識し、「自分が他の人間に与えられるかもしれない喜びや苦しみ」にも思いを馳せます。
こうして、人間の意識の大きな部分を占めている「人間としての思い」「他の人間への思い」は、当然のことながら、個々の人間の「価値観」にも大きな影響を与えます。
人間の行動の多くは、大脳には関係なく小脳だけで処理される「反射的な運動」を別にすれば、右脳や左脳の中で、あるいはその両者の連携の結果として生まれる「意志」によって決められます。そして、その「意志」は、その人間の「価値観」の反映として形成されることが多いのです。
個々の人間の「価値観」を決める要素としては、「遺伝」や「環境言が大きい部分を占めるのは事実でしょうが、それでも、その人間が幼い頃から続けてきた「哲学的な思考」も無視できない要素を占めるでしょう。言い換えれば、「人間は哲学によって自らの価値観を形成し、その価値観によって思い悩み、あるいは行動している」とも言えると思います。
この本は、AIがシンギュラリティーに近づきつつある時代に、「人間はそれにどう向かい合うべきか」という問題を、皆さんと一緒に考えようと書き始めたものです。
しかし、ここで、いったん、AIのことは完全に忘れてみたいと思います。そして、「私」という一人の人間、「あなた」という一人の人間に立ち戻り、「自分が生きていることの意味」を、もう一度一から考えなおしてみたいと思います。
なぜなら、もし本当に「将来の望ましいAIのあり方」を考えたいなら、まずは「自分がもしAIだったら」と考えることから始めるべきであり、そのためには、「自分とは何か」を考えることから始めなければならないと思うからです。
つまり、この節では、私は、皆さんと一緒に、純粋に「哲学」にふけってみたいと思うのです。無駄なことだと思われるかもしれませんが、このことは、後の議論にもきっと役立つと思いますから、しばしお付き合いください。
●「哲学する」とはどういうことか?
「哲学する」ということは、やさしい言葉で言い直せば「考える」ことです。(英語では、哲学者とか思想家のことを、単純にthinkerと呼ぶこともあります。)ただし、その考える対象によって、「哲学している」と言える場合と、言えない場合があります。
端的に言えば、「空いているこの電車に乗るべきか、次の特急電車を待つべきか」とか「この新しいプリンターを買うべきか」とか「この従業員をクビにするべきか」とかを考えるときは、「哲学している」とは言えません。「日常生活をスムーズにするため」(この中には、「生活の糧を得るため」も含む)に、ほぼ反射的に頭脳が働いているだけなのですから。
しかし、ここから、考えが「本質的な疑問」へと発展した場合には、「哲学している」状態になります。たとえば、「次の特急電車に乗る」選択は「時間を節約するために、長い間立ちっぱなしで相当に疲労することを覚悟する」選択ですから、「そんなにまでして、あくせく暮らす意味があるのか」という「哲学的な疑問」につながるかもしれません。
「プリンターなんか買うよりは、お金を貯めてどこか遠くに旅行したい」と考えるのも、かなり哲学的な考えです。従業員のクビの問題は、「自分がこの従業員だったらどう思うだろうか? 仕方ないと思うだろうか? 不条理だと思うだろうか?・」という考えにつながるでしょうし、「自分がこの会社を経営しているのは、そもそも何のためだったのだろうか?」という「経営哲学」上の疑問につながるかもしれません。
一般論をいうなら、「哲学」の対象は、大略左記の四つに大別されます。
第一は、「この世界とは何なのか?」「自分はなぜここに存在しているのか?」という「根源的な疑問」に関するもの。
第二は、「人間とは何か?」「自分は他の人間(あるいは、それが構成する社会)とどのように関わっていくべきなのか?」という「人間」に関わるもの。
第三は、「自分はどう生きればよいのか?」「何が大切で、何が大切ではないのか?」という「自分の価値観」に関するもの。
そして、第四は、「この世界はどうあるべきか?」「そのために自分は何をするべきか?」という「自分の世界観」に関するものです。(「自分の世界観」は「自分の価値観」の発展系とも言えますし、一つの構成要素であるとも言えます。)
「倫理観」や「道徳観」、「社会思想」や「政治思想」は、すべてひっくるめて、この「第四のカテゴリー」の中に含まれます。
●根源的な疑問に対する答え
人間の脳は、寝ているときにはあまり活動しておらず、起きているときが活発に活動している状態です。活動しているときは、主として右脳だけが働いて「感じて」いるか、あるいは、左脳が働いて「考えて」いるのです。
考えている状態を、その内容から分類すると、「何かの結論を出すことが求められている」状況にあるときと「それ以外」のときに分かれるでしょう。また、「信じていること」や「明らかな事実」をペースとして考えるときと、「まったく白紙から考える」ときに分かれるでしょう。
前者については、どちらでも「哲学」の対象になりますが、後者については「白紙で考える」場合のみ、が「哲学」の対象です。「哲学」とは「疑問」に対応するものであり、何かを信じているのなら、「哲学」する必要などないからです。その意味で、「信仰」は「哲学」の対極にあります。「哲学」とは、「あなたが、今、何ものにもとらわれず、何も前提にせずに、考えること」です。
