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認識論と生物学的限界 我々はただ沈黙しなければならない

『言語の科学』より ⇒ 「すべて」を知りたいと言うときの限界をどこに儲けるか

同じことが認識論についても当てはまります。何か最善の理論となるのでしょうか。人々は「最善の理論」という用語を自由に使いますが、しかし最善の理論とは何でしょう。我々は、理解が進むにつれ、自分達の基準を鋭くしようと試みることができますが、何か自分達の道徳本性を探究するのと類似したことをやっているんです。我々は自分達の認識論的本性を探究しているのであって、その枠組みの中で、正しい行動の概念と同等の、最善の理論の概念を得ることができるんです。しかしまた、我々の外にある視点・見地からは(我々は我々であり、その外的な何かではないので、それを取ることはできないのですが)、まったく違ったやり方で評価を与えられることもあり得るでしょう。

--あなたは、客観的な正しさ、あるいは客観的な真理の概念の意味を理解できる、というふうに考えているのではないですよね。

私は客観的な真理が存在すると信じていますよ。ですので、私はある種、素朴な実在論者です。そうであることをやめられないんですよ。しかし、自分達のことを考えれば、それについてどんな確信を持つこともできないとわかるんだと思います。これが自分の認知能力を用いてできる最善である、ということには確信を持つことができます。そして、より理解が乏しい以上、これが我々の道徳本性に則った正しい行動の仕方だ、という確信はより小さくなるでしょう。そして私は、我々は全員同一の認知能力や道徳本性を持っているのだと想定しています。しかし--ここで[ウィトゲンシュタインの]『論理哲学論考』の最後の行に至るわけです--それ以上は、我々はただ沈黙しなければならないんです。

--しかし、パースのように、客観的真理があるという考えに、何らかの内実を与えようとしてきた人々がいます。理想の科学が発見しおおせたことなら、あらゆることが……

パースはそういったことを、極端に拙い進化論的議論の枠組みに据えていました。誤謬を含む議論でした。その議論を取り除けば、結論は瓦解します。彼の議論というのは、我々は真理を得るよう淘汰を勝ち残ってきたのだ、というものでした。真理探求の能力を持っていなかったら、我々は生き残っていないだろう、だから最後まで追求すれば、我々は真理を得るのだ、というのです。それが議論の核心です。しかし、それでうまく行くはずがありません。ヒトの進化において、量子論を得意とする人々に淘汰を勝ち残らせてきたものは何もありませんよ。

--事実に反してですが、もしも心が万能機械のようなものだと信じるなら、自らが出くわす全ての問題を解決することができる、何らかの能力を我々が持っていると信じるなら……

……かつ、あらゆる種類の問いを立てることができるとしたら……

--……かつ、あらゆる種類の問いを立てることができるとしたら

私にはそれが何を意味することになるのかさっぱりわかりません。それは我々の想像が及ぶような生命体ではまったくありません。

--しかし依然として、そのようなことを信じる人は、人間の認知能力や客観的真理について、異なった見解を持つかもしれません……。

そのようなことを信じる人というのは、我々は何らかの形で天使なのだと言っているわけです。この宇宙において、我々の認知能力を下位部分として組み込み、ことによると、我々が常識的接触力学を拒んだようなやり方でそれらを拒んだり、我々が立て方を知らないようなさらなる問いを立て続けたり、それらの問いに対する解答を見出したりを、際限なしに行なうことができる生き物は存在し得ません。どうしたらそんなことが言えるのでしょう。どうしたら、可能な生命発達の限界を超えることができるのでしょう。

