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豊田市図書館の30冊

007.58『Googleサービスがぜんぶわかる本』新機能からプライバシー・快適設定&お得で便利な活用術まで徹底解析!

143.7『よくわかる高齢者心理学』

222.4『ビジュアル年表 台湾統治五十年』

319.53『トランプが日米関係を壊す』

338『FinTechが変える!』金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス

317.2『会議の政治学Ⅲ』中医協の実族

289.3『平和のために捧げた生涯 ベルタ・フォン・ズットナー伝』

493.12『糖尿病は自分で治す!』

809.4『口下手な人は知らない話し方の極意』認知科学で「話術」を磨く

916『脳が壊れた』

145.7『日本的ナルシシズム』

778.77『ジブリの仲間たち』

331.6『貧乏物語 現代語訳』

159『自分の才能の見つけ方』才能は、あなたの感情に隠されている

289.1『母の恋文』

238.07『スターリン批判1953~56年』一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか

304『さらば、政治よ 旅の仲間へ』

141.1『知能と人間の進歩』遺伝子に秘められた人類の可能性

253.07『語られなかったアメリカ史1』オリバー・ストーンの告発 世界の武器商人アメリカ誕生

253.07『語られなかったアメリカ史2』オリバー・ストーンの告発 なぜ原爆は投下されたのか?

537.09『<場>に生きる力』トヨタと日産にみる 労働現場の比較分析

302.38『社会人のために現代ロシア講義』【東大塾】

410.21『知っていますか? 日本数学者ゆかりの地』日本数学の源流を訪ねて

810.4『日本語大好き』キンダイチ先生、言葉の達人に会いに行く

913.6『ファミレス』

013『図書館つれづれ草』--ライブラリアンシップを考える現場ストーリー集--

537.07『コバック伝説』進化し挑戦し続けるNo.1車検チェーンの秘密

319.1『嫌韓問題の解き方』ステレオタイプを押して韓国を考える

909.3『子どもの自分に会う魔法』

366.38『「女性にやさしい」その先へ』〝資生堂ショック〟から新しい働き方を考える
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ミリオン座の「帰ってきたヒトラー」

自動車を選んだのは失敗

 自動車、なぜ、人類はこんな道を選んだのか。

自由と公共性

 自由は真理を発見するという希望につながるからこそ、高い公共性を持つ。

1日だから名古屋へ

 7月1日ということで、名古屋に来ています。さて、Iさんは居るのか居ないのか。スタバのチームの人から、Iさんは今日だけ居ないとのこと。昨日も明日もいるけど。折角の金曜日なのに。

 来たことは伝えておきますとのこと。星占いは97点だったのに、いいことは何もない。

ミリオン座の「帰ってきたヒトラー」

 上映30分前に到着。オープンしたので最前列に着席。ウィトゲンシュタインを真似て最前列でめがね無しで視聴。まだ、誰もいません。

 ウィトゲンシュタインは講義の後に、映画館最前列に座っていた。

 ちなみに、今日は千円でした。1日は映画サービスデーで一律千円だと言うことです。それもあって、始まる時にはかなり埋まっていた。

 このタイミングでのヒットラーは考えるのに丁度いい。

心臓が痛くなる

 伏見から階段の上ったら、心臓が痛い。どうなっているのか。海外に行くのは躊躇してしまう。

未唯が臨月

 7月ですね。未唯が臨月。暑い時に。奥さん、せめて、エアコンを許可してほしい。葬式と出産は冬にして欲しいと言っていた。私の葬式を想定していた。
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虫けらのように忌み嫌われていた日本人

『語られなかったアメリカ史』より ⇒ 中国の宣伝上手と、それに乗っかる米国国民

日本への原爆投下決定について理解するには、その決定を支持したアメリカ人の心情を知る必要がある。アメリカの戦時プロパガングでは、邪悪なナチス指導者と、一般の「善良なドイツ人」とは慎重に区別されていた。しかし、邪忠な日本人指導者と、〝善良な日本人〟とはまったく区別されていなかったのだ。

アメリカ人はきわめて深い憎しみを、兵士や民間人の別なく、日本人にいだいていた。「おそらくアメリカ史上、日本人ほど忌み嫌われた敵はいなかったろう」ピュリッツァー賞受賞の歴史家アラン・ネヴィンスは書いた。一九四五年一月のニューズウィーク誌は、「わがアメリカ軍がこれほど憎悪し、心底殺してやりたいと思わずにいられない敵と戦った戦争は、かつて一度もなかった」と報じている。

日本人嫌いとしてつとに有名なのが、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・〝ブル〟・ハルゼー提督だ。彼はしばしば「黄色いサルを殺せ」とか、「もっとサル肉を作れ」などと言って、部下を奮起させた。

日本人は本当に〝人間〟なのか? そんなことをあやぶむ者さえいた。タイム誌はこう報じている。「日本人は見劣りがし、理性に欠け、無知無学である。おそらくは人間なのだろう。その証拠は……見つかっていないが」

在ワシントンのイギリス大使は、アメリカ人は日本人を「名なしの害虫の群れ」だと思っており、「おしなべて、『根絶やしにしてやりたい』という激しい反日感情をいだいている」とロンドンに報告している。

