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アウトライナーと有限性

『勉強の哲学』より アウトライナーと有限性 ⇒ アウトライン「インスピレーション」を30年以上、使っている。研究所の中に広めようとしたが、拡がらなかった。日本人の思考パターンには合っていないのか?

横断的に勉強していると、アイデアは散漫な形で、断片的に湧いてくる。

そうしたアイデアを、最初からきちんと書こうとすると、その鮮度をダメにしてしまう。

勉強を進めながら書くための、基本的な方法としてお勧めしたいのは、箇条書きによる「フリーライティング」です。

箇条書きは、わかりますよね。一、二行で、多くても三行くらいで短く書く。

フリーフイティングというのは、思いつくままに、話がズレていっても気にせず、どんどん書いていくという実践です。

たとえば、朝一番にお茶を飲んでから、昨日読んだ本について、そして最近ふと感じたことについて書き、それから今日の予定を忘れないようにメモし、そこで予定の詳細を考え始めてしまったら遠慮しないで書き、そのあいだに別のことを思いついたらそれを書き……というような感じです。制約なしに、純粋なアイデア出しとしてやるのも効果的ですし、最初に特定のテーマを設定して書き始めて、そこからズレても気にしない、というやり方もある。

目移りしたり、少し深掘りしたりの行ったり来たりです。

アイロニーとユーモアが交代して作動する。

欲望年表の材料も、このやり方で出すのがいいでしょう。

この作業のためには、パソコンのキーボードを速くタイプできた方がいいですね。スマホでもできなくはないと思いますが、書いたことを後でコピー・アンド・ぺーストして別のファイルに移したりといった編集をするので、パソコンの方が便利です。

箇条書きでの入力をサクサクやるには、「アウトライナー」と呼ばれるアプリを使うことをお勧めします(あるいは「アウトライン・プロセッサ」、これが従来の言い方ですが、ここでは短く「アウトライナー」にします)。これは、ある程度書いてリターンを押すと、そこまで書いた部分が、一個の区切られた部分=箇条書きになるというアプリです。ひとつひとつの箇条書きは、上下に移動して順序を変えることができる。だから、思いつくままに書いてはリターンで、どんどん箇条書きをつくり、後に要らないものを消し、関連するものを近くに寄せたり、論理展開になるよう並べたりできる。さらに、ひとつの箇条書きを「親」とし、そこに別の(複数の)箇条書きを「子」として収納し、「階層構造」をつくることもできる。複数の箇条書きが並んでいる状態を、「アウトライン」と呼びます。

アウトライナーの特徴については、Tak.『アウトライナー実践入門』(技術評論社、二〇一六年)が参考になります。

従来は、アウトラインと言うと、本番の文章を書く前に、構成を確定しておく「設計図」というイメージが強かった。しかし、そうではなく、自由にアイデアを膨らませるためにアウトライン作成をする、という新たなイメージを提示しています。これは、本書の言い方で言えば、アウトラインを自己目的的にするということでしょう。あるいは、玩具的にする。

本番の文章作成のためにアウトラインを使う、という道具的な使用ではなく。

アウトライナーにおいて、区切られた箇条書きは、レゴーブロックのピースのようなものです。順序の入れ替えは、ブロック遊びである。本書では、ブロックの喩えを、言葉の組み替え可能性--環境のコードに縛られない、自由な--を言うために使いましたが、アウトライナーで実現されるのは、短い文の形をとった「思考」の組み替え可能性なのです。

フリーライティングをしていると、何か気になるイメージとか、場面とか、理由を説明しにくい具体的なものがわいてくることがあります。そのときに考えるべきテーマと関係なく。そういうものも、言葉にしてみる。アウトライナーで書いているなら、そういう部分もそのまま書いてしまって、後になってから、別のところに保存しておく。