--我々の認知能力の限界を探究することを語るとき、あなたは次のような可能性を許容しているのだと思います。何らかの認知能力は、単にまだ……

……今までのところはまだ作り出されてこなかった、と。ええ、それはまったく驚くべきことではありません。例えば算術能力のことを考えてみてください。それはヒトの全進化史のほとんどを通じて使われてこなかったんです。微小な点のような期間、使われてきたというだけです。これがアントニー・ウォレスがダーウィンとの論争において心を悩ませた問題でした。数学能力のようなものが淘汰によって残ったというのはあり得ない、なぜならばそれらは一切使われていなかったのだから、とウォレスは論じました。使われなければ、淘汰で残ることはできません。しかし、どうにかしてそれはそこになければなりません。そして、彼が提案したのは、人間の道徳的・知的能力と彼が呼んだものの発達に関係してくる、重力なり、化学反応なり、何か他の力が存在するに違いない、ということです。そのような考え方は、当時ある種の神秘論とみなされていました。しかし、それはごく健全な科学であるとみなされるべきです。ニュートンが受け入れられなかった、しかし受け入れるべきだったものと同様です。すなわち、自然には、接触を通じての相互作用を超えた力があるのだ、ということです。ニュートンはそう[そのょうな力、具体的には重力が存在すると]主張しましたが、それを信じてはいませんでした。しかしそれは正しかったのですよ。

--もし人がヒト生物学に関して、あるいはことによると生物学一般に関して、テューリングやダーシー・トムソンに近い見解を持っていたとしたら、有用性の証明は、生物的存在が何かの構造を持ったり、何らかの種類のものであったりするための条件とはならない、というふうに考えるはずですね。

ダーシー・トムソンを考えてみましょう。生物物理学的法則が、生き物の特性の一般的な形態を決定しているとしても、そのことは潜水艦が作れないことを意味したりはしませんよ。
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下重暁子 生き方は死に方

『もう人と同じ生き方をしなくていい』より ⇒ 下重暁子さんの生き方は好きですよ。

すべきこと、やりたいことは何か

 自分の生活を、しなければならない仕事と、自由でプライベートな時間との二つにわけるといい。

 どうしてもしなければならない仕事は何か、自分の生きている証が何なのかを考える。プライペートな時間については、ほんとうに好きなこと、やりたかったことを選び出す。

 あれもこれもやりたいと出てきたものの中から、ほんとうにすべきこと、やりたいことを選びだす。若いときのように時間は無限にあるのではないから、二つか三つに絞って、あとの二、三十年でやっていく計画を立てる。

 自分の心によく問いかけてみることが必要だ。

行動に移していこう

 あなたには、人と同じことをする時間はないのだ。

 人に連なって、あの人、がやっているから私も・・・…は許されない。

 若いときならば、多少の試行錯誤も許されよう。

 六十代になったら、それは通用しない。

 そんな暇はないのだ。

 自分の心に問いかけたことを行動に移そう。

 すぐとりかかるのがよい。

寿命のその日まで真っすぐ生きる

 寿命は、誰も知ることができない。私に残された時間がどのくらいあるのか、知りたくても知ることができない。知ることができたとしても何の役に立つだろう。幕を閉じる日まで真っすぐに、堂々と進んでいくしかない。

 十年という予想は立ちにくいが、五年という区切りなら思い浮ぶ。

 確信はない、が、私のカンである。自分のことは自分のカンに頼るしかない。外れれば外れたときのこと、そう思うと気が楽である。

私の希望

 私自身は、いわゆる葬儀はしないでいいと思っている。

 私に心を残してくださる人がいるならば、その人たちには、私から最後のはなむけとして、思いきりおいしいものを食べ、私の好きな音楽を聴いて楽しんでもらいたい。

 そのためのお金は残して、あとは一文もいらない。

 お金は、寄附も含めて、すべて使い切って死にたい。

 後の争いの種になるものなどは残さぬにこしたことはない。

 身の始末、考えれば考えるほどむずかしい。

こう死にたいと願うことは、こう生きるということ

 母の弟である仙台の叔父が同じ医師ということから、主治医にこれ以上無理な延命は避けてほしいと告げ、母は静かに息を引きとった。

 私と叔母は遺影に使う写真を探すべく、等々力の実家へ向かった。鍵をあけて中に入ったとたん地震が来て、廊下の壁にかけた額が落ちた。絵描きになりたかった父が描いた油絵が数枚かかっていて、その中の一枚だけが廊下に落ちた。

