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OCR化した10冊

『ヘーゲル初期論文集成』

 アブラハムからモーセまでの歴史(一七九五~六年)

  アブラハムの生涯

  カドモスやダナオスとは対照的なアブラハムの精神

  世界と神にたいするアブラハムの関係

  アブラハムの子孫による専制支配

  ヨセフがエジプトでしたこと

  エジプト定住に踏みきったヤコブ

  モーセによるイスラエル人の解放

  モーセの立法

  見えない神と至聖所

  安息日について

  カナン定住後のユダヤ人

  神の存在はユダヤ人にとって真理ではなく命令である

  市民の権利と国法の関係--モーセとソロンやリュクルゴスとの比較

  モーセの死

  モーセ死後のユダヤ人

  君主制の導入

  ユダヤ民族の運命はマクベスの運命である

 公開処刑

 ドイツ体制批判 清書稿

  序論

   ドイツはもはや国家ではない

   存在しているものの理解

   ドイツ国家体制の崩壊

  国家の概念

   財産の共同防衛と防衛軍

   国家権力にとって本質的ではない事柄

   市民法と司法

   行政一般と税制

   慣習、教養、言語

   国家と宗教

   国家権力の中心点とは

   機械としての国家と市民の自由

  ドイツ体制の現状と課題

   ドイツ帝国軍

    ドイツ帝国軍の実態

    ドイツ諸邦と帝国軍

   財政

    財政制度の二つの極端な形態

    軍事財政と等族

    帝国財政と等族

   領土

    帝国の領土喪失

    二種類の領土喪失

    ヴェストファーレン講和条約がもたらしたもの

    ヴェストファーレン講和条約以降の和約と戦争

   法制度

    観念国家としてのドイツ

    観念国家の法制度

    ドイツ司法権の現状

  第三章 国法の執行がなりたたないという適法性

『変革を駆動する大学』

 東大のビジョンから社会のビジョンヘ

 目指すべき社会ビジョン

 Society 5.0と超スマート社会

 大学マネジメントの新たな形

 東大の役割

 次世代に伝えたいこと--「東大3.0」を生きる

『「考える人」は本を読む』

 『「本屋」は死なない』

『日本の国際協力』

 開発協力の適正性確保のための取組

  平和国家としての開発協力

  環境・気候変動への影響、社会的弱者への配慮

  不正腐敗の防止

 連携強化のための鞭組

  官民連携

  大学・地方自治体との連携

『ルター自伝』

 アウクスブルク(一五一八年)

『世界神話入門』

 神話のない国

『「やりがいのある仕事」と「働きがいのある職場』

 なぜ「やりがい」・「働きがい」が問題となるのか

  「生きがい」・「やりがい」・「働きがい」

  ケルンサミットと知識社会・ナレッジワーカー

  グローバル化と働き方の変容

  ICT化とナレッジワーカー

  ICTイヒの下での働き方

  自律的な働き方と社会規範・市場規範

『精神分析再考』

 超自我

  超自我の誕生

  超自我の取り入れ

  超自我の圧力と自己評価

『連携アプローチによるローカルガバナンス』

 コミュニティ・ファンドを通じた新たな地或の連携

 はじめに

 コミュニティファンドとは何か--市民コミュニティ財団の定義と役割

 新たな地域の連携の結節点としてのコミュニティファンド

 結節点から価値創出へ

 「制度」のプラットフォームを担うコミュニティファンド

 これからの展望

『江戸時代年鑑』

 天正十八年(一五九〇)~寛永十年(一六三三)
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江戸時代を昭和・平成のような感覚にする『江戸時代年鑑』

『江戸時代年鑑』より 江戸初期の概説抜き出し

天正十八年(一五九〇)

 豊臣秀吉は四月三日に北条氏直の小田原城を包囲攻撃しはじめ、三ヵ月余の長い日数をかけて七月五日に降した。七月十三日に秀吉は小田原に入城し、後北条氏の旧領を併せ、全国制覇の足がかりをつくったが、後北条氏旧領は従軍した徳川家康に与えた。家康は八月一日に江戸に入城し、そこを拠点とした。

天正十九年(一五九一)

