未唯への手紙
未唯への手紙
超自我
『精神分析再考』より 超自我
超自我の誕生
フロイトの人生の後半は、一時期は一つの学派として急速に拡大し世界に広がっていくかと思われた精神分析の学界が、ユングなどの弟子の離反により、内側からほころびはじめ、さらに、第二次世界大戦期のユダヤ人の弾圧という外からの圧力により、暴力的に生活そして生命さえも危険にさらされるという、失望や絶望に満ちた苦いものであった。その中で、フロイトは人間の中にある悲惨な状況にあってもなお精神の高みから理想を語りよく生きようとする心の働き、また、悪に対して懲罰を加えようとする心の働きについて「超自我」と名づけて人間の心の構造の理論を今ある形に発展させた。
超自我は親や養育者など、人が同一化する対象である人物が持つ超自我を取り入れることから育つ。同一化と取り入れは、人が人との関係の中で影響を受けるときに無意識に生じる心の動きである。フロイトは、超自我の起源を両親との三角関係すなわちエディプス・コンプレックスを克服する段階で生じる同性の親との同一化におき、「超自我はエディプスの遺産である」と述べた。しかし、夕イソンは四、五歳のエディプス期よりももっと早い乳幼児期から始まる長い超自我発達の過程があるとしている。そして、親を理想化し、親の中にある社会規範や道徳と同時に、愛し世話をする姿勢を取り入れることが超自我の起源であるとし恰言い換えればヽ養育者の中にある社会の規範や価値観と、養育者との間で体験されるアタッチメント関係を取り入れることが超自我の起源である。そして、人間は社会の中で生活するうちに、さまざまな人の超自我を取り入れて独自の超自我を発達させていく。抽象度の高い方向へ向かう超自我発達もあれば、濃い情緒的な結びつきの中で一定の人間の影響の色に染まりつづける超自我発達もある。いずれにせよ、超自我は発達するにつれて、遺伝子の引き紐から遠ざかっていく、すなわち動物としての自然に備わった心のシステムとは異質のミーム(文化的遺伝子)となっていくものである。
超自我の機能には自我がめざすべき理想(自我理想)の姿を示すことと、社会や道徳の規範に照らして自我の行動を規制する、すなわち規範に反する振る舞いを禁止するという大きく分けて二つの機能がある。すなわち、自我に対して「何かをするべきだ」「このようにあるべきだ」と圧力をかける機能と「何かをしてはいけない」「このようにあってはいけない」と禁止する機能である。脳科学の視点からは、超自我は眼高∵腹内側部皮質に位置していると考えられる。
超自我の機能は、エスをコントロールするための規範を自我に提供する側面を持つ。コントロール(control)は、ラテン語の cotrarotulus を語源とし、ラテン語 contra は英語で against 、ラテン語 rotulus は英語で roll であり、巻物に書かれた規範により秩序を乱すものに対抗する、という意味を含んでいるようである。超自我はエスの暴走に対抗する規範としてたちはだかったり、エスの怠惰に対抗する規範としてなすべきことに向けて自我を駆り立てたりするとも言えよう。
超自我の取り入れ
超自我は倫理性や社会規範などのその人間が所属する社会集団のルールにより構成される。フロイト(一九三三年)は、「人類は必ずしも現在においてのみ生きているのではなく、超自我によって継承されるイデオロギーの中には、過去、つまり種族と民族の伝統が生きつづけています。この伝統は、現在の力ないし新たな変化にはごくゆっくりとしか道を譲らないものですし、また、超自我を通して作用するわけですから、そのかぎりにおいて、人間生活の中で、経済的諸関係などには左右されない強力な働きを行使するものなのでダ」としている。しかし、流動性が高くなった今日の西欧社会や日本社会においては、フロイトが描くほどに強固な伝統のミーム(文化的遺伝子)を伝えることができない社会集団が多いのではないかと思われる。
超自我が取り入れる社会のルールは所属集団によって異なる。すなわち、誰のどのような超自我を取り入れるかということにより、その人の中にある超自我の内容は異なってくる。極端な例だが、泥棒集団の中で育った子どもは人のものを上手に盗むことがよいことだと信じる超自我を持つかもしれない。また、時期により重要な対人関係は異なるが、超自我の取り入れはそのときに自分にとって重要な対人関係の中で生じる。幼少期の子どもは育ての親の超自我を取り入れる確率が高いが、思春期にはたとえば所属しているクラブの顧問の先生の超自我を取り入れる子どももいるだろうし、また、伸間集団のりIダー的な友人の超自我を取り入れる子どももいるだろう。
また、取り入れる対象は直接関係を持つ人間だけにかぎらない。文字が読めるようになれば本やインターネットから、映像を理解できるようになればアニメや映画から、劇を見に行けば劇から、宗教集団や政治集団の集会にいけば集会で語られることからなど、多様な刺激の中から多かれ少なかれ超自我の取り入れが起きる可能性がある。ただ、その取り入れあるいは影響は、刺激の量や質によっては一時的なものとなることもある。たとえば貧しい人が自分よりもさらに貧しい人を助ける映画を見て、「自分にとって最低限必要なものをなげうってでも自分よりも困っている人を助けるべきだ」という超自我の理想を一時的に取り入れても、二日後には、友人から災害で苦しむ地域への募金を誘われたときに「お小遣いを減らしたくないな、新しい洋服ほしいし」と思って募金を断る人もいるだろう。
インターネットは広い世界に開かれているはずであるが、実際には一人で情報の選択をすることにより夕コツボ化を促進したと言われている。すなわち、一人で自由に広大な情報の世界から情報を取捨選択できる状況下で、人はどんどん自分が好む情報ばかりを選択して取り入れ、見たくないものは見ないですませるようになる傾向がある。そして類似の価値観を持った人々がインターネットの中で集団を作り、内輪でその価値観を増幅させる現象が見られる。ネットの中のバーチャルな集団の価値観が超自我として取り入れられている人もいるだろう。あるいはある過去の時代の思想家に心酔してその著書を何冊も繰り返し読んでいる人は、同時代の人の超自我ではなく過去の思想家の超自我を、本を通じて取り入れてそれによって自分の超自我を固めていくかもしれない。
