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図書館と本屋は本と等距離にある

図書館と本屋は本と等距離にある

 図書館と本屋との関係を配置から考えると、本との等距離にしていく。

 本を作る過程の会社とか、本を読む場所などが本と等距離になる。

 車と自転車も交通手段として、等距離にしていく。あくまでもky理が等しいのであって、優劣とかはない、バスト化などの交通機関も同様になる、
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図書館と本屋との関係

『図書館100連発』より ⇒ 私の場合は、本屋で見つけて、図書館に注文する

 館内に本の注文票を設置

  市内にある書店での本の購入を斡旋している図書館がある。愛知県の田原市中央図書館では、予約数が多くてすぐには借りることができない本や手元に置きたい本などを市内書店で購入することを勧めている。人気本を予約させてただ待たせるのではなく、待てない人には購入を勧めるという手法に転じた点が斬新だ。

  また、図書館で借りて気に入ったので手元に置きたいというニーズも、市内書店での購入を勧めることで満たそうとしている。無料の原則にこだわり、購入を勧めることが難しい図書館が多いなか、田原市中央図書館では、はっきりと購入を勧めている。また、無料で本を貸し出す図書館は市場での本の売り上げを下げるという意見もあるが、借りてみて気に入った本であれば自分の手元に置きたい、と思うのは読書をする人にとっては自然であるように思える。そこに地元の書店への橋渡しがおこなわれることで、地域の活性化にもつながっているのではないだろうか。本を売る書店と本を貸す図書館とは、決して対立するものではなく、このような形で連携することも可能なのである。

  また、福島県の白河市立図書館では、館内に本の注文票を置いている。読み終わった本を手元に置きたいと思った人が本を返すときに、その場で本を注文できる仕組みである。ここで注文すれば、あとは地元書店からの連絡を待つだけだ。利用者からすれば手間をかけることなく本を入手することができるうえ、地元の書店にも利益をもたらすことができる。

  いまや本の購入は「Amazon」にばかり頼りがちだ。早くて手間もかからない。しかし地元書店にふと足を運んでみると、居心地がよかったり、店主と仲よくなっていい情報を得られたりと思わぬ出会いがある。そんな地元書店の未来に、少し手間でも注文書で1票を投じるのは意義深いことでもある。

  図書館を生かした地元書店とのいい関係が、小さな工夫から生まれようとしている一例だと言えるだろう。

 書店売れ筋も紹介

  図書館でのベストセラーの扱いについては、物議を醸してひさしい問題の一つではあるが、市立大町図書館では「書店におけるベストセラー」という掲示物をっくり、書店が発信する情報と絡めた情報提供をおこなっている。

  新聞に掲載された本の売り上げランキング記事を切り抜いて、図書館で所蔵しているタイトルにはマーカ-でラインをつけ、請求記号を赤ペンで追加するだけというシンプルなものだ。出典として何月何日付の何新聞かという情報も補記してある。

  情報の更新がなかなか難しい掲示板に、定期的にこのような情報を追加すると、掲示板という存在に利用者の興味を引くことができる。手軽にできるので、試してみてはどうだろうか。
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近代ドイツ バイエルンにおける国民統合

『近代ドイツの歴史とナショナリズム/マイノリティ』より 「はじめにナポレオンありき」 プロイセン改革

一七九七年から一八〇六年にかけて、フランスは西南ドイツ・中部ドイツを征服した。一八○三年二月二五日、フランスと「仲裁者」ロシアの主導権のもとで、帝国代表者会議主要決議が決定された。全文八九条にわたるこの決議は旧来の領邦体制を大きく変え、「諸侯革命」と呼ばれるにふさわしい国制変革であった。弱小領邦の領土没収とその再分配が行われ、ここにバイエルンやヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセンなどの新たな領域が誕生した。

