未唯への手紙
未唯への手紙
知識共有現象 未来の図書館
『図書館情報学を学ぶ人のために』より 世界の知識に到達するシステム 電子図書館の夢 ディスカバリサービスの登場 図書館の本質
ドキュメントによる知識共有現象
知識情報学の第一歩としてドキュメントによる知識共有現象について考えてみよう。ここまで「書物」、「本」、「図書」、「雑誌」、「文献」、「資料」とさまざまな言い方をしてきたが、本節ではこれらをまとめた抽象概念として「ドキュメント」と呼ぶ。ここではドキュメントを「知識が表現された記録物」と定義する。記録物であるということはメディアの一種である。メディアは一般にキャリアとメッセージから構成される。キャリアとは記録する容器を指し、メッセージは内容を指す。たとえば、図書は紙が容器であり、そこに書かれた内容がメッセージである。電子書籍は、メッセージは変わらないが、容器だけが電子媒体に変わったものである。テレビやラジオは電波が容器となる。
ドキュメントに書かれたメッセージは「テキスト」と呼ぱれ、主としてことばを用いた記号のシステムである。最近は「コンテンツ」という言い方もするが、コンテンツはキャリアとメッセージの区別が曖昧なので、ここではテキストを使う。たとえば、村上春樹の「IQ84」というテキストは、村上春樹が考えたことを日本語で表現したものである。『1Q84』は英語やフランス語でも翻訳によって表現されており、やはり村上春樹の考えたことを表現している。言語は違っていてもテキストとして同じ内容のはずである。このように、著者は伝えたいことをテキストとして表現し、読者はテキストから著者の考えを読み取ろうとする。これはテキストを介した著者と読者のコミュニケーションである。しかしながら、著者が意図したことと読者が読み取ったことは必ずしも一致しない。特に文学作品においては一致しないことが普通であり、しかもそれでよいとされる。ところが、科学技術論文においては著者の意図した内容が読者に正確に伝わることが求められる。このように、テキストは読者中心の意味と著者中心の意味の2種類に分けられる。
さて、テキストは記号のシステムと述べたが、記号は記号表現としての物理的状態と記号内容としての心的状態の二面性を有している。物理的状態としてのテキストはメディア上に記録されたものであり、紙の上の黒いシミである。しかし、われわれはその黒いシミを文字として認識し、心の中に意味をもったテキストとして理解する。ここで、前者の物理的状態を外テキスト、後者の心的状態を内テキストと呼んで区別する。テキストというと、外テキストを指しているようにみえるが、実際にわれわれが意識しているのは内テキストのほうである。その証拠にアラビア語で表現された『1Q84』は、大部分の日本人にとっては意味のあるテキストとして理解できないであろう。以下では、特に断らない限り、テキストは内テキストの意味で用いる。
われわれは日常生活のなかで多くのドキュメントを読む。
ドキュメントを読むと、テキストが頭の中に取り込まれていく。そして、それは単純に蓄積されるのではなく、すでに読んだテキストと関連づけて解釈され、理解され、そこからまた新しいテキストが生成され、知識空間に投入される。投入されたテキストはそれ単独であるのではなく、他のテキストとの関係性のなかで理解される。たとえば、村上春樹の『1Q84Jはジョージ・オーウェルの『1984』との関帳既において理解されるかもしれない。このようにわれわれの頭の中にはたくさんのテキストがあり、「私」の思考や知識は過去に読んだテキストから構成されているといってよい。
そのため、難しい話だと解釈する人もいれば、単純な話だと理解する人もおり、『1Q84』の知識が両者で同一であるとは言いがたい。科学技術論文においても知識の同一性が保証されない点は同じであるが、意味を厳密に規定した数学記号によって同一であるとみなされる。
このように知識は人から人に直接伝わることはなく、ドキュメントというメディアを介して伝わる。ドキュメントはキャリアのうえに外テキストが乗った物理的な存在であるが、同時に内テキストを人から人に伝える機能的な存在でもある。
ドキュメントによる知識共有現象は社会のあらゆるところで観察される(野中, 2003)。個々のコミュニティでの知識共有や異なるコミュニティ間の知識のギャップを埋める際にドキュメントは利用される。図書館においては一見ドキュメントを提供しているだけに見えるが、ドキュメントによって知識共有現象が起きていると考えれば、図書館は知識共有現象の場を提供していると捉えることができる。すなわち、新しい図書館像とは知識共有現象を活性化させる機能と場を持つものと定義できるだろう。
