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家族制度の見直し

未唯空間仕事編に戻ります

 また、未唯空間に戻ります。第5章仕事編の詳細見直し。仕事はキーワードを見つけるためにやってきた。それ自体を仕事にしてしまった。不思議なことに、3部署を渡り歩いたが、誰からも干渉されなかった。会社生活では自分の生活はついでだった。それでも充分にやっていけた。

電算部署

 電算部門では、部品表データベースを駆使して、遊んでいた。当時の最新鋭のIBMシステム360を自由に使っていた。

開発部署

 開発部署では、技術者の思考そのものを対象にした。そこから、ヘッドロジックが生まれ、その根本である配置の考えが整理できた。至る所に頂点があり、それが逆ピラミッドになる構成。実験解析データ処理からプレゼンテーションまでをシステム化した。

販売部門

 販売部門では、情報共有をキーにして、お客様とメーカをつなげる中間の存在として、販売店を位置づけた。特にお客様とスタッフの関係付けに興味があった。

家族制度の見直し

 家族制度の見直しが起こる、家族という、一方的な甘えの役割を欲しているのか。家族制度があるから、引きこもりが発生する。家族というシェルターを地域全体に拡大させて、安心・安全で耳痛名カタチにしていく。

 家族制度は「愛」という欺瞞の上に作られている。恋愛、結婚、家族愛、夫婦愛。行動する単位として、家族と言うけど、家族ができないことを含めて、再構成される。

 私の知っている女性は未婚の女性が多い。かといって、彼女らが不幸とは思えない。碌でもない男とつるむよりもはるかにいい世界です。ただし、それが社会のベースになっていないのは確かです。行動が規制されている。

 家族制度を変えることほど、革命的なことはない。何しろ、原始時代から、その単位が信じられてきたのだから。

 時として、共産主義、全体主義、そしてスパルタにおいて、家族制度をなくそうとしてきた。手段として考えたので、あまりうまくいっていない。家族という単位は強い場合と弱い場合がある。移民の世界では、家族の単位で動く.その場合は脱落する場合は切り捨てられる。

家族制度の風景

 老夫婦でおじいさんの世話をするおばあさんの風景を見ているとまともじゃない。今までの規準に沿って生きているけど、見方を変えるとなり立たない。

 モーツアルト、ソクラテス、トルストイにしても、奥さんは悪妻です。何故でしょう。家族制度と天才は会わないものです。
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OCR化した10冊

