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岡崎市と豊田市図書館の14冊

岡崎市図書館の2冊 

 みんな、読んだ本ばかりになっている。豊田市図書館とのダブりが多いのは、低予算かの性?

 115.4『実在論を立て直す

 319『ポスト西洋世界はどこに向かうのか

豊田市図書館の12冊

 7月22日 昨日、生まれた未唯の赤ちゃんを見に行っていたので、新刊書争奪戦には参加できず。未唯がおっぱいをあげていた。母親になるんだ!

 304『フォト・ジャーナリストの眼』長倉洋海さんの2012年の本。

 383.83『パスタでたどるイタリア史』

 311『国家を考えてみよう』

 377.9『ブラックバイトに騙されるな!』

 336.9『事件は帳簿で起きている』

 290.93『ネパール』ヒマラヤトレッキング 地球の歩き方

 302.23『シンガポールを知るための65章』

 596『ピーナッツバターの本』いろんな食べ方大発見! 毎日を笑顔にするとっておきレシピ

 017.4『高校図書館』生徒がつくる、司書がはぐくむ

 376.8『大学入試改革』海外と日本の現場から

 481.71『ヒトはどこまで進化するのか』

 114.2『死ってなんだろう。死はすべての終わりなの?』10代の哲学さんぽ
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未唯空間小項目再見直し 10.次の世界

多くの他人

 多くの人

  人が多い
  一人ひとり
  内なる世界
  仕組み

 生きている

  情報共有
  情報伝達
  存在の力
  集合和

 存在する

  意思の力
  ハイアラキー
  配置
  国を超える

 市民が変わる

  覚醒
  中間の存在
  状況把握
  意思融合

哲学が変わる

 変遷

  ソクラテス、デカルト
  ベンサム、ロック
  カント、ヘーゲル
  フッサール、ハイデガー

 存在の力

  意見
  ツール
  市民が主役
  高度サービス業

 歴史哲学

  ヘーゲル継承
  課題解決
  環境社会
  啓示

 自由と平等

  国家と自由
  消費者
  平等社会
  多様な世界

意識の変革

 個人の分化

  めざめる
  つながり
  シェア
  幸せになる

 ひろがる

  近傍
  中間の存在
  拡大
  希望

 地域の分化

  マーケティング
  コンパクト
  新しい行政
  市民活動

 地域主体

  配置
  コミュニティ
  地域インフラ
  シェア社会

配置から位相

 配置

  シェア
  コラボ
  ソーシャル
  マニュアル

 伝播

  共同体
  近傍
  いい町
  都市

 統合

  分配から配置
  地域から変革
  国家連携
  平和

 位相

  周縁から中核
  開かれた宇宙
  内なる世界
  個人と世界

変節点

 意思の力
  宗教
  カリスマ
  革命家
  意思の表れ

 進化

  民主主義
  空間認識
  先人の思い
  武器の進化

 歴史

  <今>
  共有意識
  新しい循環
  時間のコード化

 変節点

  宇宙の歴史
  人類を試す
  歴史が変わる
  多重宇宙

個人=超国家

 存在=無

  存在
  無は全て
  宇宙の配置
  無限次元と宇宙

 集合は点

  要望と企画
  集合は点
  全体は個
  中間の存在

 個人と組織

  国民国家と民族
  個人と超国家
  中間と超国家
  個人と中間

 個人=超国家

  様相
  ポータル
  地域インフラ
  直結

全てを知る

 未唯空間

  存在と無
  情報
  まとめる
  内なる世界

 未唯宇宙

  トポロジー表現
  共有意識
  全体理解
  位相化

 全てを知る

  歴史の進化
  立ち位置
  存在する偶然
  存在の力

 先に進む

  存在を確認
  問いて下さい
  山を下りる
  次の頂き

自己肯定

 私の世界

  数学・歴史・哲学
  用意された偶然
  先を知る
  絶対的存在

 宇宙の旅人

  多重宇宙
  内なる世界
  未唯宇宙
  未来方程式

 存在の無

  孤立と孤独
  存在と無の先
  真理を確認
  宇宙はある

 自己肯定

  大いなる意思
  存在と時間
  生まれきて
  どうでもいい
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第10章は未来の書