未来の図書館
ここまでの議論から未来の図書館像を描き出してみよう。未来の図書館には二つの方向があると思われる。ひとつはユビキタス化、もうひとつはフィールド化である。これはどちらか一方という意味ではなく、両方必要という意味である。図書館は資料を読むための施設ではなく、世界のドキュメントヘアクセスする機能であると捉えれば、勉強しているときであろうが、移動中に何かを閃いたときであろうが、生きるうえで苦しいときであろうが、機能としての図書館はどこにでも存在するュビキタス(遍在)な存在であるべきである。具体的には次世代ディスカバリアプリをスマートフォンにインストールし、個人が図書館を丸ごと携帯するようになる。これが未来の図書館のひとつの方向である。
もうひとつの方向はフィールド化である。図書館は知識共有を活性化させる場(フィールド)であると捉えれば、現在の施設から書架をなくし、知識創造を行うための設備や機能を持たせることになる。これは図書館設計が根底から変わることを意味する。現在ヨーロッパを中心としてフューチャーセンターという異なる専門の人々が集まって一緒に問題解決するための施設が増えている。このような知識創造を行う場を「ライブラリーフィールド」と呼ぼう。
ではそれぞれをもう少し具体的にイメージしてみよう。まず次世代ディスカバリアプリであるが、これは第1節で述べたMemexの未来版と考えるとよい。これをMemex (memory extender : 記憶を拡張するもの)にならってThinvat (出inking activator : 思考を活性化させるもの)と呼ぼう。世界のドキュメントを検索できるのはもちろんであるが、「連想の道筋」にしたがってドキュメントを取り出せることがポイントである。現在のOPACやディスカバリサービスは誰が検索しても同じ結果しか返らない。 Thinvatは、個人の思考ごとに連想の小道が用意されており、思考に追随してドキュメントが表示される。単に検索語に対応するのではなく、文脈まで考慮して検索する。同じ事柄について考えていても、家庭における文脈と仕事場における文脈は異なる。当然のごとく必要なドキュメントも異なる。頭の中のテキスト空間の構造を現実世界のドキュメント空間の構造に対応づけることと言ってよい。このように、Thinvatによって、ドキュメントを探すという行為は図書館という場所から完全に解放される。図書館が遠くても、図書館に行く心の余裕がなくても, Thinvatは常に寄り添っている。
ただし、Thinvatではカバーできないことがある。それは空間特性である。われわれは身体をもった生物であり、環境との相互作用のなかに生きている。空間特性はわれわれの思考や行動に常に干渉している。照明の明るさ、壁や天井の色、流れている音楽。ちょっとした違いでわれわれの気分はがらりと変わる。空間の快適さは知識創造の効率や質にも深く影響していることがさまざまな研究によって確かめられている。
しかし、快適な空間というだけではライブラリーフィールドとは言えない。なぜなら快適な空間は他にもあるからである。では、その空間をライブラリーフィールドたらしめる機能はなんであろうか。それは「人とドキュメントの相互作用」と「人と人の共存在」である。
図書館や書店で本の列を眺めているうちに何かを閃いたという経験を持つ人は少なくないはずである。本に囲まれること、書架の間を移動することは、人間の思考と身体性にかかわる認知作用を生じさせる。
ドキュメントを入手するという意味での書架はもう必要ないが、知識の連鎖を見出し、可視化するという意味での書架は必要である。当然のことながら、普通の書架ではない。最新技術を駆使することによって、さまざまな相互作用を引き起こす、魔法にみえる書架(マジックシェルフ)である。
一人でできることには限りがあり、誰かの助けがないと生きていけない。厳しい世の中を渡っていくためには、異なる個性や生き方をする多様な存在者がコミュニティを形成し、互いの価値観を認めあって生きていく共存在を意識することが何より大切である。そこにいるスタッフもこれまでのような受け身の姿勢ではなく、ファシリテーターのように積極的に人と人の知識創造を促進するような役割が求められる。さらに、人と接するのが苦手な利用者には、人工知能を搭載したロボットファシリテーターやセラピーロボットが有効かもしれない。