おそらくそれは、自分の享楽的こだわりに関係している断片です。そういうものが、小説や詩など、文学の着想につながる可能性もあります。

大して意味がなさそうだけれども、気になること。自分の奥底の無意味に触れているのかもしれない「雑念」。それは、たとえば、マーケティングの勉強をたんに目的的・道具的に、仕事の役に立てようというだけでやっているのならば、切り捨てられるでしょう。それではもったいないと思うのです。雑念にこそ、「自分ならではの無意味」が宿っている。何か「非意味的形態」のきらめきがある。自由な勉強とは、意味と無意味の行ったり来たりである。

箇条書きというのは、これまた有限化のテクニックです。

ワープロの、無限に続く真っ白な画面を前にすると、途方に暮れる。どうにでも書けるわけです、それゆえに、どう始めていいかわからない……僕にはそういう感覚があります。

ひとつの箇条書きはそう長くは書かないものです。アウトライナーに字数制限はありませんが、箇条書きで書くという構造である以上、潜在的に字数制限があるかのような意識で書くことになります。ひとつの思考を短く終えなければならない、とにかく思考をある簡潔な形にしなければならない、いますぐ--まさしく有限化が働くのです。アウトライナーは、有限的に書くということの練習の場として捉えることができる。

長い文章を書くというのは、「ひとまずこの程度でいい」という思考の仮固定が、たくさん積み重なっていくことです。文章を書くとき、何か漠然と大きなことをしようとしているという意識では、身動きがとれなくなるでしょう。小さなタスクに分解する。小さな箇条書きに分解する。一個一個は、仮固定でいいのです。仮固定から仮固定へ進んでいく。書くということの現実は、小さな積み重ねです。アウトライナーはそれをはっきり可視化してくれる。

ところで、「書くことの有限化」についてさらに言えば、デジタルな方法に加え、手書きを併用することも重要です。僕の実感としては、紙のノートヘの手書きでは、アウトライナーでの箇条書きよりもさらに強く、有限化が働きます。当然、一枚の紙は有限な範囲であるし、それに、タイピングよりもペンで書く方が、手が疲れます。単純な事実ですが、このことが、書ける、書いてしまう内容におよぼす影響は、小さくないと思っています。

書く内容が強く絞り込まれるので、手書きは、考えの「太い」部分を整理するのに役立ちます。細かい枝葉ではなく、幹を明確にしたいときに、僕は作業を手書きにチェンジする。余計なことを払いのけられる。ワープロやアウトライナーで書いているものも、ときどき紙にプリントして、赤ペンで書き込みをし、またパソコンに戻って編集する。

「有限化の強さ」が異なるツールを行ったり来たりして、思考を整理していく。

それは、彫刻に似ています。刃の大きさが違うノミ、目の粗さが違うヤスリを切り替えながら、徐々に形をつくっていく--というこの説明もまた、先に述べた、異質なものごとを連想的につないでみるというユーモアの発想にほかなりません。
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知識共有現象 未来の図書館

『図書館情報学を学ぶ人のために』より 世界の知識に到達するシステム 電子図書館の夢 ディスカバリサービスの登場 図書館の本質

ドキュメントによる知識共有現象

 知識情報学の第一歩としてドキュメントによる知識共有現象について考えてみよう。ここまで「書物」、「本」、「図書」、「雑誌」、「文献」、「資料」とさまざまな言い方をしてきたが、本節ではこれらをまとめた抽象概念として「ドキュメント」と呼ぶ。ここではドキュメントを「知識が表現された記録物」と定義する。記録物であるということはメディアの一種である。メディアは一般にキャリアとメッセージから構成される。キャリアとは記録する容器を指し、メッセージは内容を指す。たとえば、図書は紙が容器であり、そこに書かれた内容がメッセージである。電子書籍は、メッセージは変わらないが、容器だけが電子媒体に変わったものである。テレビやラジオは電波が容器となる。

