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まちゃりんのネット放送

まちゃりんのネット放送

 AKBのまちゃりんのネット放送。沖縄のホテルでばば抜きしながらの配信している。完全に個人の生活の中に入り込んでいる。欅よりも未来があります。

欅坂の緊急発信にはムカツク

 欅坂の緊急発信というのは、広告の世界では完全にサギです。ダメですね。

全ての問題は家族制度に帰する

 もしかすると全ての問題は家族制度に帰するかもしれない。それだけ、根本だということです。ソーシャルワーカーで細々しているものは家族制度変革で片付く。問題の本質が見えてくる。

 ソーシャルワーカーと社会変革のつながりが見えてくる。ソーシャルワーカーから見ていると其れは見えてこない。単なる愚痴になってしまう。

就職と教育に関するOECDの本

 テレビはプッシュですね。三つの変革と本は合っているけど、テレビは合っていない。本と言っても、皆の見ている本はそんなことは考えていない。なんで、こんなミスマッチが起こっているのか。

 考えないということは、誰かの意図なんでしょう。産まれてきた以上、それはないでしょう。
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包囲戦略 マイクロソフトの勝因と敗因

『プラットフォーラムの教科書』より

マイクロソフトの主力製品であるウィンドウズは、補完製品(アプリケーション)を必要とするプラットフォーム製品である。マイクロソフトは、このプラットフォーム製品のシェア占有によって、自社提供のアプリケーションソフト(ワード、エクセルなど)でも大きな成功を収めてきた。ここではブラウザ戦争の歴史を通じて、マイクロソフトの成功パターンのメカニズムと弱点について考えてみよう。

PCで逆転勝利したがスマホで地盤沈下

 1975年、ビル・ゲイツがハーバード大学を中退して、ポールーアレンとともに設立したマイクロソフトの成功は、1981年に発売されたIBMのPCにOS(基本ソフト)とDOSが採用されたことに遡る。今でもマイクロソフトの主力商品は、DOSを発展させてきたウィンドウズである。

 マイクロソフトは、何度も他の企業から挑戦を受けてきた。最初にマイクロソフトが大きな危機感を持ったのは、インターネットの誕生と成長であった。1990年代半ばに、ネット上のテキストや図表などのコンテンツを表示するソフトウェア(ブラウザ)として、ネットスケープ・ナビゲーター(以下NN)が急速に普及していく中で、最初のうちマイクロソフトは対抗商品を持っていなかった。

 ネットスケープがNNとウェブサーバー・ソフトウェア群をリリースしたのは、1994年12月であった。対するマイクロソフトがインターネットーエクスプローラー(以下IE」をリリースして市場に参入したのは1995年8月である。そしてマイクロソフトは、ネットスケープを逆転することに成功したのである。

 最近、マイクロソフトは、スマホなどのモバイル機器の発展によって、新たな挑戦を受けている。スマホやタブレットでは、マイクロソフト以外の会社が提供しているブラウザが使われていることが多く、PCの地盤沈下がマイクロソフトに不利に働いている。PDA用OSでは、マイクロソフトは先発企業の1つであったが、スマホではiOSとAndroidに大きく格差をつけられ、後発的立場となっている。また、グーグルの上からの包囲戦略を取るクロームにPC市場でも追い上げられてきている。

マイクロソフトの戦略が崩壊

 こうした新しいブラウザの攻勢によってIEのシェアは2010年以降、急速に低下している。

 IEとそれ以外のブラウザの競争は、見方を変えれば、OSにバンドルされているブラウザと、後からユーザー自身がインストールするブラウザとの競争ともいえる。これまでのところ、OSにバンドルされたブラウザ(IE)を使うユーザーが多かった。ここで活きるのが、ウィンドウズのシェアの高さであった。

 しかし、状況は変わった。大きな影響を与えたのは、デバイスの多様化とクラウドコンピューティングの進展である。

 デバイスの多様化は、PC以外のブラウザ使用場面を増やした。多くの人が、携帯電話や夕ブレットでインターネットにアクセスするようになっている。この結果、これらの機器でのブラウザのシェアが低いIEにとって、状況は不利になっていった。マイクロソフトは、携帯電話やタブレットでは、現時点ではOSにおいても大きなシェアを取れていない。このことは、PC以外の機器のブラウザ市場で、OSとのバンドル戦略(下からの包囲戦略)が機能しないことを意味する。