多くのアメリカ人にとって、日本人は、ゴキブリ、ガラガラヘビ、ドブネズミ、つまり駆除すべき類の生き物に映っていたのだ。一九四五年二月、ヨーロッパから太平洋方面へ転属してきた著名な従軍記者アーニー・パイルは、こう書いている。「ヨーロッパでは、いかに凶暴で残忍でも、われわれの敵は人間だと思うことができた。しかし、ここでは、日本人はサル同然に思われ、毛嫌いされている。彼らは、まるでゴキブリやネズミのように、忌み嫌われているのだ」

こうした感情が、人種差別意識からきていることは確かだろう。しかし、日本人に対して、これはどの悪感情をもたせる具体的な要因が、ほかにあったのだ。アメリカは参戦前から、たとえば日本軍による重慶爆撃、とりわけ〝南京虐殺〟と呼ばれた蛮行を耳にしてきた。

真珠湾への「不意打ち」により、日本人への憎悪はさらに高まった。そして、一九四四年になって初めてアメリカ政府は、二年前にフィリピンで起きた〝バターン死の行進″と呼ばれる、捕虜にされたアメリカ兵とフィリピン兵に対する、日本軍の過酷な扱いを報じたのだ。

たちまちメディアは、日本人の言語に絶する残虐ぶりを伝えるニュースであふれ返った。戦争犯罪行為の数々、たとえば拷問、磔、去勢、四肢切断、斬首、生きながらの火あぶりや生き埋め、生体解剖、捕虜を木に縛りつけて行う銃剣の稽古などが報じられた。

戦時中に日本兵がなした行為には、良心のかけらもないものも多かった。しかし、それは日本人だけにとどまらない。アメリカ兵も、時には陰惨きわまりない行為におよんでいたのだ。

太平洋戦線のアメリカ人従軍記者エドガー・ジョーンズは、戦場での残虐行為など日常茶飯だとは知らない民間人は、思い違いをしているだけだ、と書いている。「ともあれ、一般市民は、われわれがどんな戦争を戦っていたのかご存じだったのだろうか?」彼は一九四六年二月号のアトランティック・マンスリー誌で問いかけた。「アメリカ兵は捕虜を平然と銃殺し、いくつもの病院を襲撃し、救命ボートめがけて機銃掃射し、敵国の一般市民を殺したり虐待し、負傷した敵兵にとどめを刺して殺害し、瀕死の者を死体の埋まった穴に突き落とし、太平洋では、殺した敵兵の頭蓋骨を煮て肉をはがし、骨を削って恋人のために、テーブルアクセサリーやペーパーナイフを作ったりしていたのだ」

戦争がはじまる前から、みにくい差別意識は、アメリカ在住の日本人・日系人に対する処遇に表れていた。すでに数十年間、日系アメリカ人は、投票、就業、教育の面で差別されてきたのだ。一九二四年移民法では、一九○七年以降アメリカヘ移住した日本人には、アメリカに帰化する権利を認めないことが規定され、日本などアジア諸国からのさらなる移民も禁止された。

真珠湾攻撃以前でも、アメリカ西海岸には、戦争に突入すれば日系アメリカ人が破壊活動に出るという、根も葉もない話をでっちあげる者がいた。あるジャーナリストはこう書いている。「太平洋で戦争が始まったとたん、日系アメリカ人は急に忙しくなるだろう。漁船で出ていき、アメリカの港の入口に水雷を仕掛けるためだ。謎の爆発が頻発し、海軍造船所や飛行場、艦隊の一部が破壊されるだろう。……カリフォルニアでは、野菜生産を事実上独占している日系農民たちが、致死量のヒ素を混ぜこんだ豆やイモ、カボチャを市場に売りに出すはずだ」

真珠湾攻撃以降、デマや下劣な嫌がらせは度をまして広がっていった。カリフォルニアのある理髪店は、「ジャップは髭そり無料。ただし、事故が起きても責任は負いません」という張り紙を出し、葬儀屋は「当店はアメリカ人より、ジャップのために奉仕するつもりです」と宣伝した。

日系アメリカ人の破壊活動を恐れるアメリカ政府は、彼らを西部諸州から移送し、強制収容する計画を練りはじめた。

マンハッタン計画の最前線基地ロスアラモスでは、将軍レズリー・グローヴスの標的委員会が、労働者の住居に囲まれた軍需施設がある、まだ空爆されていない日本の都市に対して、原爆を投下することを決定した。世界中の人々に、原爆のけたはずれの破壊力を見せつけて、この兵器がどれはどの脅威であるかを宣伝しようというのだ。

しかし、スティムソンが率いる暫定委員会は、原爆使用にかかわる数々の問題点を検討し、代替案を提示した。トルーマンは、国務長官バーンズを代理として、この委員会へ出席させた。バーンズは、無人地帯での公開実験など、すべての代替案をはねつけた。

五月三一日の暫定委員会では、核兵器の未来についても討議された。科学者たちは、現在製造中の原爆は、きわめて初歩的で原始的な試作品であることを承知していた。原爆の未来に関しては、戦慄するしかなかったのだ。

オッペンハイマーは、国内トップの文民・武官に対し、アメリカは三年以内に一〇から一〇〇メガトン級の破壊力をもつ核兵器を保有することになるだろう、と述べた。近々広島へ投下予定の原爆の、七〇〇〇倍もの破壊力をもつ爆弾だ。

