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原発推進派の否認、反対派の空想

『日本的ナルシズムの罪』より 原発をめぐる曖昧なナルシシズム 総力戦の統治システム

原発事故の際、命懸けで被害を食い止めようとした原発作業員たちがいました。「国会事故調」の報告書はこの人々についてこう述べています。

「(当委員会の問いに対して)彼らが語ったのは、プラント運転を担う運転員としてのプロ意識と、家族の住む地元への愛着心であった。幸いこのような環境を経験せずに済んだほかの原子力発電所の運転員にも同じような気概があり、逆にそのような気概のある運転員の勇気と行動にも支えられ、危機にあった原子炉が冷温停止にまで導かれた事実は特筆すべきである」

報告書では、これと関連して、「原子炉事故の危険や恐怖が公知となった今、仮に次の原子炉事故が起こった場合にも、本事故と同水準の事故対応を期待できるのか」という懸念が表明されています。「そのような論題を真正面から議論するだけでも、原子力を継承する次の人材が確保できなくなるのではないか」という懸念の声が出ていたそうです。

福島の復興の前提は、原発の廃炉作業が安全に遂行されていくことです。作業に従事する人々はある程度の被ばくを覚悟で、厳しい労働条件のもとで作業を続けています。しかし、日本という国家にとってきわめて重要な廃炉作業の労務管理が、東京電力以下、何重もの下請けを介して行われています。このことが関連の書籍やマンガなどを通じて社会の関心を集めるようになっているのにもかかわらず、この問題について実行力のある介入が行われていません。

つうやイザナミの献身を受け取りながら、その隠された美しくはない姿が明らかになった時に、それから距離を取って拒絶した与ひょうやイザナギの姿を、私たちは反復しているのでしょうか。

多くの日本人の運命が、現在、福島第一原子力発電所で働く人々に依存しています。まずそのことを率直に認めて、その労に適切に報いることのできる体制が構築されなくてはなりません。現在の体制では適切なマネジメントが行われるのかどうかさえ疑わしく、どこか運任せのような無責任なものとなってしまわないか。そう危惧しています。

かつて原発推進は日本の国策であり、日本人の多くが「現実の否認」を含む「安全神話」を介して原発と結びついていた。それによって達成された経済は、政治・社会体制と一体となって、日本というコミュニティに「想像上の一体感」を成立させていました。それを美化・絶対化する精神性として「日本的ナルシシズム」が働いていました。

事故以降、原発推進派と反原発派の意見は二項対立のままで推移しています。前者は事故の影響を過小評価しようとし、後者はできる限りそれを過大評価しようとする。それは正反対の態度のようですが、どちらも現実を否認したまま、閉ざされた自分と意見を同じにする人々で作る狭いコミュニティ内部での議論を、外部に押し付けようとしているということでは同様です。「想像上の一体感の美化と理想化の維持、そのための現実と他者の排除」を目的としたナルシシズムの病理にとらわれているという意味で、議論はおよそ不毛なままです。

私が本書を通じて強く主張したいのは、日本においては原子力発電所が是か非かを判断する前提として、想像上の一体感に依存する精神性を克服して、責任を負える自我の能力が養われる必要があるということです。

二〇一五年十二月現在、避難生活を継続している人々が福島県だけで約五万八千人、全国では約十八万二千人。また震災関連死として認定されたのは、福島県だけで約二千人、全国で約三千四百人にのぼります。

震災関連死が福島県で宮城県や岩手県よりも多い状況には、やはり原発事故による避難生活の長期化や生活環境の激変が関与していると考えられます。「原発事故による被害は大してなかった」、「これまで通りのやり方で原発を推進しよう」というような主張は、あまりに強力な現実の否認に他なりません。

他方、気をつけなければならない罠が存在します。それは、日本社会への想像上の同一化を「すべて良い」として行っていたのを、今度は「すべて悪い」にひっくり返す否定的な同一化を行う精神病理です。第六章で説明したディスチミア親和型の問題とも関連しますが、反原発運動の一部にもそうした傾向が認められます。

つまり、「原発-電力会社-政府」という対象に、否定的な一体化を果たした精神が連想するのは、「被災地では放射線による健康被害が頻発しているのに、国がそれをすべて隠ぺいしている」というものです。

