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アラン・ケイのスモールトーク

『スティーブ・ジョブズ』より アラン・ケイ ⇒アラン・ケイにあこがれていた。LAの費用で、NeXTコンピュータにSmallTalkを載せてみた。あの頃は7台くらいのマシンを使っていた。当然、VAXもファイルサーバにしていた。皆、三〇年前のことです。。

ダイナブック

 アルダス・パイウス・マヌティウス(以下アルダス・マヌティウス)は、15世紀のベニスの印刷業者であった。印刷技術の発明者グーテンベルクは大型の本を作ったが、頁番号を振らなかった。アルダス・マヌティウスは、本を8つ折版に小型化した。これによって本が持ち歩けるようになった。またノンブル(頁番号)を採用した。これで参照が容易になった。

 アラン・ケイは、アルダス・マヌティウスに刺激を受けて、パーソナル・コンピュータはノートブック程度の大きさでなければならないとした。これがダイナブックの思想に成長していく。ダイナブックとは、大体次のコンセプトに集約される。

  ・携帯型で、ふつうのノートブック程度の大きさと形で、個人用で、それだけですべてが備わった知識の操作機であり、視覚にも聴覚に対しても訴えられる十分な能力を持ち、記憶したり変更したいと考えられる、あらゆるデータを蓄えるのに十分な記憶容量を持っている。

  ・そのための具体的な要請として、アラン・ケイによれば、まず50万ピクセル程度の高解像度画面が必要である。次にいろいろなフォントを持つことが必要である。編集能力、描画ペイント能力、アニメーション、音楽の能力も必要である。また特にシミュレーション能力が重視されている。

 アラン・ケイのダイナブック構想を支える独特な部分に、メタメディア論がある。多少抽象的だが、紹介しておこう。

  ・あらゆるメッセージは、何らかの意味で、あるアイデアのシミュレーションである。それは、具体的にも抽象的にも表現される。メディアの本質は、メッセージの埋め込まれ方、加工のされ方、見られ方に依存する。

  ・デジタル・コンピュータは、もともと算術計算のために設計されたが、どんな記述的なモデルの詳細に対してもシミュレートできたということは、コンピュータをメディアそのものと見なせば、メッセージの埋め込まれ方、加工のされ方、見られ方が十分であれば、あらゆるメディアとなり得るということである。ここが、最も難解で独特な思想である。

  ・さらにこうしたメタメディアは能動的である。それは質問や実験に答えることができる。したがってメッセージは学習する人を双方向の会話に巻き込む。こうした特質は個々の教師というメディアを通してでは、これまで得られなかったものである。

 つまり、文字処理能力だけでなく、高度の音声処理能力や画像処理能力を伴えば、一方的でなく、パソコンとの対話的なコミュニケーションができるということだろう。

 今では当たり前となった要求仕様だが、一九七七年当時、こうしたダイナブックの思想はまだ実現に程遠いものだった。ダイナブックは、夢だと思われた。

 アラン・ケイによれば、「あらゆる情報に関する必要性を満たし、ノートブック程度の大きさで、誰でも所有でき、あらゆるデータを記録できる個人用のダイナミックメディアがダイナブックである」という。

 一九六九年、アラン・ケイはユタ大学で博士号を取得した。一九六九年アラン・ケイはバトラー・シンプソンのCAL-TSSの講演を聴いて感動した。オブジェクト指向OSと思った。そして一九六九年七月、スタンフォード大学人工知能研究所(SAIL)に移った。ジョン・マッカーシーの研究所である。パロアルト市アラストラデロ・ロード1600番地にあった。スタンフォード大学の裏手で恐ろしく辺鄙なところだ。ケーブルの航空写真でご覧になれる。ジョン・マルコフの『パソコン創世 第3の神話』(服部桂訳)の123頁に出てくる。GTEの直流電力ビルである。