『日本の現代をつくった本』 

 14歳からの哲学 池田晶子

  イベントから人気に火がつく

  取次会社を通さない出版社

『超訳 ヴィトゲンシュタインの言葉』

 はじめに--職業哲学を嫌った哲学者

『公民館必携』

 第6期中央教育審議会生涯学習分科会における議論の整理 平成25年1月 中央教育審議会生涯学習分科会

 はじめに

 第1章 今後の社会教育行政等の推進の在り方について

  生涯学習・社会教育を取り巻く社会が変化する中で求められるもの

   個人の自立に向けた学習

   絆づくり・地域づくりに向けた体制づくり

  社会教育の役割及び課題

   社会教育の役割

   近年の社会教育の成果

    学校教育との連携・協働による地域コミュニティの形成

    家庭教育における学習機会の提供と地域人材の育成

    生涯学習社会の構築に向けた寄与

   社会教育行政が抱える課題

    地域コミュニティの変質への対応

    多様な主体による社会教育事業の展開への対応

    社会教育の専門的職員の役割の変化への対応

  今後の社会教育行政の取組の方向性~「社会教育行政の再構築」~

   関係行政部局との連携・協働の推進

   初等中等教育機関との連携・協働の強化

   大学等の高等教育機関との連携・協働の推進

   民間団体の諸活動との連携・協働の推進

   企業等との連携・協働の推進

   様々な主体との連携・協働を推進するための体制の整備等

   地域社会を担う人材の育成

   国の役割

  生涯学習振興行政の調和・統合機能の強化

   生涯学習振興行政と社会教育行政の関係

   生涯学習振興行政の取組の推進

 今後の生涯学習・社会教育の振興の具体的方策について

  絆づくりと活力あるコミュニティの形成に向けた学習活動や体制づくりの推進

   社会全体で子どもたちの活動を支援する取組の推進

   学びの場を核にした地域コミュニティの形成の推進

   地域社会と共生する大学等の高等教育機関づくりの推進

   豊かなつながりの中での家庭教育支援の充実

  現代的・社会的課題に対応した学習機会及びライフステージに応じた学習機会の充実

   現代的・社会的課題に対応した学習の推進

   ライフステージに応じた学習機会の充実

   学習機会の確保のための環境整備

  社会生活を円滑に営む上で困難を有する者への学習機会の充実

   子ども・若者への学習支援

   成人への学習支援

  学習の質保証・向上と学習成果の評価・活用の推進

   多様な主体が提供する学習機会の質の保証・向上の推進

   学習活動の成果の評価・活用の推進

   キャリア形成のための新たな学習・評価システムの構築に向けた基盤の整備

   ICTを活用した学習の質の保証・向上、学習成果の評価・活用の推進

  生涯学習・社会教育の推進を支える基盤の整備

   様々な主体との連携・協働を進めるための社会教育行政の体制の確立

   地域の学びを支える人材の育成・活用の推進

   社会教育施設の運営の質の向上

   生涯学習・社会教育分野における調査・研究の推進

   生涯学習・社会教育の活動を支えるための民間資金等の有効活用

『はじめてのNPO論』

 どのように資金調達するのか

 NPOの資金調達

  NPOの財源構成

  会費収入

  事業収入

  寄付金

  補助金・助成金

  委託費

  借り入れと債券発行

 資金調達の課題

 NPOの会計税務

  会計業務

  税務処理

 NPOの評価

  自己評価と第三者評価

  ドラッカーによる自己評価手法

『日本経済史1600-2015』

 日本とアジア

 海外市場の開拓と情報ネットワーク

 台湾領有と植民地経営の開始

 関東州と南樺太の経済的位置づけ

『中国文化事典』

 毛沢東--中国人民の最大の指導者

  農民の力量の発見

  毛沢東と人民

  実践と矛盾の中で生きる人民

  現在の中国人民と毛沢東

 瀋陽とハルビン--植民地政策と鉄道網

  近代極東における地政学上の要衝

  中国東北鉄道網の背骨

  ディアスポラの都市

 毛沢東主義--中国をかきたてる夢

  毛沢東主義の命名者は国民党のイデオローグである

  世界革命から科学的世界観へ

  悄勧化される毛沢東主義

 就活--経済成長低速下での800万人の大激戦

  大学改革

  就活の流れ

  戸籍制度と就職

 婚活--中国結婚事情

  三つの「つり合い」

   人っ子世代の結婚難

  親による婚活

  「ふさわしい人」探しの旅

 ジェンダー--20世紀初頭から現代まで

  新中国成立

  改革開放後

 チャイニーズネス--中国人の一体感

  文化としての中国

  漢字の役割

  華僑・華人

『中国政治からみた日中関係』

 習近平体制と文化大革命-―連続と非連続

  歴史と政治

  文革の本質--独裁者の焦慮と権力

  習近平体制の検証

  現在と文革--ルールなき後継者決定の悲劇

『紛争下における地方の自己統治と平和構築』

 弱い国家における「自己統治」--だれのガバナンスなのか--

  国際社会、首都、そして農村

  ガバナンス認識をめぐる差異

  フォーマルな政府とインフォーマルな農村社会

『パンツをはいたサル』

 すべては「内なる知」によって決められるべきだ

 ヒトの行動を解明したポランニー兄弟

 生物は機械か?

 「層の理論」が、ヒトの進化を解明する

 言葉で説明できないもののほうが正確に伝わる!?

 暗黙のうちに働く生命の力--暗黙知あるいは内知

 絶対的な基準となる時間は存在するか

 宇宙の中心から放り出された人間

 監獄化社会、学校化社会

 内知による人間社会の見直しと発展を

 二一世紀の日本は正しい方向に進んでいるのか

『18歳で学ぶ哲学的リアル』

 「哲学する」ためのスルースキル

 「平凡な役人」が「法外な犯罪」に加担したのはなぜか

 「無縁社会」のなかで「死」を迎える単身者の「孤独」

  「死」を管理する「優しい社会」

  「あなたの死」から学びうること

  「孤独死」は「不幸な死」なのか

  自分なりに考える:延命を停止できる「家族」とは誰か?