彼らは自分たちの「空想」を一方的に現地に投影し、現地で生活する人々が主体的な考えや努力を行う能力があることを認めません。現地で育児をしている人々を「子どもを放射線に被ばくさせている」と非難し、現実には観察されない健康被害を過大に喧伝することで、世間の人々の信頼を損なっているように見えます。

「国会事故調」の報告書には、次のような記述があります。

 「運転員チームはファミリーと呼称され、プラント運転や訓練をともにしている。そのような日々の経験を通して、ファミリーとしての一体感と連帯感が醸成されていた。そのことが、プラント運転という平時から原子炉事故の危機という緊急時への激変にも対応し、事故回避に向けた作業に従事することができた一因であったと考えられる」

このような、想像上の一体感を基盤とした人と人のつながりを尊しとする日本人の精神性は、私の中にも染みついています。それが、震災後に南相馬市で生活することを私に決意させた一因であったようにも思います。

想像上の一体感やナルシシズムの問題は、このように取り扱われます。それを否定するところから始まって、未知の現実や他者に出会うことで修正され、ぐるっと回って元の所に戻ってくる、そのような循環をくり返して生きることです。

原発事故の影響を受ける土地に暮らすことは、自分自身にも息づく日本的ナルシシズムを修正する機会を与えてくれます。「放射線被ばくは危険か否か」という疑問に観念的な水準で判断しているだけでは、ここでの生活は成り立ちません。

実際に自分が生活する場所の空間線量を計測し、必要と判断すれば除染を行い、その上で外部被ばくについて評価する。身の回りにある食品の放射線量を計測し、内部被ばくについてもホールボディカウンターを用いて計測します。「放射性物質」という外部の現実とこのようにかかわる経験を持つことは、精神的には「自我の機能」を高めることにつながるのかもしれません。
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韓国社会のエリート主義、包括性、アドヴォカシー

『嫌韓問題の解き方』より 変貌を遂げる市民社会--エリート主義から多元主義へ

国家と市民の間

 韓国の市民社会に踏み込む前に、市民社会を構成する団体とはいかなる存在なのかを見ておこう。

 市民社会は先述の市民団体を含む様々な団体で構成されている。団体、正確には中間団体とは、文字通り国家と市民の中間に存在する団体である。私たち人間は個人個人が孤立した状態で生存することは不可能なので、集団として社会生活を送っている。集団化した組織のうち、私たちに最も身近なのは家族と企業であろう。家族は自然発生的な共同体である。他方、企業は私たちに必要な商品やサービスを生産して人々の生活に貢献している。これに加えて、社会全体の公益実現のために結成されるのが国家である。これら三つのいずれにも当てはまらない集団が団体である。

 団体は多種多様で、デモなどの政治活動をおこなうのはその一部である。ギタークラブやゴルフの会などの趣味の団体もあれば、農協や古典芸能保存会などある種の職業利益を代表する団体もある。

 団体は通常、設立目的に掲げられた活動をしているが、政治活動をすることもある。団体が政治活動をするとき、団体のことを利益集団とか、圧力団体という。しかしすべての団体が政治活動をしているわけではなく、現在政治活動をしている団体がいつも政治的であるというわけではない。利益集団や圧力団体としての顔は、基本的には団体の持つテンポラル(一時的)なものだと考えておくべきだろう。その点で政治に常にコミットし、政治活動以外の存在意義はない政党とは大きく異なる。団体は、議員や政党、行政機関に働きかけることによって影響力を発揮する。働きかけはロビー活動のようにインサイダー的なものもあれば、デモやマスメディアを対象とした記者会見など、アウトサイダー的なものもある。しかし、多くの団体にとって政治活動は本来の目的ではなく、団体設立に関する本来の目的を達成するためになされるものである。それゆえ、圧力団体などと私たちが呼ぶとしても、彼らが自分たちのことをそのように考えることは通常ないと言ってよいであろう。

 多くの場合、団体は何らかの特定の目的を持つ人々が、その目的を達成するために集合したものである。人々は、その目的達成のために団体のメンバーとなり、会費や寄付の形で資金を提供し、マンパワーとして働きもする。人々は通常、その団体の活動に参加し、フェーストゥフェースのおつきあいをする。テニスクラブであればテニスコートを借りるためにお金を出し、メンバー同士でテニスを楽しむだろう。団体の目的は多くの場合、団体構成メンバーの利益促進である。しかし近年、このような、団体であれば当たり前の特徴を有さない団体が世界的に急増してきている。