一方、一人で情報の世界を渉猟していても、似たもの同士の集団の中に身を置いていたとしても、自ら脇道にそれたり、まったく逆の情報にアクセスしてみたりする人もいる。そのような相対化の作業ができれば、超自我は寛容さや広い視野を持ったものに育っていくだろう。しかし、それができずにただタコツボに入り込んでしまった場合には、超自我の発達は自己愛的で狭い幼児的な水準に停滞してしまう。タコツボに入りっぱなしにならないための能力である批判的精神、同調圧力に負けずに自分で考え行動する自立性、そして自由で柔らかい頭を育てるのは、教育の重要な役割の一つである。
2017年06月05日(月) 新たな地域の連携の結節点としてのコミュニティファンド
『連携アプローチによるローカルガバナンス』より コミュニティ・ファンドを通じた新たな地或の連携 コミュニティファンドとは何か--市民コミュニティ財団の定義と役割
市民コミュニティ財団をはじめとするコミュニティファンドはそれ単体では「単なる組織」でしかありえない。大手助成財団のような多額の基本財産を抱え、運用益で助成ができるわけではないからである。寄付者という民の存在があって初めてインパクトを創出することができる。その点においても、この参加をいかに促すかは重要になってくる。また地域を背景に考えると個人の参加だけではない。企業の力も地域にとっては重要である。
市民コミュニティ財団は課題解決アライアンスの要として、多様な参加をデザインしその結節点を担う役割がある。いくっかの市民コミュニティ財団で展開されている「カンパイチャリティ」などはその好例である。地域の飲食店に協力をお願いし、チャリティ・メニューをそれぞれの店舗で考案し提供してもらうプログラムである。例えば、通常は400円で生ビールを販売している店舗では450円で販売し、その50円が寄付に回るという仕組みだ。店舗も一緒に協力する気持ちを表現するために、小鉢をつけるなど工夫をこらす。店舗には事前に、応援する社会課題プログラム(寄付先)を選択してもらうため、客にはいくらがどこに寄付されて、何に使われるかが分かるようになっている。事業者と連携することで、本業を通じて寄付への「参加の機会」を広く提供することが可能になる。潜在的な寄付者の参加をデザインするにとどまらず、事業者側の担い手としての役割も創出している。筆者の体験でもカンパイチャリティを実施している店舗では、注文を取りにくるアルバイトがカンパイチャリティの取組みを紹介し、店舗が応援するNPOの活動内容を伝え、参加を促していた。つまり、アルバイトの店員がNPOのファンドレイザーの役割を担い寄付集めをしている構造がその瞬間は成立していることになる。企業や事業者の持つ社会性や力を引き出す役割と力量がコミュニティファンドには必要といえる。また、これらの仕組みの応用として、乾杯の風景の写真をSNSでハッシュタグをつけて発信することで1投稿につき10円の寄付が協賛企業から寄付されるいう仕組みや、酒販の問屋が協賛して卸している小売店舗と協力してカンパイチャリティを行うなど地域ごとに進化を見せている。
コミュニティファンドの果たさねばならない役割の1つに、課題の可視化・共有化を促し、課題解決のソリューションを自ら作り出す、もしくはそのような「場」を生み出す役割がある。現在、コミュニティ財団協会が取り組んでいる「コレクティブインパクトプロジェクトjがまさにそれである。役割の課題の発見・認知の段階で財団に課題が持ち込まれ、各種連携団体と課題の実態的な把握と分析、課題解決に向けた事業作りを展開し、そのプロセスにおける資金提供をコミュニティ財団が行うというものである。社会的な価値を共創し、市民社会に根付かせる具体的なプロセスとソーシャルインパクトを作り出していこうというものである。幾っかの萌芽的な取り組みを紹介したい。
まず、京都で取り組まれている「祇園祭ごみゼロプロジェクト」である。祇園祭は日本を代表する風物詩の1つである。世界中から観光客が訪れ、京都に住む人々にとっても誇り高き祭りである。しかし、その裏ではゴミ問題が深刻である。祇園祭の宵山行事期間中に発生するゴミの量は約60トンといわれている。歩行者天国が解除された路上には大量のゴミが散乱し、夜を徹して清掃が行われている。その状況に問題意識をもったコミュニティファンドの理事が中心となり課題の分析・情報収集・ステークホルダーヘの呼びかけを行い「祇園祭ごみゼロ大作戦実行委員会」が結成された。ごみの分別指導のみならず、新たなソーシャルソリューションとして歩行者天国に並ぶ屋台事業者にリユース食器を提供し廃棄物を低減させようという取り組みである。コミュニティファンドはリユース食器の購入代金や運営経費などを市民からの寄付で調達し運営を支えた。特筆すべきは、当日は2000人以上の市民ボランティアが取り組みを支えたのに加え、趣旨に共感した廃棄物処理業者の組合が総力をあげて取り組んだことである。実行委員長も組合の理事長かっとめた。本来、廃棄物処理業者はごみが多く出るとそれだけ仕事が多くなる。これまでの経済合理性をベースとした感覚では、ごみ業者がごみ減量に取り組むというのは矛盾に満ち溢れているかもしれない。しかし、持続可能性の追求という価値が共有されある意味でこれまでのパラダイムを転換し、取り組みが進んだことにコミュニティファンドが生み出すの可能性と役割を見出す。コミュニティファンドがこのような動きの資金的にも非資金的にも基盤を支え、積極的な社会変革を促すハブとして役割を果たしつつある。
愛知ではそれらをより積極的に取り組んでいる。「あいちの課題深堀ファンド」はNPOが取り組んでいる課題を「深掘りすることで、緊急性や重要性を巻き込みたい対象者に伝えられるようになること」が目標で、あいちコミュニティ財団が力を入れている事業だ。特徴的なのは、1団体につき愛知県在勤の4~5名の公務員や企業の従業員、大学の教員や卒業生が協力して掘り下げていく点である。これも地域のシンクタンクがサポートし、調査やデーター分析などを通して地域の実態を明らかにし、その上で先行して取り組んでいる事例をリサーチしそれらの背景やポイント、限界などを明らかにし、自分たちの地域の課題解決戦略を導き出すというプログラムである。そのプロセスを踏むことによって、団体側は課題の発生原因や背景を的確に押さえることができ、かつこれから必要な取り組みに対して具体的に根拠をもって社会に伝えることができると考えられる。
これらの取り組みの特徴は以下のようにいえる。まず、これまでの助成の在り方を大きく変化させている。従来の助成は申請者の要請にもとづく申請主義といえる。しかし、これらの取り組みは明確な申請者や活動内容がない段階で財団が動いているともいえる。