 着物姿の母の上半身を描いた油絵で、それを見たとたん、母が「この絵を葬儀に使ってネ」と言っているのがわかった。

 「暁子さん、同じ日よ。同じ日!」

 叔母の声がした。

 「え?」

 「おばあちゃんと同じ日!」

 三月十八日、まさに祖母の命日、母は生前言っていたように、自分の母と同じ日に死んだのだった。

 生き方は死に方にあらわれる。決して偶然ではない。

 母も自分の母と同様に仏心篤く、人のためにつくしたいと願って生きたから、同じ日に死ねた。もし願わなかったらあり得なかったろう。こう死にたいと願うことは、こう生きるという決意表明なのだ。

旅はひとり旅がいちばん楽しい

 若い頃から憑かれたように旅をした。知らない街、初めてのもの……そのたびに新しい発見があった。仕事で地方に出かけた折、帰りの列車や飛行機まで、三十分余裕があれば、その中で旅をした。外国でも取材の終わったあと、ひとり残って自分の旅をした。

 たいていひとりだった。正確にいうと、誰かが一緒だったこともあるが、心はいつもひとりだった。純粋な目を取り戻し無心になって、その国や人々や風物に染まる。そんな時間、がこよなく大切だ。

自分の身を自分で処する知恵

 ひとり旅は、何か事故にあったら、自分は自分で面倒を見てやらなければいけないから、常にもし何か起きたらどうするかの手立てを考えている。ひとり旅のおかげで、自分の身を自分で処する知恵も身についた。

 列車が遅れる、故障する、そのときどうするか。宿が手違いで無い。どう処理するか。何が起こるかわからない、そのときの判断、自分への厳しさも身につく。そんなとき、思いもかけぬ人の親切が身にしみる。

ひとり暮らしの準備

 そろそろひとりに戻らねば……その声は、だんだんと大きくなっていた。最初はささやきだったのが、少しずつ声量を増し、耳の近くでひまがあると聞こえるようになっていた。

 ひとりになるとは、ひとり暮らしをする意味とは限らない。二人暮らしでも三人暮らしでも、個として生きられるかどうかだ。

 私の家族といえば、一緒に暮らすつれあいである。気がつくと結婚して四十四年近くになる。すでに二十数年前に父も母もいなくなり、ひとりきりの兄も七年ほど前にガンで亡くなった。当面私にとっての家族とはつれあいひとりといっていい。

 それをわざわざひとりになりたいとは何ごとか、いや、だからこそひとりになりたいと思うのだ。二人暮らしが身についてしまうと、ひとり暮らしになったときのショックが大きい。

 男がひとり暮らしになって困る心配など我が家にはなく、多分マイペースで料理好きなつれあいは、毎日を楽しむに違いない。

 困るのは私である。このままではいけない。ひとり暮らしに馴れなければ……。そう思ったのがきっかけだった。

夕暮れ時に死ぬ。私はそう決めている

 自分がどう死にたいか、死に方を考えるのは決して私にとっていやな作業ではない。自分の死の演出を自分らしく考えておきたい。

 夕暮れ時に死ぬ。私はそう決めている。

 暁子という名は暁に生まれたからだが、私は陽が落ちて闇が近づき街にほつほつと灯がつきはじめる薄暮という時間帯が好きだ。

 季節は晩春か初秋、なぜなら私は山吹や萩といった垂れ下る花が好きなのだ。自山吹や黄山吹、自萩や紅萩の中にさりげない姿の私の写真。

 馴染みの花屋、日赤通りの「花長」さんに山吹と萩のことは頼んである。

 華道や茶道の先生方を客に持つセンスのいい店だから、私のためにきっと整えてくれるに違いない。

 偲ぶ会ではなく密葬で、私を肴に楽しく飲みかつおいしいものを食べる会にしてほしい。そのためのお金はとっておく。

 場所は東京會館の西に窓のある部屋か六本木の国際文化会館の庭に面した部屋、私の好きな夕暮れ時から始めてもらう。

 原稿を書きながらそのままばったりといくのもいいし、ちょっと一服、立ち上って椅子に座り、好きなオペラ「運命の力」のアリアか、若かりし頃胸ときめかして聴いたシューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」を聴きながら、外に闇が迫る頃に……。