 「永遠平和」の理想から「正義の戦争」という妥協策へ

  「永遠平和」へ向かう「国家連合」

  「道徳」と「政治」は共存できる

  「自然状態」にとどまる「平和」

 用語集
  愛
  悪(罪・恥)
  意志
  意識
  イデア
  イデオロギー
  永遠回帰
  格律
  観念(感覚、知覚、表象、概念、理念)
  観念論
  寛容・赦し
  基礎づけ主義
  義務論
  共感(同情)
  経験論・合理論
  形而上学
  啓蒙主義
  現象学
  権利(義務・責任)
  権力
  功利主義
  国民・民族
  自我(自己)
  自己保存
  自然
  自然観
  自然法思想(社会契約説)
  実存主義
  実体と属性
  市民
  自由
  集団
  承認
  人格
  生
  正義(平等)
  精神
  世界(世間)
  世代間倫理
  説明と理解
  相互主観性
  相対主義(文化相対主義)
  対象
  魂と肉体
  哲学
  道徳直観(エートス)
  道徳法則(定言命法)
  徳(中庸)
  パラダイム
  プラグマティズム
  弁証法
  無神論
  物自体(批判哲学)
  理性
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延命を停止できる「家族」とは誰か?

『18歳で学ぶ哲学的リアル』より 「無縁社会」のなかで「死」を迎える単身者の「孤独」

「孤独死」は「不幸な死」なのか

 このような「家族の情景」は、核家族化が進んだとはいえ、長らく「イエ社会」の伝統を保ってきた日本人には容易に想像できるものであろう。そして、そうしたイメージは、「現代の死」に伴う問題に対処しようとする有意義なメンタリティを育む。それは、核家族化と高齢化によって単身で暮らす老人が増加した現代社会において、ひとりで死を迎えなければならない老人たちに支援の手を差し伸べようとする活動である。そこには、孤独な状態で「死の恐怖」と闘わなければならない人びとに、できる限り「家族」のように寄り添い、心の安寧をもたらそうとする「善意」が表現されていると同時に、他人ではあれ、親しくなった「あなたの死」に立会い、その最期を看取ることで、「私の死」について思いをめぐらす機会を得る、という意義も含まれている。

 この発想は、今日、「ケア(care)の倫理」と呼ばれる看護者の態度、すなわち患者の「治癒(cure)」を目指してきた従来の医療とは異なり、患者の人格を尊重し、そのひと自身が望む「生き方」の実現を支援しようとする考え方にもつながるものである。

  ひとりの人生をケアすることは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することを助けること〔であり、それと同時に〕まさにそのことによって、祁が自分自身を実現することである。         (メイヤロフ『ケアの本質』)

 しかし、そうした「善意」は支援される立場にいるひとを傷つける残酷さを潜めている。それは、上述のような世情のなかで「孤独死」が問題視され、地域コミュニティの有志が「独居老人」を定期的に訪ね、その生活状況や健康状態を把握しようとするさいに露呈しかねない問題である。

 こんな話がある--定期的に老人宅を訪問し、顔見知りになって、普段は親しく言葉を交わしていたボランティアの若者が、好意をもって迎えてくれていたはずの老人に、突然、「そんなに死んでほしいのか」と怒鳴りっけられた、という体験談である。彼らのあいだでどのような交流があったかにもよるのだが、そうした事態が起こりうることは十分に予想できる。

 私たちは「現代の死」の虚しさに気づいたとき、その反面で、即座に前述のような「家族のなかでの死」を対置して、それを理想化する傾向にある。終末医療に関わる医療関係者やボランティアの心情にも、自分たちの関係をそうした理想に準ずる「擬似家族」として確立したいという企図が入り込みがちである。しかし、家族と共に過ごすことが、そのまま「幸福な死」であるとは限らない。しかも、その理想には、それ以外の死を「不幸な死」と決めつける発想に陥りかねないという危険が含まれている。「独居老人」は「可哀想なひと」であり、「孤独死」は「不幸な死」である--そうした「憐れみ」を察知したとき支援される側が抱くのは、他人の「善意」が互いの親密さや信頼ゆえのものではないのではないか、その笑顔の裏に自分に都合のいい思惑を隠しているのではないか、という疑念である。