 二月三日に帰京した豊臣秀吉は、海外貿易に積極性を示すとともに、部将たちの目を海外に向けさせようとする国内対策と、彼の領土拡張への意欲のために、九月二十四日に朝鮮出兵の命令を下した(文禄元年〈一五九二〉の文禄の役と慶長二年〈一五九七〉の慶長の役)。全国制覇を一応成し遂げたとはいえ、いろいろな動揺と不安は残っていた。

天正二十年・文禄元年

 文禄の役は八月二十九日に明との問に、勘合貿易の復活・朝鮮の割譲などの七ヵ条の講和条件が約されたが、一方で戦闘は進んでいった。その一方に、南蛮貿易への意図は積極的に進められ、朱印船制度とともにその貿易港としての長崎に対する支配も強化され、長崎奉行のもとに直轄とし、代官や町年寄なども置いて整備していった。

文禄二年(一五九三)

 朝鮮での戦闘行動は北進し、優勢のうちに展開していた。六月二十八日には、名護屋にきていた明の使節に対して、先の講和条件七ヵ条を示した。また、十一月五日には、高山国(台湾)に使節を派遣して、入貢を促したし、太平洋上の小笠原諸島も発見された。海外へと眼が注がれていた。また、蝦夷島も支配されててきた。

文禄三年(一五九四)

 秀吉は春に新しい居城として伏見城を起工し、秋には竣工して、そこに移った。秀吉の政治的拠点が確立されたものであり、いわゆる桃山時代とその文化の成長が可能となった。国内的に検地の実施によってその基盤が強化されるにつれて、キリシタン信者への弾圧をも実行してくる。十二月には小西行長の使者は明との和議を約定してきた。

文禄四年(一五九五)

 検地の完了によって、秀吉の政権は一応確立したものとみられるが、反面、その解体の要因も孕みはじめていた。養子豊臣秀次を自殺させ、有力な大名前田利家を実子秀頼の傅としたことは、そうしたことのあらわれともみられるが、関東の最有力の大名徳川家康の台頭が大きいものであった。家康は、独自の方法で、その基礎を築きつつあった。

文禄五年・慶長元年

 九月一日の伏見城での秀吉と来日した明使との会見は決裂し、秀吉は朝鮮再征を決定した。明使はむなしく堺から帰国した。長い戦国争乱の世も平和を取戻し、一応の安定に向かってきているときだけに、思想や生活の面での統制や施策が支配者にとって重要な問題となってきた。そうしたなかで、遊里の公認は一つの問題であった。

慶長二年(一五九七一

 正月一日に、朝鮮への出兵が命令された。七月十五日には朝鮮水軍を唐島(加徳島、巨済島の東北)に破ったが、北進軍は十二月二十二日に明軍のために蔚山(釜山の東北)に包囲され、苦戦の末に翌年一月四日に撃退することができた。一方、七月にはフィリピン、八月にはパタニ(マレー半島)の入貢があった。国内的には五人組制の実施による封建的支配を強化していった。

慶長三年(一五九八)

 五月になって、たいした成果もあがらす、大部の出征軍は帰国してきた。そのころから秀吉の健康はすぐれなくなり、七月には諸大名に秀頼への忠誠を誓わせ、八月には家康に後事を依託し、五大老・五奉行も秀頼への忠誠を誓った。秀吉は不安のうちに八月十八日に没した。十月には一軍は泗川(釜山の西)で明軍を破っているが、十一月には撤兵を完了した。

慶長四年(一五九九)

 秀吉亡き後の諸大名間の対立が萌しはじめた。正月二十九日に五大老の一人の前田利家は五奉行らとともに同じ五大老の筆頭である徳川家康の専横を難詰したのに対して二月十二日に家康は五奉行とともに、秀頼に対して忠誠を誓い、その誓紙を五奉行と交換した。しかし、江戸の家康と大坂の秀頼とその旧臣たちとの溝は深くなっていった。

慶長五年(一六〇〇)

 秀吉の部将の間での対立は急速に進み、武力的解決をもとめてきた。それは五大老の筆頭である徳川家康と五奉行の一人であり秀頼を支持する石田三成との対立に集約され、多くの大名たちがそれぞれを支持し、いわゆる天下わけ目の関ケ原の合戦となった。結果は、家康側の勝利に終わり、その覇権は確定し、秀頼はわずか六〇万石の大名に転落した。

慶長六年(一六〇一)

