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家族制度改革に女性の覚醒が必要

ヘーゲルの初期論文

 ヘーゲルはなぜ、この「初期論文」を描いたのか。モーセのこと、アブラハムのこと、ユダヤ民族の自由に関すること。これらをわざわざ要約して見せたのか。

 歴史哲学もそうだけど、歴史的事象から解釈を行なっています。それらの解釈から出た理論で有名なのは、弁証法。

 文献は自分で集めてきたのか。マルクスのように図書館の閲覧室を使ったのか。ナポレオンがドイツに侵略しているときに、そんなのんびりしたことはできなかったはず。

 考えるためのヒントにするというよりも、考えていることに合わせようとしている。都合の悪いものは捨て去る。歴史哲学の中にムスリムの解析が為されていない。

江戸時代年鑑に歴史の連続性を感じる

 江戸時代を昭和とか平成とかの感覚で見れる資料「江戸時代年鑑」これはなかなか面白いですね。時代の連続性を感じます。それと政府〈幕府)の施策がいかに為されたのか、それに対して、対応が為されたのか。時の結果を知っているので、推理ドラマの感覚が味わえる。

 元号はあくまでも天皇の在位で為されていた。江戸幕府はそこは崩していなかった。これは日本の特徴でしょう。フランス革命のように、絞首刑にはしなかった。太平洋戦争後のアメリカ政府はそれを見習った。

 これはトルコがギリシャ支配の時にキリスト教を許可したのと同様です。奴隷にとって、宗教はそのままにしておいた方が安定する。

家族制度改革に女性の覚醒が必要

 家族制度改革のためには、女性の覚醒が必要です。女子力などと言っている場合ではない。

 一人の男性に尽くすのは、重要なことなのか。それには多くの女性が気付いている。未婚率とか社会への進出とかがそれを示している。人類として、どう生きていくのか。生きている理由から、愛にしても最大きな愛に尽くすことができる。これが新しい世界を作り出します。その姿を作っていく。

家族制度変革は男性のメリットが大きい

 社会を変えるだけではダメです。出来上がった後の姿をいかに安定させるか。他の国から攻撃される前にその大きな愛で攻撃していく。フランス革命のナポレオンのように。

 家族制度変革は共産主義革命よりもはるかに大きな革命です。なにしろ、原始時代からの家族制度を変えようというのだから。多くの妨害が入ります。今の体制で多くのメリットを得ていると感じている男性からは、猛攻撃されるでしょう。

 それを乗り越えたときに、新しい独立記念日です。

 これは女性よりも男性の方にメリットが大きいかもしれない。何しろ、結婚を考えなくてもいいのだから。自由に自分のために生きても誰からも文句が言われない。奥さんに見栄を張るよりも、世の中の全ての女性に見栄を張る方がはるかにモチベーションが高い。

「てちとその仲間たち」

 「てちとその仲間たち」は長くは続かないでしょう。何しろ、不安定です。今の時代、組織を維持するのは大変です。特に言うこととやることが違う世界は難しい。

スケジュール表を持ち歩きましょう

 スケジュール表に次の単元で何をするのかを記載するのはいつ可能になるのか。

国家の必要性

 財産を守るために、国家ができた。それを防衛することが主な義務になった。その財産という考えを変えれば、国家の必要性がなくなる。

東大の社会ビジョン

 東大の社会ビジョンはなぜ、モノを作ることに固執するのか。それもAIばかりに焦点を当てている。それよりも、皆が幸せになる方法を考えるために東大はあるんでしょう。

 偏らずに、上から見て、下から見て、考えるべきことを考えてもらいたい。

やはり、地上波は終わっている

 卓球でおやすみとは。去年はテニスでガタガタ。しょうもない。地上波は終わったな! 18thの発表に影響して来るから、乃木中はネットで流せばいいのに。らじらーがひめたん×まりっかがせめてもの救い!
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トルコ・イギリスは神話のない国

