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環境社会の実現

第9章の主題はサファイア活性

 第9章をサファイア活性にしようか。今までやってきたことから、サファイア循環という仮説ができました。その説明とそれを納得させるためのプロセスを示す。あわせて、サファイアだけで十分なのか、足りないモノは何かも考察します。

 循環という概念そのものが、歴史の中でどう活かされてきたのか、どうして、中途半端になってきたのか。それぞれの片鱗は至る所にあるけど、意識として見えない。それがあるとしたら、神の世界、ムスリムの世界。人間にはあまりにも大きくて見えない。

宇宙を想像する

 だけど、人間が宇宙を想像するように、創造することはたぶんできるでしょう。創造したところから現実なものとどう対応させていくのか、つなげていくのか。

 実現する時も同様で、地域で行なっているモノ・コトと積み上げで答えに至るのではなく、創造したモノとどうつなげていくのか、足りない部分をどのように補っていくのか。

 その前に足りないモノをどう認識するのか。特に分化したモノと統合するモノを常に考えていかないと行けない。

中間の場としてのコミュニティ

 メンバーとしての力とグループ全体の力とそれらが社会に及ぼす力。それらを分けて考えるところ。一つの地域インフラがあり、もう一つは中間の場としてのコミュニティが出てくる。

 最後のところは、全体をどう見ていくのか。それを「環境社会」としてみていく。それが一番、受け入れやすいでしょう。

環境社会の実現

 本来、その環境社会実現のために、NPOは作られているけど、皆、全体がどうなるかを意識せずに、仕事としてやっています。「仕事」は便利な言葉です。最後は家族を養うためとか、自分の世界とは別な世界に持って行く。仕事すればいいのか。

 自分の存在とどこに向かっているのかの認識がバラバラになっている。それをどうつなげるかが一体感であり、それが環境社会になっていく。それを認識したところで変わってくる。そこで問題になってくるのが、第9章と第10章の差別化です。第9章は答えではない。理論的なモノは第9章に持ってくるけど、プロセスのヒントに過ぎない。

ネットだけを見ている

 どうにもならない。ネットだけ見ています。テレビは見なくなった。余分なモノで一杯になっている。それも二つのグループ。乃木坂とベビメタル。

日本が太平洋戦に敗れた理由

 なぜ、日本は太平洋戦争に敗れたのか。その理由は簡単です。戦争したからです。憲法さえ、それを許さなければ、開戦しようがない。負けることはなかった。

 ではどうすればいいのか? 国際的な正義を求めればいい。その中には、自分たちが侵略しないことが求められる。

 侵略しても永続的にはならない。その土地に民族がある限り。民族をなくせばいいという発想は当然あります。古代のユダヤ人は追い出された。ラトビィア人はシベリアに追放された。ハンガリー人もアイルランド人はアメリカに向かった。

 そういったナチの発想です。ユダヤ人をマダガスカルに送り込もうとしたけど、スエズ運河は英軍に押さえられていた。それで断念した。では、ナチは正義か?
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豊田市図書館の28冊

588.55『ワインの知識とテイスティング』ビジュアルでわかる

726.5『イラストレーター 安西水丸』

116.3『『不思議の国のアリス』分析哲学』

123.83『完訳 論語』

220『図説 シルクロード文化史』

686.21『ニッポン 鉄道の旅68選』

302.57『ニカラグアを知るための55章』

192.53『熱狂する「神の国」アメリカ』大統領とキリスト教

493.76『生きるのが面倒くさい人』会費制パーソナリティ障害

164.31『世界を読み解くためのギリシャ・ローマ神話入門』

010.7『21世紀の図書館職員の養成』アメリカとオーストラリアを事例に

369.31『大災害の時代』未来の国難に備えて

775.4『ミュージカル史』

141.5『超一流のアイデア力』

210.3『日本書紀』古代史研究の最前線

382.11『モノから見たアイヌ文化史』

913.6『八月の六日間』

918.6『小松左京全集 大震災'95』

331.6『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性』世界システムの思想史

493.74『あなたのためなら死んでもいいわ』自分を見失う病「共依存」

498.3『水の飲みすぎが病気をつくる』体内の「水毒」を追い出す飲み方・食べ方・暮らし方

148.3『世界で通じる名づけBOOK』子どもにつけたい 外国語由来の名前

181.02『大乗仏教概論』

932.5『シェイクスピア』人生劇場の達人

914.6『玄冬の門』

378ヒガ『自閉症の僕がとびはねる理由』

378ヒガ『自閉症の僕がとびはねる理由2』

913.6『ヒポクラテスの誓い』
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「歴史とは何か」 進歩としての歴史