哲学科の学生が、試験に備えて、難解なカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』と格闘しているとき、彼(彼女)は哲学していると言えるでしょうか? いや、必ずしもそうとは言えないと思います。彼(彼女)がやっているのは、おそらくは、カントやハイデガーがその著書の中で書いたことがどういう意味であるかを理解することであり、自分が一緒になって同じレベルで考えているわけではないと思われるからです。
これに対し、女子高生が花火を見て、「わあ、きれい。いったい誰がこんなものを考えたのかしら?」と考えることは、十分「哲学」です。そこには純粋な疑問があり、それは、実はかなり根源的な疑問だからです。
火薬や、それを利用した花火は、ずっと以前のいつかに、どこかの誰かが発明しました。そして、「人寄せ」とか色々な目的で、今でもときどき誰かがそれを作り、打ち上げています。しかし、あなたの前でパツと弾け、パツと散る大輪の花火の謎は、それだけでは解けません。「この花火は、自分にとって何なのか?」という一瞬の思いは、「自分はなぜ今ここにいるのか?(実はいなくてもいいのではないか?)」という「哲学的な疑問」につながります。
意識を持っている限り、人間は「なぜ?」と時折自分に問いかけます。そして、誰かがその答えをくれると、だいたいは納得します。
昔は「神様がそうしているから」というのが答えのほとんどでしたが、そのうちに人間が「科学」し始めると、事情は少し変わりました。科学的な答えはよく理解できたし、「おそらく正しいのだろう」と確信できる度合いも高まりました。まだ説明ができていないことについても、「そのうちに分かるだろう」と思えるようにもなりました。
今自分が見ているすべては、もしかしたら夢かもしれないが、たとえ夢であっても、「それを見ている自分というものは存在し、楽しかったり苦しかったりしている」ということは、まず間違いないと確信できます。同時に、「自分がなぜ存在しているのかは永久に分かりそうにない」ということも、かなり確信できるのです。
そうなると、「これは別に思い悩むことではない。今生きているように生きていくしかない」という結論めいたものに、考えは収斂していくのが普通です。
神を信じる人と信じない人とでは、ここに大きな差があるように思えるかもしれませんが、実はそんなに差はないのです。「私には分からないが、誰にも分からないだろう」というのも、「神様は分かっているのだろうが、私には分からない(だから神様に委ねる)」というのも、大同小異だと私は思います。
●他者(他の人間)との関わり
しかし、「確信できるのは、今存在している自分だけ」という哲理が揺るぎないものであったとしても、人間の意識はそこに留まってはいません。たとえ不確かなものであっても、人間はさらに色々と考えます。
そこで真っ先に考えるのは、「他者(私以外の人間)」のことです。「私に極めて似た人間という存在が、私以外にも存在して、色々感じたり考えたりしているようだ」と人は考え、そのような「他の人間」と「考え」や「感情」を共有したいという思いが生まれます。
前の章では「愛」と「憎しみ」について語りました。「愛」と「憎しみ」は色々に変形し、その対象も色々に変わりますが、その思いは、どうやら人間が持つ色々な思いの中でも、最も強いものであるかのようです。
人間には生まれながらにして強い生存本能があるはずなのに、人間は、しばしば、「子供のためなら」「恋人のためなら」「仲間のためなら」「国のためなら」と、自分以外の人間のために「自分は死んでもよい」と思うことがあります。これはなぜなのでしょうか?
人は、明らかに、「自分は今ここに存在する」という確信とほとんど同じくらいに強く、「自分は、他の人間と同じように、今人間としてここに生きている」と確信しているかのようです。そして、それゆえに、「人間として、自分はどのように生きるべきか」と思い悩みます。
また、人間は、その思いの中で、「他の人間が自分に与えている喜びや苦しみ」を強く意識し、「自分が他の人間に与えられるかもしれない喜びや苦しみ」にも思いを馳せます。
こうして、人間の意識の大きな部分を占めている「人間としての思い」「他の人間への思い」は、当然のことながら、個々の人間の「価値観」にも大きな影響を与えます。
人間の行動の多くは、大脳には関係なく小脳だけで処理される「反射的な運動」を別にすれば、右脳や左脳の中で、あるいはその両者の連携の結果として生まれる「意志」によって決められます。そして、その「意志」は、その人間の「価値観」の反映として形成されることが多いのです。
個々の人間の「価値観」を決める要素としては、「遺伝」や「環境言が大きい部分を占めるのは事実でしょうが、それでも、その人間が幼い頃から続けてきた「哲学的な思考」も無視できない要素を占めるでしょう。言い換えれば、「人間は哲学によって自らの価値観を形成し、その価値観によって思い悩み、あるいは行動している」とも言えると思います。