同様に五月下旬、レオ・シラード、ノーベル化学賞受賞者であるハロルド・ユーリー、天文学者ウォルター・バートキーの三人が、原爆投下時の留意事項を大統領に忠言しておくべきだと思い立った。しかし、大統領には会えず、代わりにサウスカロライナ州スパルタンバーグにおいて国務長官バーンズと会見した。

シラードは、バーンズの話に驚愕させられた。「バーンズ氏は、戦争終結のためには原爆使用もやむなし、という意見の持ち主ではなかった。当時、政府の人間なら誰でもそうだったように、日本は敗北したのも同然であることを彼も承知していた。……バーンズ氏がもっと気にかけていたのは、ソ連がヨーロッパで勢力を拡大していることだった。だから、われわれが現に保有している原爆を実戦使用すれば、ソ連の勢いを抑制できるはずだ、というのが彼の主張だったのだ」

グローヴスもまた、敵はつねにソ連だったと認めている。「プロジェクトの指揮を開始してから二週間経過した頃には、敵はソ連だとの感触が、私の思い違いでないことを確信した。よってそれを念頭に置いて、この計画を実行してきたのだ」一九四四年三月、グローヴスは同様の話をして、その時会食していた科学者ジョセフ・ロートブラットを愕然とさせた。「この計画の最大の目的はソ連より優位に立つことだと、当然君も承知しているよな?」グローヴスはそう言ったという。

四月一三日、バーンズは大統領になったばかりのトルーマンに、原爆は「終戦時に、われわれを優位な立場に置いてくれるはずです」と述べた。あの時は誰に対する優位なのかに言及していなかったが、今や相手は明らかになったのだ。

日本が未だに、少しでも有利な降伏条件を求めつづけていることは、グローヴスたちの思うつぼだった。たとえ原爆が戦争終結を早め、アメリカ兵の命を救うのだとしても、それはおまけみたいなものだ。今やアメリカの最優先課題は、アメリカだけが突出した最強国になることに変わっていた。

真の標的はソ連だ。

日本がこうむるだろう被害は、付随的なものにすぎない。
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歴史の分岐点 1944年シカゴ民主党全国大会

『語られなかったアメリカ史』より

党内ボスにとり立てられたトルーマン

 党内ボスの一人、石油成金のエドウィン・ポーレーは、民主党の財務部長だった。自分が政界入りしたのは、古い議員を買収するより、新人議員を当選させる方が安くつくことに気づいたからだ、とうそぶいたことがある。

 ポーレーほか党内ボスたちは、ヘンリー・ウォレスに代わる者の選出にひそかに着手した。候補者リストから選び出されたのは、ミズーリ州のぱっとしない上院議員ハリー・S・トルーマンだった。

 大統領にもなれる器だと判断して、トルーマンを選んだわけではない。きたるべき困難な時代において、アメリカと世界を牽引していく能力が備わっているかなど、ボスたちは少しも考えなかった。トルーマンにはほとんど敵がなく、もめごとを起こす心配もなさそうだったから選んだにすぎなかったのだ。

 一八八四年生まれのハリー・トルーマンは、ミズーリ州の農場で育った。子ども時代には、父親ジョン・〝ピーナッツ〟・トルーマンの愛情をえようともがいた。この父親は身長一六〇センチと小柄だったが、自分よりずっと大きな男をなぐり、自らのタフさを示そうとする人物だった。そして、タフさを息子たちにも求めたのだ。

 ところが少年ハリーは、俗に「平たい目玉」とも呼ばれる強度遠視と診断された。牛乳ビンの底のような分厚い眼鏡をかけることになったため、スポーツをしたり、ほかの少年とふざけ合ったりできなかった。「あんまりめちゃくちゃに遊ぶと、目玉が飛び出しそうな気がした」と彼は回想しいる。

 トルーマンはいじめられたり、からかわれたりして少年時代を過ごした。ひどいあだ名で呼ばれたり、放課後は家まで追いかけられたりもした。

 彼は家の貧しさにも苦しめられた。とても歴史好きな成績のよい子どもだったが、経済的な理由から大学へは進めなかった。また目が悪いため、陸軍士官学校へも入れなかった。

 高校卒業後、しばらく職を転々としたが、結局父親の農場で働くようになった。三度、事業をおこそうとして失敗し、一九一七年、州兵軍に入隊。第一次世界大戦に従軍して、フランスで数々の戦闘を果敢に戦い抜き、大尉にまで昇進した。

 三五歳で、五年生の時からの幼なじみベスと結婚した。「彼女は金髪の巻き毛で……美しいブルーの瞳の持ち主だった」トルーマンは回顧録に書いている。ある身内によると「世界中でハリーに合う女性は彼女しかいなかった」そうだ。

 三年後の一九二二年、自ら立ちあげた紳士物洋品店が倒産した。またまた事業に失敗し、三八歳のトルーマンには、養っていく妻と暗い先行きしか残っていなかった。

 そんなどん底の時期に、彼は民主党のボスの一人トム・ペングーガストと出会い、ジャクソン郡の郡政執行官に立候補しないかともちかけられたのだ。ペンダーガストは労働者に仕事を斡旋したり、選挙運動を陰で操ったりしながら私腹を肥やしてきた男だった。