『世界神話入門』より

 神話のない国

 世界に神話のない国はないはずでありながら、古代の初期王朝によっても、近代の文筆家によっても、あるいは外国の民族学者によっても「神話」が確定されていない国がある。それもかなりな規模の国家でありながら神話がないのがイギソスであり、トルコであり、サウジ・アラビアである。サウジの場合は古代アラビア神話があったはずで、ヘブライ神話などにその断片が記録されているが、アラビアがイスラム化する過程で前イスラム時代の伝承は否定され、抹殺されて、今日ではイスラム以前の時代の神話伝承は存在しないことになっている。トルコもイスラムであり、さらに現在トルコ共和国に住んでいる大部分の「トルコ人(チュルク人)」は、10世紀ごろまでに中央アジアからいまのアナトリア半島に移住してきた人々である。それ以前は、紀元前にヒッタイトやプリュギアの文明がアナトワアにさかえ、その時代の神話は一部知られているのだが、それらはいまのトタレコ共和国の神話としては認識されていない。

 ヒッタイト神話はヒッタイト人の神話であり、プリュギアの神話はギリシヤ神話に吸収されたものが残って、それ以外は失われた。ヒッタイトもプリュギアも各地を転々とする遊牧文化で、アナトリア半島に定着していたわけではなさそうである。ある時期にはアナトリア半島にはイラン人がやってきて、ペルシヤ王国の一部となったが、そのときのイラン神話をアナトリアの地域的神話とすることもできない。ネムルト山の古代遺跡は世界遺産として指定はされているが、トルコの遺産ではない。

 トルコには彼らチユフレク族の固有の伝承があるはずだが、それはサウジ・アラビアと同じく、イスラムによって否定されている。アナトリアの民話はかなり豊富に収集されているが、神話的なものはすくない。おそらく、その地にすでに神話が存在し、それを否定した以上、それにかわるものをもちだせなかったのであろう。チュルク族はトタレクメニスタンやタジキスタン、ウズベキスタンなどにも分布しているが、状況は同じで、古典神話は存在しない。

 イスラム教はキリスト教に対してはどちらかというと同じ啓示宗教として理解をしめしている。しかし、イスラム教が布教された地域にかつて存在したプレ・イスラム信仰については非寛容で、すべてをイスラムの教えで統一しようとした。昔話や、『千一夜物語』のような物語ぱ存在するが、民間伝承でも世界の成り立ちを説明するような神話的説話はきびしく排除された。現在のイスラム諸国でもインドネシアやマグレグ諸国では古代伝承の抹殺はそれほど行なわれなかったが、イスラムの中心的な地域、すなわち、メッカ、メディナ、バグダッド、あるいはダマスカスでは古代神話は存在しなくなった。コーラン以外に世界を説明する伝承はないのである。

 トルコではそのほかに、古代の神話時代にはバイカル湖のほとりにいて、アナトソアには後に移住してきたという事情があった。その地に語られていた神話は異民族のもので、トルコ(チュルク)民族にとっては無縁なものであり、さらにイスラムが容認するものでもなかった。

 その上うな事情から、トルコ系民族における神話の不在はある程度わかるが、イギリスに神話がないということはいくぶん不思議に思える。イングランドという国がかなりはやくから成立し、固有の文化を主張していたのである。しかしいわゆる「イギリス神話」はない。「英国」という国が、アイルランド、ウェールズ、スコットランドとイングランドに分かれていて、それぞれ独自の文化を主張していたということが、イギリス神話を固定させなかった原因のひとつだろうし、アイフレランドやウェールズではケルト神話がそれぞれに存在した。また「イギリス文化圏」の政治的中心であったイングランドは、ローマの支配を直接うけており、ローマ文化を神話もふくめて継承していた。後のシェイクスピアもローマ神話を利用しているのである。野蛮な地方文化より、ローマ文化をうけついでいる先進地帯のつもりでいたのだろう。また、そのイングランドにはノルマン侵攻があり、フランスやオランダから王がやってきたりして、それぞれの伝承もあるといえばあったが、より共通のものとしてローマ文化、ローマ法、ローマ神話をうけついだのである。そこでもまず『ベーオウルフ』が中世の神話的テクストとしてあったはずだが、それはイングランドよりアングロサクソン、あるいはゲルマンの伝承であり、舞台はデンマークである。アーサー王物語もウェーフレズか、でなければヨーロッパの伝承だった。18世紀には「オシアン」が、古代からの民間叙事詩の復元として造られたが、文芸的性格がつよかった。それにそれはスコットランドないしはアイルランドのもので、ケタト系のものであり、イングランドのものではなかった。