 BABYMETALは煽ることを余裕でかましている。こういう時代を変えていくのは、彼女なんでしょう。情けない大人とか男性を煽って方向つける.何しろ、彼女らの方がはるかに努力しているのは確か。

未来の書

 第10章は未来の書です。今の時代では早すぎます。もっと、混沌とした時点で生きてきます。ネットに置いて、タイムを超えます。

赤ん坊の顔を見に行った

 3時から出発と言うことで、恒例の新刊書漁りは止めて、病室へ。タブレットで写真を撮ったけど、あまり燃えないですね。この子だとテンションが上がらない。それよりも、母親になった未唯の方が撮りたかったけど、また、怒るからやめておいた。。

 6時くらいに図書館についたけど、少ない新刊書が更に無くなっていた。禿鷹どもが漁っていった。YAコーナーでの2012年の本なども集めても12冊です。昨日の岡崎図書館も2冊だったので、今週はOCR負荷はすくない。その分、美優空間詳細篇と1ヶ月分のブログの反映を行ないましょう。
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死のほんとうの顔

『死ってなんだろう。死はすべての終わりなの?』より

人間は、はるか昔から不死にあこがれてきた。死の中に自分たちの限界や不完全さを感じ、だからこそ死後に、永遠の命や生まれかわりをもとめた。そして、しばしば宗教がその答えをあたえてくれた。

いっぽう哲学者は、わたしたちの中に存在する不死のもの--「深く考えること」--を大切にすることによってもしくはだれもが死すべき運命だという事実に慣れることによって、死と折り合いをつけるべきだと考えた。

しかし、死はさけられないものだと言ってすませることなど、本当にできるのだろうか。自分の死も、世の中のいろいろな出来事のひとつにすぎないと、冷静に思えるものだろうか。どんなに理性にうったえても、どんなに死に慣れようと努力しても、ほかでもない自分自身の死を考えると、それはやはり心底恐ろしいものだ。

哲学者は死を理性でのりこえることを望んだ。しかしもしかしたら、死への恐怖は、それに反して、理性では、けっしてのりこえられないものではないだろうか。

だからこそわたしたちはできるだけ、死について考えないようにする。そして死が、たんに世界に起こるさまざまな出来事のひとつにすぎないと思おうとする。けれども、じつのところ「死」は、わたしたちにとってまさに「世界の終わり」なのだ。

ある年齢になれば、死は当然だが、ある年齢では早すぎると考えることがある。はたして、それは真実だろうか。その人が何歳であっても、死はいつも早すぎるもの。そこに人間と動物の大きなちがいがある。

人間以外の生き物にとって、寿命とは、自然からあたえられたものだ。そのあいだに、子どもを産んで、種を守る。子や卵を産むとすぐに死んでしまう生き物たちもいる。まるでそれがこの世に生まれた目的で、それをはたすと同時に命が尽きるとでもいうように。

しかし人間は、自分が存在する目的をすべてはたしたと、言い切れることはけっしてない。人間は何歳になっても成長できるし、新たな役割をはたすことができるから。それにくらべて、ほかの生き物は自分と同じ種の仲間とまったく同じ一生を送るだけだ。

おさない子どもや若者が年若くして亡くなるのは、あまりにひどく、残酷なことに思える。なぜならそれは、たくさんの可能性をもった命が、とつぜんにうばわれることだから。

とはいえ、どんな年代の人にとっても、死が未来のあらゆる可能性を断ち切ることに変わりはない。そのためローマ神話では、死は、命の糸を切るパルカという女神の姿で表現されている。

死は、どの年代にとっても早すぎるもの。人はいくつになっても、新しいものをつくりだしたり、目標をもったりやりたいことを見つけることができる。だからこそ死ぬ前に、思ったことをすべてなしとげることは、けっしてできないのだ。

