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幕張での乃木坂全握をリアルタイムで見ていた

高度サービス

 高度サービスはおもてなしではない。サービス自体が意味を持つモノです。スタバのIさんの言動から気付きました。原価50円もしないものを400円で売っている。その間を埋めているのは、私たちのサービスという意識。

 その意識を持たせること、それによってお客様ひとりに接する力をもたせる。サービスが価値観をもっている。

 これは乃木坂の握手会も一緒です。付加価値だけの世界です。その為に二万人も集り、4時間も黙って待っていて、10秒以下のサービスに凝縮する。これほどリアルでバーチャルな世界は珍しい。モノづくりでの製造コストは本当に安いです。サービスのために人は来るし、それが循環する

上海の自転車シェアリング

 上海の自転車シェアリング、これは一つの方向を示している。これを宅配サービスとつなげる。自分がイメージしたものが現実になっていくのは楽しいものです。自民党政治のように、あらぬ方向に向かうよりもはるかにいいでしょう。

 今のところ、中国の自転車シェアリングぐらいですね。未来の社会が見えるのが!

池田晶子さんの語録の本

 『絶望を生き抜く哲学』で池田晶子さんの語録の本が出たのは有り難いけど、一番の特徴である家族観の部分が抜けている。また、宇宙の旅人のような感覚に触れていない。表層的に見ています。題名も売るために付けられている。

 「生きることは考えること」「考えるのは生きること」と池田晶子さんは述べている。彼女の思想を体現した世界の兆候がない時代に生きていた。現象もはるかに離れたものであった。そんなしょうもない現象にコメントして、遙かな世界を語っていた。

図書館と本屋の連携

 『図書館100連発』では図書館内に書店へのほんの注文書を設置するケースが載っていた。図書館の予約が一杯だから、本屋に注文してはいかがですかという呼びかけ。これは逆のケースの方が現実的。

 本屋で読みたい本を探して、それを図書館に注文するやりかた。2週間程度で入手できたことがあります。そうすれば、皆にも読んでもらえる。図書館の選書が偏っている場合に有効な手段です。

 図書館の選書規準は分かりにくい。特に偏りは判断しにくい。豊田市もTRCになったことで、新刊書の傾向が変わったのは確かだけど、具体的にどう変わったのが判別されるには1年以上掛るでしょう。それを救うのが市民からの本のりクエストです。新聞社のコーナーよりも自分の感覚によった方がより、具体的です。

バッハの無伴奏チェロ曲

 『チェロ基本教本』での収穫は、久しぶりにバッハの無伴奏チェロ曲が聴きたくなったことです。フルートを習っていたときに、これが分からないと音楽が分からないと言われて、カワされた。最初はギコギコした音が曲になって、やみつきになった。

幕張での乃木坂全握をリアルタイムで見ていた

 「幕張」をyahoo!リアルタイムで見ている。面白い! 今日は欅のミニラで、明日は乃木坂のミニラになるんだ。ユニットのライブは少ないから、人は朝から集まる。

 幕張メッセには東富士の時によく行ったなー。日本で最初のマックワールドは新鮮だった。アラン・ケイを見るためにも出掛けていった。

 ワールドホビーフェアでコロコロの連中も幕張と言うことは、大人=AKB、若者=欅、子供=ワールドホビーという図式ですか。

 ところで、皆が使っている「swarmapp」って何? スマホでのコミュニケーションツールらしい。

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グーグルの人類史上最高の成功広告モデル

『世界史を創ったビジネスモデル』より グーグルが見出した空前のフロンティア

収入源がなかったグーグル

 サーゲイ・ブリンとラリー・ペイジは、スタンフォード大学コンピュータサイエンス学科の大学院生。1996年頃に新しい検索エンジンを作った。それまでの検索エンジンとは違って、彼らのエンジンは、人々が知りたい順に検索結果を並べる非常に優れたものだった。大学のコンピュータを使ってテスト公開したところ、多数のアクセスを集めた。

