『日本的ナルシズムの罪』より 原発をめぐる曖昧なナルシシズム 総力戦の統治システム
原発事故の際、命懸けで被害を食い止めようとした原発作業員たちがいました。「国会事故調」の報告書はこの人々についてこう述べています。
「(当委員会の問いに対して)彼らが語ったのは、プラント運転を担う運転員としてのプロ意識と、家族の住む地元への愛着心であった。幸いこのような環境を経験せずに済んだほかの原子力発電所の運転員にも同じような気概があり、逆にそのような気概のある運転員の勇気と行動にも支えられ、危機にあった原子炉が冷温停止にまで導かれた事実は特筆すべきである」
報告書では、これと関連して、「原子炉事故の危険や恐怖が公知となった今、仮に次の原子炉事故が起こった場合にも、本事故と同水準の事故対応を期待できるのか」という懸念が表明されています。「そのような論題を真正面から議論するだけでも、原子力を継承する次の人材が確保できなくなるのではないか」という懸念の声が出ていたそうです。
福島の復興の前提は、原発の廃炉作業が安全に遂行されていくことです。作業に従事する人々はある程度の被ばくを覚悟で、厳しい労働条件のもとで作業を続けています。しかし、日本という国家にとってきわめて重要な廃炉作業の労務管理が、東京電力以下、何重もの下請けを介して行われています。このことが関連の書籍やマンガなどを通じて社会の関心を集めるようになっているのにもかかわらず、この問題について実行力のある介入が行われていません。
つうやイザナミの献身を受け取りながら、その隠された美しくはない姿が明らかになった時に、それから距離を取って拒絶した与ひょうやイザナギの姿を、私たちは反復しているのでしょうか。
多くの日本人の運命が、現在、福島第一原子力発電所で働く人々に依存しています。まずそのことを率直に認めて、その労に適切に報いることのできる体制が構築されなくてはなりません。現在の体制では適切なマネジメントが行われるのかどうかさえ疑わしく、どこか運任せのような無責任なものとなってしまわないか。そう危惧しています。
かつて原発推進は日本の国策であり、日本人の多くが「現実の否認」を含む「安全神話」を介して原発と結びついていた。それによって達成された経済は、政治・社会体制と一体となって、日本というコミュニティに「想像上の一体感」を成立させていました。それを美化・絶対化する精神性として「日本的ナルシシズム」が働いていました。
事故以降、原発推進派と反原発派の意見は二項対立のままで推移しています。前者は事故の影響を過小評価しようとし、後者はできる限りそれを過大評価しようとする。それは正反対の態度のようですが、どちらも現実を否認したまま、閉ざされた自分と意見を同じにする人々で作る狭いコミュニティ内部での議論を、外部に押し付けようとしているということでは同様です。「想像上の一体感の美化と理想化の維持、そのための現実と他者の排除」を目的としたナルシシズムの病理にとらわれているという意味で、議論はおよそ不毛なままです。
私が本書を通じて強く主張したいのは、日本においては原子力発電所が是か非かを判断する前提として、想像上の一体感に依存する精神性を克服して、責任を負える自我の能力が養われる必要があるということです。
二〇一五年十二月現在、避難生活を継続している人々が福島県だけで約五万八千人、全国では約十八万二千人。また震災関連死として認定されたのは、福島県だけで約二千人、全国で約三千四百人にのぼります。
震災関連死が福島県で宮城県や岩手県よりも多い状況には、やはり原発事故による避難生活の長期化や生活環境の激変が関与していると考えられます。「原発事故による被害は大してなかった」、「これまで通りのやり方で原発を推進しよう」というような主張は、あまりに強力な現実の否認に他なりません。
他方、気をつけなければならない罠が存在します。それは、日本社会への想像上の同一化を「すべて良い」として行っていたのを、今度は「すべて悪い」にひっくり返す否定的な同一化を行う精神病理です。第六章で説明したディスチミア親和型の問題とも関連しますが、反原発運動の一部にもそうした傾向が認められます。