生まれることと死ぬことは、わたしたちが人生でたったひとつ、いっさいコントロールできないことだ。たしかに死ぬ時期をおくらせたり、早めたりするのは可能だ。自殺をしたり、わざとめちゃくちゃな生活をしたりすれば、死を早めることはできるだろう。しかしわたしたち自身が、自分の好きなように「死ぬ」か「死なない」かをえらぶことはできない。

たとえば、だれかのかわりに犠牲になって、そのだれかの死をおくらせることはできても、自分がかわりに死ぬことで、その人を永遠に死ななくすることはできない。自分自身にも他人にも、死を「あたえる」ことは不可能だ。なぜなら人は、ひとりの例外もなく、いつか必ず死ぬ運命にあるのだから。できるのはせいぜい、死をいくらか早めたり、おそくしたりすることくらいだ。

死は絶対に逃れられないものだ。しかし、だからといって、それはただ恐ろしいだけのものだろうか。

人生が永遠につづくことを想像してみてほしい。人類はずっと不老不死の薬をさがしてきたが、じっさいそうなったら、たえられるだろうか。永遠に何も変わらず、同じことのくりかえし。やがて飽きて、いやになってしまうのではないか。わたしたちにとっていちばん大切な出来事は、たった一度しか起こらない事柄ではないだろうか。

ひとりの人間の人生は、ひとつの物語のようなもの。はじまりがあれば、終わりがある。かぎられた短い時間しか生きられないからこそ、人生に意味があるのではないか。

わたしたちは皆、ずっとこの世に存在していたわけではない。ある日、この世に生まれてきた。だからわたしたちの背後には、わたしたちが生きていない、過去のとてつもなく長い時間の積み重ねがある。そしてわたしたちの前にも、わたしたちが生きることのできない未来がずっとつづいている。そのふたつの膨大な広がりのあいだに、わたしたちの誕生と死がある。そう、わたしたちの人生があるのだ。

生きるためには生まれなくてはならないように、生きるためには死ななくてはならない。そこに死のもうひとつの顔があるのではないだろうか。恐ろしいだけではない、べつの顔が。

これからは死について、べつの考え方をしてみてはどうだろう。最大限に生きるために、いつかやってくる死をうけ入れる。もしかしたらこれこそが、死への恐怖をのりこえるたったひとつの方法かもしれない。

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リー・クアンユー シンガポール「建国の父」

『シンガポールを知るための65章』より

リー・クアンユー(Lee Kwan Yew)は1959年から1990年まで初代首相、その後は上級相、2004年からは閣僚顧問として2011年まで内閣にとどまり絶大な影響力を行使し続けた。1819年にシンガポールを「発見」してイギリス植民地とし、その発展の礎を築いたラッフルズを「建設の父」とするなら、独立時に「未来のない都市国家」といわれたシンガポールに今日の繁栄をもたらしたリー・クアンユーは、まぎれもなく「建国の父」「開発の父」であろう。

リーは1923年にシンガポールの裕福な客家商人の家に生まれた。すでに曾祖父の時代からシンガポールに住んでいる彼の家族は、早くから祖国中国との感情的な絆を断ちきり、英語を学んでイギリスの文化に慣れ親しんでいた。彼らのような華人は「海峡華人」と呼ばれていた。リーの父は、彼自身もそうであったように5人の子どもたちすべてに幼い頃から英語を学ばせ、とくに長男クアンユーには「イギリス人と同様になる」ことを強く希望していた。リー・クアンユーはラッフルズ・カレッジ(1928年に大学レベルの高等教育機関として設立され、1949年にマラヤ大学となる)に進み、日本のシンガポール占領によって学業を中断されたが、戦後、奨学金を得てケンブリッジ大学で法律を専攻して弁護士の資格を得、1949年に最優秀の成績でケンブリッジを卒業した。彼の妻クワァ・ゲォクチュー(2010年死去)もまたケンブリッジを最優秀で卒業している。