 選挙運動中、ミズーリ州の田舎にはびこる差別意識にどっぷり染まっているトルーマンは、票集めをしようと、クー・クラックス・クランに入会金一〇ドルの小切手を送った。しかし、当選してもカトリック教徒は雇用しない、という誓約を立てられなかったため、加入できなかった。頑迷なプロテスタント集団であるクー・クラックス・クランは、ユダヤ人や黒人と同じく、カトリック教徒も憎悪していたのだ。

 一九二〇年代から三〇年代まで、トルーマンは、腐れ切ったペングーガストの派閥で忠義に働いていたが、見通しは暗いと感じていた。一九三三年、四九歳の誕生日前夜には、「明日には四九歳になるのに、まともなことは何もやってこなかった。四〇歳分は差し引きたいぐらいだ」と書いている。

 翌年、田舎の派閥政治にうんざりして、農場へ帰ることを真剣に考えていた時、ペンダーガストからいきなり上院議員候補に抜擢されたのだ。ベングーガストがすでに四人に誘いをかけてすべて断られていたことを、トルーマンは知らなかった。

 トルーマンの選挙運動は、すべてベンダーガストによって仕切られた。なぜトルーマンのような何の変哲もない者を選んだのかと問われて、ペンダーガストはこう答えたという。「よく油をさした派閥だったら、使い走りだって連邦議会へ送り出せるということを証明したかったのだ」

 上院議員一期目には、「ペングーガストの息がかかった奴」として、トルーマンは同じ新人議員に嘲笑され、敬遠された。それでも少しでも認められようと、ワシントンでは懸命に働いた。

 しかし、二期目は落選の憂き目にあいかけた。一九三九年、不正な取引があばかれて、ペングーガストが脱税で投獄されたのだ。トルーマンは後ろ盾を失った。一九四〇年、再選めざして立候補したが、ローズヴェルトも力を貸してくれず、指名を拒否された。ボスは投獄されているし、大統領からは支持がえられず、民主党の予備選では三位だった。そこで、トルーマンはミズーリ州のもう一つの派閥に助けを求めた。セントルイスのハネガン・ディックマン派閥である。こうして彼は、紙一重の差でからくも再選を果たした。

一九四四年シカゴ民主党大会

 民主党のボスたちはウォレス排除をねらっていたが、アメリカ国民は、はるかにまともな判断力をもっていた。ギャラップ社が副大統領候補には誰を望むかを、民主党選挙人候補者に尋ねると、六五%がヘンリー・ウォレスと答えた。ウォレスが唱えたように、国民は、二〇世紀は「人々の世紀」であるべきだと思っていたのだ。

 またアメリカ国民は、サウスカロライナ州選出の人種差別主義者ジェームズ・バーンズをはっきりと拒絶していた。バーンズは、後に大統領に昇格するトルーマンに、有害な情報を与えることになる人物だ。調査では、三%しか獲得できなかった。

 ところが、トルーマンの得票率はもっと低かった。八人の副大統領候補中の最下位で、わずか二%だったのだ。

 健康状態の悪化で生命力を使い果たしつつあったローズヴェルトは、副大統領候補指名を党内ボスにゆだねた。四年前のように、ウォレスのために戦う気力も体力もすでになかった。ローズヴェルトは、自分が代議員だったらウォレスに投票する、と表明しただけだった。

 一九四四年七月のシカゴ民主党全国大会は、党内ボスによってがっちりと仕切られることになった。ところが、下っ端の民主党員が反乱を起こしたのだ。シカゴ・スタジアムの議場内で、彼らはウォレスの名を大声で連呼しながら、デモ行進をはじめた。そんな大騒ぎのさなか、フロリダ州選出の上院議員クロード・ペパーはふと気づいた。もしも今夜自分が、副大統領候補にはウォレスを指名すると動議を出せば、ウォレスはこの大会で圧勝し、再び副大統領候補になれるではないか。

 デモ行進がつづく中、ペパーは躍りあがって人波をかき分けた。あと一五〇センチで、壇上のマイクに手が届く。そうしたら、副大統領候補にはウォレス、と叫べばいいのだ。

 その時、ボスの一人であるシカゴ市長エド・ケリーが、ベパーを見とがめた。あいつにマイクを握らせて、ここまで積みあげてきた裏工作を台無しにさせるわけにはいかない。ペパーを止めなければ。

 そこでケリーは、大会議長である上院議員サミュエル・ジャクソンに向かって叫んだ。デモのせいで火事になる危険がある、ただちに延会せよ、と求めたのだ。

 議長ジャクソンが、代議員に延会動議の是非を問うた。賛成したのはほんの一握りで、圧倒的大多数がノーを叫んだ。しかしジャクソンは、延会動議可決と宣言し、小槌をたたいてその日の会議を終了させた。

 むろん、火災の恐れなどなかった。ウォレスを指名させないための策略だった。翌日、議長ジャクソンはペパーに謝罪した。「もしも君が動議を提出していれば、党大会はヘンリー・ウォレスを指名したろう。しかし昨夜私は、ウォレスを指名させるな、ときつく指示されていたのだ。わかってくれたまえ」

  「私にわかったのは」ペパーは後に自伝に書いている。「よかれあしかれ、歴史が引っくり返されたということだ、あの夜、シカゴで」

 翌日、副大統領候補指名の投票が行われた。一回目の投票では、ウォレスが断然リードしていた。ところが、ボスたちは投票所のドアをしめ、それ以上代議員が入室できないようにした。そして、トルーマンに投票すれば、さまざまな大使や郵便局長の座、その他うまみのある地位を提供しようと、中にいる代議員を籠絡しはじめた。現金も飛びかった。

