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女性が働きながら家庭を築き、子どもを産み育てられる社会

『教養としての社会保障』より 「安心」を取り戻すために、どう改革を進めるべきか 持続可能な社会をつくる ⇒ 家族制度の変革をいかに達成させるか。原始時代からの柵から女性を解き放す

女性の就労率と出生率の上昇は不可欠

 今後の20年から25年の生産年齢人口はすでに決まっている。その条件下で、とにかくできる限りの経済成長を遂げて日本社会と社会保障を維持するためには、できるだけ働き手=労働人口を増やすことと一人ひとりの生産性を上げる以外に方法はありません。外国人労働者を受け入れる方法もありますが、基本的には、女性や高齢者などの就労を促し、それまで働いていなかった人に労働に参加し、持てる能力を発揮してもらう、ということ以外にありません。特に大事なのが女性の社会参加です。

 しかし、現状の薄い支援体制では、女性が働くと、結婚できずに子どもが生まれないということに直結します。それでは、もう一つの少子化克服戦略は頓挫します。今の社会を維持するために働いてください、20年後の社会を変えるために子どもも産んでください、と言っても、そんなこと言われても体はIつしかありません、ということになってしまいます。

 今の私たちの社会は、女性に働くか結婚して子どもを産むかの二者択一を迫っている。その中で、若い世代の女性が追い詰められている。これが今の社会の偽らざる現実です。このままではこの社会はいつか立ち行かなくなります。

少子化対策ではなく、家族政策

 これは女性の問題ではありません。社会の問題です。世の中にはこの問題は女性の生き方の問題で、女性がいろいろなことに「目覚めた」から起きている問題だ、くらいに考えている人がいますが、大きな間違いです。誤解を恐れずにあえて言えば、女性は犠牲者であり被害者とさえ言えます。問題があるのは男の側、より正確に言えば男性中心の社会、男性中心の企業、男性中心の家庭の在り方であり、女性をとりまく様々な制度や慣習の問題です。

 私は36年の公務員人生の中で約7年間、子どもや家族に関わる部局を経験しました。私の理解では、「少子化」対策というものの考え方、問題の立て方自体を変えないといけないように思います。考えなければならないのは「少子化」ではなく、私たちの生活の基盤となる家族・家庭を支援すること、つまり「家族支援」なのではないでしょうか。

 女性が--より正確に言えば女性のみならず男性も、要するにすべての人が--働きながら結婚し家庭を築く、子どもを持ち、子育てをする。本人の希望や選択を尊重してその両方が普通に実現できるようにする。社会に出て働く、という意味でも、子どもを育てる、という意味でも、私たちの生活の基盤にあるのは「家族・家庭」です。家族・家庭がその機能・役割を十全に発揮できるよう社会が支援する、それが必要なのです。問題設定自体を再考する必要があるように思います。

 英語には「少子化対策」という表現はありません。英語だけでなく、世界中、どこに行ってもそんな表現はまず見当たりません。仕事と子育ての両立支援や保育所の充実、育児休業制度の拡充など、日本が少子化対策でやろうとしていることを、英語では「ファミリー・ポリシー(家族政策)」とか「ファミリー・アンドーチルドレンーポリシー(家族・子ども政策)」と言います。

 何度でも言いますが、社会の活力の源泉は、個人の自立と自由な選択に基づく自己実現です。そこが原点です。働くこと、結婚すること、子どもを持つこと、それらはみな人生の基本的な選択です。男性なら当たり前に享受しているものです。それに制約がかかっている。社会の半数を占める女性の、自由であるべき人生の基本的な選択に制約があるのでは、活力ある社会など実現するわけがありません。

仕事も子育ても全力で支援するというメッセージ

 持続可能な社会をつくるためには、一億総活躍で女性や高齢者に働いてもらいましょう、という安倍政権の考え方は間違ってはいません。私自身も総理の方針の下に様々な施策を考え、実行してきました。