一八○六年、ナポレオン支配のもとで、クーアバイエルンを中心にフランケン地方、シュヴァーベン地方、プファルツ地方を併合するかたちでバイエルン王国が成立した。それは、異質な諸地域の再編成の意味合いをもった。そこで、初代首相モンジュラが実践したのは、「上からの革命」によって封建制を打破し、それら諸地域の自立性を解消することであった。その点で、彼は「近代的・集権的なバイエルン統一国家の創始者」と呼ばれるのである。

モンジュラは、一七九九年にバイエルン選帝侯国の実質上の首相として政治の舵をとって以来、精力的に諸改革に取り組んだ。中央統治機構の改革(四省からなる中央政府の設置など)をはじめとして、領邦総管理府という名前の行政機構の設置、行政官庁と裁判官庁の分離、宗派の平等体制の導入、カトリック教会への統制強化、官僚の任免・待遇を定めた服務基本法の制定、官僚の採用試験の実施、軍制改革と徴兵制の導入などがそれである。

モンジュラによって起草された憲法は一八〇八年五月一日に公布され、一〇月一日に発効した。それは、一七九九年以来のモンジュラ改革政治を総括し、バイエルンを近代的な統一国家に編成替えする枠組みを与えた。主要な中身は、全国のクライス(管区) への分割、クライス議会およびその選出による国民代表機関の設置、五省からなる内閣と最高審議機関としての枢密院、三審制に立つ司法制度の整備などである。それはバイエルンの国家統一をめざすものだったが、結局実施されずに終わった。憲法の制定は、一八一七年のモンジュラの罷免後、一八一八年憲法が典型的な欽定憲法として公布されるまで待たねばならなかった。

国制の方向はモンジュラ時代に定められた。モンジュラ時代は「国家絶対主義」の時代と評されているが、彼の何よりの目的は、近代的官僚によるバイエルン統一国家の形成であった。つまり、モンジュラは、従来の「家産官僚」(官職の売買・世襲、中央からの相対的独立性などによって特徴づけられる官僚)に代わって、専門職としての試験によって任用され、国家への帰属意識をもつ官僚による国家統合を推進しようとしたのである。ここでは、そうした官僚に支えられた行政は、政治や法、経済、社会、住民生活、信仰のあらゆる分野にまで及ぶものになった。したがって、不均質で、すぐれて伝統社会にいる住民は、拡大する行政活動によって、しだいに一個の「国民」という枠組みで把握されたのである。

もちろん、住民の「国民化」や社会の全般的な方向転換は一朝一夕で成し遂げられるものではない。民衆の意識はなお伝統に縛りつけられており、法や土地支配、経済の面で、統合・近代化に抵抗する伝統的な諸要素は存続していた。ゲマインデ(市町村)は特殊地方的な公権力を行使した。しかし、にもかかわらず、官僚の管轄領域は広範に及び、社会の変化をもたらしたのである。

この点で、注目すべきなのは、公制度による国民統合、つまり民衆学校の義務教育化であった。バイエルンでは、一八世紀後半には、すでに領邦権力によってそうした方向への動きは始まっていた。しかし、絶対主義官僚と聖職者との権限争いや伝統主義者と啓蒙主義支持派とのあいだの教育目的をめぐる争い、そしてまた資格ある教師の不足などのために、それは実現されずに終わっていた。そうした事態を変えたのが、モンジュラによる国家官僚制の確立である。ここでは、学校教育にも重要な位置が与えられた。その中核となったのが、一八○二年の義務教育の導入である。それは六歳から一二歳までの児童に就学義務を課し、翌年には、日曜学校と祭日学校について、家内労働や手工業に就いている一八歳までの年長の少年少女にまで拡大された。

一八○二年の法令は、さまざまな罰則規定を設けることによって、児童を強制的に就学させようとした。児童を就学させない親に対しては罰金が科せられたし、民衆学校の卒業証明書が児童の将来を拘束するものと位置づけられもした。証明書は児童が手工業に就いたり、結婚したり、農場や家屋を取得したりする場合の前提条件とされたのである。このように、バイエルン国家は、親のみならず児童そのものまでも拘束し、国民統合の実を上げようとしたのであった。