『歴史の見方』より 歴史家の姿勢 史学概論のテキストとしての『歴史とは何か』

歴史における因果関係

 カーの見解では、研究の広さと深さとを増すにしたがって、歴史家は「なぜ」という問題に対する回答をますます蓄積していく。実際、経済史、社会史、文化史、法制史の発達によって、歴史家が出せる回答の数は増大してきた。

 バートランド・ラッセルがいうように、「科学におけるすべての前身は、最初に見られた粗雑な一様性から私たちを引き離し、原因と結果とのより大きな分化へ、また、関係ありと認められた原因の範囲を絶えざる拡大へと導いて行くのである」。

 しかし歴史家は、その一方で、多様な解答を単純化しなければならない。特殊的な要因を、ある秩序と統一を導き入れるようなものにしなければならない。歴史家は、原因の多様化と単純化とを通して仕事を進める必要がある。

 カーは、決定論を取り上げる。彼によれば、決定論とは、すべての出来事には一つあるいは幾つかの原因があり、そのうちのあるものに変化がなければ、出来事に変化が生じることはあり得ないとする立場である。カーは、「人間の世界ではすべてのものが可能である」というポッパーの主張は無意味であるか間違っていると批判し、人間の行動は、どういう見地から見るかによって、自由でもあり、決定されてもいるという。

 さらに、歴史上の事件が発生したのは、「不可避的であった」というのは正確ではなく、「蓋然性が高かった」というべきである。歴史上の事件に対しては、合理的原因と偶然的原因を分けるべきであり、前者は他の国々、他の時代、他の条件にも適用できるので、有効か二般化が生み出されるのである。

 とはいえ、合理的な理由と偶発的理由を明確に分けることなど不可能であろう。このようにそもそも渾然一体としたものを二分することができるという発想こそ、カーが歴史という学問のもつ難しさを正確に理解していなかった証拠ではないかと思えてしまうのである。

進歩としての歴史

 続いてカーは、進歩としての歴史を取り上げる。

 ユダヤ教とキリスト教は、前方に終末という一つのゴールを設定し、目的論的歴史観を導入した。ゴールに達するということは、歴史の終わりを意味し、必然的に弁神論となる。

 ルネサンスになると、ゴールは現世化され、歴史的過程そのものに合理的性格があり、歴史は、地上における人間の状態の完成に向かう進歩であるという進歩史観が生まれた。そのため、歴史の過程に進歩を含めないわけにはいかなくなった。歴史は、獲得された技術が世代から世代へと伝達されるという意味での進歩を示すのである。

 進歩には明瞭な始まりや終わりはない。したがって、たとえばヘーゲルがプロイセン王国をもって進歩の終わりとし、マルクスがプロレタリア革命によって階級のない社会という究極の目的が達成されると信じたことは、誤りであったと、カーは言う。

 したがって、歴史の外に、歴史とは独立に、ある価値の絶対的基準を設けて、それで歴史上の事件を裁こうという試みは、非歴史的であるとして退けなければならない。

 客観的な歴史とは、歴史家自身が、完全な客観化は不可能だということを認識し、自分の見方を未来に投げ入れてみて、そこから過去に対して--その眼が自分の直接の状況によって完全に拘束されているような歴史家が到達し得るよりも--深さも永続性も勝っている洞察を獲得する能力を意味する。歴史とは、過去の諸事件と次第に現れてくる未来の諸目的とのあいだの対話というべきである。