 この結果、PCのブラウザ市場でもマイクロソフトのシェアは低下し、現状では2位になったと言われる。1位になったのは、Gメールなど「上からの包囲」に成功したグーグルのクロームである。タブレットやスマホでIEを使っていないユーザーは、IEにこだわりを持たなくなったことも大きい。

 クラウドコンピューティングの進展に伴い、ブラウザ上で動作するアプリケーションが、企業でますます使われるようになってきている。そのような状況下では、OSの重要性が相対的に低下し、代わりにブラウザの操作性やウェブアプリケーションの動作速度といった点が、特に企業ユーザーや先進ユーザーにとって重要になる。この場合、これらのユーザーは機能の小さな違いにも敏感になる傾向がある。こうした状況変化によって、マイクロソフトが得意としてきたプラットフォーム包囲戦略(隣接上位階層の製品を売り込む戦略)のパワーは低下した。一人勝ちの大きな要因となってきたPCのOSでのシェアの高さが、必ずしもブラウザのシェア維持に十分貢献しなくなってきているのである。

包囲戦略が有効でなくなった要因

 OSという典型的なプラットフォーム製品で一人勝ちに成功したマイクロソフトは、その力を使ってブラウザという補完製品でもシェアの独占に成功した。

 しかし、マイクロソフトは、2005年頃から、ブラウザのシェアを下げ、グーグルに逆転を許した。その理由を再度まとめると、以下の2つである。この要因は、ブラウザ市場だけではなく他のプラットフォーム製品にも通じる。

デバイスの多様化と構成比率の変化

 プラットフォーム製品が、自製品を使用するためにさらに前提となる製品を想定している場合がある。ブラウザの場合はOSが、OSの場合はハードがそれに該当する。ウィンドウズはPC、より厳密にはインテル社のCPU(マイクロプロセッサ)とその互換品を前提にした製品である。

 このようなことは、音楽管理ソフト(例:ITunes)と携帯音楽プレイヤー(例:IPOd)、電子マネーと読取装置(リーダー)、電子書籍アプリと端末(ハード)などにも当てはまる。

 このような場合、デバイスの多様化によって、自分の前提製品のシェアが低下すると、自社の力が損なわれることがある。インターネット利用機器としてのPCの重要性が減り、携帯電話やタブレットがより重要になってきていることは、この「デバイスの多様化と構成比率の変化」の事例だと言える。

コンテンツのマルチプラットフォーム性

 プラットフォーム製品は、補完製品を持つ。この補完製品が他のプラットフォーム製品でも使える場合には、プラットフォーム製品のシェアの支配力が隣接階層で効かなくなる。他のプラットフォーム上でも使えることを、「マルチプラットフォーム性がある」と言う。

 ブラウザにおいては、ウェブコンテンツが、この補完製品に当たる。-Eでしか適正に閲覧できないコンテンツがあったことがIEの一人勝ちの進行を促した。しかし、コンテンツの標準化(どのブラウザでも読めること)が徹底すれば、マルチブラッドフォームとなり、このメカニズムは働かなくなる。

 同様に、音楽ファイルの形式が自社独自であること(例:IPodにおけるFairP-ayでのファイル保護)や、電子書籍ファイルが自社独自であること(例一キンドルにおけるAZWファイル形式)は、一度シェアをとった後は、一人勝ちを促す要因となる。

 後発であるがゆえに、オープンな規格を採用せざるをえない場合(例:電子書籍におけるEPUB方式の採用)や、技術的に自社規格の利用を独占できない場合(例:アクロバットのPDFファイル形式)は、コンテンツがマルチプラットフォーム性を持つことを意味し、一人勝ちを難しくする要刮となる。

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ネットワーク領域の核心的特性の戦略的意味合い

『中国の進化する軍事戦略』より 中国のネットワーク戦のための軍事戦略 ネットワーク領域の核心的特性の戦略的意味合い ⇒ 日本が戦う戦場は情報戦と宇宙戦 自衛隊とか総力戦ではない

『戦略学』およびネットワーク戦理論に関する他の基礎的なPLAの学術的著作は、通常、宇宙、および核領域とネットワーク領域を区別しているいくつかの独自的特性を持つものとしてネットワーク領域を記述している。これらの特性は多くの重要な戦略的意味合いを持っているので、この特性の権威ある記述は、中国の軍事戦略意思決定を直接に実施するPLA内において意見が一致していることを反映している。