それでは、こうまでしてバイエルン国家は民衆学校に何を求めようとしたのであろうか。民衆学校はまず、国家公認の価値や規範、理想像を教え込み、有益な知識を伝えることによって、バイエルン社会を統合する課題を担った。あるいは、一八○六年の教師通達が述べているように、「もっとも神聖でもっとも重要な問題について国民を教育し、民衆を啓蒙すること」をめざしたのである。ここでいう国家の価値またはもっとも重要な問題とは、児童を「国民」「愛国者」にすることだった。「美徳」「服従」とかの一般的な価値も教えられたが、それらも民衆学校が教え込む実際の政治的態度、つまりバイエルン愛国主義を基礎づけるものだったのである。とくに、学校で教えられる歴史像、学校唱歌や学校行事での君主崇拝をとおして、あらゆる地域で、従来の領域支配の伝統に代わり、バイエルン王家やバイエルン国家への忠誠心が打ち立てられることになっていた。

最後に、一八〇五年の軍制改革にも注目しておきたい。一八〇五年一月に、一般徴兵制が導入された。一六歳から四〇歳までの男子は、原則として、八年間の軍役を義務として課されることになった。兵役を終了しなければ国内での定住や結婚は認められず、公職にも就けなかった。軍隊は、地域的差異を克服して国家を意識させ、地域に根差したさまざまな民衆意識を均質化する。機動演習などを通じた軍隊の経験は、民衆の視野を地域から国家レべルに押し広げた。また、兵士の国家儀礼への参加も彼らの国家意識を強め、バイエルン王家への忠誠心を培った。このように、一般徴兵制は、民衆をバイエルン国家に統合していくうえで不可欠の役割を果たしたのである。

一九世紀初めのバイエルンは、確実に国民国家への道を踏み出し、国民国家としての国内体制を作り上げつつあった。
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ブラジル 専制的な家父長の人間関係

『ブラジルの人と社会』より 家族制度の展開 ⇒ 典型的家族制度がどのように変遷するのか

家父長制家族は、基本的には血族と姻族によって構成されていた。その中心的核は、家族の長、その妻、嫡子、孫から成っていた。この核の周辺に家父長制家族の補助的成員として親族、非嫡子あるいは家人の子ども、代父母、捨て子、友人、寄宿人、雇い人、奴隷がおり、家父長制家族は多様な構成員を集合させた拡大家族でもあった。さらに、この家父長的拡大家族の影響下に零細農ラブラドル、モラドル、ホセイロ、シチアンテ、自由労働者、移住者といった貧農が組み込まれるというかなり複雑な様相を呈する家族構造であった。

血のつながりも婚姻関係もないが、その他の社会的な関係によってつながっていた擬制親族をも含む家父長制拡大家族の家長は妻、子ども、その他の従者に対して絶対的な権威を行使して一族の財産の管理、増大を計り、家族の系図と名誉を保持することがその主要な役割であった。家長の権威は絶対的で、生殺与奪権さえ有していた。レイタンというペルナンブコのある家長は、ある日、自宅の裏庭にハンカチが翻っているのをみた。そのハンカチは娘が干したものであった。それがどこかのドン・ファンに対する娘からの合図であると確信したレイタンは、自分の名誉を汚すものだとして直ちに、ナイフを抜いて娘の胸を刺してしまった。

こうしたカザ・グランデ内の秩序は、基本的にはイベリア半島からもたらされた家父長制を基盤にしていた。しかし植民地のブラジルでは、植民地政府の権限が砂糖きび農園内に及ばず、白人女性が稀少であったために、カザ・グランデの家長の権力はさらに強化された。まさに、家長は法的にも精神的にもドンだったのである。