これらは地域の課題を可視化させ、担い手や活動を創り出していくインキュベーション機能をコミュニティ財団が果たしている。
市民コミュニティ財団の大きな役割と生み出されるソーシャルインパクトの源泉にはこのようなコミュニティの諸資源を組み直し価値を生成する営みがある。逆にいえば、市民コミュニティ財団の特徴は地域の様々な団体一個人・企業・自治体などと連携をしながら課題解決のソリューションを創出することにある。先の事例でも明らかなように、課題やニーズを的確に把握するために数値晴報を分析し把握にっとめ、円卓会議などの場をっくる準備段階によって人がもつ数値階報以外の背景情報や地域に蓄積されてきた情報を探し出し、分析し同時に共有を促している。同時にそのプロセスを通じ、関係する人材や組織を把握し、対応する政策や行政の動きなども捕捉していくことになる。
つまり、コミュニティ財団のゴールは「助成」や「分配」にあるわけではない。市民の課題解決に向けた情報やリソースの再構築、対処的になりがちな現場のエンパワーメントやキャパシティビルディングを現場のNPOと一緒に並走型で展開することでソーシャルインパクトが生成されるところに市民コミュニティ財団の価値がある。助成金額以上にこのような非資金的支援が重要なのである。
超自我の誕生
フロイトの人生の後半は、一時期は一つの学派として急速に拡大し世界に広がっていくかと思われた精神分析の学界が、ユングなどの弟子の離反により、内側からほころびはじめ、さらに、第二次世界大戦期のユダヤ人の弾圧という外からの圧力により、暴力的に生活そして生命さえも危険にさらされるという、失望や絶望に満ちた苦いものであった。その中で、フロイトは人間の中にある悲惨な状況にあってもなお精神の高みから理想を語りよく生きようとする心の働き、また、悪に対して懲罰を加えようとする心の働きについて「超自我」と名づけて人間の心の構造の理論を今ある形に発展させた。
超自我は親や養育者など、人が同一化する対象である人物が持つ超自我を取り入れることから育つ。同一化と取り入れは、人が人との関係の中で影響を受けるときに無意識に生じる心の動きである。フロイトは、超自我の起源を両親との三角関係すなわちエディプス・コンプレックスを克服する段階で生じる同性の親との同一化におき、「超自我はエディプスの遺産である」と述べた。しかし、夕イソンは四、五歳のエディプス期よりももっと早い乳幼児期から始まる長い超自我発達の過程があるとしている。そして、親を理想化し、親の中にある社会規範や道徳と同時に、愛し世話をする姿勢を取り入れることが超自我の起源であるとし恰言い換えればヽ養育者の中にある社会の規範や価値観と、養育者との間で体験されるアタッチメント関係を取り入れることが超自我の起源である。そして、人間は社会の中で生活するうちに、さまざまな人の超自我を取り入れて独自の超自我を発達させていく。抽象度の高い方向へ向かう超自我発達もあれば、濃い情緒的な結びつきの中で一定の人間の影響の色に染まりつづける超自我発達もある。いずれにせよ、超自我は発達するにつれて、遺伝子の引き紐から遠ざかっていく、すなわち動物としての自然に備わった心のシステムとは異質のミーム(文化的遺伝子)となっていくものである。
超自我の機能には自我がめざすべき理想(自我理想)の姿を示すことと、社会や道徳の規範に照らして自我の行動を規制する、すなわち規範に反する振る舞いを禁止するという大きく分けて二つの機能がある。すなわち、自我に対して「何かをするべきだ」「このようにあるべきだ」と圧力をかける機能と「何かをしてはいけない」「このようにあってはいけない」と禁止する機能である。脳科学の視点からは、超自我は眼高∵腹内側部皮質に位置していると考えられる。
超自我の機能は、エスをコントロールするための規範を自我に提供する側面を持つ。コントロール(control)は、ラテン語の cotrarotulus を語源とし、ラテン語 contra は英語で against 、ラテン語 rotulus は英語で roll であり、巻物に書かれた規範により秩序を乱すものに対抗する、という意味を含んでいるようである。超自我はエスの暴走に対抗する規範としてたちはだかったり、エスの怠惰に対抗する規範としてなすべきことに向けて自我を駆り立てたりするとも言えよう。
超自我の取り入れ
超自我は倫理性や社会規範などのその人間が所属する社会集団のルールにより構成される。フロイト(一九三三年)は、「人類は必ずしも現在においてのみ生きているのではなく、超自我によって継承されるイデオロギーの中には、過去、つまり種族と民族の伝統が生きつづけています。この伝統は、現在の力ないし新たな変化にはごくゆっくりとしか道を譲らないものですし、また、超自我を通して作用するわけですから、そのかぎりにおいて、人間生活の中で、経済的諸関係などには左右されない強力な働きを行使するものなのでダ」としている。しかし、流動性が高くなった今日の西欧社会や日本社会においては、フロイトが描くほどに強固な伝統のミーム(文化的遺伝子)を伝えることができない社会集団が多いのではないかと思われる。
超自我が取り入れる社会のルールは所属集団によって異なる。すなわち、誰のどのような超自我を取り入れるかということにより、その人の中にある超自我の内容は異なってくる。極端な例だが、泥棒集団の中で育った子どもは人のものを上手に盗むことがよいことだと信じる超自我を持つかもしれない。また、時期により重要な対人関係は異なるが、超自我の取り入れはそのときに自分にとって重要な対人関係の中で生じる。幼少期の子どもは育ての親の超自我を取り入れる確率が高いが、思春期にはたとえば所属しているクラブの顧問の先生の超自我を取り入れる子どももいるだろうし、また、伸間集団のりIダー的な友人の超自我を取り入れる子どももいるだろう。
また、取り入れる対象は直接関係を持つ人間だけにかぎらない。文字が読めるようになれば本やインターネットから、映像を理解できるようになればアニメや映画から、劇を見に行けば劇から、宗教集団や政治集団の集会にいけば集会で語られることからなど、多様な刺激の中から多かれ少なかれ超自我の取り入れが起きる可能性がある。ただ、その取り入れあるいは影響は、刺激の量や質によっては一時的なものとなることもある。たとえば貧しい人が自分よりもさらに貧しい人を助ける映画を見て、「自分にとって最低限必要なものをなげうってでも自分よりも困っている人を助けるべきだ」という超自我の理想を一時的に取り入れても、二日後には、友人から災害で苦しむ地域への募金を誘われたときに「お小遣いを減らしたくないな、新しい洋服ほしいし」と思って募金を断る人もいるだろう。