未来の図書館とは、世界の知識を自由に駆使し、人生を豊かにする存在である。
ドキュメントによる知識共有現象
知識情報学の第一歩としてドキュメントによる知識共有現象について考えてみよう。ここまで「書物」、「本」、「図書」、「雑誌」、「文献」、「資料」とさまざまな言い方をしてきたが、本節ではこれらをまとめた抽象概念として「ドキュメント」と呼ぶ。ここではドキュメントを「知識が表現された記録物」と定義する。記録物であるということはメディアの一種である。メディアは一般にキャリアとメッセージから構成される。キャリアとは記録する容器を指し、メッセージは内容を指す。たとえば、図書は紙が容器であり、そこに書かれた内容がメッセージである。電子書籍は、メッセージは変わらないが、容器だけが電子媒体に変わったものである。テレビやラジオは電波が容器となる。
ドキュメントに書かれたメッセージは「テキスト」と呼ぱれ、主としてことばを用いた記号のシステムである。最近は「コンテンツ」という言い方もするが、コンテンツはキャリアとメッセージの区別が曖昧なので、ここではテキストを使う。たとえば、村上春樹の「IQ84」というテキストは、村上春樹が考えたことを日本語で表現したものである。『1Q84』は英語やフランス語でも翻訳によって表現されており、やはり村上春樹の考えたことを表現している。言語は違っていてもテキストとして同じ内容のはずである。このように、著者は伝えたいことをテキストとして表現し、読者はテキストから著者の考えを読み取ろうとする。これはテキストを介した著者と読者のコミュニケーションである。しかしながら、著者が意図したことと読者が読み取ったことは必ずしも一致しない。特に文学作品においては一致しないことが普通であり、しかもそれでよいとされる。ところが、科学技術論文においては著者の意図した内容が読者に正確に伝わることが求められる。このように、テキストは読者中心の意味と著者中心の意味の2種類に分けられる。
さて、テキストは記号のシステムと述べたが、記号は記号表現としての物理的状態と記号内容としての心的状態の二面性を有している。物理的状態としてのテキストはメディア上に記録されたものであり、紙の上の黒いシミである。しかし、われわれはその黒いシミを文字として認識し、心の中に意味をもったテキストとして理解する。ここで、前者の物理的状態を外テキスト、後者の心的状態を内テキストと呼んで区別する。テキストというと、外テキストを指しているようにみえるが、実際にわれわれが意識しているのは内テキストのほうである。その証拠にアラビア語で表現された『1Q84』は、大部分の日本人にとっては意味のあるテキストとして理解できないであろう。以下では、特に断らない限り、テキストは内テキストの意味で用いる。
われわれは日常生活のなかで多くのドキュメントを読む。
ドキュメントを読むと、テキストが頭の中に取り込まれていく。そして、それは単純に蓄積されるのではなく、すでに読んだテキストと関連づけて解釈され、理解され、そこからまた新しいテキストが生成され、知識空間に投入される。投入されたテキストはそれ単独であるのではなく、他のテキストとの関係性のなかで理解される。たとえば、村上春樹の『1Q84Jはジョージ・オーウェルの『1984』との関帳既において理解されるかもしれない。このようにわれわれの頭の中にはたくさんのテキストがあり、「私」の思考や知識は過去に読んだテキストから構成されているといってよい。
そのため、難しい話だと解釈する人もいれば、単純な話だと理解する人もおり、『1Q84』の知識が両者で同一であるとは言いがたい。科学技術論文においても知識の同一性が保証されない点は同じであるが、意味を厳密に規定した数学記号によって同一であるとみなされる。
このように知識は人から人に直接伝わることはなく、ドキュメントというメディアを介して伝わる。ドキュメントはキャリアのうえに外テキストが乗った物理的な存在であるが、同時に内テキストを人から人に伝える機能的な存在でもある。
ドキュメントによる知識共有現象は社会のあらゆるところで観察される(野中, 2003)。個々のコミュニティでの知識共有や異なるコミュニティ間の知識のギャップを埋める際にドキュメントは利用される。図書館においては一見ドキュメントを提供しているだけに見えるが、ドキュメントによって知識共有現象が起きていると考えれば、図書館は知識共有現象の場を提供していると捉えることができる。すなわち、新しい図書館像とは知識共有現象を活性化させる機能と場を持つものと定義できるだろう。
未来の図書館
