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豊田市図書館の29冊

332.53『現代アメリカ経済史』

364『教養としての社会保障』「問題大国」の出現

336.8『デジタルCFO』これが新時代のリーダー像だ

319.1『新・日米安保論』

312.22『習近平の中国』百年の夢と現実

302.2『アジアの終わり』経済破局と戦争を撒き散らす5つの危機

159.79『一〇〇歳時代の人生マネジメント』--長生きのリスクに備える

124.25『荘子 全現代語訳 上』

371.45『あんずとないしょ話』

493.12『糖尿病療養指導ガイドブック 2017』糖尿病療養指導士の学習目標と課題

330『経済ってこうなってるんだ教室』経済・金融の超入門書!

596.7『コーヒーは楽しい!』絵で読むコーヒー教本

946『ベルリン終戦日記』ある女性の記録

331.04『不道徳な見えざる手』自由市場は人間の弱みにつけ込む

331.42『アダム・スミス』競争と共感、そして自由な社会へ

761.1『チェリビダッケ 音楽の現象学』

366.21『日本企業が社員に「希望」を与えた時代』

319『安全保障は感情で動く』

791.2『茶の湯』時代とともに生きた美 別冊太陽

361.23『社会の社会 2』

382.11『アイヌ 100人のいま』

312.53『完全解析 アメリカ大統領図鑑』

387.9『信じてみたい 幸せを招く世界のしるし』

493.76『自閉症の世界』多様性に満ちた内面の真実

012.4『本棚の歴史』

230.6『ヨーロッパ文明批判序説』植民地・共和国・オリエンタリズム

290.93『ドイツ通信「私の町の難民」』

134.4『ヘーゲルと現代思想』

235.04『フランス史[中世]Ⅳ』
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民主主義が安全保障の戦略になりうるのか

『アジアの終わり』より 先頭に立って坂を下る日本

それでは、アジアの政治のリスク領域を描き換えるには、どうすればいいだろうか?

この質問をするということは、我々はアジアのリスクマップを一周する旅の終点にたどり着いたという意味である。経済、人口動態、安全保障といった、どんな領域にまつわるものかにかかわらず、リスクを一斉に減らす最善の策は、最も理想主義に基づいた目標を追求することである。つまりそれは、地域一体に自由主義がさらに広まるよう努力することである。だが結局のところ、それは最も達成が困難な目標でもある。

より民主化が進んだインド太平洋地域は、より安定して繁栄が続く地域となるだろう。民主主義が完璧であると偽るつもりはないが、長期的な社会と経済の成長を目指すための最善のチャンスを与えてくれるのは民主主義である。日本が長期にわたる経済停滞の最中も生活水準や社会の安定を保つことができたのは、経済大国の日本でさえリベラルな社会によるところが大きい。また、地域に民主主義国家が多ければ多いほど、紛争が平和裏に解決され、協力のための強固な機構がつくられる可能性も高くなる。したがって、次の世代のアジアは、地域の現民主主義国家、アメリカ、ョーロッパのたゆまぬ支援のもとで、さらなる民主主義国家を育むことに打ち込まなければならない。これはリスクを減らすための最も理想主義に基づく提案であり、それを実現するためには現実的な方法を模索して取りかからなければならない。

そうした目標は、独裁政権や反自由主義国家が協力関係をますます強めている現在において、さらに重要なものとなる。中国の長年にわたる北朝鮮への支援、ロシアによるウクライナ侵攻とシリア内戦への介入、イランと北朝鮮の非公式な同盟。そうした国は、第二次世界大戦後のりベラルな国際秩序に難題を突きつけ、互いを精神的に支援し、国際的な機関や規範を揺るがすために協力し合っている65.独裁国家がそうした他国との協力関係を維持できたという実績は残されていないが、それでも彼らは地域や世界の安定を揺さぶることに非常に長けているため、油断ならない。彼らの動きを止めるためには、地域や世界の秩序を支えているリベラル国家を強化し、その数を増やすしか方法はない。

一国のなかで民主主義を育むことは、リベラルな国家の共同体を築くことと密接に関係している。手入れがされていない庭に、民主主義の花が咲くことはまれである。長期的な国内の安定と繁栄は、市民権、法の支配、男女平等、報道の自由といった民主主義の規範が広まった地域によって促進される。我々が提言した安全保障上のリスクを減らすための戦略が、新たな地域安全保障共同体を発展させることであったのと同じく、活気ある地域政治環境は民主主義国家にさらなる強さと自信を与え、逆にそうした国家に育てられる。繰り返しになるが、ヨーロッパは安定した地域環境がいかに民主主義国家の長期的な存続性を確実にするかを示すお手本である。