浸透性および拡張性

 第一に、PLAはネットワーク領域が高度に浸透性および拡張性があると理解している。戦闘空間として、それは多くの方法で民間ネットワーク領域と相互接続され、ネットワーク戦により同時に軍事だけでなく、時々、すぐには観測できないかまたは明白でないかもしれない方法で政治、文化、科学、および経済面と関係を持たせている。さらに、コンピューターネットワークは抑止および攻撃の双方のための横断領域作戦にそれ自身を自然に適合させている。『戦略学2001』は、「電子的真珠湾奇襲攻撃」の可能性をあげて、ネットワークおよび電磁(波)攻撃が敵の通常戦における交戦能力を無力化するシナリオを描いている。ネットワーク戦は、できるだけ効果のあるようにソフトキルおよびハード破壊の両方で実効的に「抑止および強制の範囲を拡張している」。PLAの著者は、情報戦は、個人、企業、社会、および国家通信ネットワークが二体化された実体物を形成しているすべての人々を含む各種戦であると記述している。これらの横断空間および横断境界特性は、ネットワーク戦闘空間の「正面」と「後方」区域の間の明確な分水嶺がないことを意味している。。

 結果として、現代のネットワーク戦において交戦準備をする場合、軍および民間領域は区別できない。実際、それらは常に交差し合うものである。軍に属していない民間人およびその他の関係者は、多くの意味において紛争に参画でき、多くのケースにおいて民間人および軍関係者は、一般的な領域や他の各種戦と異なり一緒に働かなければならない。このような現実の対応において、多くのPLA分析官は、現在、軍事目標を攻撃するだけでなく計算された心理効果の引き起こしおよび敵国の国民世論に対する影響をねらいとしたネットワーク戦の実施を肯定的に支持している。そのような作戦は、より広範囲の情報領域の1つのサブ領域としてネットワークおよび心理領域を位置付ける中国の見方と調和するものである。

 ネットワーク領域は、物理的および無形様相の両方を持っている。すなわち情報環境のグローバル空間ならびに拡張性のある情報ネットワークにより有機的な統一体を形成している陸上、海上、航空、および宇宙にわたって分散された物理ノードの両方を含んでいる。どのようなセグメントも攻撃を受けるかまたは損害を受けた場合、その領域におけるその国家の全体的安全保障は、損害に関する情報が別ルー卜でも中継されないとしたら、多大な影響を受ける。結果として、「ネットワーク作戦」の実施から「横断作戦」の実施までの間隔は比較的小さい。『戦略学2013』によって、この二重性の認識は、ネットワーク戦および抑止の権威ある概念を浸透させた。そして、これは「純粋」なネットワーク攻撃と防御作戦および手法だけでなく横断作戦の一部としての伝統的軍事攻撃とも明白に調和した概念を伴っている。

 また、戦闘システムの増加するネットワーク化は、当該領域の軍事・アプリケーションを拡大させた。かつて、孤立化され独立していた電子情報システムは、通信ネットワーク、指揮統制ネットワーク、センサーネットワーク、および他のコンピューターネットワークを含む軍事および戦場ネットワークによって1つに結合されている。しかしながら、これらの軍事システムがますますネットワーク化されるにつれて、また、「連鎖反応、カスケード効果、および全体システムの脆弱性」の潜在性が増加する可能性がある。ネットワーク領域の拡張性および中心化に対するこのような理解は中国の高級軍民指導部による演説、すなわち習近平主席の「ネットワークなしでは、国家安全保障はない」という最近の演説に反映されている。同様に、『戦略学2013』の著者は、国力の投射、戦略的抑止の実施、および紛争における自衛のための中国の全体能力に対するネットワークカの中心化を具体的に明言するために情報戦の目標に関する前版の概要のしがらみを絶っている。 吐は『情報作戦学教程』においてこの考え方に同意し、中国の学者のネットワーク領域の概念が初期には狭すぎたということ(たとえば、最初にそれをもっと狭い「コンピューターネットワーク領域」として定義していたこと)、およびその定義はその領域がどのようにして最初に理論化されたかよりも現実に広くできたかを実際の観察に応じて拡大したことを歴史的小論として追加している。

意図と帰属識別の曖昧性

 第二に、権威筋の中国軍の著者は、ネットワーク領域における敵の意図および正体は全領域戦の開始に先立ってしばしば曖昧になる可能性があると主張している。コンピューターネットワーク攻撃、防御、および情報窃取活動は、それらの間で明確な区分線はなく、同時には実行「されないよりもより頻繁」に実行される。。平時のネットワーク偵察および侵入活動は、スパイ活動の通常の見返りを受けるだけでなく、また、戦闘空間準備として対応する。すなわち、それは目標ネットワークの構成および防御に関する情報を獲得し、それにより、後の紛争での敵のネットワークに損害を負わせる能力を向上させる。『戦略学2013』は、次のように述べている。