ここまでの議論から未来の図書館像を描き出してみよう。未来の図書館には二つの方向があると思われる。ひとつはユビキタス化、もうひとつはフィールド化である。これはどちらか一方という意味ではなく、両方必要という意味である。図書館は資料を読むための施設ではなく、世界のドキュメントヘアクセスする機能であると捉えれば、勉強しているときであろうが、移動中に何かを閃いたときであろうが、生きるうえで苦しいときであろうが、機能としての図書館はどこにでも存在するュビキタス(遍在)な存在であるべきである。具体的には次世代ディスカバリアプリをスマートフォンにインストールし、個人が図書館を丸ごと携帯するようになる。これが未来の図書館のひとつの方向である。
もうひとつの方向はフィールド化である。図書館は知識共有を活性化させる場(フィールド)であると捉えれば、現在の施設から書架をなくし、知識創造を行うための設備や機能を持たせることになる。これは図書館設計が根底から変わることを意味する。現在ヨーロッパを中心としてフューチャーセンターという異なる専門の人々が集まって一緒に問題解決するための施設が増えている。このような知識創造を行う場を「ライブラリーフィールド」と呼ぼう。
ではそれぞれをもう少し具体的にイメージしてみよう。まず次世代ディスカバリアプリであるが、これは第1節で述べたMemexの未来版と考えるとよい。これをMemex (memory extender : 記憶を拡張するもの)にならってThinvat (出inking activator : 思考を活性化させるもの)と呼ぼう。世界のドキュメントを検索できるのはもちろんであるが、「連想の道筋」にしたがってドキュメントを取り出せることがポイントである。現在のOPACやディスカバリサービスは誰が検索しても同じ結果しか返らない。 Thinvatは、個人の思考ごとに連想の小道が用意されており、思考に追随してドキュメントが表示される。単に検索語に対応するのではなく、文脈まで考慮して検索する。同じ事柄について考えていても、家庭における文脈と仕事場における文脈は異なる。当然のごとく必要なドキュメントも異なる。頭の中のテキスト空間の構造を現実世界のドキュメント空間の構造に対応づけることと言ってよい。このように、Thinvatによって、ドキュメントを探すという行為は図書館という場所から完全に解放される。図書館が遠くても、図書館に行く心の余裕がなくても, Thinvatは常に寄り添っている。
ただし、Thinvatではカバーできないことがある。それは空間特性である。われわれは身体をもった生物であり、環境との相互作用のなかに生きている。空間特性はわれわれの思考や行動に常に干渉している。照明の明るさ、壁や天井の色、流れている音楽。ちょっとした違いでわれわれの気分はがらりと変わる。空間の快適さは知識創造の効率や質にも深く影響していることがさまざまな研究によって確かめられている。
しかし、快適な空間というだけではライブラリーフィールドとは言えない。なぜなら快適な空間は他にもあるからである。では、その空間をライブラリーフィールドたらしめる機能はなんであろうか。それは「人とドキュメントの相互作用」と「人と人の共存在」である。
図書館や書店で本の列を眺めているうちに何かを閃いたという経験を持つ人は少なくないはずである。本に囲まれること、書架の間を移動することは、人間の思考と身体性にかかわる認知作用を生じさせる。
ドキュメントを入手するという意味での書架はもう必要ないが、知識の連鎖を見出し、可視化するという意味での書架は必要である。当然のことながら、普通の書架ではない。最新技術を駆使することによって、さまざまな相互作用を引き起こす、魔法にみえる書架(マジックシェルフ)である。
一人でできることには限りがあり、誰かの助けがないと生きていけない。厳しい世の中を渡っていくためには、異なる個性や生き方をする多様な存在者がコミュニティを形成し、互いの価値観を認めあって生きていく共存在を意識することが何より大切である。そこにいるスタッフもこれまでのような受け身の姿勢ではなく、ファシリテーターのように積極的に人と人の知識創造を促進するような役割が求められる。さらに、人と接するのが苦手な利用者には、人工知能を搭載したロボットファシリテーターやセラピーロボットが有効かもしれない。
未来の図書館とは、世界の知識を自由に駆使し、人生を豊かにする存在である。
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