つまり、「原発-電力会社-政府」という対象に、否定的な一体化を果たした精神が連想するのは、「被災地では放射線による健康被害が頻発しているのに、国がそれをすべて隠ぺいしている」というものです。
彼らは自分たちの「空想」を一方的に現地に投影し、現地で生活する人々が主体的な考えや努力を行う能力があることを認めません。現地で育児をしている人々を「子どもを放射線に被ばくさせている」と非難し、現実には観察されない健康被害を過大に喧伝することで、世間の人々の信頼を損なっているように見えます。
「国会事故調」の報告書には、次のような記述があります。
「運転員チームはファミリーと呼称され、プラント運転や訓練をともにしている。そのような日々の経験を通して、ファミリーとしての一体感と連帯感が醸成されていた。そのことが、プラント運転という平時から原子炉事故の危機という緊急時への激変にも対応し、事故回避に向けた作業に従事することができた一因であったと考えられる」
このような、想像上の一体感を基盤とした人と人のつながりを尊しとする日本人の精神性は、私の中にも染みついています。それが、震災後に南相馬市で生活することを私に決意させた一因であったようにも思います。
想像上の一体感やナルシシズムの問題は、このように取り扱われます。それを否定するところから始まって、未知の現実や他者に出会うことで修正され、ぐるっと回って元の所に戻ってくる、そのような循環をくり返して生きることです。
原発事故の影響を受ける土地に暮らすことは、自分自身にも息づく日本的ナルシシズムを修正する機会を与えてくれます。「放射線被ばくは危険か否か」という疑問に観念的な水準で判断しているだけでは、ここでの生活は成り立ちません。
実際に自分が生活する場所の空間線量を計測し、必要と判断すれば除染を行い、その上で外部被ばくについて評価する。身の回りにある食品の放射線量を計測し、内部被ばくについてもホールボディカウンターを用いて計測します。「放射性物質」という外部の現実とこのようにかかわる経験を持つことは、精神的には「自我の機能」を高めることにつながるのかもしれません。
原発事故の際、命懸けで被害を食い止めようとした原発作業員たちがいました。「国会事故調」の報告書はこの人々についてこう述べています。
「(当委員会の問いに対して)彼らが語ったのは、プラント運転を担う運転員としてのプロ意識と、家族の住む地元への愛着心であった。幸いこのような環境を経験せずに済んだほかの原子力発電所の運転員にも同じような気概があり、逆にそのような気概のある運転員の勇気と行動にも支えられ、危機にあった原子炉が冷温停止にまで導かれた事実は特筆すべきである」
報告書では、これと関連して、「原子炉事故の危険や恐怖が公知となった今、仮に次の原子炉事故が起こった場合にも、本事故と同水準の事故対応を期待できるのか」という懸念が表明されています。「そのような論題を真正面から議論するだけでも、原子力を継承する次の人材が確保できなくなるのではないか」という懸念の声が出ていたそうです。
福島の復興の前提は、原発の廃炉作業が安全に遂行されていくことです。作業に従事する人々はある程度の被ばくを覚悟で、厳しい労働条件のもとで作業を続けています。しかし、日本という国家にとってきわめて重要な廃炉作業の労務管理が、東京電力以下、何重もの下請けを介して行われています。このことが関連の書籍やマンガなどを通じて社会の関心を集めるようになっているのにもかかわらず、この問題について実行力のある介入が行われていません。
つうやイザナミの献身を受け取りながら、その隠された美しくはない姿が明らかになった時に、それから距離を取って拒絶した与ひょうやイザナギの姿を、私たちは反復しているのでしょうか。
多くの日本人の運命が、現在、福島第一原子力発電所で働く人々に依存しています。まずそのことを率直に認めて、その労に適切に報いることのできる体制が構築されなくてはなりません。現在の体制では適切なマネジメントが行われるのかどうかさえ疑わしく、どこか運任せのような無責任なものとなってしまわないか。そう危惧しています。