 ボスたちは、全州の代議員団委員長へ電話攻勢をかけ、ローズヴェルト本人が副大統領候補にはミズーリ州選出の上院議員を望んでいるので、よろしく頼むと告げた。

 三回目の投票で、ようやくトルーマンが勝利した。

 もしもあの夜、ボスたちが強引に延会させる前に、ペパーがマイクを握り締め、ヘンリー・ウォレスを指名していたら、間違いなくウォレスが副大統領候補になっていただろう。もしもそうだったら、ローズヴェルトが亡くなった一九四五年四月、大統領へ昇格したのはウォレスだったはずだ。ペパーの手がマイクに届いていれば、歴史は劇的に変わっていたかもしれない。ひょっとすると、原爆投下も核開発競争も、そして冷戦もなかったかもしれないのだ。
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語られなかったアメリカ史 お得意様はナチス

『語られなかったアメリカ史』より ユダヤ人の一人ひとりの強制収容所への輸送費計算はパンチカードでやられていたのは有名な話。それでDB(ドイチェ・バーン)とつながった。

一九三三年一月にドイツ首相に指名されて以来、アドルフ・ヒトラーは、情け容赦なく自分に逆らう者を排除してきた。複数の政党からなる政府など、彼は望んでいなかった。川家社会卜義ドイツ労働片党、通称ナチスの一党独裁が確立された。

祖国ドイツヘの愛国心と献身にかこつけて、ヒトラーは共産主義者、ドイツ社会民主党員、労働運動のリーダーを投獄し、殺害しつづけた。

アメリカの新聞は、ドイツの現況とともに、拡大するユダヤ人排撃のプロパガンダや悪意に満ちたユダヤ人襲撃について報じた。

ナチスがもっとも力を入れていたのは、ドイツ国内で暮らす全ユダヤ人の身元を把握することだった。ユダヤ人は五二万三〇〇〇人で、ドイツ国民六七〇〇万人のうち、一‰にも満たなかった。ナチス党員はユダヤ人を見つけるため、彼らの集まるコミュニティ、礼拝堂、そして政府の国勢調査記録を調べた。

実はナチスは、簡単に人種別目録を作成できる機械を保有していた。アメリカーBMの図表作成用電算機、つまりパンチカード機である。コンピューターの前身とも言えるこの機械で、ナチスは一九三〇年度国勢調査の情報を作表化していたのだ。

IBMのモットーは「世界貿易による世界平和実現」

〝インターナショナル・ビジネス・マシーンズ〟の頭文字をとってIBMと改名されたこの会社は、アメリカ人トーマス・J・ワトソンに率いられていた。ワトソンのモットーは、「世界貿易による世界平和実現」だった。

IBMは、ドイツに子会社のデホマク社を有していた。一九三七年、ワトソンはヒトラーと面会した後、ベルリンで開催された国際商工会議所総会で、ヒトラーからの伝言として、平和メッセージを述べた。「戦争は起きません。戦争を望む国などないし、戦争をする余力のある国もないのです」

数日後、七五歳になったワトソンに、ヒトラーは誕生日プレゼントとして、星章付きドイツ鷲大十字勲章を授与した。IBMのパンチカード機に対する返礼だった。この機械は、ユダヤ人の居住地と身元の特定に、大いに貢献していた。ナチスは、ユダヤ人(jew)の頭文字Jを、ユダヤ人の身分証明書とパスポートに大きくスタンプした。

IBMのパンチカード機は、ユダヤ人のほか少数民族の殲滅というヒトラーの政策に、不可欠になっていた。大規模な強制収容所には、かならずこの機械が置かれていた。

トーマス・ワトソンはじめニューヨークに本部をもつアメリカの大企業の役員たちは、何も知らなかったのだろうか? IBMのドイツ子会社デホマク社が熱狂的なナチス派だということ、そして、自分たちの輸出している機械が大量殺戮のために使われているということに、本当に気づいていなかったのか? それとも、金もうけの方がはるかに大切だったのだろうか?

アメリカの資本主義精神は、ナチス支配下のドイツでも、変わることなく商売熱心だった。アメリカ企業はドイツでビジネスを拡張し、ナチスとの関係を強化して、富を蓄積していった。

一九三九年の第二次世界大戦勃発時以降も、フォード社とGMは引きつづきドイツの子会社を管理下に置き、その子会社にドイツの自動車業界を牛耳らせていた。彼らは、軍需物資製造用に工場設備を一新せよ、というナチス政府の命令にさえ応じた。

ところが、アメリカ政府が国内工場の設備刷新を求めてきた時には、フォード社もGMもこれを拒絶している。GM会長アルフレッド・P・スローンは、ドイツでの現地生産は「高利益だったからだ」と釈明した。そしてスローンが、ドイツの国内事情については「GMの経営陣が関知するところではない」とつっぱねたため、会社側はこの主張に従うようになった。