アジアで民主主義を育むためにできることはたくさんある。まず、地域の主要なりベラル国家である日本、インド、韓国、そして台湾もともに、リペラルな発想を率先して意図的に広めなければならない。この章の初めで考察したとおり、これらの「外側の三角形」上の国は民主主義国家の同盟を結成し、市民運動や民主的統治に関する首脳会議を毎年開催する必要があるだろう。その会合は汎アジアの集まりより小規模で、内容は民主主義国家の成長の推進に特化する。とりわけアジアの主要リベラル国家である日本とオーストラリアは、民主主義の「インフラ」づくりのために草の根集会を推進したり、議会、法、メディアといった分野の関係者同士や、学生の交流を行うための資金を提供したりする役目を果たせるのではないだろうか。

アメリカはそうした試みで重要な役割を果たせる。アメリカ国務省は米国民主主義基金やその関連団体と組み、アジアのリベラルなリーダーたちが主催する首脳会議と協調しながら、アジアで民主主義首脳会議を始めればいいのではないだろうか。ヨーロッパ諸国も同じ役目を担えるだろう。そしてアメリカとヨーロッパの民主主義国家は、アジアの今後の課題である、優れた選挙の実施方法にはじまりリベラルな法律の起草までのあらゆる専門的な助言を行う必要が出てくるだろう。ポーフンドやチェコ共和国といった、アジアの国と交流する機会が少なかったヨーロッパの若手の民主主義国家は、民主主義を取り入れた自国の体験を、自由化へと進みはじめたアジアの国と分かち合う公式な場を与えられる必要がある。韓国や台湾といったアジア自身の若手民主主義国家も、同じ役割を期待されている。

二国間では、アメリカ政府は自由化を推進するために、地域の民主主義国家会議の主催、安全保障のための合同訓練への参加などアジアの民主主義と安全保障に貢献したいと考えている国に対して、特別な包括的援助や貿易での特例を実施すればいい。

アメリカ。の政府と企業が協力できるさらなる分野は、青年交流を推進することである。二〇一〇年から二〇一一年にかけて、三万八〇〇〇人を超えるアメリカ人留学生が中国、オーストラリア、インド、日本、ニュージーランド、韓国で学んだ。ただし、これは全世界の二七万四〇〇〇人のアメリカ人留学生の一四パーセントにすぎない66.だが、アジアとの貿易がアメリカの貿易全体の三割近くを占める今日、アメリカの若者にアジア地域で学び、現地の言葉を覚え、アジアのアメリカ企業や地元企業で研修を行うチャンスを与えるのはよい案ではないだろうか。

それに加えて、アメリカ政府はクリントン政権以降、繰り返し削減されている文化交流プログラムヘの予算を増やす必要がある。現在、インド太平洋地域ではすべての機能を備えたアメリカンセンターは地域全体で七ヵ所しか設置されておらず、それは全世界の三三のセンター‘数の五分の一をわずかに上回る程度である。そうしたセンターでは講演会、映画鑑賞会、交流会といったプログラムが実施されていて、そこはアメリカの価値観をアジアの人々に紹介する重要な場となっている。また、バングラデシュのダッカ、インドネシアのジャカルタ、中国の地方部、そして日本の東京にまで設置されている小さな「アメリカン・コーナー」は、本棚にパンフレットが並べられただけにすぎないところも多いが、寛容、多元的共存、男女平等といった、リベラルな価値観を広めるために役立っている。米国民主主義基金などの文化交流に関する準政府機関にも、こうした活動に参加してもらう方法もあるだろう。

そうした地域活動は、一般的に親世代に比べて海外での経験も多く、学歴も高いアジアの若い世代に影響を与える重要な方法である。また、フルブライト・プログラムのアジアを対象とした奨学金の受給者数を現在のアジアとアメリカを合わせた一一○○名よりも増やすという策もあるのではないだろうか。さらに、このプログラムを運営しているアメリカ国務省教育文化局が行っているその他の交流プログラムについても同じことがいえる。とりわけ交換留学は、将来に非常に役に立つプログラムである。そうした有名なプログラムや奨学金は未来の政治、ビジネス、社会でのエリートになるべき若者を対象にしているので、後年に相乗効果がもたらされる。