 彼らのエンジンがなぜ結果をこのように並べられるのか?これは、コンピュータサイエンスの問題として大変興味深い。だが、以下では、その問題ではなく、ビジネスモデルの問題に焦点を絞って話を進めることとしよう。

 大学のコンピュータではアクセスを処理できなくなってしまったので、大学の外で事業として行なうこととし、98年に「グーグル」という名の会社を発足させた。事業の拡張に必要な資金は、ベンチャーキャピタルからの出資を仰いで調達することとした。

 これについては、「グーグル創世記伝説」とでも呼びうる挿話がある。グーグル検索エンジンのデモを見た有名なベンチャーキャピタリスト、アンディ・ベクトルシャイムは、即座に出資を決断し、10万ドルの小切手を切ると言った。それに対するブリンの答え。「実は、それを受け入れる預金口座がないんです」

 他のネットベンチャーのように、グーグルの最初の拠点もガレージだった。その後本社を構えたが、それは、パロアルトの自転車屋の2階だった。

 このときグーグルが直面していた難問は、つぎのようなものだ。彼らは、きわめて価値が高いサービスを提供できる。しかし、そこから収入を得る方法がない。

 この問題に答えを見出さなければ、ベンチャーキャピタルは出資を引き上げてしまうだろう。では、どうしたらよいのか?

 この問題の答えは、実は本章のIで書いてしまった。ただ、そこでは、ごく概略しか示さなかった。そこで、あなた自身がプリンとペイジになったつもりで、この問題をもう一度考えてみようではないか。

収益モデルを求めての試行錯誤

 サービスの有料化は、できなくはない。例えば会員制にする。しかし、それでは利用者が減ってしまう。無料のエンジンは他にもあるので、多少性能が悪くても利用者はそちらを使うだろう。

 そこで考えられるのは、ライセンス契約で他のウェブサイトに検索技術を提供し、収入を得ることだ。グーグルは、最初はこれを収益の柱にしようと考えていたようだ。

 もう一つ考えられるのは、料金を払えば検索結果の上位に置くという方法だ。これは、マーがアリババやタオバオに導入した方法だ。アメリカでも、ゴートゥー(後に「オーバーチュア」と改名)という検索エンジンはそれを行なった。

 しかし、この方法は、強い批判を浴びた。検索結果と広告が区別できないと、検索結果の信頼性が低下するからだ。プリンとペイジは、これを論外と考えた。

 そこで登場するのが、広告モデルだ。これまでも述べてきたように、これは何十年も前に見出されていた方法である。電話は料金を取れたので放送を事業化できたが、無線では料金を取れないので、ラジオ放送はできなかった。これを解決したのが広告モデルだ。

 グーグルの検索サービスにはすでに多数の利用者がいた(01年には、1日7000万ものアクセスがあった)。だから、広告は当然考えられる方法だ。そして、インターネットの世界には、すでにバナー広告というものがあった。そこで、「大企業に営業をかけて、広告を出してもらおう」ということになる。

 広告において、検索サービスはラジオやテレビより有利な特性をもっている。検索された言葉に関連のある広告を出すことができるからだ。例えば、利用者が「車」と入力すれば、自動車会社の広告を出す。これは、「検索連動型広告」と呼ばれる。利用者が関心を持つはずの広告を出せるのだから、効果的だ。

 そこで、グーグルもニューヨークに拠点を作り、大企業を相手に営業活動を始めた。これは、「プレミアム・スポンサーシップ広告」と呼ばれた。

競争入札方式の導入

 プレミアム広告は順調に伸びたので、普通の企業ならそれで満足するだろう。しかし、グーグルは、そこで止まらず、新しい仕組みの広告を開発した。これは、いくつかの要素から成り立っている。それらについて説明しよう。

 第1は、競争入札方式の導入だ。

 検索結果が表示される画面には、広告を掲載できる場所がいくつかある。そこにさまざまな検索語に応じて広告を掲載する権利を、入札で決めるのだ。最も高い価格で応札した者が最も目に付く位置に広告を掲載することができる。ここにおいて、グーグルは従来の広告モデルとは性格が大きく違う広告モデルを採用したことになる。大口広告主との個別交渉から、公開入札という競争方式に転換したのだ。