インターネットは広い世界に開かれているはずであるが、実際には一人で情報の選択をすることにより夕コツボ化を促進したと言われている。すなわち、一人で自由に広大な情報の世界から情報を取捨選択できる状況下で、人はどんどん自分が好む情報ばかりを選択して取り入れ、見たくないものは見ないですませるようになる傾向がある。そして類似の価値観を持った人々がインターネットの中で集団を作り、内輪でその価値観を増幅させる現象が見られる。ネットの中のバーチャルな集団の価値観が超自我として取り入れられている人もいるだろう。あるいはある過去の時代の思想家に心酔してその著書を何冊も繰り返し読んでいる人は、同時代の人の超自我ではなく過去の思想家の超自我を、本を通じて取り入れてそれによって自分の超自我を固めていくかもしれない。
一方、一人で情報の世界を渉猟していても、似たもの同士の集団の中に身を置いていたとしても、自ら脇道にそれたり、まったく逆の情報にアクセスしてみたりする人もいる。そのような相対化の作業ができれば、超自我は寛容さや広い視野を持ったものに育っていくだろう。しかし、それができずにただタコツボに入り込んでしまった場合には、超自我の発達は自己愛的で狭い幼児的な水準に停滞してしまう。タコツボに入りっぱなしにならないための能力である批判的精神、同調圧力に負けずに自分で考え行動する自立性、そして自由で柔らかい頭を育てるのは、教育の重要な役割の一つである。
2017年06月05日(月) 新たな地域の連携の結節点としてのコミュニティファンド
『連携アプローチによるローカルガバナンス』より コミュニティ・ファンドを通じた新たな地或の連携 コミュニティファンドとは何か--市民コミュニティ財団の定義と役割
市民コミュニティ財団をはじめとするコミュニティファンドはそれ単体では「単なる組織」でしかありえない。大手助成財団のような多額の基本財産を抱え、運用益で助成ができるわけではないからである。寄付者という民の存在があって初めてインパクトを創出することができる。その点においても、この参加をいかに促すかは重要になってくる。また地域を背景に考えると個人の参加だけではない。企業の力も地域にとっては重要である。
市民コミュニティ財団は課題解決アライアンスの要として、多様な参加をデザインしその結節点を担う役割がある。いくっかの市民コミュニティ財団で展開されている「カンパイチャリティ」などはその好例である。地域の飲食店に協力をお願いし、チャリティ・メニューをそれぞれの店舗で考案し提供してもらうプログラムである。例えば、通常は400円で生ビールを販売している店舗では450円で販売し、その50円が寄付に回るという仕組みだ。店舗も一緒に協力する気持ちを表現するために、小鉢をつけるなど工夫をこらす。店舗には事前に、応援する社会課題プログラム(寄付先)を選択してもらうため、客にはいくらがどこに寄付されて、何に使われるかが分かるようになっている。事業者と連携することで、本業を通じて寄付への「参加の機会」を広く提供することが可能になる。潜在的な寄付者の参加をデザインするにとどまらず、事業者側の担い手としての役割も創出している。筆者の体験でもカンパイチャリティを実施している店舗では、注文を取りにくるアルバイトがカンパイチャリティの取組みを紹介し、店舗が応援するNPOの活動内容を伝え、参加を促していた。つまり、アルバイトの店員がNPOのファンドレイザーの役割を担い寄付集めをしている構造がその瞬間は成立していることになる。企業や事業者の持つ社会性や力を引き出す役割と力量がコミュニティファンドには必要といえる。また、これらの仕組みの応用として、乾杯の風景の写真をSNSでハッシュタグをつけて発信することで1投稿につき10円の寄付が協賛企業から寄付されるいう仕組みや、酒販の問屋が協賛して卸している小売店舗と協力してカンパイチャリティを行うなど地域ごとに進化を見せている。
コミュニティファンドの果たさねばならない役割の1つに、課題の可視化・共有化を促し、課題解決のソリューションを自ら作り出す、もしくはそのような「場」を生み出す役割がある。現在、コミュニティ財団協会が取り組んでいる「コレクティブインパクトプロジェクトjがまさにそれである。役割の課題の発見・認知の段階で財団に課題が持ち込まれ、各種連携団体と課題の実態的な把握と分析、課題解決に向けた事業作りを展開し、そのプロセスにおける資金提供をコミュニティ財団が行うというものである。社会的な価値を共創し、市民社会に根付かせる具体的なプロセスとソーシャルインパクトを作り出していこうというものである。幾っかの萌芽的な取り組みを紹介したい。
まず、京都で取り組まれている「祇園祭ごみゼロプロジェクト」である。祇園祭は日本を代表する風物詩の1つである。世界中から観光客が訪れ、京都に住む人々にとっても誇り高き祭りである。しかし、その裏ではゴミ問題が深刻である。祇園祭の宵山行事期間中に発生するゴミの量は約60トンといわれている。歩行者天国が解除された路上には大量のゴミが散乱し、夜を徹して清掃が行われている。その状況に問題意識をもったコミュニティファンドの理事が中心となり課題の分析・情報収集・ステークホルダーヘの呼びかけを行い「祇園祭ごみゼロ大作戦実行委員会」が結成された。ごみの分別指導のみならず、新たなソーシャルソリューションとして歩行者天国に並ぶ屋台事業者にリユース食器を提供し廃棄物を低減させようという取り組みである。コミュニティファンドはリユース食器の購入代金や運営経費などを市民からの寄付で調達し運営を支えた。特筆すべきは、当日は2000人以上の市民ボランティアが取り組みを支えたのに加え、趣旨に共感した廃棄物処理業者の組合が総力をあげて取り組んだことである。実行委員長も組合の理事長かっとめた。本来、廃棄物処理業者はごみが多く出るとそれだけ仕事が多くなる。これまでの経済合理性をベースとした感覚では、ごみ業者がごみ減量に取り組むというのは矛盾に満ち溢れているかもしれない。しかし、持続可能性の追求という価値が共有されある意味でこれまでのパラダイムを転換し、取り組みが進んだことにコミュニティファンドが生み出すの可能性と役割を見出す。コミュニティファンドがこのような動きの資金的にも非資金的にも基盤を支え、積極的な社会変革を促すハブとして役割を果たしつつある。