だが、政府はあらゆることができるわけではないし、何もかも国にまかせていいわけでもない。この方針の長期的な目標はリベラルな社会を育むことであるから、非公式なボランティア団体と直接関わることも、政府との取り組みと同じくらい重要である。アメリカのシンクタンクや権利擁護団体は、リベラル主義の成長を見据えて草の根集会のスポンサーになったり、自由化に向かっている国の市民活動家を支援したりする活動を行える。ヨーロッパの国も同じ方法が使えるだろう。ヨーロッパの民間シンクタンクや公益団体も、自由化やアジアの国との交流のためのプログラムを推進するのがいいだろう。

リベラルなアジアの健全さを保つためには、「人々の力」の重要性は計り知れない。アジアの民主化が広がりはじめている国で活動しているNGOのネットワークづくりに特別な支援を行う必要がある。専門的なNGOは市民団体の手本として、ともに運動し、必要なときには政府に異議を唱えることができる地元の市民団体を時間をかけて作り上げなくてはならない。特に近年、アジアの民主主義政府、独裁主義政府のどちらもがNGOに対する取り締まりを強化しているため、運動を地元の市民に広げることが重要な課題となっている。アメリカ政府はイギリスなどの発展した市民団体を擁する国とともに、自国のNGOとインド太平洋地域のパートナーを結びつける役目を果たさなければならない。フォード財団やビル&メリンダ・ゲイツ財団といったアメリカの財団は教育や健康問題に加えて、民主主義や市民運動を推進しているアジアのNGOへの支援も増加する必要がある。海外経験があったり、アメリカやヨーロッパで高い教育を受けたりした市民を活用できる、地域に根を下ろしたNGOを育てることは、アジアの国の自由化にとって重要な鍵となるだろう。

政府間レベルでは、アメリカや他の欧米諸国はNGOの設立と運営に関する規制を緩和し、さらにNGOが非課税であることを保証するよう、アジアの国の政府に働きかけなければならない。こうした問題は、アメリカと同じでNGOがいまだ大きな役割を果たさなければならない、あれほど発展している日本でさえも起きている。それと並行して、オーストラリアや日本といった地域のリーダーは、汎アジアNGO会議の主催、資金の提供、「専門知識の交換、支援の提供、民主化を目指す団体同士の連絡手段の常時確保」を目的とする地域ネットワーク設立、といった役目を担う必要がある。
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ベルリン終戦日記

『ベルリン終戦日記』より 序文

 一九四五年四月十六日の早朝、ベルリン東地区の市民たちは遥かな雷鳴の轟きに目を覚ました。振動があまりに強くて、電話は勝手にベルを鳴らし、壁の絵は釣から落ちた。女たちはゆっくりとアパートの部屋から出てきて、隣人たちと意味ありげな眼差しを交わした。ほとんど口をきく必要もなかった。長らく予期されていたソビエト軍の攻撃g、ついに彼らの東六十マイルのところで始まったのだ。

 ジューコフ元帥の第一ベロルシア方面軍百五十万の赤軍兵団が、オーデル川西岸の橋頭堡から出発していた。彼らに立ち向かうのは、要塞化した第三帝国の絶望的な残党だった。主としてヒトラー・ユーゲントの少年たち、国民突撃隊の老人たち、空軍士官学校の生徒たち、補強のために動員された退役軍人たち、そして武装親衛隊だった。彼らにはほとんど弾薬がなく、砲兵隊のための砲弾もなければ、わずかに残っていた装甲車のための燃料も十分ではなかった。にもかかわらず、ベルリン防衛帝国委員と宣伝相を兼務するゲッペルスは、オーデル線が「アジア的な畜生どもの群れ」がぶつかってくたばる壁である、と宣言していた。降伏は問題にもならなかった。ちょうどヒムラーが、白旗を掲げた建物にいるドイツ人男性は射殺せよ、との命令を出したばかりだったのだ。宣伝省は一般市民を装った落書き隊を組織して、次のようなスローガンを盛んに書かせていた。「決して降伏はしないぞ!」「我らが婦女子を赤い野獣どもから防衛せよ!」