 総じて、歴史は、人びとが行ったことの記録であって、行い損ねたことの記録ではなく、そのかぎりにおいて、歴史は否応なしに成功の物語となる。

 このようなカーの歴史観からは、敗者の姿が出てこない。しかし、勝者だけではなく、敗者もまた歴史に寄与したと考えるべきであろう。

広がる地平線

 カーは本書で、歴史とは絶えず進んでいく過程であり、歴史家もこの過程のなかを一緒に進むと主張してきた。

 カーの考えでは、二〇世紀中葉の世界は、一五~一六世紀に中世の世界が崩壊し、近代の世界の基礎が作られて以来の深くて激しい変化の過程にある。その変化は、一五~一六世紀に金融や商業を、のちには産業を基礎とする新しい階級に初めて権力を与えた社会革命に匹敵する、一つの社会革命である。

 カーによれば、近代世界における変化とは、人間の自己意識の発達にある。それは「人間が思惟および観察の主体であり客体である」としたデカルトにはじまる。

 一八世紀から現代までの代表的哲学者はヘーゲルとマルクスであった。ヘーゲルの学説は「革命の代数学」であったが、この方程式に数字を書き入れたのは、マルクスであった。マルクスは、世界は、人間の革命的なイニシアティヴに応じて合理的過程を辿って発展する法則によって支配されていると考えた。

 さらにフロイトも、理性に新しい広がりを加えた現代の大思想家であった。フロイトは理性の領域を拡大し、人間が自分を、したがって自分の環境を理解し統制する力を持っているとしたのである。

 マルクスとフロイトの著作が現れてから、歴史家は、自分を社会の外や歴史の外に超然として立つ個人として考える口実がなくなったと、カーは主張する。

 そして二〇世紀初頭、日本がヨーロッパの列強という輪の中に初めて仲間入りし、一九○五年の第一次ロシア革命の影響で、ペルシア、トルコ、中国に革命が起こった。そして厳密にはヨーロッパの内乱であった第一次世界大戦が、世界的影響を及ぼしたとする。

 いうなれば、ヨーロッパだけではなく、世界の歴史が重要になってきた。そのなかで、イギリスの大学は、残念ながら、英語以外の言語を知らぬ者が多いという点で明らかに間違った状況にあると、カーは言いたかったのではなかったか。

 とはいえ、カーはあくまでオプティミストであり、理性と進歩を信じ、それでも「世界は動く」と言ったのである。

 しかしそれは、あまりに楽観的とは言えないであろうか。われわれは、理性も進歩もあまり信じていないであろう。
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西洋の歴史 移民のヨーロッパ

『新しく学ぶ西洋の歴史』より EUと欧州統合の進展

EUと多様性の保持

 しかしながら、欧州連合条約の批准過程はスムーズではなかった。一九九二年六月に国民投票が行われたデンマークでは、約五万票差で反対派が勝利し、その影響を受けたフランスでの国民投票では僅差で賛成派が勝利したものの、イギリスでも庶民院で否決された。その後一九九二年一二月に市民権、通貨同盟、防衛、司法・内務協力の四つの分野で例外条項を設けたエディンバラ議定書が採択され、国民が要求する分野で統合の免除が認められるオプトーアウト(適用除外)が承認され、続いて行われたデンマークの国民投票でも賛成派が多数を占め、ようやく欧州連合条約は陽の目を見たのである。また、統合の進展に懐疑的な国民に対して、フランス大統領ミッテランが「諸地域からなるヨーロッパ」という理念を掲げて、統合は決して多様性を排除するものではないことを確認したのも、条約批准への危機感が生み出した産物であった。

 一九九〇年代のEUの大きな動きのひとつに、通貨統合がある。一九九八年五月一日にECB(欧州中央銀行)が発足し、翌年一月一日には単一通貨ユーロが導入され、国家の占有権である金融政策を統合し、またアイデンティティの象徴ともいえる通貨を共通化することになった。しかし他方で、一九九九年にユーロ導入を行った加盟国は一一カ国で、イギリス、スウェーデン、デンマーク、ギリシアはユーロ圏の域外にとどまった(ギリシアは二〇〇一年に導入)。この三国はとりわけ国民の中に統合への懐疑論が強い国であり、前述のオプト・アウトが採用されたのであった。