 現在SAILはスタンフォード大学構内のゲイツ・コンピュータ・サイエンス・ビルディング内にある。スタンフォード・セラ・モール353番地である。

 マッカーシーのSAILでアラン・ケイはLISP言語を本当に理解したと言っている。面白いことに、アラン・ケイはSAILで人工知能に興味を持ち、影響も受けたが、人工知能研究には距離を置いた。

 アラン・ケイのSAILからPARCへの異動がいつだったのかは特定しにくい。

 アラン・ケイは一九七一年六月以前にゼロックスPARCに入所している。それはアラン・ケイの『トランスデューサーズ』という論文がPARCの所属で出ていることからも分かる。

 またアラン・ケイがPARC入所を決めたのは、BCCが一九七〇年一一月三日に倒産し、BCCの6人のグループがPARCに一九七一年一月に入所した後である。したがって一九七一年一月か二月頃にPARCに入所したものと思われる。

 このあたりでアラン・ケイは、前から抱いていたキディコンプというノート型コンピュータのアイデアをミニコム(miniCOM)に変えた。これはデータゼネラルのNOVA1200のようにビットスライス的なアプローチだった。またスモールトーク言語のアイデアを出した。

未来を予測する最良の方法

 アラン・ケイは、一九七一年ゼロックスのPARCに移った。PARCでは、システム・サイエンス研究室(SSL)の下のラーニング・リサーチ・グループ(LRG)を創って、そこを率いることになった。アラン・ケイは、当時ゼロックスのコーポレート・プランニング・ディレクターを務めていたドン・ペンドリーに我慢がならなかった。ドン・ペンドリーはPARCでおこなわれている研究を監視するような立場にあった。ドン・ペンドリーはアラン・ケイの言っていることを全く理解せず、世の中のトレンドと、未来はどうなるのかにしか関心がなく、ゼロックスはどう備えたらよいかしか考えていなかった。世の中の流れについて行くだけの受動的な考え方にアラン・ケイは腹を立てて言った。

  「未来を予測する最良の方法は、未来を実現してしまうことです。他の人がどう考えようと煩わされることはありません。今はほとんどどんな明確なビジョンだって立てられる時代なんです」

 この言葉は多くの人に愛されている。たとえばアンディの『レボリューション・イン・ザ・バレー』のパートーの表紙(2頁と3頁)に引用されている。よほど強い印象を与えたのだろう。

 アラン・ケイは、ディスプレイ・トランスデューサーを提案したが、しかし、ドン・ペンドリーはアラン・ケイの言っていることが全く分からなかった。

 一方でアラン・ケイも浮世離れしていた。当初SSLのオフィス・コミュニケーション・グループを仕切っていたビル・イングリッシュがアラン・ケイの擁護に回って、SSLにラーニング・リサーチ・グループを創らせた。そして君は予算を獲得しなければならないと言った。アラン・ケイの返事がふるっている。

  「予算って何です?」

スモールトーク

 アラン・ケイの率いるグループは、有名なオブジェクト指向言語のスモールトーク(Smalltalk)を開発する。アラン・ケイによれば、スモールトークとはインド・ヨーロッパ語族の神がゼウス、オーディン、トールなどと、はったりの利いた名前を付けられているのに反発したからだという。

 アラン・ケイは、マービン・ミンスキーのロゴ(LOGO)という子供の教育用に作られた言語に強い関心を持った。LOGOは子供の自発性や主体性、創造性を引き出すことを狙った言語であると言われている。特にタートル・グラフィックスが有名である。この言語を開発したシーモア・パパートは、この言語で金持ちになりたかったらしいが、そういう意味では必ずしも成功しなかった。

 アラン・ケイはLOGOにいたく心を動かされ、マイクロワールドとか知的増幅装置という考え方に到達しかと言われている。スモールトークをはじめとするアラン・ケイの一連の業績は、LOGOの影響を受けている。
 順次見ていくことにしよう。