 ドキュメントに書かれたメッセージは「テキスト」と呼ぱれ、主としてことばを用いた記号のシステムである。最近は「コンテンツ」という言い方もするが、コンテンツはキャリアとメッセージの区別が曖昧なので、ここではテキストを使う。たとえば、村上春樹の「IQ84」というテキストは、村上春樹が考えたことを日本語で表現したものである。『1Q84』は英語やフランス語でも翻訳によって表現されており、やはり村上春樹の考えたことを表現している。言語は違っていてもテキストとして同じ内容のはずである。このように、著者は伝えたいことをテキストとして表現し、読者はテキストから著者の考えを読み取ろうとする。これはテキストを介した著者と読者のコミュニケーションである。しかしながら、著者が意図したことと読者が読み取ったことは必ずしも一致しない。特に文学作品においては一致しないことが普通であり、しかもそれでよいとされる。ところが、科学技術論文においては著者の意図した内容が読者に正確に伝わることが求められる。このように、テキストは読者中心の意味と著者中心の意味の2種類に分けられる。

 さて、テキストは記号のシステムと述べたが、記号は記号表現としての物理的状態と記号内容としての心的状態の二面性を有している。物理的状態としてのテキストはメディア上に記録されたものであり、紙の上の黒いシミである。しかし、われわれはその黒いシミを文字として認識し、心の中に意味をもったテキストとして理解する。ここで、前者の物理的状態を外テキスト、後者の心的状態を内テキストと呼んで区別する。テキストというと、外テキストを指しているようにみえるが、実際にわれわれが意識しているのは内テキストのほうである。その証拠にアラビア語で表現された『1Q84』は、大部分の日本人にとっては意味のあるテキストとして理解できないであろう。以下では、特に断らない限り、テキストは内テキストの意味で用いる。

 われわれは日常生活のなかで多くのドキュメントを読む。

 ドキュメントを読むと、テキストが頭の中に取り込まれていく。そして、それは単純に蓄積されるのではなく、すでに読んだテキストと関連づけて解釈され、理解され、そこからまた新しいテキストが生成され、知識空間に投入される。投入されたテキストはそれ単独であるのではなく、他のテキストとの関係性のなかで理解される。たとえば、村上春樹の『1Q84Jはジョージ・オーウェルの『1984』との関帳既において理解されるかもしれない。このようにわれわれの頭の中にはたくさんのテキストがあり、「私」の思考や知識は過去に読んだテキストから構成されているといってよい。

 そのため、難しい話だと解釈する人もいれば、単純な話だと理解する人もおり、『1Q84』の知識が両者で同一であるとは言いがたい。科学技術論文においても知識の同一性が保証されない点は同じであるが、意味を厳密に規定した数学記号によって同一であるとみなされる。

 このように知識は人から人に直接伝わることはなく、ドキュメントというメディアを介して伝わる。ドキュメントはキャリアのうえに外テキストが乗った物理的な存在であるが、同時に内テキストを人から人に伝える機能的な存在でもある。

 ドキュメントによる知識共有現象は社会のあらゆるところで観察される(野中, 2003)。個々のコミュニティでの知識共有や異なるコミュニティ間の知識のギャップを埋める際にドキュメントは利用される。図書館においては一見ドキュメントを提供しているだけに見えるが、ドキュメントによって知識共有現象が起きていると考えれば、図書館は知識共有現象の場を提供していると捉えることができる。すなわち、新しい図書館像とは知識共有現象を活性化させる機能と場を持つものと定義できるだろう。

未来の図書館

 ここまでの議論から未来の図書館像を描き出してみよう。未来の図書館には二つの方向があると思われる。ひとつはユビキタス化、もうひとつはフィールド化である。これはどちらか一方という意味ではなく、両方必要という意味である。図書館は資料を読むための施設ではなく、世界のドキュメントヘアクセスする機能であると捉えれば、勉強しているときであろうが、移動中に何かを閃いたときであろうが、生きるうえで苦しいときであろうが、機能としての図書館はどこにでも存在するュビキタス(遍在)な存在であるべきである。具体的には次世代ディスカバリアプリをスマートフォンにインストールし、個人が図書館を丸ごと携帯するようになる。これが未来の図書館のひとつの方向である。