愛知ではそれらをより積極的に取り組んでいる。「あいちの課題深堀ファンド」はNPOが取り組んでいる課題を「深掘りすることで、緊急性や重要性を巻き込みたい対象者に伝えられるようになること」が目標で、あいちコミュニティ財団が力を入れている事業だ。特徴的なのは、1団体につき愛知県在勤の4~5名の公務員や企業の従業員、大学の教員や卒業生が協力して掘り下げていく点である。これも地域のシンクタンクがサポートし、調査やデーター分析などを通して地域の実態を明らかにし、その上で先行して取り組んでいる事例をリサーチしそれらの背景やポイント、限界などを明らかにし、自分たちの地域の課題解決戦略を導き出すというプログラムである。そのプロセスを踏むことによって、団体側は課題の発生原因や背景を的確に押さえることができ、かつこれから必要な取り組みに対して具体的に根拠をもって社会に伝えることができると考えられる。
これらの取り組みの特徴は以下のようにいえる。まず、これまでの助成の在り方を大きく変化させている。従来の助成は申請者の要請にもとづく申請主義といえる。しかし、これらの取り組みは明確な申請者や活動内容がない段階で財団が動いているともいえる。
これらは地域の課題を可視化させ、担い手や活動を創り出していくインキュベーション機能をコミュニティ財団が果たしている。
市民コミュニティ財団の大きな役割と生み出されるソーシャルインパクトの源泉にはこのようなコミュニティの諸資源を組み直し価値を生成する営みがある。逆にいえば、市民コミュニティ財団の特徴は地域の様々な団体一個人・企業・自治体などと連携をしながら課題解決のソリューションを創出することにある。先の事例でも明らかなように、課題やニーズを的確に把握するために数値晴報を分析し把握にっとめ、円卓会議などの場をっくる準備段階によって人がもつ数値階報以外の背景情報や地域に蓄積されてきた情報を探し出し、分析し同時に共有を促している。同時にそのプロセスを通じ、関係する人材や組織を把握し、対応する政策や行政の動きなども捕捉していくことになる。
つまり、コミュニティ財団のゴールは「助成」や「分配」にあるわけではない。市民の課題解決に向けた情報やリソースの再構築、対処的になりがちな現場のエンパワーメントやキャパシティビルディングを現場のNPOと一緒に並走型で展開することでソーシャルインパクトが生成されるところに市民コミュニティ財団の価値がある。助成金額以上にこのような非資金的支援が重要なのである。
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自律的な働き方と社会規範・市場規範
『「やりがいのある仕事」と「働きがいのある職場』より なぜ「やりがい」・「働きがい」が問題となるのか
現在、企業での働き方は、市場規範重視から社会規範重視へと変化している。時間重視から成果・業績重視への移行と言ってもいいかもしれない。
行動経済学者のダン・アリエリー(Dan Ariely)によると、われわれは2つの異なる世界に同時に生きている。それは、「社会規範が優勢な世界と、市場規範が規則を作る世鼻」である。
社会規範は、われわれの社交性や共同体の必要性と密接な関係にある。例えば、友人や同僚からの頼み事に応えるようなもので、この世界では何か見返りを期待したり、すぐさまお返しをしなければならない、といったことはない。ただ働きも十分考えられる世界である。「人との社会的関係や、思いやりを重視する『社会的な世界』]である。
一方、市場規範に支配された世界はまったく別物である。そこでは、給与、価格、利息など、市場とのかかわりが意味をもつ。「市場規範には、独立独歩、独創匪、個人主義も含まれるが、対等な利益や迅速な支払いという意味合いもある」。この世界では、働いた時間には、必ず給与(時給や月給や年俸の区別な)で報いなければならない。言わば、「金銭でものごとを捉える『金銭的な世界』」である。
厄介なのは、社会規範と市場規範が衝突すると問題が起こることである。言い換えれば、「社会的なモチベーションと金銭的なモチベーションは共存できない」のである。社会的なモチペーションが機能している中に、金銭的な要素が加われば、当初のモチペーションが消えてしまうのである。
では、ナレッジワーカーの世界はどうであろうか。それは、市場規範ではなく、社会規範が強く作用する世界ではないだろうか。
アリエリーは、社会規範と市場規範のもつそれぞれの効果を実験で確かめた。彼が行ったのは、実験協力者にコンピュータの画面の左側に表示されるマル(○)を、マウスを使って右側に表示される四角の中にドラッグするという課題をやる実験であった。ドラッグし終わると新しいマルが元の位置に現れる、実験協力者は、5分間にできるだけ多くドラッグするよう依頼され、ドラッグしたマルの数を洲定された。
実験協力者の一部は、この実験で5ドル受け取った。実験室に入った時点で支払われ、5分後にコンピュータが課題の終わりを告げた時点で実験は終わる。労力に対して支払われることから、実験協力者には市場規範が適用される。次のグループも同じ指示と課題が与えられたが、報酬ははるかに少額(1つの実験では50セント、別の実験では10セント)であった。だが、このグループにも市場規範が適用されるものと予測された。最後のグループには、具体的な見返りを渡さず、お金の話もせず、ただ単に力を貸してほしいと頼み込んだ。このグループには社会規範が適用されるだろうと予測された。
実験の結果はどうであったのか。5ドルグループは平均159個のマルを、50セントグループは平均101個のマルをそれぞれドラッグしていた。金額が多いほどやる気が高まり、より熱心に取り組んでいたことがわかる。では、最後の報酬なしグループはどうか。彼らは、50セントグループよりもはるかに多く、5ドルグループよりもわずかに多い平均168個をドラッグしていたのである。
この事態をどう解釈すればいいのか。 50セントグループがどう考えたのかを考えてみよう。50セント受け取ったことで、彼らの中には実験者のボランティアをするという気持ちは失せ、市場規範に気持ちを切り替えた。そうなると、50セントという報酬は少なすぎると判断し、気乗りしないままに実験に取り組んだ結果、最低の結果に終わった、と考えられる。アリエリーに言わせれば、(市場規範が実験室に入り込んで、社会規範が押し出された」のである。それは、お金が絡んだ結果であった。アリエリーは、金銭での報酬の代わりに、50セントに相当するスニッカーズのチョコバーと、5ドルに相当するゴディバのチョコレート一箱というプレゼントを使った実験も行っている。実験協力者には、その値段はもちろん明かしていない。その結果、スニッカーズの場合が162個、ゴディバの場合が169個、何ももらわなかった場合が168個であった。ちょっとしたプレゼントは市場規範を招かなかったのである。値段を明かした途端、市場規範が出現し、最初の結果に戻ってしまったことは言うまでもない。