 戦闘継続の根拠と言えば、敵の残虐さについてのゲッペルス自身によるプロパガンダによるものだけだったと言ってもいい。そしてそれは二度必ずしも誇張ではないことが判明していた。一九四四年秋のこと、ソビエト軍は初めて東プロイセンに侵攻し、ドイツ軍の反攻によって駆逐されるまでに、ネンマースドルフ村を灰塵に帰した。ゲッペルスはカメラチームを急派して、酔っぱらった赤軍兵士たちにょってレイプされ殺害された成人女性や少女たちの遺体を撮影させた。ナチのニュース映画に出たイメージはあまりにもおぞましいものだったので、多くの女性かそれを、「プロミ」(宣伝省)によるいつも通りの誇張の一環だと考えた。しかしその後、一月末と二月初め、東プロイセンおよびシュレージエンに対するソ連軍の本格的な猛攻撃があってからは、ペルリンを通過する難民たちが、恐ろしい規模でのレイプ、掠奪、殺人の物語を詳しく語り伝えるようになった。それでもベルリンの女たちは、そのょうなことが田舎や孤立したコミュニティでは起こりうると確信しながらも、大規模なレイプが首都の衆人環視のもとで可能であるとは信じなかった。一方で、だんだん心配になってきた人たちは、最悪の事態が起こった場合に備えて、若い娘たちに必要な性知識をあわてて教えはじめた。

 当時のベルリンは二百万人以上の人口を抱えていて、その圧倒的多数が女性と子供であった。この時のナチ政権の気違いじみた無責任ぶりを典型的に表すことだが、ヒトラーは、まだ平穏なあいだに彼らを疎開させるべきだという意見をいっさい拒絶した。都市には十二万の乳幼児がおり、ミルクが供給される用意がない、というベルリンの軍事司令官による報告を、彼はあからさまに無視した。ヒトラーは意識してにせよ無意識からにせよ、軍隊が都市をもつと勇敢に防衛するように、スターリングラードから市民を疎開させることをいっさい認めなかったスターリンの拒絶を、踏襲していたように見える。

 三十四歳の女性ジャーナリストによって書かれたこの日記は、四月二十日金曜日、一斉砲撃の開始から四日目に始まる。この日はヒトラーの誕生日だった。昼はアメリカ空軍フライング・フォートレス機、夜は英国空軍ラソカスター機が建物の九〇パーセントを破壊し、廃墟と化した都市の中心部の建物の上に、ナチ旗が翻っていた。ヒトラーを讃えて立てられた標識は宣伝していた。「戦闘状態のベルリン市から総統におめでとう」。ヒトラーの軍事局員でさえ、戦争かどのくらい近づいているか分かっていなかった。今やソビエトの戦車部隊はドイツ軍の防衛線を突破して、都市を包囲しはじめていた。長距離砲から撃ち出された爆弾がこの晩には都市の北部近郊に着弾した。

 練習帳二冊と布装ノート一冊分の日記は、およそ二ヶ月後の六月二十二日まで書き続けられている。この期間には、爆撃、たいていの地区での短期間の市街戦、ヒトラーの自殺(四月三十日)、最後まで抵抗していた孤立軍の降伏(五月二日)、そして戦勝国によるベルリン占領が網羅されている。

 日記は匿名でまず英訳が一九五四年に合衆国で、一九五五年にイギリスで出版された。ドイツ語版は五年後にジュネーブで出たが、ドイツでは激しい異論が出された。「ドイツ人女性の名誉をけがすもの」という嫌疑をかける者たちもいた。レイプと生き延びるための性的協力は、男たちがしっかりと権威を再要求しはじめた戦後にあっては、タブーであった。

 二〇〇三年に本書のドイツ語新版が、ドイツの最も有名な文人のひとりで、この「後記」も書いているハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーの手によって、《もうひとつの叢書》(アイヒボルン社)シリーズの一巻として再版された。引き続いて明らかになったことだが、再版の決定が下されたのは、匿名の著者が二〇〇一年六月に九十歳で亡くなったことによる。彼女は、この本が引き起こした騒動後、もう生きているあいだは別の版が出ることを望まなかったのだ。しかし、再版が出て数ケ月もしないうちに、著名なジャーナリストであり批評家でもあるイェンス・ビスキーが、匿名の日記著者の正体を突き止めたと主張して、彼女の名がマルタ・ヒラーだと暴露した。エソツェンスペルガーは激怒して、ビスキーに「スキャンダル=ジャーナリズム」との嫌疑を着せた。他のジャーナリストもビスキーのマルタ・ヒラー説を支持したが、確実なことを知っている唯一の人物で遺言執行人のハンネローレ・マーレクは、いかなる点でもそれか真実との確証は与えなかった。ビスキーはまた日記の信憑性についてもいくつか疑念を投げかけた。しかしこの時代の個人による文書記録に最もよく通じている編集者の一人ヴァルター・ケンポウスキーが、すべてのオリジナル文書と最初のタイプ原稿を精査したと証言したうえで、すべてが完全に本物だと確信していると述べた。
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カッパドキアでの生活