 もうひとつの方向はフィールド化である。図書館は知識共有を活性化させる場(フィールド)であると捉えれば、現在の施設から書架をなくし、知識創造を行うための設備や機能を持たせることになる。これは図書館設計が根底から変わることを意味する。現在ヨーロッパを中心としてフューチャーセンターという異なる専門の人々が集まって一緒に問題解決するための施設が増えている。このような知識創造を行う場を「ライブラリーフィールド」と呼ぼう。

 ではそれぞれをもう少し具体的にイメージしてみよう。まず次世代ディスカバリアプリであるが、これは第1節で述べたMemexの未来版と考えるとよい。これをMemex (memory extender : 記憶を拡張するもの)にならってThinvat (出inking activator : 思考を活性化させるもの)と呼ぼう。世界のドキュメントを検索できるのはもちろんであるが、「連想の道筋」にしたがってドキュメントを取り出せることがポイントである。現在のOPACやディスカバリサービスは誰が検索しても同じ結果しか返らない。 Thinvatは、個人の思考ごとに連想の小道が用意されており、思考に追随してドキュメントが表示される。単に検索語に対応するのではなく、文脈まで考慮して検索する。同じ事柄について考えていても、家庭における文脈と仕事場における文脈は異なる。当然のごとく必要なドキュメントも異なる。頭の中のテキスト空間の構造を現実世界のドキュメント空間の構造に対応づけることと言ってよい。このように、Thinvatによって、ドキュメントを探すという行為は図書館という場所から完全に解放される。図書館が遠くても、図書館に行く心の余裕がなくても, Thinvatは常に寄り添っている。

 ただし、Thinvatではカバーできないことがある。それは空間特性である。われわれは身体をもった生物であり、環境との相互作用のなかに生きている。空間特性はわれわれの思考や行動に常に干渉している。照明の明るさ、壁や天井の色、流れている音楽。ちょっとした違いでわれわれの気分はがらりと変わる。空間の快適さは知識創造の効率や質にも深く影響していることがさまざまな研究によって確かめられている。

 しかし、快適な空間というだけではライブラリーフィールドとは言えない。なぜなら快適な空間は他にもあるからである。では、その空間をライブラリーフィールドたらしめる機能はなんであろうか。それは「人とドキュメントの相互作用」と「人と人の共存在」である。

 図書館や書店で本の列を眺めているうちに何かを閃いたという経験を持つ人は少なくないはずである。本に囲まれること、書架の間を移動することは、人間の思考と身体性にかかわる認知作用を生じさせる。

 ドキュメントを入手するという意味での書架はもう必要ないが、知識の連鎖を見出し、可視化するという意味での書架は必要である。当然のことながら、普通の書架ではない。最新技術を駆使することによって、さまざまな相互作用を引き起こす、魔法にみえる書架(マジックシェルフ)である。

 一人でできることには限りがあり、誰かの助けがないと生きていけない。厳しい世の中を渡っていくためには、異なる個性や生き方をする多様な存在者がコミュニティを形成し、互いの価値観を認めあって生きていく共存在を意識することが何より大切である。そこにいるスタッフもこれまでのような受け身の姿勢ではなく、ファシリテーターのように積極的に人と人の知識創造を促進するような役割が求められる。さらに、人と接するのが苦手な利用者には、人工知能を搭載したロボットファシリテーターやセラピーロボットが有効かもしれない。

 未来の図書館とは、世界の知識を自由に駆使し、人生を豊かにする存在である。
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哲学していいですか? 全てを知りたいだけだけど

