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語られなかったアメリカ史 お得意様はナチス

『語られなかったアメリカ史』より ユダヤ人の一人ひとりの強制収容所への輸送費計算はパンチカードでやられていたのは有名な話。それでDB(ドイチェ・バーン)とつながった。

一九三三年一月にドイツ首相に指名されて以来、アドルフ・ヒトラーは、情け容赦なく自分に逆らう者を排除してきた。複数の政党からなる政府など、彼は望んでいなかった。川家社会卜義ドイツ労働片党、通称ナチスの一党独裁が確立された。

祖国ドイツヘの愛国心と献身にかこつけて、ヒトラーは共産主義者、ドイツ社会民主党員、労働運動のリーダーを投獄し、殺害しつづけた。

アメリカの新聞は、ドイツの現況とともに、拡大するユダヤ人排撃のプロパガンダや悪意に満ちたユダヤ人襲撃について報じた。

ナチスがもっとも力を入れていたのは、ドイツ国内で暮らす全ユダヤ人の身元を把握することだった。ユダヤ人は五二万三〇〇〇人で、ドイツ国民六七〇〇万人のうち、一‰にも満たなかった。ナチス党員はユダヤ人を見つけるため、彼らの集まるコミュニティ、礼拝堂、そして政府の国勢調査記録を調べた。

実はナチスは、簡単に人種別目録を作成できる機械を保有していた。アメリカーBMの図表作成用電算機、つまりパンチカード機である。コンピューターの前身とも言えるこの機械で、ナチスは一九三〇年度国勢調査の情報を作表化していたのだ。

IBMのモットーは「世界貿易による世界平和実現」

〝インターナショナル・ビジネス・マシーンズ〟の頭文字をとってIBMと改名されたこの会社は、アメリカ人トーマス・J・ワトソンに率いられていた。ワトソンのモットーは、「世界貿易による世界平和実現」だった。

IBMは、ドイツに子会社のデホマク社を有していた。一九三七年、ワトソンはヒトラーと面会した後、ベルリンで開催された国際商工会議所総会で、ヒトラーからの伝言として、平和メッセージを述べた。「戦争は起きません。戦争を望む国などないし、戦争をする余力のある国もないのです」

数日後、七五歳になったワトソンに、ヒトラーは誕生日プレゼントとして、星章付きドイツ鷲大十字勲章を授与した。IBMのパンチカード機に対する返礼だった。この機械は、ユダヤ人の居住地と身元の特定に、大いに貢献していた。ナチスは、ユダヤ人(jew)の頭文字Jを、ユダヤ人の身分証明書とパスポートに大きくスタンプした。

IBMのパンチカード機は、ユダヤ人のほか少数民族の殲滅というヒトラーの政策に、不可欠になっていた。大規模な強制収容所には、かならずこの機械が置かれていた。

トーマス・ワトソンはじめニューヨークに本部をもつアメリカの大企業の役員たちは、何も知らなかったのだろうか? IBMのドイツ子会社デホマク社が熱狂的なナチス派だということ、そして、自分たちの輸出している機械が大量殺戮のために使われているということに、本当に気づいていなかったのか? それとも、金もうけの方がはるかに大切だったのだろうか?

アメリカの資本主義精神は、ナチス支配下のドイツでも、変わることなく商売熱心だった。アメリカ企業はドイツでビジネスを拡張し、ナチスとの関係を強化して、富を蓄積していった。

一九三九年の第二次世界大戦勃発時以降も、フォード社とGMは引きつづきドイツの子会社を管理下に置き、その子会社にドイツの自動車業界を牛耳らせていた。彼らは、軍需物資製造用に工場設備を一新せよ、というナチス政府の命令にさえ応じた。

ところが、アメリカ政府が国内工場の設備刷新を求めてきた時には、フォード社もGMもこれを拒絶している。GM会長アルフレッド・P・スローンは、ドイツでの現地生産は「高利益だったからだ」と釈明した。そしてスローンが、ドイツの国内事情については「GMの経営陣が関知するところではない」とつっぱねたため、会社側はこの主張に従うようになった。