 しかし、「これから人口減少社会になるのだから、成長するには労働力が必要で、そのために女性にも働いてもらわなければ困るんです、だから一億総活躍なんです、だからあなたも働いて」という言い方では、それが客観的認識として正しいとしても、言われている女性には「上から目線」の物言いに見えるでしょう。「それは、あなたの都合でしょう」となります。この本の中で何度も言っているミクロとマクロの乖離にも通じることです。

 働くか働かないか、結婚するかしないか、子どもを産むか産まないかは究極の個人の選択、「私の人生」の問題です。私が私の人生をどう生きて行くかという問題です。人々は「あなたの都合」ではなく「私の都合」で選択します。つまり、マクロの視点で女性の就労率を上げようとしても、女性丁人ひとり、つまりミクロの世界で働くことが選択されない限り、マクロの就労率も上がりません。さらに言えば、女性一人ひとりが、自らの選択で働き、同時に結婚し子育てもするという選択をしなければ、出生率が上がることもありません。

 申し上げたように、そもそも、「少子化対策」という言葉自体が、マクロの発想の上から目線の言葉に聞こえます。言われた女性はあまり気持ちよくないはずです。私の娘たちも批判的です。少子化対策のために子どもを産みましょうと言われたら、私たちは子作りマシーンじゃないよと、そうなります。

 「あなたの人生選択を保障します」「仕事も、家庭生活も、子育ても、あなたの人生を全力で支援します」というメッセージがなければ共感は得られない。少子化対策ではなく、家族政策であり、家族こ于ども政策でなければ、女性の就労率の上昇も、出生率の上昇も望めないと思います。

就労と家庭の持続的両立を支援する

 実現すべきは、望む人なら誰もが、働きながら家族を持ち、家庭を築き、子どもを産み育てることができる社会です。その実現のためには、家族が持つ子育て機能を社会的に支援し、働くこと=自己実現・経済的自立と、家庭生活の持続的両立が可能な就労環境と社会環境の保障が不可欠です。そういう社会が実現できてこそ、人口減少社会における社会経済の持続可能性を確保することができます。

 これは社会保障だけの問題ではありません。もちろん、子育て支援や就労・起業は行政が全力で支援しなければなりませんが、行政だけではこの問題は解決しません。隣にいる男性--職場での同僚・家庭での配偶者--や企業の支援なしには成り立たない話です。女性の選択を、男性が支援する。企業が支援する。公の政策だけではなく、女性の選択を全力で支えるという社会的合意を形成しなければ、この問題は解決できません。

 これは男性たちにとっての「身を切る改革」「自己変革を求められる改革」です。人ごとではないのです。
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グローバルなIT産業とアメリカ多国籍企業

『現代アメリカ経済史』より 21世紀のアメリカ多国籍企業--2000年代以降

アメリカIT多国籍企業の新たな企業モデル

 21世紀のグローバルなIT産業では、アメリカ多国籍企業が寡占的に支配する産業構造を形成してきた。しかも、このアメリカ多国籍企業は、1980年代から90年代にかけて台頭した新しい企業モデルであった。表12-2が示すように2006年のグローバルなIT産業構造のなかでアメリカ多国籍企業の新しい企業モデルは、3つのタイプの新しい企業モデルに分類できる。しかも、これらの新しい企業モデルは、20世紀初頭に台頭した大規模な統合企業という企業モデルとは根本的に異なる企業モデルであった。

 まず第1の企業モデルは、1980年代にPC/WS(パソコン/ワークステーション)事業分野のソフトウェアの専業企業群、半導体の専業企業群、PC/WS/通信機器の開発・製造・販売の専業企業群、ITサービスの専業企業が台頭し、寡占化した企業モデルであった。ソフトウェアの専業企業は、マイクロソフト社、オラクル社、シマンテック/ペリタス社などの寡占的な専業企業群であり、半導体の専業企業モデルは、インテル社、テキサス・インスツルメンツ社、AMD社、PC/WS/通信機器の開発・製造・販売の専業では、デル・コンピュータ社、アップル社など寡占的な専業企業祥であった。