ダン・インガルス

 スモールトークの実装は、ほとんどすべてダン・インガルスがやったようだ。アラン・ケイは、アイデアと方針を示しただけだったようだ。

 この時点でスモールトークの仮想機械のシステムが書かれた。多様なメーカーのマシンヘの移植性を高めるためである。ダン・インガルスはデイブ・ロビンソンと一緒にバイトコード・インタープリタのスモールトーク・エミュレータを書いた。またテッド・ケーラーがスモールトークでシステム・トレーサーというプログラムと仮想記憶システムを書いた。

 スモールトークは、ALTOと切り離しては考えられない。GUIとスモールトークがあってALTOの環境ができ上がるのだが、マッキントッシュが実現していたのはGUI環境だけで、スモールトークのオブジェクト指向がマッキントッシュの財界に進出するには、かなりの時間がかかっている。ウィンドウズにしても、GUI環境は比較的簡単に真似ができたが、スモールトークのオブジェクト指向がポーランドC++やビジュアルC++として入ってきたのはかなり後である。形だけ真似て、オブジェクト指向は取り入れていなかったのである。
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黒海の支配権をめぐる近代戦 クリミア戦争

『黒海の歴史』より クリミア戦争

一八五三年一〇月、ロシア軍とオスマン軍の戦闘はドナウ川沿いで始まった。しかし、当初は陸上戦に伴って海軍がすぐに動くことはほとんどなかった。すでに厳しい冬が迫っていたことに加え、そもそも兵力の配置についての知識が欠けていたために、両軍の戦艦はごく稀にしか遭遇せず、さらに、そのような場合も大抵は交戦を避けようとした。しかし、そのわずか一ヵ月後には戦争の第一段階における決定的なでき事が起こる。オスマン・パシャ率いるオスマン帝国の帆船艦隊が、夏以来急いでかき集めてきた乗組員たちを訓練しながら、シノプの港で冬を越していた。一方、ロシア艦隊は密かにセヴァストーポリの基地を出発し、速やかに黒海を渡った。一一月三〇日、艦隊はシノプの港の目と鼻の先に姿を現した。冷たい冬の雨が降る早朝の薄明かりの中、パーヴェル・ナヒモフ提督は彼の六隻の戦列艦に砲撃を命じた。

約七〇年前に起こったドニエプル川河口の戦役でもそうであったように、実際にはほとんど戦闘らしき戦闘は起こらなかった。ロシア艦は備えていた砲弾を用いて相手を徹底的に殲滅した。わずか一時間で、オスマン・パシャの全艦隊は海に沈んだ。沿岸に設置された砲台が破壊され、街は火に包まれた。三〇〇〇人以上のオスマン帝国海兵が殺され、オスマン・パシャ本人は捕虜となった。ロシアの艦で犠牲になった海兵はわずか三七人だった。

シノプ侵攻は衝撃的だった。オスマン帝国艦隊を殲滅し、ロシア艦隊が黒海南岸まで一気に進軍する能力を持つことを示したのだ。あるイギリス人の著作家の言葉を借りれば、シノプは事実上「第二のジブラルタル」であった。仮に、ロシアがこの地を獲得できたならば、セヴァストーポリとシノプという北岸と南岸の最良の自然港をおさえることで、ツァーりは黒海の半分を掌握することになる。ナヒモフ艦隊はそれが可能であることを証明してみせたのである。そして、それはボスポラス海峡、ひいてはイスタンブルそのものの獲得の第一歩となるに違いなかった。

このシノプ侵攻により、ロンドンとパリにおいて、ロシア帝国がオスマン帝国にただ戦いを挑むだけでなく、確実に葬り去らんとしていることに疑いを抱く者はいなくなった。数カ月をかけて、ヨーロッパの各国は壊滅的な打撃を受けたオスマン艦隊を援護するために各自の艦を派遣することを計画した。一八五四年三月、イギリス・フランス・オーストリアの連合軍が、スルタンの側に立って参戦した。少し遅れてサルディーニャ(黒海の港に対して常に関心を抱いていた)もこの戦列に加わった。

