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歴史の分岐点 1944年シカゴ民主党全国大会

『語られなかったアメリカ史』より

党内ボスにとり立てられたトルーマン

 党内ボスの一人、石油成金のエドウィン・ポーレーは、民主党の財務部長だった。自分が政界入りしたのは、古い議員を買収するより、新人議員を当選させる方が安くつくことに気づいたからだ、とうそぶいたことがある。

 ポーレーほか党内ボスたちは、ヘンリー・ウォレスに代わる者の選出にひそかに着手した。候補者リストから選び出されたのは、ミズーリ州のぱっとしない上院議員ハリー・S・トルーマンだった。

 大統領にもなれる器だと判断して、トルーマンを選んだわけではない。きたるべき困難な時代において、アメリカと世界を牽引していく能力が備わっているかなど、ボスたちは少しも考えなかった。トルーマンにはほとんど敵がなく、もめごとを起こす心配もなさそうだったから選んだにすぎなかったのだ。

 一八八四年生まれのハリー・トルーマンは、ミズーリ州の農場で育った。子ども時代には、父親ジョン・〝ピーナッツ〟・トルーマンの愛情をえようともがいた。この父親は身長一六〇センチと小柄だったが、自分よりずっと大きな男をなぐり、自らのタフさを示そうとする人物だった。そして、タフさを息子たちにも求めたのだ。

 ところが少年ハリーは、俗に「平たい目玉」とも呼ばれる強度遠視と診断された。牛乳ビンの底のような分厚い眼鏡をかけることになったため、スポーツをしたり、ほかの少年とふざけ合ったりできなかった。「あんまりめちゃくちゃに遊ぶと、目玉が飛び出しそうな気がした」と彼は回想しいる。

 トルーマンはいじめられたり、からかわれたりして少年時代を過ごした。ひどいあだ名で呼ばれたり、放課後は家まで追いかけられたりもした。

 彼は家の貧しさにも苦しめられた。とても歴史好きな成績のよい子どもだったが、経済的な理由から大学へは進めなかった。また目が悪いため、陸軍士官学校へも入れなかった。

 高校卒業後、しばらく職を転々としたが、結局父親の農場で働くようになった。三度、事業をおこそうとして失敗し、一九一七年、州兵軍に入隊。第一次世界大戦に従軍して、フランスで数々の戦闘を果敢に戦い抜き、大尉にまで昇進した。

 三五歳で、五年生の時からの幼なじみベスと結婚した。「彼女は金髪の巻き毛で……美しいブルーの瞳の持ち主だった」トルーマンは回顧録に書いている。ある身内によると「世界中でハリーに合う女性は彼女しかいなかった」そうだ。

 三年後の一九二二年、自ら立ちあげた紳士物洋品店が倒産した。またまた事業に失敗し、三八歳のトルーマンには、養っていく妻と暗い先行きしか残っていなかった。

 そんなどん底の時期に、彼は民主党のボスの一人トム・ペングーガストと出会い、ジャクソン郡の郡政執行官に立候補しないかともちかけられたのだ。ペンダーガストは労働者に仕事を斡旋したり、選挙運動を陰で操ったりしながら私腹を肥やしてきた男だった。

 選挙運動中、ミズーリ州の田舎にはびこる差別意識にどっぷり染まっているトルーマンは、票集めをしようと、クー・クラックス・クランに入会金一〇ドルの小切手を送った。しかし、当選してもカトリック教徒は雇用しない、という誓約を立てられなかったため、加入できなかった。頑迷なプロテスタント集団であるクー・クラックス・クランは、ユダヤ人や黒人と同じく、カトリック教徒も憎悪していたのだ。

 一九二〇年代から三〇年代まで、トルーマンは、腐れ切ったペングーガストの派閥で忠義に働いていたが、見通しは暗いと感じていた。一九三三年、四九歳の誕生日前夜には、「明日には四九歳になるのに、まともなことは何もやってこなかった。四〇歳分は差し引きたいぐらいだ」と書いている。

 翌年、田舎の派閥政治にうんざりして、農場へ帰ることを真剣に考えていた時、ペンダーガストからいきなり上院議員候補に抜擢されたのだ。ベングーガストがすでに四人に誘いをかけてすべて断られていたことを、トルーマンは知らなかった。

 トルーマンの選挙運動は、すべてベンダーガストによって仕切られた。なぜトルーマンのような何の変哲もない者を選んだのかと問われて、ペンダーガストはこう答えたという。「よく油をさした派閥だったら、使い走りだって連邦議会へ送り出せるということを証明したかったのだ」

 上院議員一期目には、「ペングーガストの息がかかった奴」として、トルーマンは同じ新人議員に嘲笑され、敬遠された。それでも少しでも認められようと、ワシントンでは懸命に働いた。