 第2の企業モデルは、1990年代中頃以降、インターネットの普及とともに電子商取引(eビジネス)や情報配信サービスを供給し始めた新しい企業モデルが台頭し、急速に寡占化した企業モデルである。アマゾン、グーグル、ヤフー、イーペイ社などのeビジネス、インターネット企業群である。アマゾンは、インターネット経由で書籍やエレクトロニクス製品等の販売を開始したeビジネスであり、グーグルは、インターネット上で検索サービス、位置(マップ)検索サービスなど情報配信サービスを供給し始めたインターネット企業である。両社は、ともに世界初のeビジネス、インターネット企業という新しい企業モデルであった。

 この新しい企業モデルでは、21世紀に入ると、高速通信網とモバイル通信網、スマートフォン、クラウド技術を基礎にフェイスブック社などのようなSNSや、さまざまな情報配信サービスが展開され始めた。

 これらのサービスはインターネット上のアプリケーション(app ; アプリ)から入手可能となり、アプリを使ってさまざまな情報配信サービスを行う企業モデル、たとえば、ウーバー社(Uber ; 配車サービス)やエアB&B社(宿泊予約サービス)が登場した。こうした企業モデルを基礎にした経済は、プラットフォーム・エコノミー(platform economy)と呼ばれている。

脱製造業をめざすアメリカIT多国籍企業

 第3の企業モデルは、これらの新しい企業モデルから挑戦を受けた汎用機メーカーである大規模な統合企業であった。 1980年代にIBMやDECなど汎用機メーカーの大規模な統合企業は、上述の新しい企業モデルに対抗した。しかしながら同時に、グローバルに台頭してきた日本の多国籍企業や韓国、台湾、インドなどアジア企業との国際競争に対抗する必要にも迫られた。このためIBMやヒューレット・パッカード(HP)社などの大規模な統合企業は、製造やサービスのオフショア・アウトソーシング戦略を活用して台頭するアジアの製造請負企業との国際分業関係を形成しながら競争優位を維持した。

 大規模な統合企業であったIBMは、1980年代に停滞し続ける主力の汎用機事業部門を縮小しつつ、パソコンやIT機器・システム、エレクトロニクス事業の製造をアジア企業にオフショアリングし、製品開発、設計、マーケティングに経営資源を集中した。さらに、IBMは、 1990年代から21世紀にかけて製造事業からも撤退し始め、ソフトウェア事業、サービス事業への脱製造事業の方向を求めて、その割合を高めてきた。

 そして2005年、IBMは、パソコン事業を中国のレノボ社に売却し、撤退した。さらに、2008年、 IBMは、インド子会社の従業員数を8万4000人、また、中国子会社の従業員を1万6000人に増大し、IBMの全従業員の72%を国外とした。こうしてIBMの2008年度の事業収入の構成は、サービス事業収入57%とソフトウェア事業収入21%だけで全収入額(1030億ドル)の78%を占めた。 20世紀の大規模な統合企業であったIBMもまた、21世紀には法人向けサービス事業の脱製造事業をめざしたのである。

おわりに

 20世紀初めに台頭した大規模な統合企業は、1950年代から60年代にかけて経営者資本主義としてアメリカに広く普及したが、80年代になると国際競争力を強化した日本とヨーロッパの大企業との企業間競争に直面して、リストラクチャリングを開始した。コンピュータ産業では、ME革命の進展とともにマイクロソフトやインテル、コンパックなど専業企業という新しい企業モデルが台頭し、IBMやDECなど大規模な統合企業は、経営危機に陥った。