『哲学していいですか?』より 哲学の始め方 「ただ知っていること」の力 世界が奇妙な場所に見えるとき ⇒ 哲学するのにそんな難しいことは必要ないのでは。池田晶子さんから入った私は、「ヘーゲルって、跳んでいて素敵じゃない!」というtころから入った。

わからなさが増大する

 このように、相互の見解の不一致を見据える哲学のまなざしには、他者の提示する異質な見解に対して自分が同意を与えることの不可能性だけでなく、自分の側の正当化の論理もまた他者には受け入れられないのだろう、という点に関する気づきまでもが含まれている。そして、このような気づきを伴う限りにおいて、「哲学すること」をめぐるわたしたちの経験には、相互の「合理的不同意」が導かれる過程の裏側において、自分自身の見解を支える土台の信頼性にまで揺さぶりがかけられる、という事態が含まれていることになるだろう。

 以上は、こんなふうに言い換えることができるだろうか。多様な考え方にふれ、自分のものとは違った異邦人の思考を試みに用いつつ、他者との真剣な議論に打ち込んでみること。哲学の練習はそのことから始まるのであるが、その結果として辿り着かれるのは、「自分の見解は、自分が思っていたほど正しいわけではなかったのかもしれない」という苦々しい気づきだけであるのかもしれない。すなわち、「真剣に議論すればするほど何か正解かわからなくなる」。それが、哲学するという知的営みにはつきものの経験であるのかもしれない、と。

 しかし、哲学することの結果として得られるのがそういった「相互の不合意が不可避であることの確認」と「わからなさの増大」だけであるのだとしたら、そこには当然こんな疑問が生じることになるだろう。「時間をかけて議論して、それで結局「お互いわかりあえませんね」みたいな結論になるわけですか。おまけに、考えれば考えるほどわからなくなる、ですって? そんな結果しか得られないのであれば、なんのために哲学なんてやらなくちゃいけないんですか。それなら、最初からやらないほうがずっとましなんじゃないですか」。

 もっともな反応だとは思う。しかし、ここで言われる「哲学することを通じたわからなさの増大」という経験のあり方には、簡単に切り捨てて済ませることのできない重要な論点が含まれている、ともわたしは考えている。さまざまな具体的問題について哲学することから得られるのは、「他者理解」や「相互理解」の増大ではなく、「最後のさいご、究極のところではお互いにわかりあえないのだろう」という事実を冷静に見据えてみせる覚悟だけであるかもしれないということ。あるいは、わたしたちが「妥協と譲歩のない真剣な議論」から引き出すことを期待できるのは、ハーモニーではなくむしろノイズが増大していくことだけであるかもしれないということ。これらの点について掘り下げた検討を施すことは、哲学のもつ「社会的存在意義」を確認するための視座を切り開くことにもつながっていくのではないか。それが、わたし自身の考えだということである。

 なんとも、先の見えない、息苦しい議論が続くように思われるかもしれない。しかし、このようなやり方で一歩ずつ問題を掘り下げていくことは、それ自体が哲学することの一つの実践ともなりえているのではないかと思う。以下、もう少し辛抱強く、「哲学することの意義」をめぐる検討を続けていくことにしよう。

「哲学の勇気」を下支えする

 いま話題とされている哲学の勇気-すなわち、「外の思考を箱の中に持ち込む勇気」--に関しては、強調しておかなければならない点が一つ残されている。すなわち、「哲学する勇気を、個人の孤独な決断の問題にしてはならない」という点である。

 さまざまな問題についてひとりで思いをめぐらし、周囲との軋棒を恐れることなく異邦人の目線を維持し、みずからの責任において「みなが見ようとしないもの」に目を向けるべきであると人びとに告げる。そのような仕事を孤独のうちに易々と実行することができるのは、一部の英雄的な人間だけであろう。とりわけ、「べつに、波風立ててまで人と違ったふうに考えなくていいじゃないか。無理しないで流されていればそれでいいじゃないか。何もかもうまくいくように、わたしがぜんぶやってあげるから」、そんなふうに、目の前の不安や厄介ごとをまとめて面倒見てくれる、親切でわかりやすい言葉が手の届くところに準備されている場合には、おそらく、大多数の人間はあっというまに「考えること」を放棄する。