以上の点を、現在の労働状況に当てはめると、どういったことが言えるのか。
かつて、労働は有形のもの(自動車や家電製品など)を生み出し、労働時間とは9時から5時までといったように、企業の指揮・命令下にある時間、タイムレコーダーに記録された時間で測られ、その対価として給与が支払われていた。それば巾場規範が支配する社会であった。そこでは、機械の前にいて、そのスピードに介わせて働くとか、誰かの指揮・命令の下で働くといった他律的な働き方が主流となる働き方であった。
本章でみたように、現在の働き方はそうではない。労働は、無形のもの(サービス)を生み出す。職場で過ごした時間が問題ではない。イ可よりも問われるのは「創造性」である。それは、職場にいる時間で測定できるものではない。通勤途卜も、帰宅して風呂に入っている時も、いつも仕事のことを考えている。企業は、職場と家庭の垣根を取り払うために、スマートフォンやノートパソコンを支給する。その結果、ワークとライフの区分が曖昧になっている。こうした労働状況では、社会規範が意味をもつ。社会規範によって、(従業員は熱心で勤勉になり、順応力も意識も高まる傾向」があり、それが(従業員に忠誠心を抱かせ、やる気を起こさせる最善の方法のひとつ」ともなる。
また、創造性が求められる社会では、他律的ではなく自律的な働き方が主流になる。市場規範は、アリエリーの実験で試された「労力」のみの問題ではない。それは、(独立独歩、人助け、個人主義的な振る舞いをはじめ、さまざまな行動にもかかわっている」。社会規範は、「人々を興奮させる。柔軟で、意識が高く、進んで仕事にとりかかるという、企業が今日必要としている従業員になろうと努力する気にさせる」。こうした自律的な働き方が求められる社会、つまり社会規範が物を言う世界に、市場規範を持ち込むと厄介なことが起こる。「社会規範が市場規範と衝突すると、社会規範が長いあいだどこかへ消えてしまう」し、(社会規範は一度でも市場規範に負けると、まずもどってこない」のである。
企業の中で社会規範を生み出すには何か必要になるのか。それは金銭的な報酬ではない。それは、従業員あるいはその家族が病気にかかった時の支援であるとか、簡単に解雇しないといったことである。友人との社会的交流では、何か問題が発生した場合、互いにそばにいて、見守り続ける。企業と従業員でも同じことである。必要な時に互いに手を差し伸べ合うことが社会規範を生むのである。
ところが、現実には、短期利益の追求、アウトソーシングの活用、リストラの横行であり、そこまでいかずとも教育研修や福利厚生の削減が蔓延している。かっての日本企業は、潤沢な福利厚生を提供していた。社立病院、社宅・寮・保養所、社員食堂、運動会、社員貸し付け、住宅ローン支援等々。多くの日本企業は社会規範の利点を切り崩している。それに留まらず、従業員を社会規範の世界から市場規範の世界へと追いやっている。
一方で、従業員にさまざまな特典を提供し続けている企業もある。そうした企業は、企業と従業員との社会的な関係を強調し、従業員と友好的な関係を構築している。アリエリーは、「社会規範(一緒に何かをっくりあげる興奮など)の方が市場規範(昇進ごとにだんだん増えていく給料など)より強い企業(特に新興企業)が、人々からどれほど多くの働きを引き出しているかはまさに驚きだ」と述べている。
現在、企業での働き方は、市場規範重視から社会規範重視へと変化している。時間重視から成果・業績重視への移行と言ってもいいかもしれない。
行動経済学者のダン・アリエリー(Dan Ariely)によると、われわれは2つの異なる世界に同時に生きている。それは、「社会規範が優勢な世界と、市場規範が規則を作る世鼻」である。
社会規範は、われわれの社交性や共同体の必要性と密接な関係にある。例えば、友人や同僚からの頼み事に応えるようなもので、この世界では何か見返りを期待したり、すぐさまお返しをしなければならない、といったことはない。ただ働きも十分考えられる世界である。「人との社会的関係や、思いやりを重視する『社会的な世界』]である。
一方、市場規範に支配された世界はまったく別物である。そこでは、給与、価格、利息など、市場とのかかわりが意味をもつ。「市場規範には、独立独歩、独創匪、個人主義も含まれるが、対等な利益や迅速な支払いという意味合いもある」。この世界では、働いた時間には、必ず給与(時給や月給や年俸の区別な)で報いなければならない。言わば、「金銭でものごとを捉える『金銭的な世界』」である。
厄介なのは、社会規範と市場規範が衝突すると問題が起こることである。言い換えれば、「社会的なモチベーションと金銭的なモチベーションは共存できない」のである。社会的なモチペーションが機能している中に、金銭的な要素が加われば、当初のモチペーションが消えてしまうのである。
では、ナレッジワーカーの世界はどうであろうか。それは、市場規範ではなく、社会規範が強く作用する世界ではないだろうか。
アリエリーは、社会規範と市場規範のもつそれぞれの効果を実験で確かめた。彼が行ったのは、実験協力者にコンピュータの画面の左側に表示されるマル(○)を、マウスを使って右側に表示される四角の中にドラッグするという課題をやる実験であった。ドラッグし終わると新しいマルが元の位置に現れる、実験協力者は、5分間にできるだけ多くドラッグするよう依頼され、ドラッグしたマルの数を洲定された。
実験協力者の一部は、この実験で5ドル受け取った。実験室に入った時点で支払われ、5分後にコンピュータが課題の終わりを告げた時点で実験は終わる。労力に対して支払われることから、実験協力者には市場規範が適用される。次のグループも同じ指示と課題が与えられたが、報酬ははるかに少額(1つの実験では50セント、別の実験では10セント)であった。だが、このグループにも市場規範が適用されるものと予測された。最後のグループには、具体的な見返りを渡さず、お金の話もせず、ただ単に力を貸してほしいと頼み込んだ。このグループには社会規範が適用されるだろうと予測された。
