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エヴァンゲリオンTV版最終二

『ゴジラとエヴァンゲリオン』より 作り手の状況を晒け出した最終二話 ⇒ 「日常」と「非日常」の融和として、物語を見ていた私は、当初の最終二話には納得。その後に見た、「涼宮ハルヒの憂鬱」の永劫回帰のシーンにつながった。

TV版『エヴァ』の後半は、もはやロボット戦闘アニメではなくなっていた。使徒は精神汚染により操縦者の魂に侵入しようとしてくる。アスカは精神崩壊を来し、カヲルとの戦いで生き残ったシンジの心も深く傷つく。そしてTV版最終二話(第弐拾伍話、最終話)がやってくる。

第弐拾伍話「終わる世界」は「存在理由、レゾンデートル」というテロップではじまる。その後もテロップが頻出。数えてみたら最後の「つづく」まで、同じテロップの繰り返しを含めて六八枚あった。こんなに字幕だけの映像は、無声映画以来だろう。

この回ではシンジをはじめ、アスカ、ミサトらの心情や過去のトラウマが明かされる。ロボット戦闘アニメではなくなったこの回の視聴率は、しかし第拾四話のような低視聴率ではなく、七・七%だった。『エヴァ』の視聴率は第壱話が六・八%で、その後は概ね五~九%台で推移していたから、この数字は低くはない。そして問題の最終話の視聴率は一〇・三%と、はじめて二桁に乗ることになった。

最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」でもテロップが頻出する(もう数えないけど)。冒頭、テロップは「時に西暦2016年」「人々の失われたモノ」「すなわち、心の補完は続いていた」「だが、そのすべてを記すには、あまりにも時間が足りない」「よって今は、碇シンジという名の少年」「彼の心の補完について語ることにする」と告げる。この間八秒。これだけの説明で、あとはシンジの抱える葛藤が、心の中での他者との対話によって抉り出される場面に移行する。あいかわらず止め絵が多い。例えば受話器を持つ手の絵に、いろいろな人の「キライ」と言う声が被さるシーンは、二四秒間も絵が動かない。冒頭の「世界観転換告知」の三倍の長さだ。

自分の価値、生きている意味、自分は何者かを巡る辛い問答の末に、絵コンテのような画、パラパラ漫画のような線描き表現、脚本のべージが示され、平和な学園生活をおくる登場人物たちの二次創作的シーンが挿入される(そこではシンジの母も生きており、ゲンドウが読んでいる二〇一六年の新聞には「南極昭和基地 見学者に開放」の見出しがあるので、セカンドインパクトも起きていない)。

二次創作はヤオイとも呼ばれ、登場人物を原作とは異なる世界に移し変え、恋愛中心のコミカルな物語とするものが主流だ。ヤオイ(ヤマなし、オチなし、意味なし)は、作中人物を山場となる過酷な体験や、落ちという終焉や、意味の負担から救済したいというファン心理に由来していると私は考えている。それは一種の判官贔屓であり、義経は奥州で死なずに大陸に渡ってジンギスカンになった--というような偽史的想像力に似ている。原作の悲劇性を否定する二次創作的空想を作中に取り込んだ庵野は、そうした「救済」をあらかじめ封じたのだった。

このメタフィクション表現の皮肉は衝撃的だ。

視聴者は、物語から逃げた後に広がる自分たちのつまらない現実そっくりの世界を見せられた挙句、「人類補完計画」の意味は伝わり切らず、なおも「心の問題」の議論に付き合わされる。しかも後半は「いじめはいけません」のホームルームみたいな、空疎で残酷な展開を見せる。

結局シンジは、自分の殻に閉じこもることをやめて、みんなから「おめでとう」と言われて拍手で迎えられ、「ありがとう」と応じて、言葉の上ではメデタシメデタシの幕切れになる。それを指して大塚英志は、まるで自己啓発セミナーのようだと指弾した。まことにその通りなのだが、といって、それが肯定的に描かれているとは私には思われなかった。むしろ、シンジのうつろな表情は、戦うことにも逃げることにも疲れた人間が、精神崩壊を来した姿にしか見えなかった。そんなシンジの姿は、製作現場の破綻を通して、庵野監督が体験しているキツイ状況を写しているかのようだった。