 一九九〇年代はEUにとって、旧社会主義国の加盟が二〇〇〇年代に想定される中で、西側諸国のみで統合の内容を検討し、進展させる最後の機会であった。一九九七年に調印されたアムステルダム条約(九九年に批准)では、「民主主義」を大きく掲げ、移民問題やEU市民権など人のレペルに関わる規定もなされて法律制定の範囲が広がった。共通外交安全保障政策もさらに進められ、一九七〇年にEEC加盟諸国の政府間レベルで導入されながら、統合体の公式の制度とはならなかったEPC(欧州政治協力)が掲げていた「国際協力、人権、民主主義、法の支配の促進」といったEUの価値観を世界に発信する体制の形成を㈲った。しかし、他方で加盟国や各地域は必ずしもEUの路線すべてに同意したわけではなく、EUの「民主主義」の内容に対しても、地域や民族の実情に沿わない一律の方針に対しては批判も存在する。それはその後二〇〇問年に採択されながら、いまだ批准が行われていない欧州憲法条約序文に「多様性の中の統一」を掲げざるをえなかった。

変わる「街の顔」

 今日のヨーロッパには、ヨーロッパの外部から来た多くの人々が住んでいる。地域によっては、「ヨーロッパ」とは思えないほど集まっているところもあり、それは「街の顔」を変えるほどである。彼らの中には社会的に上昇を遂げ、様々な分野で活躍するケースも増えてきたが、他方で底辺の労働に従事し、いわば社会を裏側から支える存在も数多い。しかも世界の貧富の格差が構造化されている中で、働く場を求めてヨーロッパに命をかけてやってくる者たちは、後を絶だないのが現状である。

高度経済成長と労働力需要

 非ヨーロッパ圏の労働者が急速に増えたのは、第二次世界大戦後のことである。日本が朝鮮戦争を大きな契機として高度経済成長を遂げたように。ヨーロッパの西側先進地域もマーシャル・プランを受けながら飛躍的な成長を成し遂げたが、そのための労働力は外国に依存せざるをえなかった。国内の離農者や出稼ぎ者でまかなえた日本とは、根本的に異なる点である。

 外国人労働者は、従来は南欧系や東欧系が多かったが、戦後は非ヨーロッパ系の比重が増していった。その出身地は国ごとに特色がある。英仏などは旧植民地帝国からが多く、イギリスではインドなど南アジア系、フランスでは北アフリカのイスラーム系が中心である。オランダではインドネシア系が群を抜く。かつてカリブ海に植民地をもって、大西洋奴隷交易に携わったこれらの国々では、奴隷を祖先にもつこの地域出身者も少なくない。また第一次世界大戦の敗北で植民地を奪われたドイツは、当時の外交関係からトルコ系が多くなっている。

 労働の場は普段は目に見えないが、非ヨーロッパ系の人々が社会一般で「可視化」されるのは、大きくは一九七〇年代の石油危機の前後から八〇年代のことである。長期の不況に陥ったヨーロッパ各国は、外来の労働者を制限するものの、失業しても帰国しなかった者たちは逆に家族を呼び寄せたために、かえって非ヨーロッパ系の住民は増加した。EUの進展も無関係ではない。域内の労働者の権利が保障されてきたことで、安価に使い棄てられる域外からの労働力が求められた面もあるからだ。従来は送り出し国だったイタリアやスペインなどの南欧にも、外国人労働者が増えたのは、単にアフリカからヨーロッパヘの通過点となっているからだけではない。

外国人労働力の規制から排外主義へ

 ただし、受け入れ国の外国人労働者への対処はもちろん一律ではない。例えばイギリスは旧帝国からの流入を防ごうと、すでに六〇年代から移民規制を法制化しているし、ドイツでも七〇年代初頭には外国人労働者を阻止する動きが起きている。外国人労働者の多くはイスラーム系であり、彼らへの忌避感は端的に「イスラーム嫌い」につながっている。「異質な」人々の増大は、ヨーロッパのアイデンティティそのものを揺るがしかねないという懸念もあいまって、八○年代以降は各地で急速に排外主義的な傾向が高まり、移民排斥を掲げる極右政党が勢力を伸ばした。