 技術的視点から、ネットワーク偵察および防御の作業原則は、基本的に同じであり、また、ネットワーク偵察の手段および手法は通常ネットワーク攻撃用にもなる。アクターの要求および意図に従って、ボタンを押すかまたはプログラム指示を発令し、その際にネットワーク偵察と攻撃との間を完全に切り替えてしまう。したがって、ネットワーク偵察と攻勢および防勢ネットワーク作戦との間には継続的関係がある。

 『情報作戦学教程』において、吐は、おそらく最も明確で可能な言葉でネットワーク戦における戦時と平時の間のこの曖昧性について記述し、「高度な戦争準備および防御状態を保持する」ためにその2つの間でなされるどのような区別も絶対的にあり得ないと主張している。この準備は軍の訓練および即応態勢だけでなく、さらなるアクセスや破壊を可能とする脆弱性を偵察および発見するために敵のネットワークにおいて一定のプレゼンスを維持することにも言及している。ネットワーク領域作戦は正当な情報、処理ノード、および伝送回線に依存している。通常戦と比較した場合、これらの作戦は、敵のアセットをターゲティングすることおよび損傷または破壊することはほとんどない。しかしながら、情報環境の支配によってそれらのアセットに影響を及ぼし、それをコントロールしてしまうことは頻繁に生起する。したがって、サイバー空間の統制は、戦略的および戦術的作戦全般にわたる成功のための必要条件であり、ネットワーク偵察はその統制獲得のためには必要不可欠である。

 意図の曖昧性にもかかわらず、ネットワーク偵察は非破壊(少なくとも初期には)でありスパイ活動目的のためにすべての国家によって広く使われているので、『戦略学2013』の著者は、ネットワーク偵察の行為だけでは、段階的拡大または戦争の勃発に結び付かないことを明確に示してきたと確信している。結果として、PLA戦略家は、ある意味において南シナ海で論争中の島嶼拡大支配に向けて中国の取っている方法と同様な平時ネットワーク作戦に対する戦略的理解に到達したようにみえる。すなわち、漸次優位な戦術的位置に中国を置く平時の行動を取りながら、紛争は生起するとしても、それが挑発的であり中国の隣国には歓迎されないにもかかわらず、その内外での直接紛争に結び付きそうにないという理解である。紛争が最終的に勃発した場合でも、中国は別な方法で紛争が勃発するよりも優位な初動位置を占める。すなわち、紛争が起こらない場合、中国は戦わずして、所望の成果を獲得している。

 また、ネットワーク戦は帰属識別に関して曖昧である。なぜならば、特に、政治的または軍事的危機における短い期間に帰属識別が確立されなければならない場合、ネットワーク攻撃源が何かを判定することが通常および核領域に比べて非常に困難であるからである。ネットワーク攻撃源の国家が決定的に確定される場合でさえ、その攻撃が政府承認で実行されたのかまたは感情的な市民国家主義者、ハクティビスト、あるいは他の非国家アクターよる自発的な行動の結果であるのかを決定することは困難である。
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「負け犬の社会主義者」が忘れていること

『隷属なき道』より 「負け犬の社会主義者」が忘れていること

進歩を語る言語を取り戻す

 悲しいことに、「負け犬の社会主義者」は、左派の物語は希望と進歩の物語であるべきだということを忘れている。誤解しないでほしいが、その物語とは、長々しい学術書を読んで「ポスト資本主義」や「インターセクショナリティ」について思索するのが好きな、少数のヒップスター[知的流行を追う似非インテリ]を悦ばせるためのものではない。学問の世界の左派が犯した最大の罪は、基本姿勢が貴族的になり、単純なことを奇怪な専門用語で書いてことさらわかりにくくしていることだ。もしあなたが自分の理想を、聡明なコー歳の子どもにうまく説明できないのであれば、おそらく原因はあなたの方にある。わたしたちに必要なのは、数百万人もの普通の人々に語り聞かせる物語なのだ。

 進歩を語る言語を取り戻すところから始めよう。

 改正? もちろん賛成だ。金融部門を徹底的に整備しよう。銀行にはより大きなバッファー(緩衝材)を築かせ、新たな危機が訪れても、すぐには倒れないようにする。だが、必要とあらば、銀行を解体し、「銀行は大きすぎて潰せない」という理由から納税者が再建費用をかぶらされたりしないようにしよう。タックスヘイブンはすべて洗い出して全滅させ、富裕層に税金を公平に負担させる。彼らが雇う会計士には、脱税の手伝いではなく、価値ある仕事をさせ