 さらには、20世紀に卜一ルキンが近代神話を創作したが、これは明らかに卜-ルキンの創作であり、これを人類共通の遺産としての古代神話とみなすひとはいない。

 それ以外ではロビン・フッド伝承などをイングランドの民間神話とすることがあるが、ある程度歴史的にあとづけられるもので、神話的性格は希薄である。獅子心王リチャードなどについてもエルサレムなど国外では伝説的武勲をたて神話化している部分もあるが、イギリス神話を構成するにはいたらない。これはフランス神話にシャルルマーニュ物語群の説話がふくまれることとは性格をことにしている。リチャードはフランス人の母、アワエノール・ダキテーヌにフランスで育てられ、英語をほとんど話せず、父王とフランス王の抗争のときはフランス王に臣従をちかった。即位後も外国でくらし、イングランドにいたのはわずか6ヵ月で、英国王としての仕事はしなかった。シャルルマーニュもヨーロッパ中を転戦し、主たる居城も、いまはドイツ領になるアーヘンにあったが、母も后もフランス人であり、フランク王国の統一者となり、サラセン人と戦ってこれをヨーロッパから撃退し、伝説につつまれて長寿をまっとうした。フランスでもたとえば、エルサレム王となったゴドフロア・ド・ブイョン、そのあとをついだポードワン、その一族の女帝メリサンドや、プランタジネット朝の王となったアンジュー家の領主たち、ノーマン・コンケストの主役となった征服王ウイリアムらもフランス人だったが、いずれもエルサレム王国史や英国史の人物たちで、いかに伝説的に潤色されても、すくなくともフランス神話の人物にはなりえないのである。ただしマーカタンテの『神話事典』では「ブリティッシュ」としてロビン・フッドはもとより、ベーオウルフも、征服王ウイリアムも、獅子心王も、猫の昔話のディック・ホィティントンもあがっている。ただ、この本はアーサー王物語の英雄をイングランド神話に入れているし、北欧の鍛冶屋ヴィーラントをウエイランドとしてそこにいれている。さらにはオーウェルの「動物農場」をいれているので、いわゆる「神話」概念をはずれる選択がされているとみなされる。
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アウクスブルク(一五一八年)のルター

『ルター自伝』より アウクスブルク(一五一八年)

博士マルティン・ルターは、一五一八年にアウクスブルクでどんなことが起こり、ここで教皇の特使が彼とどのように会談し、どのように彼を扱ったかを語った。彼は次のように続けて語った。最初にわたしが呼び出され召し出されたので、まずわたしが姿を現わした。しかしわたしはザクセンの選帝侯フリードリヒ大公の強力な保護の下にいた。大公はアウクスブルクの人たちに書面でもってわたしを委託していたので、彼らはわたしを熱心に世話してくれた。そして「イタリア人だちと交際してはならない。彼らと一緒になってはならない。また彼らと親しくなってはならない」とわたしに警告した。というのは、イタリア人がどんな人間か、わたしはまだ知らなかったからである。