 一つは、メンバーシップなき団体と呼ばれるものである。団体は本来メンバーがいてこその存在であるが、シー・シェパードやグリーン・ピースなどのNGO団体は、一部の活動家のみで構成され、活動資金は、インターネットなどで伝えられた設立目的と活動内容への賛同者の寄付でまかなっている。普通の団体であれば、多くの参加者が意思決定を含めて活動全体に参加するが、こういう団体は活動家の活動とそのためのコスト負担を区分している。これらは第三次集団(三次結社)と呼ばれ、今日世界的に急速に増大している。なお、第一次集団とは家族のような共同体をさし、第二次集団とは会社やこれまで説明してきたような団体をさす。

 もう一つは、その目的が構成員の私的利益ではない団体である。改めて言うまでもないが、ギタークラブであればメンバーがギターを楽しむという個人的な利益の実現が目的である。農協であれば生業である農業を育成し、構成員である農家の所得向上が目的である。このような団体の場合、構成員は団体の活動が外部にどういう影響を与えるのかに基本的な関心はない。しかし、その目的が公共的または利他的で、構成員以外にも恩恵が及ぶことを期待する団体が近年急増している。そして、これら二点こそが韓国の団体の特徴とされてきたのである。

政治的な志向性

 韓国の市民団体の特徴は、一言でいえば、包括的、アドヴォカシー(政策唱道)中心、エリート主義である。第一に、組織的には多くの市民団体は集権的な意思決定構造を有しており、少数の幹部が決定的な影響力を有する。他方、一般市民への広がりは狭く、参加の形態も主体的に意思決定に加わる形の参加ではなく、寄付金など間接的なものにとどまっている。メンバーシップがはっきりしたボトムアップ型の団体とはいえず、「市民なき市民団体」と抑楡されるのもしばしばである。例えば、ジュ・ソンス(二○○二)によれば、主要五十一個のNGOでは意思決定機構である代表機関、諮問機関、執行機関の構成員のうち、全体の六割を「市民運動家」と称される活動家と大学教授を主とする教育者が占めており、とりわけ執行機関となるとほとんどが活動家である。

 第二に、関心の範囲が広範囲だが立法活動や争点掘り起こしに偏り、政策実施過程など市民が直接ガバナンスに関与することに活動の重点を置いていない。韓国を代表する市民団体である、経済正義実践市民連合(経実連)や、参与連帯がその典型例で、関心の広さから「百貨店式市民団体」と呼ばれる。政策唱道に活動の重点があるため、政治性を帯びやすい。

 前節の言葉で言えば、韓国の市民社会を構成する団体は第三次集団的であり、かつ公共目的、言い換えれば政治的な志向性に傾斜している。世界の流行にマッチしているともいえるが、メンバーシップを重視する伝統的な団体観からかなりかけ離れた存在である。これらが市民社会の特徴だというのは、とりわけ日本から見れば異様に映る。それのみならず、ここまで注目してきたのは全国規模で活動する代表的な市民団体であって、その検討から引き出された知見が市民社会全体に対し一般性を有するとはいえない。代表的な市民団体に着目することは重要であるが、それが韓国の市民社会の平均的な姿からはかけ離れている可能性がある。

 そこで、こうした市民団体の特徴は、市民社会全体にどのように位置づけられるのかを見ておこう。筑波大学の辻中豊教授・韓国高麗大学の廉載鎬教授らの研究グループが、一九九七年に韓国で市民団体に限定されない様々な中間団体を対象に実施したアンケート調査によると、韓国の市民社会を構成する団体は、内部構造については市民団体と同じくエリート主義的で集権的な性格を有しており、自治体などのローカルなもの、草の根に発するものへの関連性が弱い。アドヴォカシー性については十分検証できていないが、当時アドヴォカシー性が強いと評価されていた、農業、市民、労働団体などが革新化し、活性化しているのに対し、経済、教育、行政、専門家団体などでは保守化が進行するという両極構造が生まれている。これは、市民団体に関する理解をほぼそのまま市民社会全体に拡げてもいいことを示している。