『動く大地、住まいのかたち』より カッパドキアでの生活

食事を残すな

 三日経ち出発予定の日を迎えた。足は腫れたままだ。以降の地中海側への旅行中止を決定した。残ったあと四日をすべてここで過ごすことにした。三〇年ほど前にチベットを訪問した途中で二週間、中国の砂漠の街で足止めをくらったが、巡回サーカスが来たりと、それはそれで人々の生活を見ることができて面白いものだった。主人に延泊の交渉をした。横にいる彼の妻は許しがっていたが、主人はわたしの滞在を許した。

  「いいだろう。今日からあなたは俺の家の本当のゲストだ。宿代は半分。いたいだけいればよい。そのかわり」

  「そのかわり?」

  「我が家のゲストとして振る舞うようにお願いする」

 その夜、初めてわたしは彼の家の夕食に招かれた。宿から三〇〇メートルほど離れたレンガ積みの二階建てで、壁には漆喰が塗られた同地では平均的な民家の佇まいだ。絨毯を敷き詰めた広間に通されて、夕食を待った。まずあどけない幼女と宿で手伝いをしていた少年が奥から出てきた。次に主人が座った。そして最後に各種の料理をならべた大皿を妻が持ってきた。祈りの後の食事は、宿で提供される内容とはまったく異なるものだった。イングン豆、オクラ、ナス、トマトなど各種野菜の煮込み料理が基本で、それを薄いパンで包んで食べた。そしてその横に大量の生野菜があった。長ネギもあった。全部自前の生野菜で、煮込み料理より量が多かった。食べる行為の喜びを感じた。

 基本的に右手のみでつかんで食べる。上手な方だと思っていたが取り皿の横に掬いきれなかった食材が残った。終わりに差し掛かった時、主人はそれを見るなり、わたしに、皿の上にあるものすべてを残さず食べるように告げた。まるで彼の息子になったようだったが、日本人の食習慣でも当然のことなので、もう一枚薄いパン皮をいただいてそれらをいただき、お礼を述べた。彼の妻からもようやく笑みが漏れた。

 その夜も主人は自宅に留まらず、わたしと一緒にホテルに戻った。早朝の気球ツアーの客を起こすことが彼の日課になっているのだった。その日からわたしは彼のオフィス兼寝部屋に夜に訪れて、チャイを飲みつつ、彼の話をたびたび聞くことになった。

 彼は二五のときからギョレメで働き始めた。はじめはウェイターからだった。三三歳の時、廃墟になっていた横穴住居を購入、四年かけて大工たちを雇って自力で作ったのがとの宿だという。

 子どもの頃の暮らしは言葉には尽くせない貧しさだったという。二週間木の実だけで暮らしたことがあるという。宿のオーナーになりようやく金がたまって、母親をレストランに招待した。しかし彼女は全部同じ味だと言った、まったく味の違いを感じることができなかったわけだと、彼はやや涙目だ。話はさらに続いた。

 今から三〇年ほど前、カッパドキアが世界遺産に決まりかける前ぐらいからさかんに不動産のエージェントが訪れはじめた。彼らはギョレメ谷の土地を買いに来たのだ。彼らは当時の相場の一〇倍の値段で買うと喧伝した。多くの農民は喜んで彼らの洞窟の住まいを売って、谷の上の畑に近い一軒家に越していった。その後、何が起こったか。エージェントは土地を購入額からさらに一〇〇倍つりあげて観光資本に譲ったのだという。つまり土地の値段が一気に一〇〇〇倍になったというのだ。そしてギョレメはホテルと、各種の観光業で埋め尽くされた。今、上に移り住んだ元農民たちの次世代は、結局谷間の観光地に雇われる身になった。そういうわけでギョレメ村に居ついているこの宿の主人は、元の村人だちからひどく妬まれているという。でも、そんなことにはひるまない、なぜなら生まれた村に住み続けるために手段を尽くしているだけだから、と彼は言った。