GM保有のドイツ自動車メーカー、オベル社は、経営拡大のチャンス到来と考えた。そこで、リュッセルスハイムにあった一・七五平方キロメートルのコンビナートを、ドイツ空軍の戦闘機製造工場へ改変して、JU‐88中距離爆撃機用の推進装置の五〇%を製造するようになった。また、世界初のジェット戦闘機メッサーシュミットME‐262の開発にも貢献した。この航空機は、アメリカのP‐510ムスタングより、時速にして一六〇キロも高速で飛行することが可能だった。さらには、何万台ものトラックも製造したが、これはヒトラーの電撃戦できわめて重要な役割を果たすことになる。

戦時中に、親会社フォード社は、ドイツの子会社フォード・ヴェルケ社の事実上の支配権は失った。しかしフォード・ヴェルケ社はナチスに兵器を供給し、近くのブーヘンワルト強制収容所から、収容者を徴発して働かせた。

一九九八年、元収容者のエルザ・イワノワが、戦時中ドイツのフォード社工場で強制労働させられたと、アメリカのフォード社を相手どって訴訟を起こした。アメリカの親会社は事情を知りながら強制労働でもうけていたのだ、と告発したのだ。

フォード・モーター社は、相当数の調査員と弁護士を雇い入れた。そして、当時のフォード社がナチスに協力したり、強制労働から利益をあげたりしたことはないと反論した。さらに、一九四一年一二月にアメリカが参戦した時、ほかのアメリカ企業と同じく、ナチス政権との契約は解消したと主張した。

しかし、終戦直後のアメリカ陸軍調査官ヘンリー・シュナイダーの報告書によると、フォード・ヴェルケ社は「ナチスの兵器庫」と呼ばれていたという。自動車業界研究者ブラッドフォード・スネルが、自動車業界に関する議会の調査で暴露したように、「自動車製造を世界的に独占していたGMとフォード社は、民主主義の軍隊はもちろん、ファシズムの軍隊にとっても、第一位の供給者」だったのである。

ほかの多くのアメリカ企業も、ナチスとの取引を継続していた。第二次世界大戦開戦時には、二五〇社のアメリカ企業が、四億五〇〇〇万ドル強に相当する資庶をドイツに所有しており、その約六〇%を上位一〇社が独占していた。そこには、スタングード・オイル(石油)、ウールワース(生活用品)、ITT(電話)、シンガー(ミシン)、インターナショナル・ハーベスター(農機具)、イーストマン・コグック(写真)、ジレット(かみそり)、コカコーラ、クラフト(食品)、ウェスティングハウス(電機)、ユナイテッド・フルーツ(食品)などの会社がふくまれていた。フォード社は一六位で、アメリカの投資総額の二%程度だった。トップはスタンダード・オイル社とGMで、それぞれ一四%と一二%を占めていた。

こうした企業の大半の代理人をつとめていたのが、大手法律事務所サリバン&クロムウェルである。この法律事務所のトップは、後の国務長官ジョン・フォスター・ダレスであり、パートナーは、後にCIA長官となる弟のアレン・ダレスだった。

クライアントには、一九三〇年スイスに設立された〝国際決済銀行〟も入っており、ドイツの戦争賠償金はそこからアメリカヘ流されていた。やがて国際決済銀行は、ヒトラーヘの融資を仲介するようになる。アメリカ参戦以降も、ナチスヘの金融サービスを継続し、一方、ナチスは戦争賠償金の代わりに、ヨーロッパで略奪してきた金塊の大半をこの銀行にプールするようになった。こうした資本移転によって、本来ならアメリカの対敵取引法で凍結されるはずの口座にあった資金を、ナチスは手中にすることができたのだ。

ニュルンベルグ裁判で、アメリカの財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、卑劣きわまりない銀行のやり方に肝をつぶし、同銀行の取締役一四人のうち、一二人は「ナチス党員か、ナチスに支配されている」と糾弾した。一九九八年には、大虐殺からの生還者が、国際決済銀行は、戦時に凍結された自分たちの休眠口座を保有していると主張し、この銀行を訴えた。
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ファインマン語録 数学

『ファインマン語録』より ⇒ 教養部閉鎖の時には、古川図書館でファインマンの世界に居た。

いまこのちょっとかわいい方程式をとってみると、なんと電子が原子の中や周囲でくつろぐ、すべての

流儀を教えてくれる。これが理屈です。そしてその詩情はというと、金がいかに輝くか、岩がどんなに堅いものか、何か草を緑にするのか、なぜぼくらには風が見えないのかを、この方程式は語るのです。それだけではない、そのほかにも自然の働きについて、百万ものことを教えてくれるのです。

だがね、ぼくは始めからすべてとは無関係に考えていたんだ。整数を加え合わせる公式が欲しくて、ただそれを探していただけさ。この問題は紀元前2000年もの昔、すでにギリシア人、いやバビロニア人までが解決していたって、そんなことはぼくにとってどうでもよかった。これはとにかくぼく個人の問題で、それを考えるのは実に楽しかったんだから。いつでもそうなんだ。ぽくはいつも自分独特のゲームとして遊んでいたんだな。

数学を知らない人には、自然の美、それも最も深い美を身にしみて感じ取ることは難しい。C・P・スノウは二つの文化ということを言っていますが、その二つの文化とは、自然をめでるのに十分なだけの数学を一度でも理解した経験を持つ人々と、そういう経験のない人々を分けるものだろうとぼくは思うのです。