 近年では法的措置をとる国もある。フランスでは八○年代末から議論になってきたイスラームの標章であるスカーフが、二〇〇四年に「公の場における世俗性」の名の下に公立学校で禁止され、続いて女性の身を包むブルカも公道での着用が禁止された。スイスでは二〇〇九年、イスラーム寺院の尖塔であるミナレットの建設禁止が憲法に記された。二〇一一年七月には、多文化共存社会を作っていたように見えたノルウェーで、「反移民」を唱える青年が穏健な路線をとる政権政党を狙うテロを起こし、衝撃を与えた。こうした事態に危機感を覚える市民の連帯も進んでいるが、イスラーム嫌いは簡単には収まりそうもない。

「移民」とは誰か

 ところで、そもそも「移民」とはいったい誰なのだろうか。基本的には「外来の労働者」であるはずだが、現実には移民と聞くと、機械的に非ヨーロッパ系の存在に結びつける思考回路は、日本のみならずヨーロッパ現地でも顕著である。つまりヨーロッパ系だと必ずしも「移民」と捉えられるわけではないのに対し、非ヨーロッパ系だと居住国の国籍をもっていたとしても、移民(=外国人)と見なされる場合が少なくない。「移民」は中立の概念ではないという問題性を、認識しておく必要があるだろう。排外的な動きが各地で起きていることを考えれば、なおさらである。

 EUが拡大された今日、先進地域には後から加盟した束欧からの労働者の流入が増え、外国人労働者をめぐる状況はさらに混沌としてきている。折しも二〇一〇年末からアラブ地域で広範に起きた民主化のうねりは、政治の不安定さから人々をョーロッバヘとさらに流出させる結果ともなり、ヨーロッパ内の「移動の自由」が問い直される事態にもなっている。KUは共通の外川人政策の確定を目指してきたが、どこまで可能なのかは今後の課題である。
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西洋の歴史 市民社会とネイション

『新しく学ぶ西洋の歴史』より 東欧・南欧におけるナショナリズムの萌芽 一八四八年革命

市民社会

 「人権宣言」の革命性

  フランス革命の「人権宣言」は、正しくは「人間と市民の権利宣言」という表題をもっている。ヨーロッパ史で理解される「市民」とは、領主支配から独立した都市の住民のうち、都市に家屋をもち、家族と下僕を支配して、都市自治に参加することができる人々のことであった。公的な議論に参加し、決定を下すことのできる「市民としての権利」は、都市の家長の特権であった。都市だけではない。ポ上フンドでは、国家の公事に関わる権利が「市民権」として捉えられた。ここでは「市民権」の根拠となるのは、シュラフタ(貴族)身分の一員であることであり、いかにシュラフタの数が多かったとしても(その数は選挙法改正前のイギリスの議会選挙の有権者数に比肩しうる)、「貴族の共和国」への参加は特権として捉えることができる。

  他方、近世には二つのことを契機として「私人としての権利」の観念が発展した。ひとつは、宗教改革・宗教戦争を経て、信仰の自由が問題となったことである。宗教改革後、社会が宗派(カトリック、プロテスタント諸宗派)別に再編成される過程で、多くの人々が信仰のゆえに迫害されたり、亡命を余儀なくされたりした。そのため、信仰・良心の自由が、個人の内面的な権利として考えられるようになった。もうひとつは、商業活動の展開の中で、経済的利害を追求する人々が大きな役割を果たすようになっていったことである。この人々が最大限の富を獲得するためには、何よりも個人としての安全が確保され、私有財産が脅かされないことが重要であった。これらは、私人としての「奪われない権利」として構想された。

  「人間と市民の権利宣言」が革命的なのは、特権として定義されてきた公的事柄への参加の権利(市民の権利)と万人に認められる「私人としての権利」(人の権利)とを融合させ、人一般の権利から政治的共同体としての市民たちの社会を導き出した点にある。近代の市民社会は、さしあたり、そのような政治的共同体として定義することができる。