 能力主義? 望むところだ。真の貢献の度合いに応じて、賃金を支払うようにしよう。ゴミ収集作業員、看護師、教師の給料はかなり上がり、相当数のロビイスト、弁護士、銀行家の給料がかなり下がるはずだ。もしあなたが大衆を傷つける仕事がしたいのなら、好きにするといい。だが、その特権には重税が伴うだろう。

 革新? 当然だ。現在、膨大な数の才能が無駄になっている。かつてアイビー:リーグの卒業生は科学、公共サービス、教育分野の仕事に就いていたが、現在では、銀行員や弁護士、あるいはグーグルやフェイスブックなど広告料で成りたつ業界を選びがちだ。ここでしばし立ち止まって、よく考えてみよう。数十億ドルもの税金が、最高の頭脳を持つ若者たちの教育に使われている。だがそれによって、彼らが最終的に身につけるのは、他の人々を効率良く利用する方法なのだ。そう考えると、頭がクラクラしてくるはずだ。もしも、わたしたちの世代の最高の頭脳が、現在の最大の難問、例えば、気候変動、高齢化、不平等といったことに取り組むようになれば、状況はどれほど変わるだろう。きっと真の革新がもたらされるはず塔。

 効率? それが肝心だ。考えてみよう。ホームレスの人々に投資した金額は、ヘルスケア、警察、裁判にかかる費用が節約される結果、三倍かそれ以上になって戻ってくる。子どもの貧困が撲滅されることを想像してみよう。そうした問題を解決することは、それらの「管理」に多大な費用を投じるより、はるかに効率的だ。

 過保護な福祉を削減する? 完全に正しい。働いていない人(実際には失業を引き延ばしている人)のための、無意味で傲慢な再雇用講座は廃止しよう。また、福祉の受益者にみじめな暮らしを強いるのをやめよう。誰もにベーシックインカム--人々のためのベンチャーキャピタルーを給付し、自分の人生の方針を立てられるようにしよう。

 自由? 謳歌しようではないか。先に述べた通り、労働人口の三分の一以上は、その人自身無意味だと思う「くだらない仕事」を押しつけられている。つい先頃、わたしは数百人のコンサルタントを聴衆とする講演会で、無意味な仕事が増えていることについて語った。驚いたことに、それを非難する声はあがらなかった。のみならず、その後の酒の席で二人以上から、「儲けは多いがくだらない仕事のおかげで、儲けは少ないが価値のある仕事をすることができるのです」と打ち明けられた。

 その話を聞いて思い出したのは、フリーのジャーナリストが、批判的な調査記事を書くために、自分が軽蔑している企業の宣伝記事を書いて、資金稼ぎをしていることだ(批判的な調査記事というのは、同種の企業を対象とするものだ)。これでは本末転倒ではないか? どうやら現代の資本主義では、わたしたちはくだらないとわかっているものに投資しているらしい。

 今こそ、「仕事」という概念を再定義すべき時だ。わたしは一週間の労働時間を短縮しようと呼びかけているが、長く退屈な週末を過ごせと言っているわけではない。自分にとって本当に重要なことにもっと多くの時間を費やそうと、呼びかけているのだ。数年前、オーストラリアの作家ブロニー・ウェアは『死ぬ瞬間の五つの後悔』(新潮社、二〇一二年)という本を出版し、看護師として世話をした患者たちの最後の日々について語っが。何か書かれているだろう? 仕事仲間のパワーポイントのプレゼンにもっと注意を払っていればよかった、とか、ネットワーク社会での画期的な共同創作についてもう少しブレインストーミングをしておけばよかった、などと言う人は一人もいなかった。最大の後悔は、「他人がわたしに期待する人生ではなく、自分のための人生を生きればよかった」というもの。二番目は、「あんなに働かなければよかった」である。

 左派から右派まで、もっと多くの仕事を、と要求している。ほとんどの政治家と経済学者は、仕事に良いも悪いもなく、それは多ければ多いほどよいと考えている。今こそ、新たな労働運動を始めるべき時だとわたしは考える。それは、より多くの仕事やより高い賃金を求めるだけでなく、さらに重要なこととして、本質的に価値のある仕事を求める戦いだ。