 そして、このような仕方で外の思考の実践をめぐる困難のあり方を指摘することは、おのずから、問題に対処するうえで有効な選択肢の方向性を示唆するものともなっているように思われる。というのも、安楽椅子での快適なまどろみを教える誘惑の言葉に抵抗し、なおかつ、隣人たちからの反発を恐れることなく「ちょっと待って」と最初の一声を上げるということ。このことが、ひとりの人間に背負わせるには重すぎる課題であると言うのならば、われわれに必要とされるのは、外の思考の実践をめぐる困難を個人ではなくみなが共同で引き受けるべき課題として位置づけることであるように思われるからである。

 外の思考の担い手たちに、「大丈夫。あなたの言葉を受け止めてくれる人がかならずいる」というメッセージを適切な仕方で届けておくこと。そして、そのメッセージを拠点として、おのおのが「自分だけではない。仲間がいる」という気持ちを抱くことができるようになるということ。そういった、相互の信頼関係を構成するプロセスがあってはじめて、外の思考の実践はその最初の第一歩を踏み出すことができるのではないか。そして、その意味において、哲学の習慣を実践するうえで重要なのは、「哲学の勇気と言語」をわがものとする人間たちの周辺に、「あえて考える」同様の習慣をもった人間が幅広く拡散していることである。そう考えておくことができるのではないか。

移動するアゴラ

 ここで重要なのは、以上のような過程を通じて「哲学の器量」を修得した「市民」たちは、どこにでも移動していくことができるという点である。

 たとえば、少人数の身内から構成される演習室の授業で身につけた度胸を踏み台に、三百人の大教室で最初に手を挙げて「わかりませんでした」と宣言し、質問をぶつけてみることができるようになるということ。次に、もう少し大きな一歩を踏み出して、教室を離れたウェブ上のネットワークや地域の集まりで、「ちょっと待って」の一声を上げることができるようになるということ。このように哲学の習慣を備えた「器」たちがさまざまな場所に移動していくことで、哲学の規則を備えた討論の場所/アゴラがさまざまな場所へと拡散していくきっかけとなる。わたしたちは、この点にも哲学の大きな社会的存在意義を見出すことができるのではないだろうか。

 もちろん、世の大多数の人びとは、あえて場の空気を乱すことを厭わない哲学の流儀を煙たく思い続けるであろうし、それゆえに、哲学の習慣を備えた人間のやり方が世の主流となることは期待すべくもないところだろう。また、錯綜した議論を見事に整理しては人びとを見通しのよい高台へと案内する次世代のリーダーだとか、新しいアイデアと卓抜した行動力に基づいて世の中に輝かしいイノベーションを導入する起業家だとか。そういった、いわば華やかな表舞台でスター級の活躍をする人材が、通常の、ごくありふれた哲学教育の実践を通じて輩出されることもおそらくは期待できないだろう。

 しかし、それでもなお、「何かがおかしくないか」と声を上げることで、世の多数派であるわかりやすくて大きな声の流れに「待った」をかけ、その場の空気をすこしだけ違ったものにすることができる。そして、そのことを通じて、世界をすこしだけ違った場所にすることができる。哲学の教育を通じて、そんな生活習慣を備えた人間がすこしずつ世の中に居場所を増やしていくことくらいは期待してみてよいのではないか。

 もちろん、最初は周囲の手助けを借りた状態から始まるのであってさしつかえないだろう。教員や先輩たちの助けを借りながら、おっかなびっくりの危なっかしい足取りが、やがては力強く、安定したそれに変わっていけばよい。そして、ゆっくりとした速度においてではあれ、哲学の習慣を身につけた人間が、教室を離れ、世のあちこちへと拡散していけばよい。