 市民社会の可能性

  一九世紀から現在まで、市民社会は、その境界を拡大し、かつてそこから排除された人々を包摂し続けてきた。労働者、女性、植民地をはじめとする異郷の出身者などである。しかし、市民社会は、公的な事柄に参加するための判断力と責任能力を備えた「自立した市民」を常に想定している。自立性をめぐる文明的表象は変化しても、そこには絶えず境界が生成されているのである。政治的共同体の意志決定を、市民の権利と自由という普遍的原理に基づいて構想することができるか否か、という問題は依然として解かれていない。それに加えて、大衆社会という状況を迎えた二〇世紀には、市民たちの公的なコミュニケーションははたして可能か、という問題も現れた。現代では、インターネットやSNSが新しい市民社会の圏域をひらく可能性が論じられている。市民社会をめぐる問いは、一八四八年革命を祖型として、現在も、世界史の中で問われ続けているのである。

ネイション

 ネイションの二つの側面

  近代のネイションは、共和国の場合には、国家の完全な主権者、立憲君主国であれば、君主と主権を分かちもつ政治的主体として捉えられる。フランス革命に際して、ネイションとは、「共通の法の下に暮らし、同じ立法機関で代表される同胞たちの集団」(シェイエス『第三身分とは何か』)と定義された。貴族の政治参加の特権が否定され、ネイションとは、身分的差異、宗派的分断を越えて、平等な市民たちが構成する政治的共同体と考えられたのである。ネイションが「国民」と訳されるのは、市民社会の政治的枠組みとしての性格を重視する場合である。

  他方、主権者としてのネイションに正統性を与えるのは、過去からの来歴であり、未来を担う文明性であった。そのような歴史的連続性を表現しようとする人は、ネイションを文化や歴史的経験を共有する共同体として考える。そのような場合、ネイションは「民族」と訳される。

 西欧型のネイションと東欧型のネイション?

  ネイションのそのような二つの側面は、長らく「市民的ネイション」、「民族的(文化的・言語的∵不イション)という二つの類型として考えられてきた。さらにその二つの類型をそれぞれヨーロッパの「西」と「東」に配置し、開放的・包括的な西欧のネイションと、排他的・閉鎖的な東欧のネイションに分ける議論もあった。第三共和政のフランスで、エルネストールナンは、ネイションを「日々の人民投票」である、と位置づけた。それは、政治的共同体としてのネイションヘの帰属は、市民たちの政治的合意によるものだという主張を端的に表現したものであった。

  ルナンは、普仏戦争によって、プロイセンがアルザストロレーヌ地方を領有したことを非難したが、それはそのようなネイション観に由来していた。その住民はゲルマン系のアルザス語を話すが、言語の共通性という自然な与件を根拠にこの地域をドイツに編入することは、ドイツ国家の文明史的な後進性を示している、というのである。それに対して、この地域の人々がフランス国民であったのは、フランスという政治的共同体を主体的に選び取った結果なのだ、とルナンは主張した。

  しかし、フランスで、フランス国民という政治的共同体への合意が成立したのは、第一にフランス語とフランス文化が当時のヨーロッパで「普遍的」な優位を誇っていたからであり、第二に、フランス国民の一員であることは植民地帝国の中心に位置することを意味したからであった。どちらの場合も、フランス国民の境界は、文明と未開の境界として機能していたから問題にならなかったにすぎない。他方、ドイツをはじめ、中・東欧地域でも、言語や文化は無媒介に国民を構成したわけではない。ここでは、政治的共同体への合意と参加を可能とするために、言語の標準化や国民文化の創造が行われたのである。どの言語を通じて、公的生活に参加し、どの国民文化によって、自己を社会的・政治的に定義するのかは、時として、極めて選択的であった。つまり、「東」と「西」のどちらの場合も、ネイションの市民的帰属の側面と、民族的表象の側面とは、表裏一体のものとして構成されたのである。

 「同胞たちの共同体」の境界

  さて、ヨーロッパ諸地域で、身分的・宗派的差別、隔離が法的に消滅するのは、フランス革命からロシア革命までの約一世紀の間のことである。それは、「同胞たちの共同体」としてのネイションが成立する前提条件だった。宗派をもとにひとつの身分を構成していたユダヤ教徒に対する差別法も、「長い一九世紀」を通じて次々と撤廃されていった。それまで、ユダヤ知識人の多くは熱心なネイション形成の擁護者であった。ネイションの一員、平等な市民の一人となることで、宗派の違いに由来する社会的差別が解消されるはずだったからである。ところが、市民としての解放が進むに伴って、宗派的差別に代わって、人種主義的な「ユダヤ人差別」が強まっていった。フランス第三共和政下で起こったドレフュス事件はそのことを明瞭に示していた。