 1990年代になると、冷戦構造の崩壊と新自由主義の浸透、IT革命とインターネットの普及とともにアマゾンやヤフー、グーグルなどeビジネスやインターネット企業が台頭し、大規模な統合企業のなかにはやはり経営危機に陥るものも現れた。また,」990年代になるとIT産業においてオフショア・アウトソーシングが普及し、韓国、台湾、インド、中国などアジア汀大企業が台頭した。アメリカ汀多国籍企業は、彼らとの間に新たな国際分業関係を形成し、日本とヨーロッパの多国籍企業に対抗した。

 21世紀は、こうした国際分業関係の展開の時代となった。アメリカIT多国籍企業は、このオフショア・アウトソーシングを大規模に南アジア、東アジア、東南アジア地域で展開してきた。このオフショア・アウトソーシングこそ、アメリカ汀多国籍企業が、グローバルに大規模に展開する製造工場・施設や事務所および従業員を再編成する形態であった。

 しかしながら、アメリカIT多国籍企業のオフショア・アウトソーシングの展開は、アメリカ本国の製造工場・施設で働く工場労働者(ブルーカラー労働者)のみならず、事務所や営業所で働く管理者や技術者、事務労働者(ホワイトカラー労働者)の職種を新興国の工場・施設や事務所に移転することを意味した。それゆえ、アメリカIT多国籍企業のオフショア・アウトソーシングは、アメリカ本国のIT産業のホワイトカラー労働者、ブルーカラー労儒者の職種の喪失と雇用の不安定性を高め、彼らの賃金低下をもたらした。そのことが、アメリカ本国における所得格差の拡大につながってゆく。

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『レ・ミゼラブル』と「文明化の使命」

『ヨーロッパ文明批判序説』より 『レ・ミゼラブル』と「文明化の使命」 ⇒ 読んでいると、レミゼでコゼットの生ちゃんの歌声が聞こえてくる。レミゼの舞台のフランス革命には違和感があるけど。特に「民衆の歌」は嫌いです。其れでどうなったのかと、と言いたい。

それは一人の人間が「野蛮」から「文明」へと上昇する物語であり、いくつかの「エポック」が、主人公の生涯を区切っている。

まずはトウーロンの監獄で刑期を終えたジャン・ヴァルジャンが、ミリエル司教の慈愛によって改悛し、小さな町の殖産興業に成功し、マドレーヌ氏を名乗る市長になりおおせるまで。もう少し詳しく述べるなら、徒刑囚だった男は司教に諭されて心がゆらぐのだが、なぜか悪の衝動に突き動かされ、煙突掃除の少年から小銭を奪い、そのあとはじめて、広野でさめざめと涙を流し、改悛する。この小さな窃盗のために、彼は前科者であるだけでなく、累犯者として再びお尋ね者になっているのである。マドレーヌ市長が、荷車に押しつぶされそうになった老人を、身を挺して助けようとしたとき、そのような怪力をもつのは「トウーロンにいたある徒刑囚だけだ」とジャベール警部がつぶやく場面がある。これがマドレーヌ氏の仮面の生活に訪れた第一の試練であり、ジャベールがそうとは知らずに仕掛けた第二の試練は、本物のジャン・ヴァルジャンが捕まった、自分がマドレーヌ氏を疑ったことは許しがたい過ちだった、という廉直な報告である。偽物のジャン・ヴァルジャンを救うために、マドレーヌは仮面を捨て、司直に身をゆだねる。