たしかにシノプの戦いは、ロシアのオスマン帝国に対する優位を証明したが、それだけでなく、黒海艦隊が依然として木造の帆船に依存していることもまた露呈した。こうした帆船は、もはや西欧の海軍で主流になりつつあった装甲汽船に及ぶべくもなかった。秋の間、イギリスとフランスの戦艦はアナトリアの海岸線を巡回し、南岸の港がふたたび北からの攻撃を受けることを防いだ。一方、ロシア軍とオスマン軍は、黒海の両岸、特にドナウ沿岸、およびコーカサス南部とアナトリア東部で交戦した。アナトリアでは、ロシア軍がカルスの要塞を占領することで劇的な一打を加えた。

戦闘の真の焦点は、とりわけ一八五四年秋に連合軍が到着してからは、クリミアに移った。兵団の輸送はボスポラス海峡を越えてまっすぐこの半島へ向かった。連合艦隊がセヴァストーポリの港への狭い入口を封鎖すると、これを破ることはほとんど不可能とみて、ロシアの提督たちは敵が港の内側へ侵入するのを防ぐため、多くの帆船艦に自没を命じた。さらに、連合軍はバラクラヴァに上陸し、セヴァストーポリ攻撃のためゆっくりと北上しつつあった。港の包囲戦は一一ヵ月にも及んだが、その間、絶えず連合軍の砲撃にさらされたロシアの海兵は海に出ることもできず、塹壕に寵もって防戦一方となり、ロシア軍は壊滅的な打撃を受けた(シノプの英雄ナヒモフも、この戦闘の犠牲となった)。このとき若い砲兵としてセヴァストーポリにいたレフ・トルストイは、包囲戦の最後の数ヵ月間の口シアの最前線での様子を以下のように描き出している。

 なまなましい爆発で掘り返されたりまき散らされたりした地上には、いたるところ人間の--ロシア兵と敵兵の--死体をおしつぶしている、見るかげもなく破壊された砲架や、永久に沈黙した重い鋳鉄砲や、恐ろしい力で穴の中へ打ちこまれて、半ば土中にうずもれた爆弾や砲弾、またしても死体、穴、丸太の破片、掩蔽壕の破片、さらにまた、灰色や青の外套を着た無言の死体などが、算を乱してころがっていた。しかもなお、それらのものはみな、今もしばしば大気を震動させ続けている爆発におののかされたり、その紫紅色をした焔に照らされたりしているのである。

最終的にロシアを敗北に至らしめたのは、連合軍の優れた火力、ロシア側の補給と通信機能の不足、そしてもっとも重要なことに伝染病の流行だった。この戦争で、人びとは爆弾や弾丸よりも多くチフスの犠牲となったのであった。一八五五年九月、ロシア軍はセヴァストーポリから撤退し、残った黒海艦隊すべてが敗走した。戦闘自体は終結したにもかかわらず、公式には翌年の春まで戦争状態が続いた。戦争中にツァーリ・ニコライの後を継いだアレクサンドル二世は、原則として、連合側が事実上すでに作り上げていた条件を受け入れざるをえなかった。すなわち、艦隊を撤退させ、沿岸の要塞と海軍の造兵廠を解体することである。こうして、ロシアの戦艦はすべて、沿岸警備用のものも含め、黒海の航行を一切禁止された。

戦争とそれを終結させたパリ講和条約は、黒海における一つの時代の幕引きであった。戦略上の観点から見れば、この戦争は、オスマン帝国に代わって介入することで、いかなる単一の帝国、とりわけロシアが、オスマン帝国の弱みにつけこんで不当な利益を得ることがないよう保証せんとする西欧列強諸国の意図を体現したものだった。ドナウ川と両海峡の処遇は以前よりも重要度を増し、もはや黒海をはさんで北と南で向かい合う二つの帝国間のパワーバランスの副産物というだけではすまされず、それは国際法上の問題となった。ドナウ川河口の支配権は、形式上はオスマン帝国へ戻ってきたが、航行の自由を保証するための国際委員会が設置された。黒海と両海峡は、どの国の旗を持つものであろうと戦艦の立ち入りが禁止となったが、実にロシア帝国とオスマン帝国も例外ではなく、この条項は列強諸国によって保証された。クリミア戦争は、この地域で大規模な帆船同士の戦闘が繰り広げられた最後の戦争でもあり、一七八〇年代にその幕開けをジョン・ポール・ジョーンズが目撃した一つの時代の終焉だった。シノプの戦役は、戦闘は一方的だったとはいえ、最後の戦列艦同士の交戦であり、ロシア・オスマン両帝国は、海軍に関しては実質的にすべていったん白紙の状態に戻って戦争を終えたのであった。その上で、両者は一八七〇年までに蒸気機関を備えプロペラで動く戦艦を持つ海軍を整備する計画を描き始めたのだった。