  明治維新によって身分差別が廃止されたのが一八六八年のことだから、日本でのネイション形成は、ヨーロッパとほぽ同時代性をもっている。その日本でも、身分制、制度の廃止の後に、「」差別が深刻化していった。

  「同胞たちの共同体」として想像されるネイションは、少数者を生成し、排除するダイナミズムを通じて、構成員の平等を実体化しようとするのである。ネイションは、内側に階級、ジェンダー、地域、そして人種主義的な排除と階層化とを不断に進めながら構成される。帝国主義の時代を迎えて、人々の政治的動員が国家にとって不可欠のものとなるとともに、ヨーロッパ諸地域のネイション形成は新しい段階を迎えた。ネイション相互の競合、植民地諸地域との関係の中で、ネイションは、ますます凝集力を高め、かつ排除と階層化を複雑に深化させていくことになるだろう。
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イスラーム世界の宗教政治 脱イデオロギー型政治思想

『イスラーム世界の論じ方』より イスラーム世界の宗教政治 宗教政治を超えて--脱イデオにギー型政治思想 イブン・ハルドウーンの『歴史序説』

中世のイスラーム思想史においてイブン・ハルドゥーンは後継者を持ちえなかった。西洋の歴史哲学者や社会科学者による『歴史序説』への高い評価を経て、近代のイスラーム諸国において、近代化を推進する西洋的知識人や世俗化論者、あるいはイスラーム教の近代的な解釈の唱道者によって、イブン・ハルドゥーンの思想はいわば「逆輸入」の形で評価されることになった。そこには、イブン・ハルドゥーンの歴史社会論がイスラーム諸国の社会を対象化するための適切な枠組みや概念を提供しているという分析上の実際的な効用かあっただげでなく、「近代化か単なる西洋文明への追随ではなく、アラブ・イスラーム世界の知的伝統に根ざしたものである」という形の議論を行って近代化の推進を根拠づけるために、イブン・ハルドゥーンヘの高い評価か必要とされたという背景も認められよう。

トルコ共和国による政教分離政策の実施は、近代における脱イデオロギー型のイスラーム政治思想の最も顕著な発現と言えるか、トルコの事例はかなり例外的であり、西洋化・近代化の思想を内在化した軍部の存在とそれを率いるケマル・アタチュルクのカリスマ的指導、隣接する欧州への統合による「先進世界」への加盟という国民的コンセンサスの形成、といったトルコ固有の状況によってもたらされた面が大きい。多くのイスラーム諸国(特にアラブ諸国)では、脱イデオロギー型の政治思想が現実の政策に結実することは稀であり、少数の知識人による知的挑戦の課題となるにとどまっている。

近代のアラブ世界における脱イデオロギー型政治思想の嘆矢はアリー・アブドッラーズィク(一八八八-一九六六)である。アズハル大学で学んだウラマーであるアブドッラーズィクは、一九二五年に刊行した『イスラームと統治の諸原則』で、カリフ制はイスラーム教の規範に根拠を持たないと主張した。この書でアブドッラーズィクは、カリフ制が啓示法によって命じられているという命題の根拠を逐一批判し、次のように結論づける。

 カリフ制は宗教的官職と何ら関係がない。また法官職やその他の統治の諸官職や国家の諸機関も同様である。これらはみな純粋に政治的な官職であり、宗教とは無縁である。宗教はこれらに関知せず、否定せず、命じもせず禁じもしない。宗教はこれらのことをただわれわれに任せた。われわれは理性による判断や、諸民族の経験と照らし合わせ、政治の諸原則に依拠すればよいのである。