 そうすればわかるはずだ。わたしたちが退屈で無意味でくだらない仕事に多くの時間を費やすうちは、失業率は上昇するが、満足できることに多くの時間を投資し始めると、失業率は下がるということが。

アイデアを行動に移す際の二つのアドバイス

 だが、まず初めに、「負け犬の社会主義者」は、自分は道徳的に優れているという思い込みと時代遅れの思想を捨てなければならない。自分は進歩的だと自負する人は皆、エネルギーだけでなくアイデアの源となるべきだ。そして、憤りを発するだけでなく、希望の光を放ち、倫理と強い理想を併せ持たなければならない。結局、「負け犬の社会主義者」に欠けているのは政治を変えるための最も重大な成分、すなわち、もっと良い方法が本当に存在する、ユートピアは確かに手の届くところにある、という確信なのだ。

 わたしは、「大文字の政治」をマスターすれば、簡単に理想の社会を実現できると言うつもりはない。全くその逆だ。そもそも、このアイデアを世間に真剣に受け止めてもらうことからして非常に難しいのだ。わたし自身、それを痛感した。この三年間、ユニバーサル・ベーシックインカム、労働時間の短縮、貧困の撲滅について訴えてきたが、幾度となく、非現実的だ、負担が大きすぎると批判され、あるいは露骨に無視された。

 少々時間がかかったが、その「非現実的だ」という批判が、わたしの理論の欠陥とはほぼ無関係であることに気づいた。「非現実的」というのはつまり、「現状を変えるつもりはない」という気持ちを手短に表現しただけなのだ。人を黙らせる最も効果的な方法は、相手に自分は愚かだと思わせることだ。そうすれぱほぽ確実に口をつぐむので、検閲より効果がある。

 わたしがベーシックインカムについて書き始めたとき、それについて聞いたことがある人はほとんどいなかった。しかし、わずか三年後の現在、ベーシックインカムのアイデアは至るところに広まっている。

 フィンランドとカナダでは、大規模な実験が行われている。シリコンバレーでは、広く認められつつある。ギヴ・ディレクトリ(第二章で述べた組織)はケニアでベーシックインカムの大規模な研究を始めた。そしてわたしの国オランダでも、二〇を超える自治体が、その実施に踏み切った。

 突然このように関心が高まったのは、二〇一六年六月五日にスイスで行われた国民投票がきっかけだった。五年前には、ベーシックインカムがどのようなものかを知っているスイス人は、二、三〇〇人程度だったはずだが、今の状況はまったく違う。当然ながらその提案は反対大多数で否決されたが、忘れてならないのは一九五九年というそれほど遠くない昔に、スイスの男性の過半数が、ある奇抜な提案を、同じく反対大多数で否決したことだ。それは女性の選挙権を認めるという提案だった。一九七一年に二度目の国民投票が行われ、その時はほとんどの人が賛成した。

 重要な点はここだ。スイスの国民投票によってベーシックインカムの議論は終わったのではなく、始まったのだ。本書のオランダ版が初めて出版されてから、わたしはパリ、モントリオール、ニューヨーーク、ダブリン、ロンドンでペーシックインカムについて語ってきた。どこででも、熱烈にそれを支持する人々に出会った。彼らがベーシックインカムを支持するのは、同じ理由からだ。二〇〇八年の世界金融危機と、イギリスのEU離脱とトランプという新時代が幕を開けて以来、ますます多くの人が、ゼノフォビア(外国人嫌悪)と不平等に対する革新的な、本物の解毒剤を渇望するようになった。全く新しい世界の地図、新しい希望の源、つまり新しいユートピアが待ち望まれているのだ。

 最後になったが、本書が提案したアイデアを行動に移す用意ができている全ての人に、二つのアドバイスをしたい。まず、世の中にはあなたのような人がたくさんいることを知ろう。それも大勢いるのだ。本書のアイデアを信じるようになってから、この世界が堕落した欲深い場所に見えるようになったと、無数の読者がわたしに語った。彼らに対するわたしの答えはこうだ。テレビを消して、自分の周りをよく見て、人々と連携しよう。ほとんどの人は、優しい心をもっているはずなのだ。

 そして二つめのアドバイスは、図太くなることだ。人が語る常識に流されてはいけない。世界を変えたいのであれば、わたしたちは非現実的で、無分別で、とんでもない存在になる必要がある。思い出そう。かつて、奴隷制度の廃止、女性の選挙権、同性婚の容認を求めた人々が狂人と見なされたことを。だがそれは、彼らが正しかったことを歴史が証明するまでの話だった。
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