 グーグルは、この方式をさらに改良した。仮にクリック1000回当たり単価10ドルで応札した企業が落札したとしよう。しかし、二番札は1ドルだったとする。この場合、10ドルでなく1ドル1セントでも落札できたわけだ。広告主がそれを知れば、高すぎる価格を提示したことを後悔するだろう。二番札の価格を正確に知らなくとも、次回の入札では価格を引き下げるはずだ。

 この問題に対してグーグルが考え出しだのは、一番高い価格で応札した広告主は、二番札より1セントだけ高い価格で落札できるという方式だ。例えば、先ほどの例なら、10ドルで応札した企業は、1ドル1セントで権利を得る。

 この方式なら、広告主も満足する。グーグルの側にも、価格が不当に下がらないという利点がある。この入札方式は、実は従来からあったものなのだが、グーグルは独自に同じ方式を見出し、広告という世界にこれを持ち込んだのだ。

 入札はインターネットを通じて行なわれ、落札した企業はクレジットカードで料金を支払う。自動化されて、従来よりずっと簡単になった。単価を低くできるので、零細企業でも広告を出せるようになった。以上のような特徴を持つ広告は、「アドワーズ」と呼ばれた。

 グーグルは、次第に重点をアドワーズ広告に移していく。プレミアム広告が伸びていたにもかかわらず、なぜそうしたのだろうか?・

 グーグルの企業文化がそれを促したのではないかと想像される。プリンもペイジも、ゴルフ嫌い(つまり、接待サービス嫌い)だった。そして広告嫌いだった。彼らは、論文の中で、従来型の広告の害悪について論じていたほどである。顧客をディナーに招待して説明するなどという仕事は、彼らの望むところではなかったのだ。グーグルは、検索エンジンを変えただけではない。広告のビジネスモデルをも変えたのだ。

 スティーブン・レヴィは、『グーグル』(阪急コミュニケーションズ)の中で、「(グーグルは)ネットで莫大な収益を上げる秘密の方程式を解いてしまった」「(これは)人類史上最大の成功を収めた広告システム」であり、「今でも、競合他社はそれに匹敵するモデルを生み出せないでいる」としている。そのとおりだ。

 プレミアム広告で満足していたら、グーグルは「ITで成功した企業の一つ」にはなっていたろうが、「人類の歴史を変える企業」にはならなかったろう。次節で述べる方法とも相まって、グーグルのビジネスモデルは、途方もない収益を生み出していく。
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銀の時代のペテルブルクのシンガー・ミシンのビル

『ロシアの世紀末』より ペテルブルク ネフスキー大通り

向い側の二八番地はドム・クニーギ(本の館)という大書店となっているが、かつてシンガー・ミシンのビルであり、ベテルブルク・モダンの代表例の一つである。この建物が出現した時、クラシックなネフスキー大通りの雰囲気はいかにかき乱されただろうか。

アメリカの俳優で機械工だったアイザック・メリット・シンガーが一八五〇年に発明したミシンは、大ヒットし、シンガーはミシンの代名詞となり、シンガー・ミシン社はロシアにも進出し、ペテルブルクの目抜き通りであるネフスキー大通りに新しいビルを建てることになった。目立つために、通りで頭一つ高いビルが計画された。ところがペテルブルクには二コライ一世Å一八二五-五四)が決めた古い規制があった。それによると、いかなる建物も冬宮(今のエルミタージュ博物館)の高さより二メートル以下でなければならなかった。

七階建で計画されていたシンガー・ビルはやむなく、六階建に変えなければならなかった。

シンガー・ビルの設計者はパーヴェル・シューゾル(一八四四-一九一九)である。彼は折衷主義から出発し、モダン様式、新古典主義などを自在に使いこなした。

ところでリシャット・ムラギルディン『ロシア建築案内』にはこの建物が「本の家(ジンガー書店)」として出てきて、設計者がV・ケンネルとなっているのはなぜだろうか。なにかのまちがいだろうが、ロシアの世紀末の研究がまだこれからであることを感じさせる。