実験の結果はどうであったのか。5ドルグループは平均159個のマルを、50セントグループは平均101個のマルをそれぞれドラッグしていた。金額が多いほどやる気が高まり、より熱心に取り組んでいたことがわかる。では、最後の報酬なしグループはどうか。彼らは、50セントグループよりもはるかに多く、5ドルグループよりもわずかに多い平均168個をドラッグしていたのである。
この事態をどう解釈すればいいのか。 50セントグループがどう考えたのかを考えてみよう。50セント受け取ったことで、彼らの中には実験者のボランティアをするという気持ちは失せ、市場規範に気持ちを切り替えた。そうなると、50セントという報酬は少なすぎると判断し、気乗りしないままに実験に取り組んだ結果、最低の結果に終わった、と考えられる。アリエリーに言わせれば、(市場規範が実験室に入り込んで、社会規範が押し出された」のである。それは、お金が絡んだ結果であった。アリエリーは、金銭での報酬の代わりに、50セントに相当するスニッカーズのチョコバーと、5ドルに相当するゴディバのチョコレート一箱というプレゼントを使った実験も行っている。実験協力者には、その値段はもちろん明かしていない。その結果、スニッカーズの場合が162個、ゴディバの場合が169個、何ももらわなかった場合が168個であった。ちょっとしたプレゼントは市場規範を招かなかったのである。値段を明かした途端、市場規範が出現し、最初の結果に戻ってしまったことは言うまでもない。
以上の点を、現在の労働状況に当てはめると、どういったことが言えるのか。
かつて、労働は有形のもの(自動車や家電製品など)を生み出し、労働時間とは9時から5時までといったように、企業の指揮・命令下にある時間、タイムレコーダーに記録された時間で測られ、その対価として給与が支払われていた。それば巾場規範が支配する社会であった。そこでは、機械の前にいて、そのスピードに介わせて働くとか、誰かの指揮・命令の下で働くといった他律的な働き方が主流となる働き方であった。
本章でみたように、現在の働き方はそうではない。労働は、無形のもの(サービス)を生み出す。職場で過ごした時間が問題ではない。イ可よりも問われるのは「創造性」である。それは、職場にいる時間で測定できるものではない。通勤途卜も、帰宅して風呂に入っている時も、いつも仕事のことを考えている。企業は、職場と家庭の垣根を取り払うために、スマートフォンやノートパソコンを支給する。その結果、ワークとライフの区分が曖昧になっている。こうした労働状況では、社会規範が意味をもつ。社会規範によって、(従業員は熱心で勤勉になり、順応力も意識も高まる傾向」があり、それが(従業員に忠誠心を抱かせ、やる気を起こさせる最善の方法のひとつ」ともなる。
また、創造性が求められる社会では、他律的ではなく自律的な働き方が主流になる。市場規範は、アリエリーの実験で試された「労力」のみの問題ではない。それは、(独立独歩、人助け、個人主義的な振る舞いをはじめ、さまざまな行動にもかかわっている」。社会規範は、「人々を興奮させる。柔軟で、意識が高く、進んで仕事にとりかかるという、企業が今日必要としている従業員になろうと努力する気にさせる」。こうした自律的な働き方が求められる社会、つまり社会規範が物を言う世界に、市場規範を持ち込むと厄介なことが起こる。「社会規範が市場規範と衝突すると、社会規範が長いあいだどこかへ消えてしまう」し、(社会規範は一度でも市場規範に負けると、まずもどってこない」のである。
企業の中で社会規範を生み出すには何か必要になるのか。それは金銭的な報酬ではない。それは、従業員あるいはその家族が病気にかかった時の支援であるとか、簡単に解雇しないといったことである。友人との社会的交流では、何か問題が発生した場合、互いにそばにいて、見守り続ける。企業と従業員でも同じことである。必要な時に互いに手を差し伸べ合うことが社会規範を生むのである。
ところが、現実には、短期利益の追求、アウトソーシングの活用、リストラの横行であり、そこまでいかずとも教育研修や福利厚生の削減が蔓延している。かっての日本企業は、潤沢な福利厚生を提供していた。社立病院、社宅・寮・保養所、社員食堂、運動会、社員貸し付け、住宅ローン支援等々。多くの日本企業は社会規範の利点を切り崩している。それに留まらず、従業員を社会規範の世界から市場規範の世界へと追いやっている。
一方で、従業員にさまざまな特典を提供し続けている企業もある。そうした企業は、企業と従業員との社会的な関係を強調し、従業員と友好的な関係を構築している。アリエリーは、「社会規範(一緒に何かをっくりあげる興奮など)の方が市場規範(昇進ごとにだんだん増えていく給料など)より強い企業(特に新興企業)が、人々からどれほど多くの働きを引き出しているかはまさに驚きだ」と述べている。
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ケルンサミットと知識社会・ナレッジワーカー
『「やりがいのある仕事」と「働きがいのある職場』より なぜ「やりがい」・「働きがい」が問題となるのか
時代の変化は、20世紀から21世紀への世紀転換期頃に生じた。それを如実に示すのが、1999年6月18~20日にドイツのケルンで開催された主要国首脳会議(サミット)で採択された共同宣言(コミュニケ)である。ケルンサミットでは、サミット史上初めて教育が主要テーマとなり、共同宣言に、「人々への投資」が盛り込まれ、「ケルン憲章--生涯学習の目的と希望--」が採択された。
この「人々への投資」では、「基礎教育、職業教育、学位、労働市場に合った技能や知識の生涯を通じた向上および革新的思考の開発への支援は、知識重視社会に向かいつつある今日、経済・技術進歩を実現する上で重要である。これらはまた、個人を豊かにし、社会的な責任感と参加意識を醸成する」と謳っている。一方、ケルン憲章では、「すべての国が直面する課題は、どのようにして、学習する社会となり、来世紀に必要とされる知識、技能、資格を市民が身につけることを確保するかである。経済や社会はますます知識に基づくものとなっている。教育と技能は、経済的成功、社会における責任、社会的一体感を実現する上で不可欠である」と謳っている。