わたしは皇帝の保護状なしに三日の間、アウクスブルクにいた。その間、ひとりのイタリア人がわたしのところに来て、わたしを枢機卿のところへ呼び出して、熱心にわたしに取り消せと言って頼んだ。そして、あなたが「取り消します」とひとこと言いさえすれば、枢機卿はあなたのことを教皇に推薦する、そうすればあなたは名誉を損うことなく選帝侯の所に帰れるであろうと言った。

三日経ってトリエントの司教が来て、皇帝の名によるわたしの保護状を枢機卿に示した。そこでわたしは恭順を示すべく枢機卿のもとに行き、まず脆き、そして平伏し、三度目は土下座した。枢機卿は三だびわたしに起きよと言った。そこでわたしは起立した。これが彼には非常に気に入ったようだった。そして彼はわたしに、もっとよく考慮するようにと希望した。

しかし翌日、わたしは彼のところに行って、少しも取り消そうとは思わないと言うと、彼は言った、「教皇かドイツのことを憂慮しておられることをお前はなんと思っているのか。諸侯が武器と軍隊をもってお前を守るだろうとお前は考えるのか。とんでもない! お前はどこにいるつもりか」、「空の下に!」とわたしは言った。このようにして教皇の名誉と権威は軽蔑された。このようなことは教皇にとってはまことに死よりもっらいことであった。今や彼らは我慢することができなくなった。

その後、教皇はやや軟化し、選帝侯、宮廷説教者シュパラティン修士、御料局顧問官ペフィソガー修士にも手紙を書いて、わたしを教皇に引き渡し、教皇の命令が実行されるように考慮してもらいたいと依頼してきた。選帝侯には次の意見を添えていた。すなわち「あなたご自身はわたしをご存じではないが、わたしはあなたの父上、エルンスト大公にローマでお会いした。父上は全く従順な教会の子であった。いとも敬虔に、わたしたちの宗教を見にこられ、これに非常な敬意を払われた。だから閣下も父上の足跡を踏襲されることを願う」云々。

しかし選帝侯は教皇の異様な謙遜とその後ろめたい様子を看破した。教皇も聖書の力と効果を知っているのだろう。なぜなら、わたしの決意と小冊子が世界の三分の一を占める全欧洲に数日ならずして伝わった、というより、むしろ飛んで行ったからだ。そのため選帝侯は勇気づけられ、教皇の命令を実行しようとせず、聖書の教えに従ったのである。

枢機卿にもっと分別があり、アウクスブルクでもっと謙遜にわたしと交渉し、談判していたなら、そして、わたしが彼の足下に脆いたときにわたしの言葉を聞き入れていたなら、決してこのようなことにはならなかっただろ・う。なぜなら、この頃のわたしはまだ教皇の誤謬を僅かしか知らなかったからである。枢機卿がもし沈黙していたら、わたしも何もいわずに沈黙していただろう。

「われわれはこの件を教皇の権力によって処理し、これを徹底的に根絶させてしまおう」と教皇が言ったのは、まだはっきりしない紛糾した事件について教皇庁がいつも用いる常套手段だった。その後、双方とも泣かねばならなくなった。教皇は当時の状況をなんとか収めるために、三人の枢機卿を送り出したのだろう。

 免罪符に関するルターの抗議はローマ教会の弱点を衝いた。「修道僧の口論」を穏便に調停するように希望していた教皇レオ十世はドミニコ会の人々に勧められて、ルターが自己の教えを弁明するため六十日以内にローマに出頭することを命じた。彼の国君の選帝侯フリードリヒ賢公(一四六三-一五二五年)は異端者の引渡しを依頼されたのであるが、彼はルターにとってこの上なく危険なローマヘの召喚を変更して、一五一八年秋のアウクスブルク国会で教皇庁の利害を代表する教皇の使節として出席する枢機卿カエタヌスの前にルターを召喚するようにした。ルターは恐怖もあったが、死を覚悟の上で、自説を取り消さない固い決心をもってアウクスブルクに旅立った。一五一八年十月十二日彼は大勢力を振るっている枢機卿の前に立った。カエタヌスは彼の誤謬を取り消せと要求し、これ以上もはや教会の平和を乱してはならないと命じた。しかしルターは、教会の唯一の宝は神の自由な恵みからくる福音であると言って一歩も譲らなかった。二日の後、カエタヌスは結論のない対談を中止した。「わたしはこのドイツの人でなしとこれ以上長く語りたくない。なぜならこの人でなしぱ深い目をもっていて、頭の中で不思議な思索をするからである」とカエタヌスは言う。十月二十日の夜、ルターは友人によってひそかにアウクスブルクから連れ出された。九十五箇条を貼り出してからちょうど一年後の十月三十一日、煩わしい乗馬旅行によってヴィニアソベルクに到着した。