数学は言葉プラス推論です。つまり言葉に論理を足したようなもので、数学は推論のための道具なのです。

ユークリッドは「幾何学に王道なし」と言いました。物理学にも王道はありません。物理学者はそれ以外の言葉では語れないのです。自然について学び、自然を理解したいと思うなら、自然が話す言葉を聞き分けなくてはなりません。自然がその秘密を語る形には一つしかないのです。まずこちらがそれに敬意をはらうまえに、相手の自然に向かって形を変えろと要求するほど、ぼくらは傲慢ではないはずです。

数学をうまく使うには、ある心の持ちかたが必要だ。それはどんなテーマ、どんな問題であろうと、さまざまな見方があるものだと知っていることだ。

ぼくの見方からすると数学は、自然科学でないという意味では、科学ではない。まず不自然科学とでも言おうか。

ぼくは記号を正しく使えたためしがない。君もそうかも知れないが、終いにはわかるから大丈夫だ。

いいかい、数学的手法で行き詰まったら、いつだって算術的手法でやれることを忘れないようにねー

今日の数学者が興味をもっていることに、ぼくは興味がありません。

純粋数学者というものは、大変に非実用的な人間だ。数学的記号とか文字とかアイデアとかの意味には興味がなく(実はわざと無関心なのだが)、公理のあいだの論理的相互連結ばかりに関心をもっている。一方数学を使おうという者はみな、数学と現実世界とのつながりを理解しなくてはならないのだ。

厳密かつ技術的に言うなら、数学の基礎原理は完璧な状態とは言い難く、非常に複雑な問題を多く含んでいることを知っておいてほしい。

数学について講演をしているのだったら、ぼくはとっくにその質問には答えています。数学とはパターンを探すことなんです。

(マンハッタン計画の経験を語る)彼(ベーテ)は算術なら何もかも知っていて、おまけにそれを使うのがうまい。これに刺激されて、ぼくはひっきりなしに練習を重ねた。そして二人でよくちょっとした競争をやったもんだ。毎回必ずなにかを計算して、彼とぽくとどっちが先に答えを出すかを競う。負けるのはたいていぼくだったが、何年かのうちには、ぼくもまあ四度に一度ぐらいは勝ちはじめた。とにかく数というものに目を付けなくちゃならないんだ。しかもぼくらは、それぞれ異なった見方をしてるんだからね。ぼくらはこの競争をおおいに楽しんだもんだよ。

世の中には数学を理解できる不思議な人間が何人かいて、あとは皆ただの人だとかいうべらぼうな考えは、ぼくは信じないね。どだい数学は人間が発明したものなんだから、その複雑さが人間の理解を超えているわけがないだろ。

数学とは言語にほかならない。

代数の法則は数学者が勉強するものなんですが、数学者たちは呆れたことに、この法則に従う対象を全部が全部見つけようと努力して来たのです! さてその法則ですが、もともとはリンゴを勘定するために作られたもので、のちに負数を使うことで改良され、さらに分数の発明によってますます改良されたのでした。

(複素数にっいて)数学者たちは、この奇妙な数のための数学を、物理学には直接当てはめようとせずに研究していますが、実はそれが、そのイカレタような数を使った物理学の根本的法則の基をなすものとわかってきたのは、実に面白いことです。

そこで君たちはこれが正しいやり方なのか? と聞くでしょうが、実はそんなものはないんです! 何かをやるのに「これこそが正しい」なんていう方法はどこにもない。あるやり方が正しいということがあるとしても、これこそが唯一の方法とは限りません。 

高校時代には代数チームってのがあってね、ぼくはそのメンバーだった。それがまったくとてつもないものなんだ。よその学校の生徒たちと集まって、どこかの誰かが発明した問題の封筒を開けた司会者が、「この問題は四五秒」とか「二分半」とか言い渡したうえで、黒板にそれを書き付ける。ぼくらは最初の一五秒で考え、あとは猛然と計算して、答えに丸をつけるんだ。どんなやりかたで答えを出そうと一向にかまわない。これこそぼくの大好きなことだ。一所懸命練習にはげんだもので、ものすごい速さで計算できるようになった。そのときは代数だが、のちには微積分を電光石火のごとくやってのける能力には、いつも重宝したもんだ。

純粋数学は、現実の世界からあまりにもかけ離れた抽象的概念だ。純粋数学には特殊でテクニカルな対象を扱うための、それ独特の正確な言語というものがある。ところがこの正確な言語も、世界の現実の物体を扱う上では決して正確とは言えない。しかもそれを使うのは、特に注意深く識別せねばならない微妙な概念がある場合は別として、かえって杓子定規で煩わしいだけである。
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中国メディア戦争 アリババは東洋のアマソンを目指す?