ブラジルの植民地時代で家族が政治、経済、社会の単位である以上、婚姻は重要な役割を担うものであった。すなわち、それは財産の分散を防ぎ、時には増大につながり、一族の成員を増やすことで政治力及び社会的威信の拡大につながった。また、奴隷制社会では婚姻は一族の高貴な血統を守る役割も担っていた。したがって、婚姻は個人的事柄ではなく、きわめて社会的、かつ政治的事柄であり、家長に配偶者の決定権が握られていた。こうした目的を達成するための好ましい手段として、自集団内に婚姻相手を求める内婚制がとられた。同時に、家族内以外に自分の世界をもてなかった家父長制下の女性にとって、同じ屋根の下に住むオジやイトコは、初めて出会う異性でもあった。パライバ渓谷のコーヒー大農園主の一族7世代(1780~1900年)の婚姻62件のうち、親族間の婚姻は26件を数え、その内訳はイトコ婚20件、オジ・姪婚3件、オバ・甥婚1件、兄嫁婚2件であった。

婚姻による新しい結合が一族に政治的に有利である以上は、その婚姻は早期になされることが期待され、子・どもの早熟が好まれた。 19世紀ブラジルの独立時代、リオで生活をしたフランス人医師は、ブラジルには子どもがいないと書き残している。家父長制度下でブラジル人が子どもとして扱われるのは5歳までで、それ以後は大人になるためのさまざまな訓練を受け、10歳くらいには大人としての態度と行動が期待されていた6.しかも男性には、性的早熟も期待されていた。女性は12~14歳が結婚の時期とみなされていた。娘が15歳を過ぎても未婚でいると、両親は聖人に願をかけたり、場合によっては修道院に送った。婚姻が一族の結束を強化する目的であったことは、12~14歳の少女の結婚が30歳や40歳、時には70歳のオジやポルトガル大商人との間で行われた記録をみても充分に理解できよう。

結婚披露宴はカザ・グランデの最も見栄を張る行事で、その宴は一週間も続いた。それは、一族の社会的威信を示す機会であった。花嫁道具で飾られた寝室を披露し、牛、豚、七面鳥を殺して宴に供し、テーブルはたくさんのデザートで飾られた。カザ・グランデの中では白人奴隷主たちがヨーロッパ風のダンスを舞い、中庭では奴隷たちがアフリカの踊りを踊って結婚を祝った。喜びの印として奴隷が解放され、また花嫁には奴隷が贈られた。

華やかな結婚披露宴とは対照的に、花嫁にとって結婚は、父親の圧政から夫の圧政へと移行する儀式でもあった。娘時代はすべての自発的行為は否定され、幼い子どもと同様に常に父親に依存する者として扱われた。年上の人に口応えをしたり、目立つ娘には採るなどの体罰が加えられた。内気で謙遜であることが好ましいとされた。このため、家族以外の人の前では声すら上げることができなかった。娘の部屋は外部に面した窓のない家の内部に設けられ、夜は不寝番がついた。当時ブラジルの農村を訪れた外国人の記録によれば、一週間まったくその家の女性に、一人として出会うことがなかったという。

奴隷主に「セニョール」の敬称をもって話すことが奴隷に義務づけられていたと同様に、奴隷主の子どもたちにも両親を「父上(SenhorPai)」、「母上(Senhora Mae)」と呼ぶことが強いられていた。「お父さん(Papai)」、「お母さん(Mamae)]と呼ぶことが許されたのは幼児期の5歳までであった。12~13歳で幼い妻になると、奴隷主の自分の夫を女性は奴隷同様「ご主人様(Senhor)」と敬称で呼ばねばならなかった。しかし、精神的にも肉体的にも母親になるには未熟であったカザ・グランデの幼い妻は出産と同時に死ぬか、たとえ無事出産できても人形ではなく、本物の乳児を育てることは不可能であった。奴隷主の子どもの養育を一手に引き受けたのは、「黒いお母さん」と呼ばれた黒人の女奴隷であった。