フスはプラッの民衆に人気のある説教者であり、神学の教授であった。彼も聖書に拠って教皇の司祭政治に反対し、政治的教会制度の改革のためウィクリフの戦いを受け継いだ。一四一五年七月六日、彼はコンスタンツの宗教会議で異端に問われて焼き殺された。

教皇庁がルターに対してもフスと同様の処刑をしようとしていたことは言うまでもない。しかしルターはフスとボヘミア事件について批判的であって、フスの書物に誤謬のないことは認めるが、彼の信仰箇条を正しいとは認めていない。またボヘミア人のようにフスを聖人とも殉教者とも思っていない。しかしフスを不当にも弾圧したことを非難する。

 「フスがどんなに悪い異端者であったとしても、火刑に処せられることは正しいことではなく、神の掟に反する。ボヘミア人はこのような不当に屈してはならない。神は異端者にも護衛をつけることを命じられる。わたしたちは世界が滅びても神の命令を守るべきである。異端者を釈放することは言うまでもないことだ。それゆえ異端者を征服するためには書物をもってせねばならない。教皇庁がするように、火をもってすべきではない。もし火をもって異端者を征服することが学問なら、刑吏はこの世で最も博学な博士であろう。わたしたちもこれで学問する必要はなく、暴力で他人を征服する者が、他人を火刑に処してもよいことになる」。
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平和国家としての開発協力

『日本の国際協力』より 開発協力の適正性確保のための取組 ⇒ 日本の武器は「平和」しかない。

平和国家としての開発協力

 日本の開発協力は、開発協力大綱の実施上の原則を踏まえて立案・実施されています。

 日本は、開発協力大綱の下で、国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、国際社会の平和と安定および繁栄の確保により一層積極的に貢献するために開発協力を推進していくこととしています。そのため、日本は「非軍事的協力による平和と繁栄への貢献」という、平和国家としての日本にふさわしい開発協力を推進することを基本方針としています。具体的には以下のような原則を踏まえて開発協力を行っています。

 開発途上国において政治的な動乱後に成立した政権や反政府デモが多発している開発途上国に対する支援については、日本は、ODAが適切に使われていることを確認するとともに、開発途上国の民主化、法の支配および基本的人権の状況などに日本として強い関心を持っているとのメッセージを相手国に伝え、ODAによる支援を慎重に検討することとしています。

 開発協力大綱は、ODAを軍事目的に用いないというこれまでの原則を変えるものではなく、「非軍事的協力による平和と繁栄への貢献」を掲げ、平和国家としての日本にふさわしい開発協力を推進する方針を堅持しています。一方、近年、感染症対策や紛争後の復旧・復興等の民生分野や災害救援等、非軍事目的の活動において軍や軍籍を有する者が重要な役割を果たしており、国際社会における重要な開発課題への対応に当たり、これらの者に対し、非軍事目的の協力が必要となる場面がより増加していることを踏まえ、開発協力大綱では、「軍事的用途及び国際紛争助長への使用の回避」の原則の下、これまで十分明確でなかった軍や軍籍を有する者に対する非軍事目的の開発協力に関する方針を明確化しました。大綱策定以降、こうした協力として、たとえば、エクアドルの軍籍を有する職員に対する防災研修や、パプアニューギニア軍楽隊に対する楽器の供与などを実施しています。こうした協力の適正性確保のため、開発協力適正会議のような事前の審査や事後のモニタリンブにもしっかりと取り組んでいきます。また、テロとの闘いや平和構築への貢献に当たっても、日本の支援物資や資金が軍事目的に使われることを避けるため、大綱の原則を十分に踏まえることとしています。