『中国メディア戦争』より 巨大企業は味方か敵か 巨大企業のメディア買収 巨大企業が引っ張る中国のIT政策

独自のメディア戦略

 現時点において両者の関係は、どう見ても技術と経験を蓄えたアリババに政府が鼻先を引っ張られている。

 また、これまでアリババが中国政府の主張を代弁するようなサービスを提供したり、そのような言論を行ったこともないことも覚えておく必要がある。政府のメンツを潰さずに、ユーザーが望むサービスを提供しビジネスを展開し続けてきたアリババが、わざわざ政府のためにメディアを買い取るだろうか。政府が喜ぶ言葉ばかりを並べた新聞を、香港人が喜んで買うだろうか? それを読めないほどビジネスに疎いはずがない。

 また忘れてはならないのは、アリババが上場企業だということだ。SCMPの買収に使った二・六億ドルは確かにアリババの年間収益一二〇億ドルからすれば微々たるものだが、わざわざ無駄金になると知っていて資金を投入することができるか、それを株主が許すかを考えてみるべきだろう。

 アリババのメディア買収の意図について、もうひとつ検討要素を付け加えておこう。アリババグループの取締役には同社株の三〇%を所有する孫正義ソフトバンク社長も名前を連ねている。孫社長はまだ立ち上げ期だったアリババに出資して以来、マー会長と非常に裏書な同係を築いている。もしアリババが中国政府の傀儡としてSCMPに介入することを受け入れたのであれば、孫社長が知らないわけがない。そして万が一、孫氏がアリババの傀儡化を知りつつ認めているのだとしたら、ソフトバンクの本拠地である日本こそもっと慌ててしかるべきではないだろうか。

 実のところ、アリババがメディアを買収、あるいは出資するのはこれが初めてではない。

 中国国内ではすでにウェイボ最大手の「新浪微博」に株式参入しており、人気動画サイトの「上豆優酷網 Youku Tudou」も傘下に収めた。二〇一五年には人気経済メディア「第一財経」を買収し、二〇一六年に経済メディアグループ「財新網」への出資も宣言。SCMPはアリババにとって二六社目のメディアにあたる。

 また、二〇一五年四月にはもう一つの人気経済誌「財経」を発行している「財訊」グループ、新疆ウイグル自治区政府と手を組み、アプリを中心にニュースを配信するサイト「無界新聞」を設立した(このサイトについてはまた後でふれる)。これによって、アリババは「第一財経」「財新」「財経」の中国三大経済メディアをその傘下に据えた。

アリババは東洋のアマソンを目指す?

 SCMPの買収を伝える記事の中で一部メディアは、アマゾンの設立者ベゾスをもじってマーを「マゾス」と呼んだ。だが、買収後の「ワシントン・ポスト」が当初心配されたようにベゾスの介入を受けたという話は耳にしないように、アリババがこれまで買収してきたメディア各社からも、その介入をうかがわせる話は聞かない。

 SCMPの買収に際してさまざまな憶測が飛び交うなか、アリババのナンバーツーであるジョセフ・ツァイ(蔡崇信)副会長は買収の翌日に読者に宛ててSCMPの紙面で書信を発表し、こう述べている。英文で書かれたこの書信の内容はSCMPのサイトで読むことができる。

  両社には一〇〇年近い歴史の差があり、今回の買収は真の意昧での旧と新の混合体となります。SCMPはその歴史と継承してきたもの、そして地域の文化を象徴し、アリババはデジタル技術という新たな時代に立っているのです。そんな我々が光栄にもSCMPの新たな所有者になれたことに興奮を覚えます。

 そして蔡副会長は、「アリババがなぜ斜陽産業といわれる伝統メディアを買収するのか」という質問に、「我々は伝統メディアを斜陽産業だとは考えていない」と答えている。

  確かに報道業界は今、流動の真っ最中にあります。すでにデジタル化され、オンラインからさらにソーシャルメディア化、そしてモバイル化か起こっている。メディアは今や世界中の読者を前にしていて、そこにいかに最も有効的に、そして読み手が求める形で届けるかが課題となっています。アリババはデジタル配信、特にモバイル化については専門家であり、技術をてこにして、さらに効果的なコンテンツ作り、国境を越えた配信拡大を進めていくことに長けています。

 この書信で蔡氏はSCMPの記事がもっと読者に届くようにと、「SCMPのデジタル版を無料化する」と宣言した。そして最も注目される「報道の自由」への不安について、こう述べている。

  ニュース報道において、SCMPは客観的で正確、公平な報道を続けていきます。これはつまり、敢えて従来の知識に挑戦し、丁寧に記事の真実性を検証し、ニュースソースを調べ、すべての視点を調べあげていくということを意味するものです。日常の編集決定は取締役会ではなく、編集者たちがその編集室で行っていきます。

 この内容を信じるか否かは意見が分かれるところだろうが、そこに綴られた言葉がウソかどうかは、「ワシントン・ポスト」と同じように時間が証明してくれるはずだ。

巨大化するアリババヘの複雑な心理

 だが、中国国内にもアリババのSCMP買収が「中国政府の介入ではないか」と見る向きがあったのも事実だ。

 そこには中国の人たちが急速に巨大化する企業に対して抱く複雑な思いが反映されていると思われる。

 前述のように、近年、習近平の外遊にジャック・マー氏が随行することが増えた。「中産階級の仲間」だったはずのアリババが、いつのまにか政府首脳と席を同じくしている--。中国には豊かになった者に対する偏見のような感情が存在する。時に「仇富心理」と呼ばれるそれは、豊かになって大きくなれば体制側に取り込まれ、圧力をかける側になっていくという考え方である。

 実際に権力の側に立った途端に相手を力で潰そうとする例が少なからずあるなかで、人々の「疑念」はただの取り越し苦労ともいえないのである。

 アリババは中産階級とともに成長し、彼らに支えられてきた。もし、中産階級が一仇富心理一を本格的に抱くようになれば、彼らはアリババのサービスから離れ始めるはずだろう。だが、それは今のところ起こっていない。
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