 ただし他方で、彼らの研究からは、韓国の市民社会が日本と類似しているとの指摘もなされている。日韓とも、経済、専門家団体などの産業関連団体の形成が他の団体に先行していること、政治、市民、福祉団体が最後発であることなどである。一九九七年段階では、産業関連団体が市民社会において比較的大きな割合を占め、他方市民系団体の割合が少ないことも共通する特徴ということができる。
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「指定管理者制度」と公立図書館の関係を考える

『図書館つれづれ草』より ⇒ 図書館は高度サービス業です。全ての企業が高度サービスに向かう。視点をどこに持つかですね。

「指定管理者制度」と公立図書館の関係を考える

 中原は、今日の公立図書館の現状を憂い、やむにやまれぬ気持ちで次の文章を綴った。人間は、どん底まで落ち込んだら、基本に立ち返り、原理原則から考え抜き、立ち直るための最良の方法を発見すると信じているからである。

 私たちが、いちばん慣れ親しんでいる図書館といえば、一般的に公共図書館といわれているものです。いわゆる公共図書館は、すべて「図書館法」(昭和25年法律118号)という法律で、管理・運営のことが定められています。その第2条で地方公共団体が設置する図書館を「公立図書館」、日本赤十字社や民法第34条に定める公益法人が設置する図書館を「私立図書館」と定めています。したがって、公共図書館といえば、特に断りのない場合は、この二種類を含んだところの図書館を意味します。

 今日の公共図書館は、かつての戦前・戦中時代のように、利用者は学生主体ではありません。公共図書館の利用者を表現するとき、私たち図書館人がよく使う言葉は、「赤ちゃんからお年寄りまで」を指しています。つまり、幅広い年齢層の人々に利用されているのです。

 さらに今日、図書館が社会に果たす役割といえば、第一に、地域の情報拠点としての役割があります。

 今日の図書館が収集している資料には、本や雑誌、新聞などの活字情報だけでなく、ビデオ、CD、DVDなどの映像や音響資料などの情報、さらにはコンピュータを媒介とした情報など、さまざまなものがあります。

 第二に、地域の読書施設の役割があります。多くの図書資料に囲まれて、わからない事柄があれば、近くにある辞書で調べるなど、まさに書斎がわりといってもよいでしょう。

 第三に、地域のさまざまな情報を保存し、活用する役割があります。これは、まさに図書館の最大の責務ともいえるでしょう。変化の激しい現代社会の中で、伝統的な文化を継承したり歴史を残していくことも、図書館の役割でしょう。

 第四に、住民の生涯学習を支援する役割です。個人の学習に必要な資料を収集したり、グループやサークル活動を支援することも、大きな役割です。

 そして、図書館本来のサービス業務を行いながら、これら図書館が果たすべき役割を遂行していくのです。最近でも、著名な作家が、「図書館は、無料貸本屋である」との趣旨の文章を雑誌などに書いていますが「貸本屋」で、このようなサービスを展開しているでしょうか。できないでしょう。だから「貸本屋は、貸本屋」なのです。図書館は、決して「貸本屋」ではありません。社会が必要とする図書館サービスを、きちんと実施しております。

 さて、もうおわかりのように、これらの図書館の役割を実践し、図書館サービスを提供していくのは、先の図書館法が定める専門的知識を有した司書職員です。専門的業務を実行していく能力をもっている職員は、司書資格をもつ者に限られていると言っても過言ではありません。

 全国の公立図書館の数は、平成26年度の数値を基に考えてみると(『図書館年鑑2014年版』による)、分館を親館に含めた場合、県立図書館を含めて3228館あります。それに図書館サービス対象の人口が、全国の国民数1億2843万8000人(住民基本台帳人口要覧平成26年度による)です。これらのサービス対象人口に図書館奉仕を行う専任の職員は、1万1105人。うち有資格者は、5854人。この数字は正職員の数です。I館あたりの正職員の数は、約3・4人になります。

 ところで、わずか1万1105人のなかでも、専門的職員である司書有資格者は、約半数の5854人です。それだけの職員数で3228館を運営できるはずがありません。図書館利用者にサービスを行うため必要な職員数は、サービスの対象となる人口には関係なく、図書館がサービスするのに必要な業務の種類の多寡によって決まるのです。例えば、図書館資料の選択を図書だけにするのか、新聞、雑誌などの活字資料やビデオ、CD、DVDなどの映像資料、音響資料に加えて、コンピュータによる情報なども収集するかによって、必要とされる職員数は変わってきます。