第二のエポックは、再びトゥーロンから。軍艦のマストではたらいていた一人の水夫が足を踏み外して宙づりになった。徒刑囚のジャン・ヴァルジャンは、水夫を救う許可を得て、命がけの登坂に挑む。目的を達した直後、足をすべらせ奈落のような海中に没したジャン・ヴァルジャンは、そのまま行方不明になった。そして「死亡記事」の恩恵にあずかって、アイデンティティを消したまま生還するのである。市長時代に保護してやった娼婦で、肺を病み死んでしまった女との約束を果たすために、ジャンーヴァルジャンは彼女の娘、幼いコゼットをテナルディエ夫婦から引き取り、パリの人目につかぬ界隈に身を隠すが、またしてもジャベールに正体を見破られて追跡され、目もくらむような壁をよじのぼって、真っ暗な中庭に落ちる。そこには、恩人の到来を待ちかまえていたかのように、荷車引きの老人がいる。壁の内部は、その老人が庭師をつとめる尼僧院なのだが、この閉ざされた世界に正規の住人として受け入れてもらうためには、いったん外に出なければならない。ジャン・ヴァルジャンは、死んだばかりの尼僧の柩に身代わりとして横たわり、外に運び出されて埋葬されてから生還し、老人の弟になりすます。こうして、またしても死の擬態と暗闇への下降がアイデンティティを抹消する。

第三のエポックは、尼僧院の平安につつまれて、コゼットが成長し、ジャン・ヴァルジャンが決意して、年金生活をする父と娘といった風情の市民生活を開始するところから。マリウス青年が登場し、初な若者どうしの愛が芽生えるが、これがジャン・ヴァルジャンにとって、最後の、そして最大の試練となる。苦難の連続であった人生で得た唯一の愛、コゼットを他人に譲れるか。仲間の青年たちとともにマリウスが立てこもったバリケードに、ジャン・ヴァルジャンがあらわれ、負傷して気を失った若者を背負って脱出する。全員が銃弾に箆れたはずの暴動の現場から、リヴァイアサン(神話の怪物)のはらねだのような下水道をとおっての逃避行。これも地下の暗闇からの生還だ。

ちなみに作品を通読していただけば、いやでも目につくはずだが、ジャン・ヴァルジャンのコゼットに対する執着と独占欲には凄まじいものがある。コゼットは、無垢と無邪気の権化であり、頼りなく愚かであるがゆえに愛しいフェミニテの魅力を体現しているのである。処女幻想に貫かれた『レ・ミゼラブル』のジェンダー構造は、きわめて十九世紀的かつ植民地主義的なものといえる。マリウスとコゼットの自由意志による恋愛をあれほど阻もうとしたジャン・ヴァルジャンが、命を賭けて救い出した男をコゼットに与える仕草には、初対面の夜、テナルディエの宿屋で幼いコゼットに巨大な人形を買い与えたときのそれに通じるものがある。

ともかく若い二人を娶せて、自己犠牲の道をえらんだジャン・ヴァルジャンは、脱走した徒刑囚という我が身の秘密をマリウスにだけ明かし、滋養を断たれた生物のように衰弱して死んでゆく。今際のとき、暖炉のうえにはミリエル司教の燭台があり、すべては聖者の昇天のごとく進行する--「彼は仰向けに倒れ、二本の燭台の薄明かりに照らされていた。その白い顔は天に向いていた。〔…〕星のない夜で、底深く、暗かった。きっとこの闇の中に、或る巨大な天使が、翼をひろげてたたずみ、魂を待ち受けていたのである」゜ついに訪れた「光への上昇」と奇蹟の成就。

ともかく若い二人を娶せて、自己犠牲の道をえらんだジャン・ヴァルジャンは、脱走した徒刑囚という我が身の秘密をマリウスにだけ明かし、滋養を断たれた生物のように衰弱して死んでゆく。今際のとき、暖炉のうえにはミリエル司教の燭台があり、すべては聖者の昇天のごとく進行する--「彼は仰向けに倒れ、二本の燭台の薄明かりに照らされていた。その白い顔は天に向いていた。〔…〕星のない夜で、底深く、暗かった。きっとこの闇の中に、或る巨大な天使が、翼をひろげてたたずみ、魂を待ち受けていたのである」゜ついに訪れた「光への上昇」と奇蹟の成就。

社会史の名著『労働階級と危険な階級』でルイ・シュヴァリエが指摘するように、都市生活の「どん底」(basfond)という空間的なメタファーがある。ユゴーが「奈落」とも呼ぶこの底辺では、貧困が犯罪と溶け合い、見るもおぞましい最下層の人の群がうごめいているのである。