「みんないっしょ」と「私は私」の対立は、全体主義と個人主義、統一意志と自我の確立、そして民主主義と自由主義の対立のアナロジイでもあった。最終話のタイトルにある「アイ」は「愛」であり「I(私)」でもある。

放送終了後、最終二話の意味をめぐる議論が巻き起こった。真意を尋ねられた庵野監督の説明は、その時々で異なっている。

林原めぐみ(『エヴァ』で綾波レイを担当した声優)がパーソナリティのラジオ番組で、庵野は「アニメ・ファンが見たいものじゃなく、見なければならないものを作った。現実に帰れよと」と語り、オタク的自閉への批判の表現だったと述べた。しかしあの表現は、一般視聴者を無視した、余程のアニメ・オタクでないと意味が取れない自閉的表現だった。
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九・一一「空から紙が舞い降りた日」が「紙の2千年の歴史」の最後

『神 二千年の歴史』より

その日、目に焼き付いたさまざまな映像のなかで、これほどまでに衝撃を受けた光景はなかった。二〇〇一年九月一一日、巨大なふたつのピルがさながら雷に打たれたように地に崩れ落ち、そのなかのオフィスの紙という紙が、まるで羽を散らせたように宙に放たれ、やがて鈍い灰色の粉塵に覆い尽くされたのだ。のちにくわしい報道がなされたが、紙片の大半は、ほどなくグラウンド・ゼロという名で知られることになる爆心地に隣接した通りに舞い落ち、それ以外にもおびただしい量の紙がニューヨーク市の五つの自治区全域に降り注ぎ、ハドソン川対岸のニュージャージーまでも達したという。マンハッタン南端部に「紙の雨」が降りしきる光景を目にした者の何人かは、幻想の世界を見ているようだったと表し、残酷にも、すぐ近くにあるキャニオン・オブ・ヒーローズ(英雄たちの峡谷)で前世紀の間行なわれてきたパレードの紙吹雪にもたとえた。細かくちぎれた紙片の多くは縁が焼け焦げていたが、ツインタワーから外の世界に放たれたものとしては、それが唯一、元の姿をとどめるものだった。

この光景を心に強く訴えるような形で映像化したのがブルーマン・グループだった。ブルーマン・グループはニューヨークを拠点に活動する、音楽とパントマイムを融合させた前衛的なパフォーマンスを行なうアーティストの集団だ。彼らがつくった『イグジビッ卜・13』というタイトルの動画は、テロが発生してから数か月のうちにインターネッ卜上で公開され、その後はライブステージにも使用されて、二〇〇三年に発売されたアルバム『ザ・コンプレックス』の最終トラックにも収録された。「これはニューヨーク、ブルックリンの住宅地キャロルガーデンズに舞い込んだ紙片である」という前置きの一文以外に字幕はなく、音楽が流れるなかで無言のうちに、回収された紙片一五枚が、それに書かれた文字とともに断続的に映し出されていく。映像には日付も説明もなく短いコメントさえ付加されていない。しかし、断片的な映像がしだいに崇高なメッセージとなって、ひとつの状況を物語り始める。大量の紙片がイースト・リバーを越えて街に舞い降りた、あの日のことを。

映像は、一枚の紙片から始まる。一定のリズムを刻むパーカッションとシンセサイザーによる弦楽の不穏な響きが絶え間なく流れるなか、紙片は黒い背景のなかをひらひらと舞い落ちる。そしてもう一枚、また二枚と舞い、やがて大量の紙が降りしきるクライマックスとなる。回収されたその『イグジビット・13』という二語が記された紙切れは、見たところはビジネス用のプレゼンテーションの書類の表紙のようだが、実際に何であるかは最後まで謎のままだ。そのほか四角いメモ用紙に「きみの外出中に--」と書かれたものや、両端に穴の開いた帳票の断片、日めくりカレンダーの一葉、らせん綴じノートの切れ端、日本の縦書き文字が印刷された書籍のページ、銀行員のための強盗に襲われたときのためのマニュアルもある。テロが起きた日からちょうど一年を迎える頃、『ニューヨークタイムズ』紙の批評欄がその三分半の動画を取り上げ、「詩的かつ写象主義的、また一切無駄のない」表現によって「観るものを引き込みながら、私たちが考えるべきことを、言葉よりもはるかに端的に伝えている」と記している。