ロシアの世紀末建築の先駆的研究であるのは、ウィリアム・クラフト・ブラムフィールド『ロシア建築のモダニズムの起源』(一九九二)である。そこに建築家シューゾルとシンガー・ビルについて、いくらかくわしく書かれている。

それによると、シューゾルは二十世紀初頭のペテルブルクの建築家のリーダーであったらしい。

「彼は雑誌『ゾーチイ(建築家)』を創刊し、土木建築研究所で教え、建築家・美術家協会の、一九〇三年創立以来の会長を一九一七年までつとめた。そして精力的に建築家の組織をつくり、その会合に参加した。」(同上書)。シューゾルは、一八七〇年代から一九○○年まで、折衷様式でアパートメントー・ハウスを数多く建てた。彼の集合住宅は快適で衛生的だったので評判がよかったという。

一九○二年から一九〇四年にかけて建てられたシンガー・ビルは、シューゾルをモダン様式に踏み出させた。その理由をプラムフィールドは次のように説明している。

「シューゾルのシンガー」ビルの新しい表現は、世紀末におけるアメリカとロシアの建築事情のかなり遠い距離の結果である。」(同上書)

このビルのクライアントはアメリカの企業であり、ロシアの地に、ロシアの建築家によって建てられた。場所も文化もかなりへだたったアメリカとロシアの出会いによって生み出された建物なのである。二つの異文化が衝突し、融合する。

シンガーは、ニューヨークのマンハッタンに二つのオフィス・ビル(一九〇七、一九〇八)を建てている。アメリカの建築家アーネスト・フラッグの設計である。アメリカではすでに摩天楼時代への嗜好がはじまり、ひたすら高い塔を競うようになっていた。

「アメリカの建築家は高い塔を建ててきたが、それはロシアの都市ではこれまで必要とされず、その余裕もなかった高さであった。それだからシンガー・ビルは、ベテルブルクでの商業建築の高さの規準との関連で見なければならない。」(同上書)

新しい建築の大きな要素は鉄骨構造である。重い石の壁で建築を支えるのではなく、鉄骨で支える。それによって壁が軽快になり、デザインに変化をつけることができる。シンガー・ビルでは一、二階に、赤大理石を磨いた、きめの荒いブロックによるアーケードをめぐらし、それより上は、より軽快なグレイの御影石を壁にした。つまり、やや重厚なアーケードの上に、大きなガラス窓のある、軽やかなファサードが載っているイメージがつくられたのである。建築がよりヴィジュアルになったのが世紀末であった。

上三階のファサードは、下二階のアーケードをくりかえす大きなアーケートで構成され、そのなかで、各階の窓が仕切られ、それぞれにバルコニーがつけられている。バルコニーのブロンズの手すりには、アール・ヌ・ヴォー風の飾り彫刻がほどこされている。

この建物は、ネフスキー大通りとエカテリーナ(今はグリボエードフ)運河の河岸通りの角にあり、その角に正面口と塔がある。その角と、その左右に一つずつ、四階まで突抜ける大アーチがあり、その両側にヘルメットをかぶり、槍を掲げたヌードの女性像が掲げられている。この女性像は花ととともに、アール・ヌ・ヴォー特有のモチーフであるが、それはまたシンガー・ミシンの象徴でもあった。

世紀末になぜソーイング・マシン(ミシン)は爆発的に売れたのか。それは女性を家庭内に縛りつける針仕事からの解放をもたらしたのだ。世紀末から女性は社会に出はじめた。ミシンはそのための条件の一つを切開いたのだ。ミシンによる服飾品の大量生産、そしてそれを売る百貨店の発達は、女性のためのマーケットを開花させ、女性の文化を刺激した。その波はロシアにも押寄せてきた。シンガー・ミシンは闘う女闘士をそのビルの上部に掲げた。このアマゾーヌの彫刻家はアマンダスー・インリッヒ・アダムソンであった。