かつて原発推進は日本の国策であり、日本人の多くが「現実の否認」を含む「安全神話」を介して原発と結びついていた。それによって達成された経済は、政治・社会体制と一体となって、日本というコミュニティに「想像上の一体感」を成立させていました。それを美化・絶対化する精神性として「日本的ナルシシズム」が働いていました。
事故以降、原発推進派と反原発派の意見は二項対立のままで推移しています。前者は事故の影響を過小評価しようとし、後者はできる限りそれを過大評価しようとする。それは正反対の態度のようですが、どちらも現実を否認したまま、閉ざされた自分と意見を同じにする人々で作る狭いコミュニティ内部での議論を、外部に押し付けようとしているということでは同様です。「想像上の一体感の美化と理想化の維持、そのための現実と他者の排除」を目的としたナルシシズムの病理にとらわれているという意味で、議論はおよそ不毛なままです。
私が本書を通じて強く主張したいのは、日本においては原子力発電所が是か非かを判断する前提として、想像上の一体感に依存する精神性を克服して、責任を負える自我の能力が養われる必要があるということです。
二〇一五年十二月現在、避難生活を継続している人々が福島県だけで約五万八千人、全国では約十八万二千人。また震災関連死として認定されたのは、福島県だけで約二千人、全国で約三千四百人にのぼります。
震災関連死が福島県で宮城県や岩手県よりも多い状況には、やはり原発事故による避難生活の長期化や生活環境の激変が関与していると考えられます。「原発事故による被害は大してなかった」、「これまで通りのやり方で原発を推進しよう」というような主張は、あまりに強力な現実の否認に他なりません。
他方、気をつけなければならない罠が存在します。それは、日本社会への想像上の同一化を「すべて良い」として行っていたのを、今度は「すべて悪い」にひっくり返す否定的な同一化を行う精神病理です。第六章で説明したディスチミア親和型の問題とも関連しますが、反原発運動の一部にもそうした傾向が認められます。
つまり、「原発-電力会社-政府」という対象に、否定的な一体化を果たした精神が連想するのは、「被災地では放射線による健康被害が頻発しているのに、国がそれをすべて隠ぺいしている」というものです。
彼らは自分たちの「空想」を一方的に現地に投影し、現地で生活する人々が主体的な考えや努力を行う能力があることを認めません。現地で育児をしている人々を「子どもを放射線に被ばくさせている」と非難し、現実には観察されない健康被害を過大に喧伝することで、世間の人々の信頼を損なっているように見えます。
「国会事故調」の報告書には、次のような記述があります。
「運転員チームはファミリーと呼称され、プラント運転や訓練をともにしている。そのような日々の経験を通して、ファミリーとしての一体感と連帯感が醸成されていた。そのことが、プラント運転という平時から原子炉事故の危機という緊急時への激変にも対応し、事故回避に向けた作業に従事することができた一因であったと考えられる」
このような、想像上の一体感を基盤とした人と人のつながりを尊しとする日本人の精神性は、私の中にも染みついています。それが、震災後に南相馬市で生活することを私に決意させた一因であったようにも思います。
想像上の一体感やナルシシズムの問題は、このように取り扱われます。それを否定するところから始まって、未知の現実や他者に出会うことで修正され、ぐるっと回って元の所に戻ってくる、そのような循環をくり返して生きることです。
原発事故の影響を受ける土地に暮らすことは、自分自身にも息づく日本的ナルシシズムを修正する機会を与えてくれます。「放射線被ばくは危険か否か」という疑問に観念的な水準で判断しているだけでは、ここでの生活は成り立ちません。
実際に自分が生活する場所の空間線量を計測し、必要と判断すれば除染を行い、その上で外部被ばくについて評価する。身の回りにある食品の放射線量を計測し、内部被ばくについてもホールボディカウンターを用いて計測します。「放射性物質」という外部の現実とこのようにかかわる経験を持つことは、精神的には「自我の機能」を高めることにつながるのかもしれません。