 このようにして、哲学の声の聞こえる場所がすこしずつその数を増やしていくということ。そして、そのことを通じて、硬直した「箱の中」に「外」の風を吹き込むための通路がすこしずつその数を増やしていくということ。言うならば、「演習室から大教室を経て地域へ/そして世界へ」。わたしは、これが現実昧のない夢物語だとは思っていないし、このスローガンに従いつつ、哲学の習慣を身につけた人間が各地でその数を増やしていくことの社会的意義を否定することはできないだろうとも思っている。

 外へと開かれ、本当の意味でみずから思考する習慣を身につけた人間を育成するということ。繰り返し述べてきたように、このような目標のもとに遂行される教育の社会的存在意義を、テストの点数や資格、さらには具体的な就職先のリストや生涯獲得賃金といった数値化可能なデータに基づいて証明してみせるのは難しいことだろうと思う。しかし、それでもなお、「哲学の器量」を身につけた市民たちが、世のあちこちに居場所を確保していることの重要性は誰にも否定できないはずである。そして、それゆえにこそ、「哲学の器量を備えた市民の育成」を目的とする教育がこの国の大学から姿を消すことがあってはならないのである。
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気に入ったものがマイナーになる理由

他者との協働はあり得ない

 アクティブ・ラーニングは他者との協働を説いている。他者とは同じ方程式を持っていないのに。愛知環境塾で感じたのは、参加メンバーは、問題意識が違うし、目的も違う。そんなところで合意は無理でしょう。一冊の本を読むにしても、読みたい本が違いすぎる。

 自分の中の推敲で全体を見ます。蓄えられたものも異なれば、全体も違う。

 人と協働するにしても、関心事が合わない。

本はキッカケに過ぎない

 私の場合、今や、本でさえ、単なるキッカケにすぎなくなっている。習うべきところがなくなっている。そのキッカケが大きすぎて困っている。40冊借りて、15冊がOCR対象というのは異常です。興味の範囲が大きいと言うよりも、テーマが増えて来ています。家族制度改革一つ取っても手も、テーマは「愛」にまで及んでいる。

アラン・ケイとスモールトーク

 未だにスモールトークをやっている人がいるとは知らなかった。アラン・ケイとスモールトークをアップしたら、引っ掛かってきた。

 今、オブジェクト言語でやってもらいたい対象があります。未唯空間のキーワードを発火させて、その関係性を把握できるようにする。人間の思考でそこまで行ける人はいない。それを高速にやれるようにしたい。もしかすると、AIのターゲットかもしれないけど。

 オブジェクト言語的な発想の対象は言語の世界に多くある。コンピューターの範囲が拡がった理由をそこに感じます。発火したものがどのようにつながっていくのか。キーワード空間そのもので発火させていけばいい。

今必要なのは「ゆったり感」

 乃木坂は「ゆったり感」を目指している。その象徴がひめたんでしょう。今の社会に必要なのは「ゆったり感」です。次のステップに向かうためにも。その後ろに強烈に動いているモノを知っている以上、それらを支えるファンとしても、彼女らの思いを感じていかないといけない。追い込んではいけない。自分たちの中でちゃんとやっているのだから。

 何も考えていないコメンターによると、まるで様相は異なるから、様相を変えないことです。一部の人間であることを理解すれば、趣旨を知った上でやっていく。色々な思惑があるのは確かです。その思惑を無視していく。生田のやっていることは、秋元が考えられる範疇を超えている。それをいつまでも同じ認識で見ていてはいけません。新しいものに向かっている。若にしても同じです。

誰かの助けがいる世界

 「一人で出来ることには限りがあり、誰かの助けがないと生きていけない」。これはよく言われるし、よく描かれていることです。枕詞です。だけど、考えてみると、誰に助けがいりますか。具体的に出てきますか。全てを知りたいと言うことに対して。