 私たちは、このような疑念を踏まえながら、「孤独死」を解決したいという「善意」の背後に隠された自分の心情を直視すべきである。

 そう、私たちは恐れているのだ。自分の住居の側で、誰も訪ねる者のいない「密室」のなかで「変死体」が放置され腐乱していくのを。だからこそ、私たちは、あらかじめ死期の近い「独居老人」を調査して、地域コミュニティや行政の管理下に置こうとするのである。つまり、「孤独死」は、本人にとって「不幸な死」である以上に、周囲の人々にとって「忌避すべき死」なのである。

 このような思惑が露呈した瞬間、支援を受けている者は「社会的な死」を経験する。「社会的な死」とは、「病院」に隔離されて死を待っひとが直面する、「自分かいなくても世界は何も変わりなく、まだ生きているにもかかわらず、誰からも必要とされていない」という寂寥感に満ちた「孤独」を捉えたエリアス(Elias、N. 1897-1990)の概念である。「独居老人」は、自分の生活が他人の目から見たとき、死を待つだけの、社会的には無意味な状態であることを痛感する。隣人は、「病院の死」の前段階にありながら、「病院」の管理下に移行することが不確定な状態にある自分を、「正常な経路」に連れ戻そうと画策している。そんな風に彼らは、他人の「善意」を解釈してしまうのである。

 「社会的な死」の熔印は、ひとを生きたまま葬る。自分の「生命の価値」を踏みにじられたひとは、強制的に実験台に載せられた「人間ならざるもの」と同様の絶望を味わう。だから、私たちは忘れてはいけないのだ。「病院」や「家庭」や「地域」で、個々人の「生命の質」を尊重し、その「死」を安らかなものにしようと配慮するさい、自分が思い描いた理想のなかに彼らを押し込めないよう、「善意」に溺れてはいけない、ということを。

 実際の現場で、そんなことを悠長に考える余裕はない。

 もちろん、その通り。しかも、前述のような反省的態度は、「孤独死」を回避する手続きを安易に法制化することを避ける程度の具体性しかもたない。しかし、「善意」が「独善」に陥るのを防ぐのは、そうしたささやかな自制心なのである。

自分なりに考える:延命を停止できる「家族」とは誰か?

 病院において「延命措置」を停止する決定は、結局のところ、「家族」の判断にゆだねられる。しかし、そのさい「家族」とは誰のことを指すのか、という問題が生じる。たとえ「血縁」のちかい「近親者」といえど、長いあいだ生活を別にしていた者や入院費用を支払っていない者が、その決定を下すことが妥当なのか、あるいは、彼らの決定が「患者本人の意思」を代弁していると認められるだろうか、という問題である。実際、アメリカでは、結婚はしていなかったが数年間、夫婦同然に暮らしていた「恋人」が患者の「安楽死」を求め、それまで音信不通だった両親が「延命継続」を望んだため、どちらの見解を尊重すべきか裁判で争われるという事件が起こった。高齢化が進む私たちの社会では、今後、「近親者」の存在しない人びとの「延命停止」や「安楽死」という事態が日常化すると考えられるが、そのさい、その決定権をもちうるひとは誰なのか、そのひとが「家族」と同様とみなしうるための条件は何か、考察しなさい。
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弱い国家における「自己統治」 フォーマルな政府とインフォーマルな農村社会

『紛争下における地方の自己統治と平和構築』より 弱い国家における「自己統治」--だれのガバナンスなのか-- 国際社会、首都、そして農村

1979年以降の対ソ戦、そして1992年4月のナジブラ政権崩壊、それに続くムジャヒディン各派によって構成されるムジャヒディン政権と内戦、さらに1994年頃からのタリバン政権と反対勢力による抵抗という一連の歴史的流れは、アフガニスタンにおける国会システムの崩壊の過程であったと見ることができる。遠藤は、ソマリアを事例としつつ、対外的な機能を国家(state)、国内統治機能を政府(government)として区分し、国際関係においては、主権を有すると仮定される国家という枠組みの認知が、国内を統泊する政府が崩壊しても継続していることを指摘している。