 こんなことを考えるのはまだ死を現実と受けとめていない証拠。それが現実になるまでにまだ余裕がある。それまでどう生きてゆくか。
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第三次ポエニ戦争は必要だったのか

『ローマ帝国』より ⇒ 2月に読んだ、小説「ハンニバル戦争」は第二次ポエニ戦争でのハンニバルに対する、大スピキオを扱っている。それの歴史的な記述になっている。

ザマの戦いに大勝利を収め、意気揚々とローマに凱旋したスキピオ。市民もスキピオを「国を救った英雄」として讃えます。ローマ市民はスキピオに終身執政官の栄誉を与えようと何度も提案したくらいです。

しかし、スキピオは体が弱かったこと、およびある理由でそれを固辞し続けます。ある理由とは、端的にいえば「嫉妬」を怖れたためです。嫉妬といえば女性につきものだと考えられがちですが、実は男性の間にも嫉妬は渦巻いており、しかも男性間の嫉妬は、往々にして陰湿でねじ曲がった形で襲いかかってくることが多いのです。

スキピオはこの嫉妬から、公金の使途不明の疑いをかけられてしまいます。告発されたのはスキピオの弟のルキウスで、シリア王の賠償金の使途が不明だという嫌疑をかけられたのです。

実際に法廷に呼び出されたのはルキウスでしたが、スキピオは、告発側の標的は自分であることを悟り、さらに、陰でこの告発の糸を引いているのは大カ卜ー(前二三七~前一四九)であることも見当をつけていました(その後、活躍する曾孫と区別するために、曾祖父は大カトー、曾孫は小カトーと呼ばれています)。

大カトーは平民の家系出身ですが、第二次ポエニ戦争のとき、ファビウス軍の高級将校として従軍し、その後、財務官、造営官、法務官、執政官などを歴任するなど、権勢の座を視野に収め、いわば大出世を遂げたといえましょう。

大カトーは国粋主義者で、道徳や倫理にもうるさい人でした。一方のスキピオは派手好きで、規律に対してもルーズというか、大ざっぱで自由。こうした性格の違いから、スキピオと大カトーはいわゆる〝虫の好かない仲〟で、若い頃からお互いにあまりよい印象を持っていなかったようです。そうしたところに、スキピオが国家的な英雄として人気を得るのを目のあたりにしているうちに、大カトーは嫉妬心を抑えることができなくなってしまったのでしょう。告発は、スキピオがザマで勝利してから一五年も後のことであることからも、この間、大カトーが悶々と悩んだことが窺われます。

元老院で行なわれた証人喚問の日、弟に同行したスキピオは、弁明しようとする弟をさえぎり、元老院全員の目の前で証拠となる出納簿を破り捨て、「私がいなかったら、いま、私を告発しようとしている者らすべては存在できなかったかもしれないのだ」と言い捨てます。そして、その日を最後にスキピオはローマを離れ、ナポリに近い海沿いにある別荘にこもり、以後は裁判の召喚にも応じようとしなくなります。

それに怒った護民官はスキピオに再度の召喚命令を出し、従わない場合は強制的に連行しようとしますが、若い議員のグラックスが「祖国のために多大な貢献をしたスキピオをこれ以上、被告席にさらすのはローマ市民の名誉を汚すことにもなる」と演説し、スキピオ弾劾は終わります。

しかし、スキピオはその後もローマには戻ろうとせず、終生、別荘で過ごし、前一八三年、五二歳で亡くなります。その死から二年後、スキピオの公金横領は濡れ衣であったことが証明されたのですが、スキピオにはもはやそれを知る術もありません。

大カトーは第二次ポエニ戦争の後始末についても非常に厳しい態度を見せます。その理由はカルタゴの視察に出かけたおり、たわわに実るイチジクを見て、カルタゴの豊かさに脅威を覚えたことから。それ以後、すべての演説の最後に「カルタゴは滅ぼすべきである(Delenda est Carthago)」と付け加えるようになったほど、カルタゴに脅威を感じていたのでした。