テロ攻撃のあとの数週間から数か月の間、ジャーナリストや報道カメラマンが報じたニュースは大衆の心を大きく揺さぶり、街に舞い降りた紙のことを取り上げた報道も至るところで見られた。『ナショナル・ロー・ジャーナル』誌の寄稿編集者、デヴィッド・ホリガンは、「特集記事を組む」ために街の中心部に入った。バータ・プレイスとチャーチ・ストリートの交差点に立った彼は、すぐにわかったのである。「ニューヨークを象徴するこの二棟の高層ビルは、法曹界に属する人々--弁護士、弁護士補助員、弁護士秘書、そのほかさまざまな法のスペシャリストの本拠地でもあったことを、地面が証言していた。彼らの商売道具--申立書、質問書、法律上の覚え書き、法情報のプリントアウト--が通りを雪のように白く覆っていた」

そしてホリガンは、撮影した写真に添えて次のように記した。「かつて緊急を要した書類は、もはや急ぐ必要はなくなった。法律事務所のファックスの文書には、〝大至急〟と記されている。給与振込伝票は、銀行に持ち込まれる用意ができていた」。そうした文書にホリガンが目を通していたときも、クイーンズの最高裁判所に提出される用意が調った「代理人変更の同意書」が「宙を舞っていた」。ふとホリガンは、申立書の束が足下に落ちているのに気づいた。「相手方の証言は『過度の憶測以上の何物でもない』ことを主張する文書だった。もう一枚は損傷が激しかったが、どうにか読み取れた内容は、相手方がコネチカッ卜州の不正競争防止法に違反したというものだった」

その日に撮影されたさまざまな写真のなかで特に強く印象に残ったのは、リバティプラザ公園のベンチに座るウォール街のビジネスマンのブロンズ像だった。それは一九八二年に設置されたもので、写真にはブロンズ像と紙しか写っていないと言ってよい。これは、マグナム・フォトに在籍するニューヨークのカメラマン、スーザン・メイゼラスが撮影したものだった。マグナム・フオトは一九四七年にロバート・キャパや、アンリ・カルティエ=ブレッソンらによって創設された写真家集団だ。多方面の取材活動で知られるメイゼラスは、これまで多くの賞を受賞し、国際的にも高く評価されている。メイゼラスが本書の取材で語ったところによれば、彼女は最初のビルが崩落した直後に自転車でグラウンド・ゼロまで行き、日が暮れてもその場所にとどまっていたという。「あの日撮影した写真のなかで一番長く手元に置いているのがこの写真です。それはこの写真が、あの日の混乱のすべてを、そして同時に奇妙な静けさをもとらえて、多くの人の心に深刻な傷を残す事件が起きたことを伝えているからです」

「あの日、目にできるものといえば、もうもうと漂う粉塵とおびただしい数の紙切ればかりでした。至るところを紙が飛び交っていました。あの公園をカメラに収めたのは、ちょうど粉塵や紙がすっかり地面に落ちて視界が開けてきたときでした。そして誰もが、自分たちが目撃した事件のむごたらしさを共有し始めました。私は、悲惨な現場で作業に取り組む大勢の消防士や警察官の写真を撮りました。その写真のどれを見ても、あらゆる場所に紙が散らばっています。でも私にとっては、この一枚がどれよりも、あのときの頭のなかが真っ白になったような感覚をとらえていると思えるのです。これは直前に起きた大惨事の混乱を理解しようとするときの、時間と時間の間に生まれた一瞬の静寂を切り取ったものなのです」

やがて清掃作業が始まり、瓦礫はスタテン島の広大なごみ埋立地、フレッシュキルズヘと運ばれた。そして、すぐに瓦礫に紛れた個人の所有物を記録する作業が始まったが、ほんのわずかな遺留品以外は、瓦礫から回収された消火器や、エレベーターの扉の標示のよせ集め、山のようなオフィスの鍵、パソコンの残骸といったものばかりで、出処や持ち主が容易に判別できるものはほとんどなかった。オルバニーにあるニューヨーク州立博物館の館長、マーク・シャミングは、テロ攻撃の日から数日のうちに、破壊による残骸や遺留品を収集する計画をスタッフとともに進めていたと私に語った。
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飲料水ビジネス ボトルウォーター