  「わかりますか?」

 決めの時には彼は日本語を使った。そんな時の彼の目はいたずらっぽく輝いている。

  「わかりますよ」と、わたしは日本語で答えた。

 満足した彼は、次にわたしからの質問に答えた。世界で一番付き合いにくい客め国、二番目の国、そして日本人のこと。

  「日本人は好きだ。ただし老人以上。彼らは彼らの経験と彼らがいた場所の意味をわかっている。時たま彼らの対応に感動する時がある。それに比べて日本の若者には失望する」

 彼は日本人を、机の上にあったペットボトルにたとえた。

  「日本人はきちんと中身の入ったペットボトルだった。でも今ここに来る日本の若者はそのつもりでつかむと、クシャリと音を立ててつぶれてしまうんだ」

 もう深夜だった。彼の早朝の仕事の邪魔をしないように、おやすみを言った。

壁を積む

 その週の金曜日、ギョレメ村のモスク見学にでかけた。ろうあ者の若者が宿で面接を受けたが、主人が熟考の末断ったのを見計らって、勇気づけの意味でその若者を誘ったのだ。昼飯も奢ろうと思っていた。モスクを見学しようとすると、若者が水場で、体を清めるようにうながす。見学コースはなく、礼拝のみだったのだ。結果として、生まれて初めて絶対神アッラーに礼拝した。聖職者の声が響く、立っていた男たちが一斉に座って頭を床に押し付ける。周囲より一テンポ遅れて頭を下げた瞬間、わたしたちの三列前にあの床屋の主人が、そしてその二列後に、宿の主人とその子どもとアルシャッドの後ろ姿を見つけた。この近さでは、互いの名誉を守ることは絶対に必要なのだった。

 どうも宿の主人はわたしに見せたい場所があったらしく、わたしがぼちぼち歩けるようになるのを待っていた。あなたの足は「働けば治る」と主張する。

  「働くのまだちょっと無理」

  「いいから行きましょう!」

 根負けして到着したのは、彼の新しいホテルの建設現場だった。ギョレメの隣村の高級ホテルが乱立している別の地域だ。そこに空き家の物件が出たので、彼がそれに手を入れ、改修の真っ最中だったのだ。横穴住居が三層にわたってくり抜かれていて、さらにその前を増築している。眺めの良い東向きの一等地約八〇平方メートル。これをホテルに変えるのだ。現場内部に入ると、雇われた老年の大工が、脆い凝灰岩層を石のアーチを組んで補強していた。皆、昔はこうして家を作ってきたのだ。

 彼のデザインポリシーは自営主義。三、四人の職人を雇い彼らと話し合いつつ、現場でイメージを決定していった。世界遺産のため大きな改修をせず、ほぼオリジナルの状態を保つのが安く上げる秘訣とのこと。カッパドキアには、わたしのような職業の先生がやってきて、建設主は彼らにいろいろと建設許可を得る必要があるのだが、その手続きが不要な小規模改修で済ませるのがコツという。圧倒的に時間が早く、コストもかからない。高価なワインをイスタンブールからはるばる来られた方々に飲ませる手間も省けると、また目を輝かせて笑った。

 このリノベーション現場に通い続けて、主人や職人の動きを眺め、彼らの道具を測り、映像に収めるなどしていたのだが、オフィスでの夜話の最中にカッパドキアの石の種類の説明を聞いて、三日目はとうとう工事参加と言うわけである。今日は壁を作ろうという。あなたは専門家だから期待していると皮肉を言う。

 現場に到着した彼は職人が作った外構の腰壁を見て激昂した。内部装飾用にとっておいた上質な石も駄石に混じってぞんざいに使われて、壁ができていたからだ。彼はいきなり壁を崩しはじめ、壁はきれいに消滅。職人たちを追い返してしまった。

  「さあ、作ろう」

 とにかくやってみるしかない状況である。足をかばいながら、石を持つ。総じて驚くほど軽い。玄武岩や固めの安山岩を選んできて壁立てを始めた。簡易な水糸を張り、垂直を出す。あとはそこにある有限の石の形を見ながら、お互いを三点支持で固定できる石を選び出す。その間を小石で充填し、モルタルセメントをつかんでその間に投げ込み、あとは手でそのモルタルをきれいになじませる。