 さらに、テロや大量破壊兵器の拡散を防止するなど、国際社会の平和と安定を維持・強化するとともに、開発途上国はその国内資源を自国の経済社会開発のために適正かつ優先的に配分すべきであるとの観点から、日本はその国の軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入等の動向に十分注意を払って、開発協力を行うこととしています。

環境・気候変動への影響、社会的弱者への配慮

 経済開発を進める上では、環境への負荷や現地社会への影響を考慮に入れなければなりません。日本は、水俣病をはじめとする数々の公害被害の経験を活かし、ODAの実施に当たっては環境への悪影響が回避・最小化されるよう、慎重に支援を行っています。

 開発協力を実施する際には、事業の実施主体となる相手国の政府や関係機関が、環境や現地社会への影響、たとえば、住民の移転や先住民・女性の権利の侵害などに関して配慮をしているか確認します。2010年に策定した「環境社会配慮ガイドライン」に基づき、開発協カプロジェクトが環境や現地社会に望ましくない影響をもたらすことがないよう、その影響を回避・最小化するための相手国による適切な環境社会配慮の確保を支援してきています。このような取組は、環境・社会面への配慮に関する透明性、予測可能性、説明責任を確保することにつながります。

 また、開発政策によって現地社会、特に貧困層や女性、少数民族、障害者などの社会的に弱い立場に置かれやすい人々に望ましくない影響が出ないよう配慮しています。たとえば、JICAは2010年4月に新環境社会配慮ガイドラインを発表し、事前の調査、環境レビュー(見直し)、実施段階のモニタリング(目標達成状況の検証)などにおいて、環境や社会に対する配慮を確認する手続きを行っています。

不正腐敗の防止

 開発協力大綱においては、これまでの実施上の原則に加え、開発協力の効果的・効率的な推進のための原則が具体的に示されたほか、不正腐敗の防止、開発協力関係者の安全配慮など、適正性の確保の観点からの新しい原則も盛り込まれています。

 日本のODAは、国民の税金を原資としていることから、ODA事業に関連して不正行為が行われることは、開発協力の適正かつ効果的な実施を阻害するのみならず、ODA事業に対する国民の信頼を損なうもので、絶対に許されません。そのため、政府とJICAは過去に発生した不正事件も踏まえ、調達手続きなどにおいて透明性を確保するなど不正の防止に取り組んでいます。

 2014年には、インドネシアにおける円借款事業をめぐる不正により、日本企業が米国司法当局と司法取引を行い、米国において有罪判決を受けたほか、インドネシア、ウズベキスタン、ベトナムにおける円借款事業等に関連した不正の疑いで、日本企業関係者が国内で起訴され、有罪判決を受けました。外務省、JICAとしては、上述のとおり、これまでにも様々な不正防止策を講じてきたところですが、ODA事業への信頼を損ねる事案が発生したことを踏まえ、不正腐敗情報相談窓口の強化、不正に関与した企業への措置の強化、企業へのコンプライアンス体制構築の働きかけなどの再発防止策のさらなる強化を行っています。また、このような事態を未然に抑止するためには、日本側のみならず、相手国における取組・協力も必要であり、その観点から、相手国政府とも協議を行うほか、ガバナンス強化のための支援も行っています。また、日本のODA事業関係者および相手国政府関係者の不正腐敗防止に係る意識向上等を目的とした啓発資料の作成、配布を行いました。
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