遠藤の指摘する「国家」と「政府」の区分をアフガニスタンに当てはめてみれば,1979年以降、国際社会における認識では、Niiでの議席を含め、アフガニスタンの既存の国境と領域を伴った「国家」があると仮定されつつも、国内を統治する「政府」は, 1979年以降崩壊の過程を辿りたといえる。そして2001年12月以降、アフガニスタン移行政権および暫定行政機構が設立されると、この時から、「国家」としてのアフガニスタンにおいて、「政府」が設立される過程が始まったといえる。巨視的に見れば、アフガニスタンにおいて、対外的認識における「国家」と、国内的統治を行う「政府」が2001年を境として、両者を再び保持した、アフガニスタンという空間領域が誕生することになったのである。

しかし、前章までに検討してきたように、国際社会、そして枠組みとしてのアフガニスタン「国家」認識、それに伴う国家主権の仮定と、国内統治機関としての「政府」の在・不在は、人々の生活レベルにおいては、ほとんど意味をなしていなかった。1979年以降の政府崩壊の過程においても、カラコン郡およびミル・バチャ・コット郡の人々は、国際関係における Daulat(国家)、国内統治における Hukumat(政府)がどのようなものであろうとも、ある時は武器を取ることによって軍閥、ムジャヒディン各派から給与をもらい、ある時には、農地においてほぼ自給自足の生活を送ってきたのである。Daulatおよび Hukumat がいかに変わろうとも、その農民たちの日々の問題を、変わらず取り扱ってきたのが、第3章で見たマルドミとして呼称される、地域におけるシューラだったのである。だからこそ、農村部における自己統治機構としてのマルドミは、時々の政府を見極め、利用することが可能だったと考えられる。2001年以前であれば、共産政権とムジャヒディン各派支配地域、あるいはタリバン政権と国連で議席を持つ北部同盟支配地域という Daulat(国家)が複数存在していた。そして、Hukumat(政府)に対しては、国際社会側には、冷戦を背景として国家主権を前提とした内政不干渉原則が適用され、タリバン政権期には、「忘れられた紛争」として、国内統治のための政府に対して援助がほとんど適用されてこなかった。国際社会による直接的な介入が抑制された状況の中で、農村部の人々は、能動的に行動し、村が支持する先を自ら決定し、そこで給与や保護を獲得していったのである。 2001年以降は、国家(Daulat)と政府(Hukumat)が整うわけであるが、対ソ戦と内戦を経験した農民たちにとって、頻繁に政権が変わってきた政府(Hukumat)の持つ重みは、先進工業諸国に住む私たちの政府認識に比べれば薄いと考えられる。

アフガニスタン農村部における納税は、1979年頃を最後に、農民から政府に対して支払われていない。経済学の視点を持てば、近代国家の成立と税制の関係性が指摘されるが、納税という行為は、政府を強烈に意識させるプロセスともいえるだろう。しかし、アフガニスタンにおける土地証書と土地登記と引き換えになされる納税は、共産政権初期においてすでに停止してしまった。以後2014年に至るまで、土地証書および土地登記に基づいた課税システムは同国において構築されていない。これもまた、農民にとって政府(Hukumat)の存在を軽くする別の要因であろう。

そして第2章で検討したように、農民たちにとって、Hukumat(中央政府)から派遣されてくる郡知事は、地域の実悄を知らないよそ者、あるいは地域出身であっても、公的権力はあるものの、マリクに比べれば地域の実情をよく理解していない存在である。だからこそ、郡知事を公的楡威付けとして利用し地域の要望を実現しようとするのである。他方、巾央政府もまた、「公印」をシューラに交付していくことで、シューラを Hukumat (中央政府)へと取り込み、中央政府の準構成組織化することを棋索する。

こうして見ると、ガバナンスという言葉が、Daulat daari あるいは Huku-mat daari と訳されていることが農民たちにとって非常に意味の軽い言葉になっていることに気付く。また、他方で、国際社会がに多額の支援を行い、Hukumat(政府)の強化, Daulat (国家)の尊重をしながら支援をしても、それが農村に届いていないと認識される状況が、農民たちの間で一層 DaulatやHukumat の重みを失わせていることになると考えられるのである。しかも、Hukumat が汚職をしていると国民の多くが認識している現状は、人々の間に公的な Hukumat への信頼を失わせ、マルドミによる自己統治、シューラによる意思決定を重視する姿勢を生み出しているといえる。このような視点、理解のずれが最も鮮明に表されているのが、国際社会、首都、そして農村部における「ガバナンス」という言葉の理解なのである。
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