二人のアマゾーヌにはさまれたアーチの上に、巨大なアメリカ鷲が羽をひろげているブロンズ彫刻(アルチュール・オーペル作)が載っていた。しかし、鷲はロシア帝国の象徴でもあったためだろうか、革命後はとりはずされてしまった。革命前の写真でないと見ることができない。

鷲の上にはこのビルのシンボル・タワーであるガラスのキューポラがそびえている。その頂上には、二人の女性が支える地球がのり、そこにシンガーのロゴが書かれている。女性がこの世界を支えていくこと、その女性によってシンガー・ミシンが世界中に広まっていくことを示そうとしている。このキューポラは特に実用性はなく、単なる飾りであるが、高さの制限をなんとかくぐりぬけて、それまでにない高さのビルを建てようとしたシンガー社の工夫であるとプラムフィールドは見ている。

シューゾルが創刊した『ゾーチイ(建築家)』誌には、アメリカとロシアの建築に対する考えのちがいが記録されている。たとえば、このビルには三つのオフィスーエレベーターがつけられた。エレベーターの発達は、百貨店など大きな、高層の商業ビルのために不可欠であった。しかしその他にいくつかの石の階段をつけることをロシア側は求めた。ロシアのビルではそれが当たり前であった。シンガー社はそれにあまり賛成ではなかった。大きなスペースが要るからである。アメリカの商業ビルではエレペーターがあれば、他にはステアウェル(吹き抜けの非常階段)が一つあれば充分というのが常識であった。ところがロシアは、ゆったりとした立派な階段をほしがったので、シンガー社もしぶしぶそれに同意したのである。

さらに、すでにのべたように、ペテルブルクではずいぶん前に決められた高さの規制がまだ通用していることにも、シンガー社はおどろいた。それを知らなかったので、七階の予定を五階に変更しなければならなくなり、余分な費用がかかったという。

シンガー・ビルの中央の吹き抜けの一階はガラス屋根でおおわれ、銀行に使われた。二二階のその他の部分は、シンガー」ミシンと北方貿易社の繊維製品のショールームになっていた。三階から上は英米風のオフィス・ビルになっていて、独立したオフィスールームが並び、共通の廊下、食堂などがあった。最上階はシンガー社のオフィスであった。このようなオフィスービルはロシアでははじめてであった。

「ボザール式とアール・ヌーヴォー式の装飾を機能的なグリッド・デザインに折衷したものであったが、シンガー・ビルはペテルブルクのモダン商業建築の発達の大きなステップであった。もちろん、アメリカのクライアントの規準がビルの新しさや装飾の効果に大きな影響を与えた。このビルのためにシューゾルはペテルブルクの有名な建築家エフゲーニイ・バウムガルテンやマリアン・ペルツァコヅィチなどの協力を得た。この計画は、ペテルブルクのおしゃれな新しいホテルなどとともに、ロシアがブルジョア的ヨーロッパやアメリカの資本主義経済に組入れられていくことを象徴している。」(同上書)

銀の時代のペテルブルクは、アメリカ資本主義を受入れようとしていた。ドストエフスキーのペテルブルクではなかったのである。「おしゃれな新しいホテル」というのはホテル・ヨーロッパのことだ。これについてはネフスキー大通りのもう少し先で触れることにしよう。
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存在論の2つの立場-一基礎づけ主義と反基礎づけ主義

『社会科学の考え方』より 認識論

存在論と認識論は互いに結び付いているが、存在論はより根本的な概念であ仏存在論という言葉自体は、様々な領域で異なる形で使われている。しかしながら社会科学において存在論とは、端的に言うならば、私たちの知識の対象が(私たちとは独立して)そこに存在するのかしないのか、という問いに関する議論を意味する。例えば熱帯林破壊のような環境問題は、私たちがそれを知リていようといまいと、そこに存在するのだろうか。