 図書館の日常業務の中で、例えば、貸出、返却、書架の配列しか行わなければ、職員数は小人数で済むでしょうが、今日、これだけのサービスでは、利用者は決して満足しないでしょう。

 また、図書館資料を本館だけに整理して配列していても、つまり情報源を本館に固定化しているだけでは、十分に活用されるとは言い切れません。

 図書館資料、つまり情報源を活用するには、これらを本館に留めるのではなく、積極的に本館外に持ち出す必要があります。本館から距離が遠い場所に居住する人々、さらには、病院に入院して本館に来られない人々、来館できない事情のある人々にも本館同様の図書館サービスを実施することが、重要な業務となります。今日、これらのサービスに力点を置いているのが移動図書館です。このサービスを実施していない図書館は、果たして現代社会に適った図書館といえるでしょうか。ここでもまた、移動図書館車を運転する技術職員と司書職員が必要です。

 図書館はさらに、重要な責務を担っています。それは教養・人文・社会・産業・科学分野など、あらゆる分野で必要となる調査・研究に対して、司書は要求に応じて、利用者を支援する業務、いわゆるレファレンス業務を行います。これは事案によっては、大変時聞を要するもので、1日に数件あれば、司書はこれらの業務に追われ続けます。

 図書館の業務は、まだまだたくさんあります。そのすべての業務は、利用者の利益のためにあり、司書の数が少なくて利用者の要求に追いつかなくなると、不利益を与えることになり、不満が生じます。だからこそ職員数の多少は、利用者の利益・不利益に繋がり、図書館の運営には重要な要件となるのです。

 現代の図書館にあっては、かつて存在していた全国公共図書館協議会の数値によれば、図書館一館あたり約20人から25人の司書職員が必要としました。

 これは図書館の大小によって決まるのではなく、図書館業務の実施状態によって決まるものです。つまり業務に積極的に取り組んでいる図書館は、職員を多く必要としますし、業務に消極的な図書館は職員数が少なくて済むのですが、代りに利用者の不満が募り、ほとんど利用のない図書館にな
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図書館 貸出無制限が生まれるまで

『図書館つれづれ草』より ⇒ 田原図書館が新規開館した日に、出掛けていった。日野出身の館長と話していたら、返してくれるなら、幾らでも貸しますよと言われた。公共図書館の精神からすると、当たり前のことですよね。本が紙が故の制限ですね。

「館長、うちの図書館が開館したら、貸出冊数は、無制限にしてください」

司書の中村が発言した。

中原は、新しい図書館を開館するため、12人の司書たちとともに、苦心して決めた準備計画を実行していた。中村は、システム開発におけるSEとの話し合いの中で、どうしても貸出冊数は無制限にしたいとの意見がまとまったので、代表して中原に言いに来たのである。

中原は、職員の意見を最大限に尊重する考えである。なぜなら、職員が館長の中原のところにやってきて意見を述べるには、相当の覚悟で申し出ていることを知っているからである。中原自身も若い駆け出しの頃、上司に自分の意見を申し出るには、少なくとも2日ぐらい熟慮して、考え抜いた末に上司のところへ申し出た経験がある。だから中原は、彼ら彼女たちの心はよく理解しているつもりである。今、開発中のシステムのなかに、どうしても貸出無制限を盛り込みたいのだろう。

なにせ、日本で初めて図書館業務のすべてをコンピュータで処理するという目標を掲げている。

よその図書館で、コンピュータ処理を行っているところは数少ない。やっているといっても、せいぜいバッチ処理ぐらいのものであった。

このバッチ処理には、大きな問題が潜んでいることを中原は憂慮していた。貸出返却処理だけは、図書館のカウンターでバーコード処理を行い、図書館はそのデータをバッチ処理を主導する電算会社に送る。そこで貸出統計などの図書館運営に必要なデータを作成してもらい、依頼主である図書館に返送する仕組みだと、聞いていた。その詳細は定かではないが、もしそうなら、図書館利用者のプライバシーが漏れる危険性があると考えたのである。この危険性を除くためには、すべての業務を、自館で処理することがいちばんいい方法であると中原は思った。

しかし、貸出冊数を無制限にすることは、全く考えていなかった。

 「なるほど。それはいい考えだと思いますね」

中原は中村の申し出に答えた。

 「だけどね、そのためには〈図書館の管理・運営に関する規則〉のなかで、条文化する必要がありますね。教育委員会の審議と議決が必要ですよ。教育委員が、図書館の考えに賛成してくれるといいんですが……」