GM保有のドイツ自動車メーカー、オベル社は、経営拡大のチャンス到来と考えた。そこで、リュッセルスハイムにあった一・七五平方キロメートルのコンビナートを、ドイツ空軍の戦闘機製造工場へ改変して、JU‐88中距離爆撃機用の推進装置の五〇%を製造するようになった。また、世界初のジェット戦闘機メッサーシュミットME‐262の開発にも貢献した。この航空機は、アメリカのP‐510ムスタングより、時速にして一六〇キロも高速で飛行することが可能だった。さらには、何万台ものトラックも製造したが、これはヒトラーの電撃戦できわめて重要な役割を果たすことになる。

戦時中に、親会社フォード社は、ドイツの子会社フォード・ヴェルケ社の事実上の支配権は失った。しかしフォード・ヴェルケ社はナチスに兵器を供給し、近くのブーヘンワルト強制収容所から、収容者を徴発して働かせた。

一九九八年、元収容者のエルザ・イワノワが、戦時中ドイツのフォード社工場で強制労働させられたと、アメリカのフォード社を相手どって訴訟を起こした。アメリカの親会社は事情を知りながら強制労働でもうけていたのだ、と告発したのだ。

フォード・モーター社は、相当数の調査員と弁護士を雇い入れた。そして、当時のフォード社がナチスに協力したり、強制労働から利益をあげたりしたことはないと反論した。さらに、一九四一年一二月にアメリカが参戦した時、ほかのアメリカ企業と同じく、ナチス政権との契約は解消したと主張した。

しかし、終戦直後のアメリカ陸軍調査官ヘンリー・シュナイダーの報告書によると、フォード・ヴェルケ社は「ナチスの兵器庫」と呼ばれていたという。自動車業界研究者ブラッドフォード・スネルが、自動車業界に関する議会の調査で暴露したように、「自動車製造を世界的に独占していたGMとフォード社は、民主主義の軍隊はもちろん、ファシズムの軍隊にとっても、第一位の供給者」だったのである。

ほかの多くのアメリカ企業も、ナチスとの取引を継続していた。第二次世界大戦開戦時には、二五〇社のアメリカ企業が、四億五〇〇〇万ドル強に相当する資庶をドイツに所有しており、その約六〇%を上位一〇社が独占していた。そこには、スタングード・オイル(石油)、ウールワース(生活用品)、ITT(電話)、シンガー(ミシン)、インターナショナル・ハーベスター(農機具)、イーストマン・コグック(写真)、ジレット(かみそり)、コカコーラ、クラフト(食品)、ウェスティングハウス(電機)、ユナイテッド・フルーツ(食品)などの会社がふくまれていた。フォード社は一六位で、アメリカの投資総額の二%程度だった。トップはスタンダード・オイル社とGMで、それぞれ一四%と一二%を占めていた。

こうした企業の大半の代理人をつとめていたのが、大手法律事務所サリバン&クロムウェルである。この法律事務所のトップは、後の国務長官ジョン・フォスター・ダレスであり、パートナーは、後にCIA長官となる弟のアレン・ダレスだった。

クライアントには、一九三〇年スイスに設立された〝国際決済銀行〟も入っており、ドイツの戦争賠償金はそこからアメリカヘ流されていた。やがて国際決済銀行は、ヒトラーヘの融資を仲介するようになる。アメリカ参戦以降も、ナチスヘの金融サービスを継続し、一方、ナチスは戦争賠償金の代わりに、ヨーロッパで略奪してきた金塊の大半をこの銀行にプールするようになった。こうした資本移転によって、本来ならアメリカの対敵取引法で凍結されるはずの口座にあった資金を、ナチスは手中にすることができたのだ。

ニュルンベルグ裁判で、アメリカの財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、卑劣きわまりない銀行のやり方に肝をつぶし、同銀行の取締役一四人のうち、一二人は「ナチス党員か、ナチスに支配されている」と糾弾した。一九九八年には、大虐殺からの生還者が、国際決済銀行は、戦時に凍結された自分たちの休眠口座を保有していると主張し、この銀行を訴えた。
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