 家康は、その支配力を確固ならしめるために、いろいろな施策を打出していった。正月に伝馬の制による交通路とその機関を整備し、五月には伏見に銀座をおいて貨幣制度を統一し、八月には京都に所司代として板倉勝重を任命して、都市京都を直轄するとともに、公家の動静を監視させた。また、直轄領としての関東の土地調査(検地)をも行なった。

慶長七年(一六〇二)

 社会もしだいに安定し、徳川政権の基礎の固定してくる情況のなかで、国内諸産業の発展も著しく、ことに鉱山の開発とその生産額が増大したことが注目される。家康は、八月にはフィリピン・パタニと、また十二月には朝鮮との間に、交易または修好への努力を払い国際関係の改善を意図した。外国人宣教師の来日もしきりであった。

慶長八年(一六〇三)

 二月十二日、家康は征夷大将軍となった。すでに上洛していた家康は、この日、その宣下を伏見城で受けた。家康の権勢、そして徳川政権の基盤はさらに固まり、名実ともに武家政権として幕府機構を整備していった。十月に伏見を発って江戸に向かったが、その間に上方に対する諸政策を打出していった。また、三月に長崎に奉行をおいて直轄とした。

慶長九年(一六〇四)

 国内の政治体制は着々と進んでいった。諸街道に一里塚をつくり、蝦夷地支配にも方向を打出した。また、長崎貿易の基本として五月に白糸割符制を実施し、長崎に通詞をおいた(後の唐通事)。この年、家康は上洛し、三月二十九日から九月十四日までの間、伏見に滞在したが、その間の八月十五日に秀吉七周忌のための豊国社臨時祭が盛大に行なわれた。
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3つの変革を未唯空間に入れ込む

3つの変革を未唯空間に入れ込む

 3つの変革の片鱗を未唯空間のそれぞれのところに入れましょう。教育は本・図書館のところ、仕事は当然、第5章に、家族変革は第7章です。まずは片鱗だけ入れておきます。そこまで極端なことを第7章では変えていなかったので、そこまでは無理でしょう。だから9章・10章に引き継ぎます。7章は私にとって「考える日々」です。

 重要なのは、それらがどういう姿になるのかを見せることです。そこで覚醒していくための準備です。

 サファイアだけで4項目作っているので、この中に入れ込みます。かなり、しんどうけど気付いた以上はしょうがない。

 幸いにも構造の部分でこの三つを描いています。そのベースとしての情報共有から、ただし意識はそこまでなかったから、かなり変えていかないといけない。

 第5、第6,第7、第9です。第8は第5の延長です。第8章はクルマ社会になっているけど、プロセスが変わるところを書きます。会社での仕事が変わるということです。目的は何のために生まれてきたのか、に応えるため。

 そういう意味では第1章、第2章。私と数学は私の世界とその武器。第3章と第4章は他者の世界。第5章、第6章、第7章、第8章は三つのベクトルでの変革。それらの変革を合わせたのが第9章。そして、第10章で私の世界に戻ってくる。

人類を縛りから解放する

 人類を結婚とか愛のためとかから開放させます。この今を感じたときに、男女とか家庭の縛りを一気になくす時でしょう。

 皆、自分のために生きる、あくまでも全体とつながっている自分です。池田晶子さんの「宇宙の旅人」が家族からの離脱のいい気なヒントだった。

キーワード空間

 それらの縦方向に、宇宙の旅人とか未唯空間が通っている。それを示すのがキーワード空間。内なる世界のThinkは第2章の数学。外なる世界のActが第4章の歴史。

3つの関係

 人の一生を考えた時、まず家庭ありき。そして教育と仕事。その他のActはあるのかな。大体、この3つで収まる。この3つの関係はどうなるのか。それぞれ接点をもっています。

 「本と図書館」と教育は違います。これをいかに埋めるかです。第6章だけでは無理でしょう。第6章の後ろ側は教育に持って行きます。教育と言っても、学校での教育ではない。

アップルのプレゼン

 アップルのプレゼンを同時進行で行なっています。ジョブスが紙袋からパソコンを取り出したようなすごいプレゼンはできないでしょう。あの時はアップルがハードウェア一体型でよかったと、皆は実感したモノです。ジョブスでしか表現できない世界だった。

 タブレットのアイデアはマイクロソフトにもあった。実際にプロトタイプは使わせてもらった。全然、使い物にならなかった。ジョブスは細かいところに拘って、はじめて現実になった。ハードとソフトが一体となった世界。この醍醐味を活かした。
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