家父長制社会では外部世界は男の世界であって、女の世界ではなかった。女性の役割は、さまざまな家事の采配を振ることであった。19世紀の奴隷主の家族生活を記録した司祭ロペス・ガマ(Lopes Gama)は、当時伝統的な習慣が崩れて、土地貴族の女性たちが家事を疎かにして社交生活に専念し始めたことに憤慨し、家族の良き母親としてあるべき姿を次のように書いている。「朝4時には起きて奴隷たちに一日の家事をいいつけなければならない。薪を割り、竃の準備をさせ、カンジャ(日本の粥に類似したもの)の材料となる鶏を選び、夕飯の支度をさせなければならない。そして家の者の衣服を縫ったり、繕ったりすることや、石鹸、蝋燭、ワイン、リキュール、ケーキ、ゼリーなどを作ることを奴隷に指示しなければならない。こうしたことは、すべて奴隷主の夫人が監視していなければならないことで、時には鞭を手にしてすることである」。

このように家父長制下の女性の世界は家の中に限られていた。出産と家事が女性の主要な役割とされ、その世界は家族及び親族、司祭、奴隷との接触のみに限られ、自由は制限されていた。精神的にも物理的にも、女性は幽閉された生活を余儀なくされていたのである。

妻や娘が男性の圧政下に置かれたのとは対照的に、男性には最大の自由が与えられていた。女奴隷との性的交渉は頻繁に行われ、妻はそれを黙認しなければならなかった。夫にとって、こうした放縦を謳歌するのに妻の存在が多少でも不都合であれば、妻を修道院に入れてしまうことさえあった。かくして家長は一族の数を増し、政治及び経済的力を増大するのであるが、このことは家父長家族内に嫡子と非嫡子が一緒に生活するという、ブラジルの奴隷制社会の特異な家族形態を出現させることとなった。

先述したように19世紀中頃、ブラジルに滞在したイギリス人女性は家父長制家族の日常生活を描写した中で、若い母親が、自分の子どもと一緒に庶子を分け隔たることなく育てているのを見て驚いたと同時に、それをブラジル社会の庶子7に対する寛容な態度と評価している。

未成年の男子も父親の圧政の下に置かれた。女性と同様に父親を「セニョール」の敬称を付けて呼ばねばならず、年上の人の前では口を挟むことも許されなかった。結婚するまで、父親の前でタバコを吸うには許しが必要であった。同様に、髭をたくわえるのにも、父親の許可を得なければならなかった。先述のイギリス女性は次のようにブラジルの親子関係を記録している。「口髭をたくわえた息子が、父親の前で喫煙の許可を得る光景に出会うことは珍しいことではなかった。両親は常に息子たちを三人称で呼んだ。また自分自身をも子どもたちの前では三人称で扱い、時にはセニョール、セニョーラの敬称を自分自身に使用した。こうしたことはすべての社会階層の人びとの間でみられることであった」。

家父長制社会では成人男性と未成年男性との社会的距離は大きく、それはあたかも人種やカーストが異なるかのように違っていたのである。このため、成人した男性の威信の大きい家父長制社会では幼児期が短く、早熟が好まれたのである。若者は青年ではなく老人を真似た。髭をはやし、老眼鏡をかけ、もったいぶった顔つきをして、青年期のすべての輝きや喜びを隠してしまったような雰囲気を漂わせていた。なかには未成熟であることを隠すために、髭を書いている者さえいた。

成人していない息子に対する父親の支配は生殺にも及んだ。家長は家族の大義のためには絶対者であった。エンジェニョのカシューの樹の下で、多くの父親は家父長主義の過酷で悲しい行動をとらねばならなかった。黒人奴隷ばかりでなく、自分の息子や娘を殺させた。ミナスのカピタニアの金鉱地帯ピタンギで、18世紀初頭に起こったことである。翁の敬称をもって呼ばれる奴隷主タイパという家長がいた。その娘マルガリーダは、ポルトガル王国から来た若者と結婚した。ある日、一人の女性がポルトガルからこのピタンギにやって来た。その女性は娘婿のポルトガルの妻であった。タイパ翁はこのとき、自分で斧をもち出してきて、その婿を二つに割り、一つを娘に、もう一つは夫を探しにきた女性に与えたという。このように、家長の自分の家族に対する管理は、非情なものでさえあった。
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