大カトーは前一四九年に亡くなりますが、奇しくもこの年、第三次ポエニ戦争の火ぶたが切られます。この戦争の指揮をとったのは小スキピオと呼ばれるスキピオの孫娘の婿に当たる人物です。

あれほど望んだカルタゴ撲滅の戦いを実際に実行してくれたのは、自らの嫉妬ゆえに栄光の座から突き落としたスキピオの縁者だったとは! まことに歴史の皮肉というほかはありません。

ザマで大敗を喫したカルタゴは、シチリアなどの海外領土の引き渡し、毎年の農業生産の一年分弱に当たるという二〇〇タラントの賠償金を五〇年間支払うという停戦第三次ポエニ戦争で、ローマ完全勝利条件を飲んでいますが、貿易振興に尽力し、着実に国力を再建していきます。ハンニバルはこの国家再建にも力を発揮し、賠償金を完済していきます。ところが、その政治的手腕がかえってローマ人の危機感をあおることになってしまったのです。

ハンニバルは〝平和ボケ〟したカルタゴ民に警告を発しますが、皮肉にもそれが、反ハンニバルの動きを台頭させる結果になり、ついにハンニバルを敵に売り渡そうとする売国奴も現れる始末でした。ハンニバルはあれほど貢献したカルタゴに居場所を失い、悄然とカルタゴを脱出し、前一八三年、自ら死を選びます。

それから一世代ほど経過した前一四九年、ローマはカルタゴの沿岸都市ウティカに軍団を上陸させ、カルタゴの海岸の都市を内陸に移せ、と命じます。海洋国家カルタゴにとっては国の生命線を奪われるに等しい要求にカルタゴは決起。最終決戦、ここに第三次ポエニ戦争が勃発します。

ローマ軍の指揮をとったのは、スキピオ・アエミリアヌス(前一八五~前こ一九)。前にも述べましたが、スキピオ・アフリカヌスの孫娘の婿で、義理の祖父と区別するために、小スキピオと呼ばれます。

開戦と同時にカルタゴを包囲したローマ軍に対してカルタゴは実に三年近く持ち堪えますが、前一四六年、市街戦が始まり、六日六夜続いたローマの猛攻撃の前に、カルタゴはついに滅亡します。

カルタゴの滅亡は世界史にも残る悲惨なもので、生き残った約五万人の市民はすべて奴隷にされ、城塞は徹底的に破壊され、以後、植物が芽生えないように地には塩がまかれるというほど徹底したものでした。

それまで他国を滅ぼした場合も相手国の自治を尊重し、必要以上の殺戮を行なったことがなかったローマがこれほどまでの破壊の手を加えたのは、いかにカルタゴを怖れていたかの反証といえるかもしれません。

地中海を支配下に収め、ローマを苦しめ続けたカルタゴがなぜ滅亡していったのか。その理由として、後世の歴史家は以下の二つを挙げています。

一つは、カルタゴ市民は軍事についてあまりにも無関心であったこと。戦いの多くはイタリア半島で行なわれ、戦ったのも傭兵が主でした。カルタゴ市民の戦闘意欲は高くなく、国内には平和主義さえ蔓延していたというのです。

二つ目は、挙国一致の動きに欠けていたこと。外地を転戦しているハンニバルに対する関心も評価もそれほど高くなく、ついにはハンニバルを事実上、追い出してしまうという愚挙に出てしまったのです。

いずれにしても、永遠の覇者というのはあり得ないということでしょう。奇しくも、カルタゴが炎上するのを目のあたりにした小スキピオは、「いずれローマもまた、同じ運命をたどるのか」と慨嘆したというのは有名な話です。

こうして地中海全域の支配権を手中にし、同じ年、ギリシアやマケドニアも属州《植民地》にしたローマは、さらなる強大な国家へと発展していくターニングポイントを迎えます。事実上、このときを境に、ローマは「国」から「帝国」へと進化を遂げたということもできるでしょう。
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第一次ポエニ戦争で地中海制覇