クリミア戦争の後、ドナウ川を下りボスポラス海峡を越えて航行する際の障害はなくなり、外国による貿易の自由が保証された。それだけでなく、戦争は実質的に黒海の名を世界中に広めることにもなった。クリミア半島における連合軍隊の戦功は、大衆文芸においてこぞって書き記された。この中には、学童向けの素朴な読み物があり、フローレンス・ナイチンゲールなどの献身的な市民の物語があり、テニスンの感傷的なロマンス「軽騎兵旅団の突撃」やその他の軍人の勇敢さ(あるいは向こう見ずともいえるが)を讃える詩があった。さらに、イギリス・フランス軍人は回想録の形で、当時の戦陣や行軍に関する客観的な分析も行った(こうした分析は、一〇年も経たないうちにアメリカ南北戦争においてその有効性を試された)。従軍記者という新聞記者の新たな形態が生まれ、自らの言葉でもって戦争の恐怖と英雄物語を本国の読者に報じた。また、写生画家や写真家(これもまた新しい職業であった)も同様に生々しく現地の姿を伝えたのであった。

これらすべてが人びとの好奇心に火をつけた結果、その後数十年にわたってこの地域は事実上の観光ブームを経験することになる。黒海沿岸地域は、近東への旅の途中で訪れるべき名所として、また、エキゾチックで十分に興味をそそる場所でありながら、他方適度に文明化の恩恵を受け、ヨーロッパの品々の多くも手に入る手頃な旅行地として、多くの外国人旅行者を引きつけたのである。間もなく、特にクリミアは外国人の集団に襲われたのだが、今度は軍隊ではなく、作家、芸術家、そして旅行者の一団であった。彼らは、思い思いに黒海の海岸に集い、ロシア帝国が誇る庭園の散歩を楽しむのであった。

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家庭危機管理への展開

『リスクマネジメントの本質』より リスクマネジメントとファミリー・リスクマネジメント 家庭危機管理への展開 ⇒ 家族制度の変革に向けての参考文献

危機管理の始まり

 元来、危機管理は国際政治や社会経済における不測事態に対処するための政策や対応策を意味し、主として国家安全保障上の危機が問題とされてきた。ところが、対象とする危機の範囲が国家の存亡や国家間の紛争に直結するものだけではなく、経済不安や社会不安にまで拡大されるとともにその主体が国家レベルから企業レペルにまで拡張され、さらに、家計にまで拡張されるようになってきた。

 すなわち、石油危機、通貨危機、食糧危機、財政危機といったような経済不安のほか、地震などの大災害、大事故、ハイジャック、破壊活動、凶悪犯罪といった社会不安についても危機という用語が用いられ、それに対する対応策についても危機管理という語が使用されるようになった。また、企業が倒産するような兆候を示したり、経営難に陥るような状態も経営危機といわれ、場合によってはこれも含めて危機管理を考えるという向きも出てきた。

 また、家庭の破壊についても家庭危機管理が考えられるようになってきた。

 本書によれば、危機管理とは予想される危機に対して事前に計画を立てておくことであり、現状から多くの危険や不確実性を除去し、自分の運命を自分でコントロールする技術である。

家庭危機管理の意義

 現在の社会を構成している経済主体は国家を別とすれば、家計、企業、地方自治体となろう。その各々に固有のリスクマネジメントが存在するが、共通するリスクマネジメントもある。