『水の歴史』より

飲料水ビジネス

 蛇口からいくらでも流れてくる水をわざわざ店で購入する人が大勢いるのは、考えてみれば不思議なことだ。

 20世紀末にボトルウォーターの人気が高まると、飲料水メーカーは一般消費者をだまそうとしているという批判の声にさらされた。なかでも、痛烈な社会批判で有名なアメリカのコメディアン、ジョージ・カーリンの言葉は辛辣だ。「エビアンのボトルに2ドルも払う人がいるなんて不思議じゃないか? エビアン(Evian)を後ろからつづるとわかる。連中はばか(naive)なんだ」

 そんな言葉を尻目に、ボトル入りミネラルウォーターや炭酸水の人気は社会現象になりつつあった。しかし、水をボトルに詰めて売るというアイデアは、いったいどのように生まれたのだろうか?

船乗りたち

 新鮮な水の運搬方法は、数世紀ものあいだ懸案事項だった。船乗りたちは、喉の渇きのいらだちがとくに強かったようだ。船は見渡す限りの水に囲まれているのに、海水を飲めば喉の渇きがひどくなる。これでは海にからかわれているようなものだ。長い船旅以上に、海水を飲み水に変えたいと声高に叫ばれる場は他になかった。そして船以上に、地球が水に覆われていることに気づかされる場所はなかった。

 イギリスのロマン派詩人サミュエル・テイラー・コールリッジは、「老水夫の詩」にその苦しみをつづった。

  どちらを向いても水、水、水

  それなのに甲板の板は乾いて縮んだ

  水、水、どちらを向いても水ばかり

  それなのに飲める水は一滴もない

 ヨーロッパの科学者たちがサンドフィルターの実験を行なっていた時代は、船がつぎつぎと建造された時代でもある。探検家は遠方まで安全に旅することが可能になったが、非常に時間がかかる退屈な旅だった。しかもたいていは寄港地もほとんどなく数カ月間続くので、食糧をいかに新鮮に保つかが問題だった。それ以上に重要な課題だったのが飲み水の保存だ。長い航海のあいだ、どうやって飲み水を入手し、新鮮に保つのだろう?

 8世紀、キャプテン・クックは海に浮かぶ氷を溶かして飲み水にした。クックはそれを「まろやかで、体に良い水」と表現している。海水が凍ってできた氷には塩分が含まれていないので、溶けると飲み水になることはよく知られていた。

 しかし、北極圏以外では海水は凍らない。18世紀、海水を長い船旅の飲み水にする試みにイギリス議会も注目し、海水を真水に変換する技術を開発した科学者には多額の賞金が約束された。これに多くの科学者が背中を押され、実験を重ねた。なかでももっとも成功したのはドクター・チャールズ・アーヴィングだろう。彼は1770年に海水を濾過し塩分を除去する実用的な技術を開発した。

ボトルウォーターの誕生

 同じく18世紀、ミネラルウォーターを瓶に詰めて売る者が現れた。容器に詰めれば運搬することも、売ることもできる。水の商品化の始まりだ。それ以来、ボトル詰めは水を貯蔵し売るためのもっとも便利な方法として続いている。20世紀には、瓶よりも金属容器のほうがもつだろうとの期待から、水の缶詰もつくられた。

 ボトル入り飲料水の人気は哀えることなく続く。ボトル入りのミネラルウォーターは、遅くとも18世紀末からボストンで売られていたことがわかっている。19世紀初頭には、新たな技術の開発でガラス瓶の製造コストが下がり、ガラス瓶入り飲料水の大量販売で利益が生まれるようになった。そこから世界各地で数多くの新規事業が誕生する。たとえば、1809年にはニューヨークのブランド、サラトガがボトル入りミネラルウォーターの販売を開始した。1856年には年間700万本以上が生産されており、1パイント(O・55リットル)につき1ドル75セントで売られていたのだから驚きだ。

ミネラルウォーター企業

 現在有名なミネラルウォーター企業の大半は、19世紀中に操業を始めている。ボトル製造の新たな技術開発に伴い、ボトル入り飲料水の商業的可能性が広げらた結果である。湧水を発見したことがきっかけで誕生した。その泉の水を飲み続けること数週間、腎臓と肝臓に持病があった侯爵は痛みが劇的にやわらいでいることに気がついた。ほどなくして、エビアンの湧水は健康に良いとして地元の医師も勧めるようになる。泉の持ち圭はここにビジネスチャンスを見出し、一般人の立ち入りを禁止して湧水の販売を開始した。1829年、ミネラルウォーター協会が設立され、エビアンの水は医療用ではなく飲み水として売られるようになる。