 そのとき、不整形の無名の壁を見ていて飽きないのは、有限の石を相手にして、その場で考えた人間の経験的知性が表出しているからだと思った。

 夕焼けまで働いて、ふと時計を見たら午後八時を回っていた。主人と坂を下る道に座って沈む太陽を見た。壁は幅二〇メートル程度、腰の高さまで積み上げることができた。一人だったらここまでできなかった、検討して話し合わないといい積み方ができないと、彼はつぶやいた。ありがとうどざいます」と彼は日本語で言った。

 ところでこのホテルを建てたら、今の宿はどうするんだい、とわたしは彼に尋ねた。

  「このホテルはできたらすぐに売るつもりだ。俺はギョレメ生まれだから、この場所の物件を持つ必要はないんだよ」

 相当な男前だとわたしは思った。
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ハイアラキーの弊害

生活編の深化

 生活編をもっと変えていかないと、深くしていかない。全てを知るのが目的かもしれないけど、今を知ること。何故そうなっているのか、ではどうすればいいのか、そこまでのヒントは与えておきます。

ハイアラキーの弊害

 組織の悪さは何か、ハイアラキーの悪さは何か。それは一つの価値観で全体を縛る。色々な価値観があって、それぞれにピラミッドがあって、その下にヘッドがある。それによって、多くの人がそのまま生きていける。その考え方と家族との関係。それを見直したところまでを生活編に入れる。

7.5.4「女性の生き方」

 女性のところも、単に助けてもらうだけでなく、じょせいの生き方そのものとして、未婚率の課題などを片づける。今、それぞれバラバラにやっていることをつなげていって、ロジックで作り上げていく。

 7.5の女性の世界のところでは、7.5.4の生き方を「女性の生き方」にします。未婚、家族の関係、宇宙の旅人の概念、そして女性を制約から解除して、自由と平等のせかいがどうなるか。

 女性を差別することで作られている世界を追い込んで、世界を変えていく。サービス業とか非正規なものが女性の分野になっている。そこで頑張っているけど、その反面、正規としてやっている男の連中のだらしなさ。

 作ることが使うことで、ナレッジは高度サービスの価値が上がってくる。主役は女性になってくる。其れを端的に表わしているのがスタバです。女性の付加価値で持つ世界です。家庭からサービスに変わりつつある。企画は本当に男性なのか。

家族制度の変革

 単に、男女間の関係でなく、家族制度の変革として見ていく。これは原始時代から続く、ユニットとしての男女間から派生。

 女性の仕事とされたモノは、どんどん軽くなってきている。そこから出ていきたいけど、最後の愛とか子どもに関するところが女性になっている。それも変わらないといけないというが変わりつつある。風習をいかに断ち切るかの変革。

 後進国である日本がどこまでキャッチアップできるか分からないけど、心はつながってくる。

7.6「生活から考える」

 7.6は「知の世界」でなくて、生活から考える方向。まず、一つはまとめること。その為の未唯空間。そこに来るのは単なる知の世界だけではない。

 女性との関係を含めた家族生活、自分の生活も含めて、与えられたもの、放り込まれたもの、それらから考えられたこと、生活から出てくるもの、考えることで出てくるもの。生きることで出てくるもの、それを家族生活して求める。

「知のインフラ」

 もう一つは知のインフラ。考えることをベースにしている以上、皆が考えられるようにするにはどうしたらいいのか。その為のインフラです。これは考えることの一つ。だが、大きなことではなく、単純なことです。

 本を読むことが小説・エッセイに限定されている社会、感情の社会。未来を見るためにはそれだけではないでしょう。

 皆の知恵をどう集めていくのか、もの自体もどうしていくのか。ごまかされてはいけない。我々は放り込まれた存在なのだから。その際は中で見るのではなく、外から見ていく。宇宙の観点から見ていく。其れが宇宙の旅人の役割です。そういったことをいかに真実を明らかにするのか。

「知の未来」

 「知の未来」と言うよりも「未来」になります。生活編の最後の内容として、家族制度の変革するにしても、考えることを中心とした世界。未来はあるのか、も含めて、この生活のところから、それらを見ていかないといけない。

かき氷は高い

 かき氷は高いな~。文ちゃん焼きで、ミルク金時で420円です。やはり、金銭感覚がずれてきている。

宗教と家族の関係

 特にキリスト教、一番関係が深いのがユダヤ教。民族への圧迫からさらにまとまってしまった。ユダヤの神話は家族でできている。アブラハムは絶対の孤独者。
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