 共通するリスクマネジメントといえば、さしずめ災害管理型リスクマネジメントであろう。それは、企業、家計、地方自治体(行政)にとっていくぶんニュアンスが異なっているが、密接かつ不可分的に協同してその処理に当たらねばならないものである。

 元来、企業の危機や家計の危機は、個人責任の原則に基づいてマネジメントし、各種のリスクに対応していかねばならない。

 筆者(亀井利明)は、かつて、企業危機管理はビジネス・リスクマネジメントとして、①保険管理型、②危機管理型、③経営管理型、④経営戦略型に類別し、①と②を災害管理型リスクマネジメント、③と④を経営政策型リスクマネジメントとして体系化した。

 しかし、時代の進展、リスクマネジメントから危機管理への移行、経営の実態の研究が深まるにっれ、以上の考えを少し変えるようになった。すなわち、災害管理型リスクマネジメントを、企業、家計、行政に共通するものとするならば、企業危機管理は経営管理型をメインとし、それに業務管理型、経営戦略型を付加して3分類とすべきだと考えるようになった。

 また、家庭危機管理は、かつてファミリー・リスクマネジメントといわれていた分野である。しかし、ファミリー・リスクマネジメントは保険論の延長で、家庭リスクの付保金額の大きさと種目選択に集中し、物的リスク、生保以外の金融リスク、不動産リスク、家族リスク・親子リスク・不登校・ひきこもり・家庭内暴力・非行・いじめ、といった昨今の家庭崩壊リスクには何のメスも入れず、心理学の研究やカウンセリングの導入などは全くなされていなかった。

 そのため、筆者(亀井利明)は、家庭危機管理にはコンサルティングとカウンセリングの導入が必要ということを強調して、『危機管理カウンセリング』という本を書き、さらに心の危機管理と癒しの必要性を強調して、ストレス・マネジメントを中心として、『心の危機管理と陶芸』という小冊子を公刊した。

 また、正しい家庭危機管理を研究し、それを普及すべく、2000年、家庭危機管理学会を設立し、FCCや家庭危機管理士の制度化を図った。なお、家庭危機管理学会は2003年、家庭危機管理研究所と名称を変えて、日本リスク・プロフェッショナル学会に融合された。

家庭危機管理の充実

 阪神・淡路大震災以降、相変わらず地震や噴火などの災害リスクが多発している反面、金融機関、ゼネコン、雪印乳業事件などに見られる経営リスクの多発、多様化からリスクは社会化し、わが国は自然災害と社会化リスクに満ちた危機が一般化し、企業危機管理を重視しなければならない時代を迎えた。

 また、他方において、企業を構成する個々の家庭においても、通常の経済リスクのみならず各種の葛藤リスクが多発し、それが悪質化、犯罪化し、家庭崩壊や学校崩壊現象を起こし、単なる家庭カウンセリングや教育カウンセリングでは十分な対応ができなくなってきた。

 つまり、家庭リスクも、不登校、ひきこもり、家庭内暴力、いじめ、非行、離婚、親子の断絶、家出、児童虐待、過食、拒食、等々の形をとり、個々の家庭では対応できない社会化リスクとなってきた。それゆえ、家庭の葛藤リスクだけでも早急に解決すべく家庭危機管理の強化とその重点的実施が要請される。

 現代はおそらく家庭危機の時代といわれるだろう。危機は生命を脅かすストレスや事件で、心と身体に大きな反応を引き起こす。ストレスは人間が対人関係を持って生きている限り、大なり小なり発生するもので、傾聴、共感、受容といった非指示的カウンセリングやセルフ・コントロールとしての癒しの行動によって時間をかければある程度は対処できるだろうが、何よりも大事なことは強力な予防である。ストレスの予防が困難なことはわかりきっている。しかし、それでも予防が第一で、次いで軽減、修復、除去ということになろう。