その墓穴の中でさまよっている恐ろしい人影は、ほとんど獣とも幽霊とも言えるが、世界の進歩を気にせず、思想や言葉を知らず、個人的な満足のことしか考えていない。彼らの心の中には、一種の恐るべき虚無がある。二人の母があるが、全く邪険な継母で、つまり無知と貧困である。また欠乏という案内者もいる。満足の形態としては、欲望しかない。彼らは獣のように貪欲である。つまり暴君のようにではなく、虎のようになのである。それらの怨霊は、苦しさから罪に走る。それは宿命的な関係、恐るべき出産であり、暗黒の論理である。社会の奈落の中を這いまわるものは、絶対への息づまるような要求ではなく、物質への抗議である。そこでは、人間が竜となる。飢えと渇きが出発点であり、悪魔になることが到達点である。

これが「レ・ミゼラブル」と呼ばれる者たちだ。いくたびかここから這い上がり、「悪魔」ではなく、ついに「聖人」になったジャン・ヴァルジャンの生涯は、しかし贖罪と自己犠牲の連続ではないか。これを世俗の言葉で語るなら、金銭に欲のない彼は、この世で執着する唯一の財産、唯一の幸福、生命の源、コゼットを放棄することにより、最終的に「奈落」から脱出した人間として認知されるのだ。「最下層」の人間が、健全な社会の市民権を得るための代価は、なんと高価であることか。「暗黒の論理」に対峙する「ブルジョワ社会の論理」、「野蛮」に対峙する「文明」の胡散臭い仕掛けが、ここにはあるだろう。フローベールが知人の女性に宛てた手紙で、「不正確」「卑しい」「おもねり」「平板」「馬鹿者」といった語彙をちりばめて罵倒する作品の虚偽性は、「文明」と呼ばれるもののいかがわしさと、どこかで通底するはずだ。
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会社は利用するものが持論だった

外郎は好きではない

 かなりの費用でしょう。名古屋飯で外郎まで出てきた。

会社は利用するものが持論だった

 会社は利用するもの。これを最初に教えてくれたのは井上さんでした。社長になる気がなければ、会社は自分の夢のために利用するもの。

 井上さんは知識を日本の産業にする夢を持っていた。特許で生きている国を目指していた。エンジンの中核のノウハウは決して真似できないというのが持論だった。

存在と存在論

 存在が「存在論」になると大きなすり替えが起きる。哲学のためにジャンルを拡げている。何が存在するのかが大きなギモンになってくる。そんなのは当たり前です。自分が存在することの意味です。

 答えを他に求めるのではなく、自分から出てくる。ましてやはハイデカーがどうのこうのとかいう問題ではない。単純に、私は存在するというところ。何が存在するかではないというところに何故いかないのか。それは商売になるからでしょう。

リアル本と電子書籍との関係

 これは所有の幻想からシェアの世界へ。その途中が図書館、リアルの世界にありながらシェアが先行する。

 一冊のリアルの本を皆でいかに使いこなすか。「デジタルとアナログの哀しい対決」ではなく、シェアの変革です。リアル本になる前は、民族の神話のようにシェアの世界だった。

OCRの対象が増えすぎている

 本を読みながら、OCRするものを決めているけど、嫌な予感がしてきた。何しろ、対象が多すぎる。

44分40秒の奇跡

 「乃木坂46 生田絵梨花 中元日芽香 SHOWROOM 2017-05-26」44:40の生ちゃんのポーズが見たくて、一日10回以上、見に来ている! 新しい何かを感じている。

 未だに視聴者数が増えている。ところで、腕にあざが気になる。

サンダルを購入

 サンダルが20%引きだったので、思い切って購入。自分で父の日のプレゼント。裸足で履けるのと、脱げるのが一番気に入っている。

 サンダルが足に当たるけど、慣れるでしょう。
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