『ローマ帝国』より ⇒ 2月に読んだ、小説「ハンニバル戦争」は第二次ポエニ戦争でのハンニバルに対する、大スピキオを扱っている。それの歴史的な記述になっている。

周辺の国々やケルト人との闘いを征し、イタリア全土をほぼ手中に収めたローマは、次はシチリアに目を向けます。前三世紀頃の当時、西地中海一帯は海洋民族のフェニキア人が席捲しており、シチリアも、フェニキア人勢力の一つであるカルタゴが西半分を、東半分をギリシア人勢力のシラクサとメッシーナが統治していました。

ところがシラクサがメッシーナを占拠するという暴挙に出、メッシーナはローマに支援を求めます。ローマは大いに苦慮します。支援を断ればメッシーナはカルタゴを頼るでしょう。当時、カルタゴは地中海一帯で最強の力を誇っており、放っておけば、シチリア全体がカルタゴの手に落ちるのは明らかでした。反対に、ローマがシチリアを手に入れればカルタゴを牽制することになり、ローマは優位に立てます。

最終的に前二六五年、ローマはメッシーナに援軍を送ることを決意します。もっとも、このときローマは、この戦いが二三年間も続き、その後の第二次、第三次を合わせると一〇〇年も続く大戦争になるとは予想さえしていなかったでしょう。

ローマにはアッピア街道やアッピア水道を建造したことで名高いアッピウス・クラウディウス(前三五〇~前二七一)がいました。この頃は亡くなっていましたが、大軍を率いてシチリアに向かったローマ軍の執政官は、この名門貴族の血を引くアッピウス・クラウディウス・カウデクスです。彼はシチリアに到着するとすぐにメッシーナとの間に同盟協定を結びます。これで、メッシーナ支援の軍事介入の大義名分ができたわけです。

次いで、クラウディウス・カウデクスはシラクサに講和を申し入れます。しかし、シラクサはこれを拒絶。つまり、「戦いで決着をつけよう」という意思を表明したことになります。

シラクサは予想どおりカルタゴと同盟軍を作って応戦しますが、ローマ軍の敵ではなく、ローマ軍はあっけなく同盟軍を打ち破り、シチリアの東半分を手に入れます。

ここで冬の到来。南国シチリアでも冬は自然休戦期となり、ローマでは翌年の執政官の選出を行なう民会が開かれます。その結果、新たに二人の執政官が選ばれ、二人の執政官はそれぞれ二個軍団、つまり、計四個軍団を率いてシラクサにやってきます。

シラクサの借主ヒエロンは洞察力に優れた人物で、ローマ軍とシラクサが戦っている問にカルタゴが〝漁夫の利〟を得てしまうのではないかと懸念し、ローマ軍を訪れて講和を申し出ます。シラクサと講和し、メッシーナを同盟国としたローマは、結果的にシチリア東部の防衛を確実にするという初期の目的を達したことになります。

ところがここに至り、危機感を深めたのがカルタゴです。カルタゴは翌年の前二六四年、兵力をいっそう増強し、陸海軍で四万の大軍を率いて、シチリア南部のアグリジェントに上陸。ここに第一次ポエニ戦争が勃発します。ちなみに、「ポエニ」とはフェニキアをラテン語読みしたもので、フェニキア人と同義語です。

第一次ポエニ戦争の主戦場は海上でした。最強の艦隊を擁するカルタゴと、まだ海軍さえ持っていなかったローマ軍。ローマ軍は船隊が必要なときはギリシアの同盟国に参戦してもらうことでなんとかやってきたのです。これでは、カルタゴの優勢は火を見るより明らかだといってよいでしょう。

しかも、ギリシアの船隊の軍船は旧式な三段櫂船で、一方のカルタゴは新式の五段櫂船。三段擢船では船体の左右、片翼の上下三段に船員を一〇〇名配置して漕ぎますが、五段権船では一列の漕ぎ手が五〇〇人に増え、船体もずっと大きいのです。カルタゴはこの五段擢船を一二○隻も備えていました。カルタゴと戦うのなら、ローマも五段擢船を大量に持たなければ勝負になりません。ローマはカルタゴの五段擢船を捕らえ、それを解体、模倣してローマ初の五段擢船を一〇〇隻も作り、対抗します。