葛藤リスクと家庭危機管理

 家庭は相互の緊密な愛情に基づいて結ばれ、健全で平和かつ円滑な相互信頼関係が永続することが期待された人間の集団である。人間の集団である限り、たとえ夫婦関係にあっても、血縁関係にあっても対人関係の葛藤に巻き込まれ、危機的状態が出現する。そこに家庭危機管理の必要性が出てくるのである。

 しかし、理屈はどうあれ、家庭の葛藤リスクは絶対に予防されなければならない。予防という文字を何字重ねてもよいくらい「予防」が大切で、それがためには細心の注意を払った行動が必要である。

 家庭危機管理としての危機管理コーディネイションの第1課程は、資料または現場の「調査」および面接による「傾聴」である。これによって「問題点」や「主訴」が何であるかを明確化する。非指示的カウンセリングではこの傾聴をとくに重視し、最初から最後までここに主力を置いているように見える。その結果、いろいろな効果が得られる。

 すなわち、クライエント・相談者にありのままの話をさせ、その話を非難も批判もせず、丸ごと受け止めて、耳を傾け、不安やイライラ、怒りや憎しみといった感情をそのまま受け止める「受容」という態度をとれば、心の中にあった緊張や不安が取り除かれ、心身がリラックスし、心が「浄化」される。これは「カタルシス効果」である1)。

 次に相談者に向かい合い、寄り添い、その言葉の裏にある気持ちを正確に理解するという「共感」が必要である。共感は一種の安心感で、親や教師からよりも、カウンセラーや仲間から得られることが多い。同じような境遇の者同士で話をすることによって、類似の悩みに共感することができるわけで、グループ・カウンセリングや相互カウンセリングで、喜びや悲しみ、不安や葛藤を分かち合い、理解し合う感情もまた共感といえるだろう。これによって、クライエントは安心感を得られる。これを「バディ効果」と呼ぶ。

 面談と傾聴を続けると、やがて「気づき」に到達する。「気づき」は目が覚めて意識を取り戻すことで、自分の感じ方や考え方など今まで無意識だった自分の内なる部分に「ハッ」と気づき、潜在化させているものに自分自身が「気づき」、「目覚め」させることができる。つまり、これによって、自分自身の悩みやストレス解決の糸口や方法が見えてくるのである。これが自分の潜在意識に気づく「アウェアネス効果」という。

 次に第2段階に入るわけであるが、この場合には問題点の整理、分析、対応策の相談、指示ということになるが、その場合、クライエントとコーディネーター(コンサルタント)との間にラポールが形成され、安心感、信頼感、意見の自由な交流が見られなければならない。これは一口にいって両者間の「相性がよい」という問題である。
 これによってクライエントは自ら心を開き、本心をさらけ出し、本音の発言としての自己開示を行うものである。これによって第2課程の相談から、第3課程の助言、援助というプロセスに入る。

 助言は明らかに示唆、解釈、指導、命令、禁止、訓戒等を意味し、援助には動機づけ、解説、説得、激励、慰撫等が含まれる。

 第4の課程は、解決案の吟味、選択、採用、実施等の行動化とその成果に対する評価である。評価は家庭危機管理がコンサルティングにカウンセリングを導入したコーディネイションが成功したかどうかの判定ということである。これは、成功、無意味、失敗のいずれかの結果となる。
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カイロの歴史