こうした問いについての立場は大きく分けて2つある。一つは基礎づけ主義(Ibundationalism)である。この立場に立つ人は、私たちが知らなくても、「それ」が客観的に「そこ」に存在すると考える。すなわち私たちの知識や考えは、強固な疑いのない真実という基礎の上に組み立てられているとみなす(したがって「基礎づけ」主義と呼ばれる)。そして基礎づけ主義に立った場合、何らかの「真実」が独立して存在しているため、それは誰が見ても、正しく見ることができれば、同じように見えるはずだと考えても不思議はない。例えば、熱帯林破壊のような環境問題であれば、その深刻さや原因・結果について、客観的に示すことができるということになる。

一方、反基礎づけ主義(anti-foundationalism)と呼ばれる立場をとる人は、その問題となる社会的事象が存在するかどうかは、私たちの解釈によると言う。よい換えると、そうした事象は私だちから独立して存在するものではない。例えば、熱帯林の減少はそれだけでは問題にならない。森林の増減は自然現象としても存在するし、そもそも日本にいる私たちは熱帯林の変化を直接知ることはできない。現地の人ですら身の回りの変化しか感じることはできず、それを熱帯林破壊という問題として理解することは難しいだろう。そうした中、何らかの経緯である種の森林減少が「熱帯林破壊」として意味づけられ、それに沿って私たちが解釈することで初めて、解決すべき問題となる。事象のこのような社会的構築は、各主体がそれぞれの価値観に基づいてなす行為がもたらすものであるが、その過程は社会的・政治的・歴史的文脈によって制約を受けるため、相対的なものにならざるを得ない(なお、こうした立場は社会的な現象や出来事についての立場であり、反基礎づけ主義に立つと言っても、物理的に森林の存在やその増減といった現象か存在しないと考えるわけではない。環境問題としての熱帯林破壊を構築する、森林や森林破壊の定義、森林減少の現状把握[データ収集]や意味づけといった諸要素が、社会的・政治的に形作られているとする立場である)。

存在論と認識論の関係--研究上の意義

 認識論的立場、すなわち私たちが世の中について何をどのように知ることができるかという点についての考え方は、その人がとる存在論的立場(=基礎づけ主義か、反基礎づけ主義か)によって規定される。私たちの知識の対象が、私たちから独立して存在するという基礎づけ主義の立場をとるのであれば、私たちは「客観的」に事象の相互関係を(あるいは因果関係すらも)観察できると考えることもできる。こうした立場を実証主義と言う(次節の「実証主義」の項を参照)。実証主義者は質的データに加えて数値データを積極的に収集し、客観的・科学的に物事(あるいは真実)を証明しょうとする傾向にある。

 あるいは、基礎づけ主義に立ちながらも、目に見えるものは表面的なものであり、その背後にある構造に注目する必要があるとして、観察に基づいて因果関係を実証するというよりも、目に見えない構造を説明することに主眼を置くべきだという立場も成り立つ。こうした立場を批判的実在論という。

 対照的に、反基礎づけ主義に立つ人は、人々がどのようにその出来事を解釈しているか、解釈しよう(させょう)としているかという点に着目する。こうした立場を解釈主義という(次節の「解釈主義」の項を参照)。解釈主義者にとっては、「客観的な」数値データなどは重要視せず、人々の言説等に着目して分析を進めることだろう。

 このように、存在論と認識論は相互に結び付いており、その立場の違いは手法(メソッド)に影響を与えるため、これらをロジカルに結び付ける方法論(メソドロジー)は、社会科学の研究を行う上で非常に重要な意義を持つ。存在綸や認識論については論争が多く、人によっては異なる用語を使って説明することも多いし、存在論が先か認識論が先かなどの哲学的な論争もあるが。しかし、いずれにせよこの存在論と認識論における異なる立場や、それが調査手法の選択に与える影響などについて明確に認識しておくことは、研究者としては不可欠であろう。
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