アブドッラーズィクの議論は、図のように宗教領域Rの外に独自の政治的領域pが存在する状況を認め、それを根拠にしてカリフ制の必要を否定した。これはカリフ制が宗教的規範によって命じられてはいない、という点についてのみ、論証を試みたものだったが、主流派のウラマーからは「政教分離」を意図したものとして非難を受けた。啓示法の及ばない領域が現実に存在することを認め、それが価値規範の上でも問題ではない、という主張をあからさまに行ったことが、図のようなウソマの理想秩序が依然として貫徹しているという、ウラマーがイデオロギー的政治思想を駆使して保持してきた擬制を揺るがすがゆえに、脅威として受け止められたものと言えよう。

アブドッラーズィクによる脱イデオロギー型の政治思想は、同じくアズハル大学で学んだウラマーのハーリド・ムハンマド。ハーリド(一九二〇-九六)が一九五〇年に刊行した『われわれはここから始める』におげる宗教運動やウラマー層の政治への介入に対する痛烈な批判と、完全な政教分離の主張によって、極限まで延伸させられた。しかしこれが著名なウラマーのムハンマド・ガザーリー(一九一七-九八)による『われわれはここから知る』をはじめとする批判を招くとともに、社会的な非難の対象となり、後にハーリド自身が自己批判を行うにいたる。

その後も、政治・経済・社会におけるイスラーム世界の広汎な立ち遅れが認識されることにより、その根底にある思想の分野での全面的な変革を主張する議論が、西洋化した知識人から継続的に提起されてきた。近年では、アルジェリア出身でフランスに拠点をおくムハンマド・アルクーン(一九二八-)、モロッコのアブドッラー・アラウィー(一九三三―、フランス語表記ではAbdallah Larouiアブダッラー・ラルイー)、同じくモロッコのムハンマド・アービド・アル=ジャービリー(一九三六-)による、古典や近現代のアラブ・イスラーム思想史の批判的解釈がこの系譜に属す。

しかしこういった知的営為は、国家による統治の手段や社会の安定化の要因としての宗教利用と、反体制勢力によるイスラーム主義思想の鼓吹やしばしば暴力的な手段を用いて行われるイスラーム原理主義の活動による社会的圧迫のもとで周辺化され、影響力を広く持ち得ないでいる。また、これらの穏健な思想的営為すらも、社会的な禁忌への抵触を回避するバランス感覚を常に働かせることによって辛うじてその存在を許されるという、きわめて不安定な立場にある。一九九〇年代以降には、脱イデオロギー的な政治思想の著作が越えてはならない一線を踏み越えたものと見なされて、公的な糾弾によって封殺されるとともに、その著者が脅迫や襲撃といった物理的な迫害を受ける事例が続発した。エジプトでは一九九二年にイスラーム原理主義組織の活動を強く批判していた政治評論家ファラグ・フーダ(一九四五-九二)が暗殺され、翌年にはアブー・ザイド事件が起こった。思想史家のナスル・ハーミドーアブー・ザイド(一九四三--)は、一九九二年に相次いで刊行した『イマーム・シャーフィイーと中道イデオロギーの成立』や『宗教言説批判』において、実証的な史料批判や言説批評の手法によってウラマーによる『コーラン』解釈とは別の現代的解釈を試みたが、これに対してイスラーム学の有力教授により背教の非難がなされ、そこからイスラーム主義の弁護士集団が、イスラーム教徒女性と非イスラーム教徒男性との結婚を禁じるイスラーム法の観点から、アブー・ザイド夫妻の離婚を要求する訴訟を起こすという事態に発展した。この訴えが認められ、一九九六年に破棄院(最高裁)で判決が確定したことにより、イスラーム原理主義組織の襲撃によって判決が「執行」されることまでも予想される事態となった。アブー・ザイド夫妻はこの間にオランダに亡命を余儀なくされた。

九・一一事件に対しても、それがイスラーム政治思想に持つ根拠について十分な検討や批判がなされず、むしろ「イスラーム教への不当な非難」をもっぱら論駁し、事件の原因をアメリカやイスラエルに一律に帰する議論が大勢を占め、アラブ世界やイスラーム世界側の思想的・社会的問題に関する問いかけはほとんど見られなかった。その後のアフガニスタン攻撃やイラク戦争によって欧米への批判が絶対的に正当化され、自己批判が途絶した思想状況下では、宗教政治の問題性を指摘し、その相対化を図る脱イデオロギー型政治思想の系譜には今後いっそうの困難が予想される。
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