もっともこのように成績優秀であっても、彼のような英語教育を受けた人びと(英語派)は当時のシンガポールではほんの一握りのエリートであり、大多数の華人は華語教育を受けるか無教育で、祖国中国との感情的絆を強く保持していた(華語派)。彼のような大衆から遊離したエリートが短期間のうちに権力を握るには、すでに大衆的基盤を持つ既存の勢力と連携しなければならないことは明らかである。リーはいくつかの労働組合や華語学校の学生組織の顧問弁護士を引き受けて、彼らに接近した。「1954年のある日、私たちは華語派の世界と接触した。華校の学生は徴兵令に強く反対し、あちこちで警察と衝突し、逮捕され、裁判にかけられていた。私たちは華語派世界--バイタリティとダイナミズム、革命に満ち、過去30年にわたって共産党が働きかけ、成功を収めてきた世界--に橋を架けた」。リーは華語派世界の若者との出会いとその後の連携をこのように回想している。この頃、彼は幼い頃から慣れ親しんだ英語名ハリーを捨てた。華語派と連携するには英語名は邪魔になるという判断であろう。

彼も創始者の1人となった人民行動党は、リーに代表される英語派と華語派の連携した政党で、1954年に結成式典が開かれた。イギリスから内政自治権を獲得した1959年、初の総選挙が行われて人民行動党は圧勝し、リーは36歳の若さで首相となった。だがその直後からマラヤ連邦との統合問題をめぐって両者は分裂し、左派の華語派は野党を結成した。もっとも野党はイギリスから徹底的に弾圧され、シンガポールが独立した1965年には人民行動党は覇権を確立、リーは絶大な影響力を持つようになっていた。

彼は決して国民に親しまれるリーダーではない。常に「シンガポールの進むべき道」を指し示し、国民を強引に引っ張っていくタイプである。「何か正しいのかを決めるのはわれわれです。国民がどう思うのかを気にする必要はありません」--こう明言する彼は、天然資源はなく、マレーシアとの関係は最悪で、政治的には吹けば飛ぶような独立時の都市国家を生存・繁栄させるために、徹底した介入を国民生活に対して行い、批判勢力を「合法的に」封じ込めるための法を次々と制定し、民主主義よりも開発を優先する「開発体制」の典型といわれる社会を作り上げたのである。

彼を突き動かしたのは、強い危機意識である。シンガポールを沼地に建つ80階建てのビルになぞられ、「我々は非常に不安定な地域にある。積極的な意味で周囲の国々から差別化でき、自分を守ることのできる政府や国民がいなければ、シンガポールは存続できないだろう」「欧米の民主主義は必ずしもよい統治機構や安定、繁栄につながらない」と断言し、政治的な異論を受けつけなかった。

シンガポールが生き残り、「アジアNIESの優等生」として繁栄するようになっても、彼の権威主義的な政治手法はあまり変わっていない。2011年総選挙キャンペーン期間の終盤、リーは野党優勢といわれたグループ選挙区で「野党が勝利したら、この選挙区の人びとは5年間ずっと後悔して暮らすことになろう」と脅しめいた演説をして、ひんしゆくを買った。

法立から50年を迎える2015年3月、彼は91歳で死去した。国葬までの6日間、国会議事堂に安置された彼の棺に哀悼の意を捧げた人、あるいは全国各地に置かれた祭壇で手を合わせた人は、のべ140万人にものばった。シンガポールの4人に1人が訪れたことになる。長い列に何時間も並んで哀悼の意を捧げた人の中には、彼の統治のやり方を快く思っていない人も多かっただろう。しかし、小国シンガポールに繁栄と安定をもたらした人物として、人々はそれぞれの政治的立場を超えて、彼の存在には一目置いていた。140万もの人々は、「長い間ご苦労様でした」と彼に最後の別れを告げたのである。
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