苦肉の1.8「全てを知る」

 1.8はエヴァの23・24みたいな幕切れ・様相になっている。とりあえず、こういうもんかという世界です。

 1.8の内容 全てを知る

  全て

   未唯宇宙の広さ
    ① 存在と無の解釈
    ② 全ての連鎖
    ③ 地球原理の論理
    ④ 多重世界を表現

   社会の課題
    ① 環境問題
    ② 汲々とした社会
    ③ 社会の方向
    ④ 社会は存在するのか

   存在の認識
    ① 死から考える
    ② 無からリバース
    ③ 大いなる意思
    ④ 偶然の未唯宇宙

   自分に納得
    ① 独我論の世界
    ② 内なる世界
    ③ 多くの真理がある
    ④ 観察のためにいる

  知りたい

   いる理由
    ① 放り込まれた
    ② 意味があるはず
    ③ 知ってどうする
    ④ 固執しないため

   存在と無
    ①無であること
    ②根源を探る
    ③存在は無に収束
    ④私の世界の完結

   孤立と孤独
    ① 孤立は依存しない
    ② 孤立を通す
    ③ 孤独を知る
    ④ 絶対的孤独は癒し

   問われたら応える
    ① 内なる世界の表出
    ② 未唯宇宙で表現
    ③ 知る範囲を規定
    ④ 自ら発信しない

  存在の力

   他者に言いたい
    ① 危機感
    ② 覚醒せよ!
    ③ 多くの人の幸せ
    ④ しあわせループ

   生活を変えよう
    ① 消費者資本主義
    ② ローコスト社会
    ③ 所有から脱却
    ④ シェア社会

   皆のインフラ
    ① ダニーデンの花壇
    ② フライブルグ風景
    ③ 車が占有している
    ④ 車は中途半端

   幸せを望むなら
    ① 幸福の定義
    ② 存在の力で夢
    ③ 幸せにする仕事
    ④ 幸せをつなぐ

  未来のカタチ

   数学
    ① 部分は全体よりも大
    ② 結果と原因の逆転
    ③ 新しい数学
    ④ 多くの真理がある

   社会
    ① コンテンツ先行
    ② 市民の武装化
    ③ 知識と意識
    ④ サファイア社会

   変革
    ① 中間の存在が必要
    ② 地域が変わる
    ③ 全体が変わる
    ④ 歴史が変わる

   歴史
    ① クライシス
    ② 自由と平等
    ③ 市民主体
    ④ 幸せな未来

カイロの歴史

 カイロは7世紀に、イスラム帝国にエジプトが占領された後に作られた。アレキサンドリアは、それより前に作られ、アレキサンドリア図書館は4世紀にキリスト教徒に破壊された。

 プトレマイオス朝の首都はアレキサンドリアだったんでしょう。クレオパトラもそこに居て、ローマ軍が攻め込んだ
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豊田市図書館の30冊

367.1『はじめてのジェンダー論』

902『世界文学大図鑑』

686.21『全国鉄道事情大研究 北海道篇』

943.6『アドリア海へ』カール・マイ冒険物語 アスマン帝国を行く

501.6『エネルギー政策の新展開』電力/ガス自由化に伴う課題の解明

209『黒海の歴史』ユーラシア地政学の要諦における文明世界

289.3『スティーブ・ジェブズⅡ』アップルⅢとリサの蹉跌

289.3『スティーブ・ジェブズⅢ』マッキントッシュの栄光と悲惨

336.2『SPRINT最速仕事術』あらゆる仕事がうまくいく最も合理的な方法

140.4『他人の心理学』面白いほどよくわかる!

336『リスクマネジメントの本質』

010.8『図書館制度・経営論』ベーシック司書講座・図書館の基礎と展望

386.16『京都千年の歳事』季語になった

198.22『ほんとうの自分になるために』マザー・テレサに導かれて

361.45『「コミュ力」アップ実践講座』気まずくならずに会話が続く!

104『哲学しててもいいですか?』文系学部不要論へのささやかな反論

002『勉強の哲学』来たるべきバカのために

007.13『機械学習&ディープラーニング超入門』60分でわかる! 

674『現代広告論』

304『陳独秀文集3 政治編集2 1930-1942』

010『図書館情報学を学ぶ人のために』

498.8『「おもてなし」という残酷社会』過剰・感情労働とどう向き合うか

304『牙を研げ』会社を生き抜くための教養

335『20 UNDER 20』答えがない難問に挑むシリコンバレーの人々

289.1『インターネットで死ぬということ』

002.7『1億稼ぐ人の「超」メモ術』

310.4『転回期の政治』

371.47『<いい子>じゃなきゃいけないの?』

007.3『スマホ廃人』

371.23『ヨハネス・コメニウス』汎知学の光
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