 フランスの炭酸入りミネラルウォーター「ペリエ」が生まれたのも19世紀だ。ボトル入りペリエの水が採取されるのは自然の炭酸泉で、炭酸ガスが含まれている。そこで実業家は、ペリエの泉が持つ自然な味わいや性質を保つために、ボトル詰めの工程で製品にガスを再注入する方法を編み出した。

 そもそもこの泉はレ・ブイヨン(沸騰する泉)と呼ばれ、ローマ時代から続く温泉地だった。地元では1863年からボトル入りの泉の水が売られていたが、1898年に実業家にして医師のルイ=ウジェーヌ・ペリエが泉を買収し、のちにイギリスのタブロイド紙ロンドン・デイリー・メール創刊者の弟であるジョン・ハームズワースに転売する。

 ハームズワースは水の名前をドクター・ペリエにちなんで改名した。発売当初はウイスキーの水割り用として宣伝されたが、やがてミネラルウォーター界のシャンパンと称されるようになった。現在は上流階級向けの高級飲料水として販売されている。

 「バドワ」もフランスのブランドで、採水地は南部のサン=ガルミエだ。当初は地元の医師が患者に処方していた水を、1841年にオーギュスト・バドワが商品化した。飲むと気分が浮き立つと言われ、明るく爽快なイメージを前面に売り出された。その人気は20世紀まで続き、フランスの多くのレストランでも置き始めた。1958年には、年間3700万本が生産されるようになった。

 水の商品化はフランスに限ったことではない。イタリアの「サンペレグリノ」のミネラルウォーターは、遅くとも14世紀から健康に良いというふれこみで売られてきた。レオナルド・ダ・ヴィンチが1509年にサンペレグリノの町を訪れた際は、水を飲むことが目的だったと言われている。彼はのちにサンペレグリノの水の特性について論文を書いているが、確かにその水に夢中だったようだ。19世紀末にはボトル入りのサンペレグリノの販売が始まり、ョーロッパのみならずアジア、アフリカ、南北アメリカにも輸出された。

 ジョージア(旧グルジア)の「ボルジョミ」は、商業的に成功する前は飲むと体の不調が改善することで有名だった。水源であるボルジョミ川河畔の鉱泉は、1829年にある口シア兵によって発見された。部隊指揮官のパヴェル・ポポフ大佐は部下に命じて泉の水を瓶に詰めさせ、最寄りの基地へ持ち帰った。水を飲んだポポフはすぐに胃の痛みがやわらいだことに気づいたという。そこで泉を石垣で取り囲み、浴場をつくった。鉱泉に治癒効果があるという噂はまたたくまに世界に広まり、1850年にはボルジョミにミネラルウォーター・パークがつくられた。1854年、ロシア政府はこの地域初のボトリングエ場を建設する。
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金をばらまく人間は偉くない

金をばらまく人間は偉くない

 なぜ、カネをまく人間が偉いのか。偉くはないです。モノを作って、売ることは消費者が居てこそです。格差をなくさない限り、無理です。

 循環を考えていけば、当たり前のことです。資本主義は無限を前提として出来ていた。幽玄の世界では、単なるネズミ講です。格差を拡大するしか道はない。99%がいつまでも従順であることは無理です。1%から99%にお金をばらまくしかなくなる。

 生活補助の費用が欧米の1/10の日本から破綻がはじまる。その破綻を民衆の性にする限界領域に来ている。社会が変わることを嫌う同一社会思考がそれを阻んでいる。

ゆっくりした変革

 ロシア革命のように、先のことを考えない、社会変革ではなく、しっかりと先を見ながらのゆっくりした変革しか道は残されていない。より多くの人が考え、提案し、教育・企業・家庭を順番に変えていく。その頑強なシナリオを示していく。

 社会保障は権利とせずに、施しとしているロジックは破綻する。お上に対する幻想を正して行けば、先が見えてくる。

消費者資本主義からの脱却

 売ることがベースだと循環を考えない。循環を考えれば、使うことがベースになる。

 消費者資本主義は循環ではない。
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