中村が続いた。

 「教育委員会ですか。委員の人達が理解してくれるといいんですがね」

中原は聞いた。

 「ねえ。みんなは、どうして無制限がいいと言っているのですか?」

 「それは、読みたい本が沢山あるのに、図書館が一方的に、あなたが読めるのは、これだけですよと制限するのは、見方によっては、読書の喜びを味わおうとする図書館の利用者の幸福を、悪い言葉ですが、剥奪することになるのではないかと……。だったら読みたいだけの本を、家に持って帰って、家でゆっくり心ゆくまで読んでもらうことが、ほんとうの幸せじやないかと思ったのです」

中原は、司書たちの優しい考えに、心を動かされた。よくこんなに優しい司書たちが集まってくれたと思う。それに引き換え、今の今まで気がつかなかった自分を恥じた。

確かに司書たちの言うとおりなのだ。

戦後しばらく、図書館業務の主体は、今日と違って館内での閲覧が主体であり、館外に貸し出す制度は、ほんの例外を除いて、なかった。

だからその時代の図書館には、閲覧室に「カード目録ボックス」と「ずらり並んだ閲覧机」だけがあって、本は図書館利用者の目の届かないところにあった。つまり「書庫」内に本があったのだ。したがって図書館の利用者は、入館するときにもらう〈閲覧図書請求票〉(この名称は、各図書館によって違っていたが)を持って「カード目録ボックス」がある場所に行き、目的とする本を探してこの「票」に書名等を書いて係に渡す。係の職員は、その「票」を持って書庫の中に入り、「票」に書かれた本を探し当て、請求者、つまり利用者に渡す。利用者はその本を閲覧机で読む。

こんなシステムだったから、渡された本は、カードだけで選んでいるため、目的に合わない時があり、利用者は何度も本を請求しなければならず、不便さを味わったと思われる。ちなみに、この係員のことを「出納係」と称していた。

そのころの公共図書館の利用者は主に学生でレポートや論文を書くために使っていたようだ。もとより学生ばかりでなく、勤め人や自由業の人たちもいたが、図書館と言えばどうしても学生が中心だったことを思い出す。だから館内は、しわぶきひとつ聞こえない静寂さを保っていた。

昭和38年4月に日本図書館協会から刊行された『中小都市における公共図書館の運営』(通称『中小レポート』)は、日本の公共図書館の運営に歴史的な変革をもたらした。

それまでの公共図書館の運営は、本を書庫内に収納して利用者は館内で閲覧だけをするという方式だったが、それを改め、利用者が自由に手にとって本の内容を確認したうえ、必要な場合は館外貸し出しの手続きを経て、家でゆっくりと読むことができるという方式をとった。つまり、これまでの閲覧方式が貸出方式に方向転換したのだ。したがって、これまで本は書庫にあったが、閲覧室に書架を設置して、一部を除いてそこに本を配架して、利用者が自由に見ることができる方法をとったのである。このような開架方式をとった館外貸出制度が、公共図書館運営の主体となって今日まで続いている。

司書の中村が言うことの背景には、このような歴史があるのだ。だから家に読みたいだけの本を持って帰り、ゆっくりと読んでもらいたいと思っている。
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30冊の本の処理

30冊の本の処理

 久しぶりの40冊なので、元町スタバに行こうとしたが、出掛けるために1階に行ったら、未唯から「リクを病院に連れて行くから、車は使わないで」と言われた。未唯に言われて、断れるはずもなく、部屋での読書に切り替えた。

 なぜ、奥さんも未唯も車を持っているのに、私の車かというと、リクの毛で汚れてもいいのは、私の車ということらしい。11時に帰ってきたので、本を持って、サイゼリアへ。300円のハンバーグだけど、12冊終了。

 その後に、ほっと館で水中潜り、温泉の後にロビーで10冊。エアコンが効いている。だけど、またしても、老人がケータイで話し出した。本当に邪魔。後は意味もなく掛っているテレビの音声。

 その後に、部屋に戻って、10冊を処理。その後に、OCR作業に突入。13冊に及んでいる。これが首を絞めるのは分かっているけど、全てを知るためにはやむを得ない。
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