 自分のために用意されたものを使っていくだけです。一人の人間ではありません。私です。それをなぜ、一人の人間にするのか。どういう意図があるのか。そのイトはどうでもいい。私なんです。多様な存在者がコミュニティを形成するのは、私から見た目です。その中に居るのは、私ではない。

本来の図書館の意味は何か

 本来の図書館が人生を豊かにするものである。これでは意味がない。元に戻るだけです。全てを知った上で、いかに行動するのか、その為の図書館です。これは武器です。

ハイパーカードの衝撃

 アイデアは散漫的に、断片的に降りてくる。これを習ったのはハイパーカードです。

 文章は線形でないといけないと言うことでなくて、バラバラでいい。線形の拘るのは、本の悪い性格です。本と言うツールがおかしい。その考えを是正するために作られたのがハイパー土です。知った時は衝撃的だった。三〇年前のマッキントッシュで得たものです。このコンセプトはツールの本質をついている。自分というものが主体です。必要ならば、自分に会ったツールを作る覚悟。

気に入ったものがマイナーになる理由

 私が気に入ったものは大体、マイナーなものになっている。それどころか絶滅危惧種扱いです。ICレコーダー、にしても、インスピレーションにしても、30年ぐらい使っていま。それで未唯宇宙とか知の世界を作っています。

 皆が何故、それらのツールを使わないのは、知の世界を望んでいないからでしょう。それからも、他者が考えていないことがわかる。他者が存在していない、一つの証しです。テレビのコンテンツも全然意味がないのに、時間を使っている。ネット放送について、身近に話せる人間はいない。

アウトライン形式

 私のICレコーダー、インスピレーションは自由に発想するというよりも、知の世界のためにデータベースを作り出すのに必要です。ワープロ的なワードでは無理です。まるで考えるためには、あまりにも中途半端で機能がない。アウトライン形式は万能です。

 クルアーンはアウトライン形式です。思いついたものを勝手に言わせています。それを後のイスラム帝国が自分流にまとめている。だけぢ、クルアーンが一つなのは素晴らしい。それが戒律になっていく。言い間違えたり、聞き間違えたりしても、前後の関係がないから、そのままやっていくしかない。

イノベーションに期待すること

 エネルギー戦略でイノベーションに期待するのは間違い。そんなものは起きない。誰かの利益にために、起きたようなカタチになるかもしれないけど、それはまやかしです。イノベーションだけでは、インフラにはなり得ない。

 クルマ屋にはは期待しないこと。SUVが儲かるとなると、この上なくごつい車を作り出す。一部の両親のあるエンジニアだけが自分の主張をしていく。そういう世界です。

 家族制度変革のイノベーションを確実に行なっていくしかない。そうすれば、教育も仕事も変わっていく。車の所有が1/10になれば、エネルギー問題は片付く。余分なものがなくなります。エネルギー問題があるかどうか走らないけど。

 エネルギー戦略は不確実性を語られるけど、確実なのは有限だと言うこと。だけど、これも137億年で見ていかないと。どうしたらいいのか、そういうことを真剣に考えること。

シェアな生活を目指す

 政治家には何も出来ない。生活から変えていかないといけない。生活そのものを作り出すことです。

 NPOがビジネスを行なうなら、行政と一緒になって、シェアの概念を植え付けて、それをいかに事業化すると言う観点でやらないといけない。そうないと、市民と関係なく、行政に使われるだけです。横の連携です。自治体の環境政策は身近な地域から行動する。その場合は、行動だけに終わっています。理念なくして行動しています。

 行動なくても生きていける世界をいかに作っていくのか。それがない限りは余計なお世話です。

生活費がなくなってしまった

 生活費支給の25日まで10日もあるのに、1万円追加です。これで持たせないといけない。ということで、今日はスタバのクーポンでフラペチーノです。飲まなきゃいいのに。
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