 しかし、二期目は落選の憂き目にあいかけた。一九三九年、不正な取引があばかれて、ペングーガストが脱税で投獄されたのだ。トルーマンは後ろ盾を失った。一九四〇年、再選めざして立候補したが、ローズヴェルトも力を貸してくれず、指名を拒否された。ボスは投獄されているし、大統領からは支持がえられず、民主党の予備選では三位だった。そこで、トルーマンはミズーリ州のもう一つの派閥に助けを求めた。セントルイスのハネガン・ディックマン派閥である。こうして彼は、紙一重の差でからくも再選を果たした。

一九四四年シカゴ民主党大会

 民主党のボスたちはウォレス排除をねらっていたが、アメリカ国民は、はるかにまともな判断力をもっていた。ギャラップ社が副大統領候補には誰を望むかを、民主党選挙人候補者に尋ねると、六五%がヘンリー・ウォレスと答えた。ウォレスが唱えたように、国民は、二〇世紀は「人々の世紀」であるべきだと思っていたのだ。

 またアメリカ国民は、サウスカロライナ州選出の人種差別主義者ジェームズ・バーンズをはっきりと拒絶していた。バーンズは、後に大統領に昇格するトルーマンに、有害な情報を与えることになる人物だ。調査では、三%しか獲得できなかった。

 ところが、トルーマンの得票率はもっと低かった。八人の副大統領候補中の最下位で、わずか二%だったのだ。

 健康状態の悪化で生命力を使い果たしつつあったローズヴェルトは、副大統領候補指名を党内ボスにゆだねた。四年前のように、ウォレスのために戦う気力も体力もすでになかった。ローズヴェルトは、自分が代議員だったらウォレスに投票する、と表明しただけだった。

 一九四四年七月のシカゴ民主党全国大会は、党内ボスによってがっちりと仕切られることになった。ところが、下っ端の民主党員が反乱を起こしたのだ。シカゴ・スタジアムの議場内で、彼らはウォレスの名を大声で連呼しながら、デモ行進をはじめた。そんな大騒ぎのさなか、フロリダ州選出の上院議員クロード・ペパーはふと気づいた。もしも今夜自分が、副大統領候補にはウォレスを指名すると動議を出せば、ウォレスはこの大会で圧勝し、再び副大統領候補になれるではないか。

 デモ行進がつづく中、ペパーは躍りあがって人波をかき分けた。あと一五〇センチで、壇上のマイクに手が届く。そうしたら、副大統領候補にはウォレス、と叫べばいいのだ。

 その時、ボスの一人であるシカゴ市長エド・ケリーが、ベパーを見とがめた。あいつにマイクを握らせて、ここまで積みあげてきた裏工作を台無しにさせるわけにはいかない。ペパーを止めなければ。

 そこでケリーは、大会議長である上院議員サミュエル・ジャクソンに向かって叫んだ。デモのせいで火事になる危険がある、ただちに延会せよ、と求めたのだ。

 議長ジャクソンが、代議員に延会動議の是非を問うた。賛成したのはほんの一握りで、圧倒的大多数がノーを叫んだ。しかしジャクソンは、延会動議可決と宣言し、小槌をたたいてその日の会議を終了させた。

 むろん、火災の恐れなどなかった。ウォレスを指名させないための策略だった。翌日、議長ジャクソンはペパーに謝罪した。「もしも君が動議を提出していれば、党大会はヘンリー・ウォレスを指名したろう。しかし昨夜私は、ウォレスを指名させるな、ときつく指示されていたのだ。わかってくれたまえ」

  「私にわかったのは」ペパーは後に自伝に書いている。「よかれあしかれ、歴史が引っくり返されたということだ、あの夜、シカゴで」

 翌日、副大統領候補指名の投票が行われた。一回目の投票では、ウォレスが断然リードしていた。ところが、ボスたちは投票所のドアをしめ、それ以上代議員が入室できないようにした。そして、トルーマンに投票すれば、さまざまな大使や郵便局長の座、その他うまみのある地位を提供しようと、中にいる代議員を籠絡しはじめた。現金も飛びかった。

 ボスたちは、全州の代議員団委員長へ電話攻勢をかけ、ローズヴェルト本人が副大統領候補にはミズーリ州選出の上院議員を望んでいるので、よろしく頼むと告げた。

 三回目の投票で、ようやくトルーマンが勝利した。

 もしもあの夜、ボスたちが強引に延会させる前に、ペパーがマイクを握り締め、ヘンリー・ウォレスを指名していたら、間違いなくウォレスが副大統領候補になっていただろう。もしもそうだったら、ローズヴェルトが亡くなった一九四五年四月、大統領へ昇格したのはウォレスだったはずだ。ペパーの手がマイクに届いていれば、歴史は劇的に変わっていたかもしれない。ひょっとすると、原爆投下も核開発競争も、そして冷戦もなかったかもしれないのだ。
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