ローマ軍の戦略で大いに威力を発揮したのが新兵器「カラス」です。当時の海上戦は、敵船の側面に回り込み体当たりする戦術が主でした。この戦法は操船技術に劣るローマにはむずかしかったので、時の執政官ドゥイリウスは「カラス」を考案します。

「カラス」は先端に鉄の鈎がついた接舷タラップで、敵船に近づき敵船の甲板に下ろすと甲板に刺さって固定される。そこを兵は通って敵船に乗り込むのです。

海運国カルタゴでは船の美観も大切にします。「カラス」のような見場の悪いものを船に取りつけるなど、思いも寄らないことでした。しかし、ローマはそんなことにはお構いなしに、戦い上の便宜を第一に考え、「カラス」を船に取りつけたのです。

兵と兵が刀剣で戦う白兵戦ではローマ兵のほうに格段の利があります。兵が敵船に乗り移って白兵戦に持ち込む戦術は見事に功を奏し、前二六〇年の初の海戦でローマはカルタゴに大勝。カルタゴはこの一戦で戦力の三分の一を失うほどの打撃を受けてしまいました。

シチリアに戻ったローマ軍は前二五六年、史上最大の海戦といわれるエクノムス沖海戦を戦って勝利。しかし、暴風に襲われた海難事故で多大の艦船と兵士を失うなど、ローマの被害も甚大でした。そこから立ち直って、やがてローマは大艦隊を再建します。さらに前二四一年のアエガテス諸島沖海戦でもカルタゴ輸送船団を撃破。この敗戦でカルタゴは兵や食料の補給がままならなくなり、ローマに敗戦を認め、第一次ポエニ戦争は終結。ローマは多額の補償金とともに、シチリアを手中に収めます。
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未唯宇宙の表現への展開

生活パターンが崩壊している

 眠たくてたまらない。夜が不規則になっているので、急な眠気に陥る。その時には胸の違和感を感じていることが多い。

30年前のエキスパートシステム

 第二次AIブームはエキスパートシステムでした。1980年代でした。研究開発部署に異動したのは、33歳だから、八〇年代です。一人1テーマで自由に考えろという部署であったので、エキスパートシステムをテーマにした。

 F3Eには様々なエキスパートが集まっていた。ECUの挙動解析をLAで行なっていたので、技術者の思考・経験と制御ロジックの間を埋めることにした。LISPのプロを巻き込んで、思考実験を重ねた。30年前のコンピュータ環境でよくやったと思う。

 アイデアとしては面白かった。日本語処理も含めて行えたが、LISP表現には限界があった。ロジックを自動的に組み立てられる醍醐味。あまりにも大きな世界を相手にした。

未唯宇宙の表現への展開

 今もそういう意味では同じです。未唯宇宙をいかに駆動させるか。そのために、膨大な資料を入れ込んでいる。そして、自分の「すべて」を目指している。

「19人」は生きてきた

 やっと、ここへ来て、匿名性ではないけど、被害者の人格を無視した、あのやり方。マスメディアの傲慢さがヤフーニュースに上がってきた。すぐなくなるでしょう。皆、隠しておきたい本性の部分だから。

 「19人」は本当に生きてきたのか。単にそれだけだけです。それが認識されないと言うことは容疑者とマスコミは同質です。生きてきたことを足跡を残さないと!

 こういう時に本当に必要なのは葬式です。オープンです。無くなった事実に対して、向かい合うことです。生まれてきて、そこに居たわけですから。ちなみに私の場合は、直葬でしょうね。内なる世界での完結性です。

ひめたんがセンターになる時は

 ひめたん、よかったね。次のMステではすぅとの会話ですね。それまでに自分を爆発しておいて。生ちゃんの自由さはセンター経験に裏付けされている。

 みめたんセンターは乃木坂が変革の象徴になる。皆がもっと、深くなり、それが応援する人を変えていく時。乃木坂というコミュニティが重層化する段階に起こる。
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