また、21世紀を柔軟性(flexibility)と変化(change)の世紀と定義し、流動性(mobility)への要請がかつてなく高まるとする。この流動性のパスポートは、「教育と生涯学習」で、それは政府や民間セクター(企業)を介して、すべての人々に提供され、個人には自助努力が求められることとなる。政府はあらゆるレペルでの教育および技能(skill、スキル)の向上のための投資を行い、民間セクター(企業)は既存および将来の労働者の訓練を行い、個人には自己の能力およびキャリア(careers、仕事の経験)の開発が求められる。それは、「人々への投資」の必要性が高まっているからであり、それが「雇用、経済成長、社会的・地域的不平等の縮小の鍵」だからであり、「知識へのアクセスは収入と生活の質の決定要因として最も重要なものの1つになる」からである。
ケルン憲章を踏まえて、翌2000年4月1~3日に東京と沖縄で開催されたG8教育大臣会合では、「変容する社会における教育」という議題の下、次のような内容の議長サマリーが提出された。そこでは、「教育と生涯学習」を「伝統的な工業化社会から顕在化しつつある知識社会への変容の中での柔軟性と変化に適応するために必要」なものと位置づけた上で、「知識社会は重要な機会を提供すると同時に、現実的な危機をももたらすものである。(中略)労働市場で求められる技能レベルは高く、すべての社会は教育レペルの向上という課題に直面している。高い技能レベルを身につけ維持できる者は社会的にも経済的にも大成功を収めることができるが、そうでない者は安定した職業および、その職業によって得るべき社会的・文化的生活活動に必要な収入を得る見通しも立たない状態で、かつてない疎外の危機に直面している」と指摘した。 15年以上前の指摘であるが、その予測が当たっていることをわれわれは日々実感している。
機械設備が中心の工業化社会と違って、人のもつ知識が社会の中核的な資源となる知識社会では、人の演じる役割が脇役から主役へと変化し、そこで「機会」を得る人々と、「危機」に直面し、「収入を得る見通しも立だない」人々とに二極分化する。それは、わが国では、正社員と非正社員として顕在化している。どちらに入るかの分岐点は、労働市場が求める「高い技能レペル」を身につけ、それを維持できるかどうかにかかっている。
時代の変化は、20世紀から21世紀への世紀転換期頃に生じた。それを如実に示すのが、1999年6月18~20日にドイツのケルンで開催された主要国首脳会議(サミット)で採択された共同宣言(コミュニケ)である。ケルンサミットでは、サミット史上初めて教育が主要テーマとなり、共同宣言に、「人々への投資」が盛り込まれ、「ケルン憲章--生涯学習の目的と希望--」が採択された。
この「人々への投資」では、「基礎教育、職業教育、学位、労働市場に合った技能や知識の生涯を通じた向上および革新的思考の開発への支援は、知識重視社会に向かいつつある今日、経済・技術進歩を実現する上で重要である。これらはまた、個人を豊かにし、社会的な責任感と参加意識を醸成する」と謳っている。一方、ケルン憲章では、「すべての国が直面する課題は、どのようにして、学習する社会となり、来世紀に必要とされる知識、技能、資格を市民が身につけることを確保するかである。経済や社会はますます知識に基づくものとなっている。教育と技能は、経済的成功、社会における責任、社会的一体感を実現する上で不可欠である」と謳っている。
また、21世紀を柔軟性(flexibility)と変化(change)の世紀と定義し、流動性(mobility)への要請がかつてなく高まるとする。この流動性のパスポートは、「教育と生涯学習」で、それは政府や民間セクター(企業)を介して、すべての人々に提供され、個人には自助努力が求められることとなる。政府はあらゆるレペルでの教育および技能(skill、スキル)の向上のための投資を行い、民間セクター(企業)は既存および将来の労働者の訓練を行い、個人には自己の能力およびキャリア(careers、仕事の経験)の開発が求められる。それは、「人々への投資」の必要性が高まっているからであり、それが「雇用、経済成長、社会的・地域的不平等の縮小の鍵」だからであり、「知識へのアクセスは収入と生活の質の決定要因として最も重要なものの1つになる」からである。
ケルン憲章を踏まえて、翌2000年4月1~3日に東京と沖縄で開催されたG8教育大臣会合では、「変容する社会における教育」という議題の下、次のような内容の議長サマリーが提出された。そこでは、「教育と生涯学習」を「伝統的な工業化社会から顕在化しつつある知識社会への変容の中での柔軟性と変化に適応するために必要」なものと位置づけた上で、「知識社会は重要な機会を提供すると同時に、現実的な危機をももたらすものである。(中略)労働市場で求められる技能レベルは高く、すべての社会は教育レペルの向上という課題に直面している。高い技能レベルを身につけ維持できる者は社会的にも経済的にも大成功を収めることができるが、そうでない者は安定した職業および、その職業によって得るべき社会的・文化的生活活動に必要な収入を得る見通しも立たない状態で、かつてない疎外の危機に直面している」と指摘した。 15年以上前の指摘であるが、その予測が当たっていることをわれわれは日々実感している。
機械設備が中心の工業化社会と違って、人のもつ知識が社会の中核的な資源となる知識社会では、人の演じる役割が脇役から主役へと変化し、そこで「機会」を得る人々と、「危機」に直面し、「収入を得る見通しも立だない」人々とに二極分化する。それは、わが国では、正社員と非正社員として顕在化している。どちらに入るかの分岐点は、労働市場が求める「高い技能レペル」を身につけ、それを維持できるかどうかにかかっている。
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持ち運ぶモノ
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インクカートリッジがなくなってしまった。持ち運ぶようにしておかないといけない。
大きな概念
シェア社会よりも、もっと大きな概念になります。それではじめて、色々な問題が片付く。根本を変えていくカタチです。原始時代からの生活を変えるのです。あくまでも選ぶのは他者です。
最終的につなげるのは、第9章環境社会。これは循環から作ったけど、配置の考え方を入れて大幅に変えていきます。どういう世界になるのか。
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