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クリチバといぅ都市の「奇跡」

『ブラジルの環境都市を創った日本人』より

筆者は、この南米における都市計画の優等生であるクリチバに二〇年くらい前から、強烈な関心を抱いてきた。そのきっかけは、筆者がアメリカの大学院で都市計画を勉強していたときに訪れた。というのも、多くの先生が優れた都市計画を実践した都市の事例として、この南米の都市クリチバを取り上げたからであった。まさに、九〇年代前半、アメリカの私が通っていた大学院の都市計画学科では、クリチバが最新事例であったのだ。そのような現象を「クリチバを知らずして都市計画を語るべからず」とまで表現する者までいた。筆者は、そのような状況に面食らった。なぜなら、アメリカの都市計画制度を学ぼうと渡米したにもかかわらず、そのアメリカの大学院では、アメリカの都市の事例ではなくブラジルの都市ばかりをモデル都市、模範都市として講義していたからである。こんなことなら、アメリカではなくブラジルに行けばよかった、とさえ思わされた。そのようなこともあり、アメリカから帰国した翌年、クリチバを訪れることにした。雑誌の取材を兼ねて行ったこともあり、当時のタニグチ市長へ面会し、取材することもできた。そこでクリチバの数々の政策を詳しく聞くことで、アメリカの大学院で教わったことは決して大げさではなく事実であったこと、いやむしろ、詳しく知れば知るほど、その政策の背景にある都市計画がきわめて秀でた考えに基づいていること、そしてなによりそれを遂行する市役所の組織としての不退転の覚悟と、機を見るに敏な柔軟性におおいなる感銘を覚えた。この最初のクリチハ行きをきっかけとし、それからたびたび、この都市を訪れ、その研究を重ね、二〇〇四年には『人間都市クリチバ--環境・交通・福祉・土地利用を統合したまちづくり』(学芸出版社、二〇〇四年)という本を出版した。

クリチバのどこが、それほど傑出しているのか。クリチバはパラナ州の州都ではあったが、一九七〇年くらいまでは、ブラジル国内でもユニークな都市としては認識されていなかった。どちらかというと、凡庸で面白くない都市としてのイメージを抱かれていたようだ。しかし、一九六〇年ごろから人口が急増していくなか、一九七一年に三三歳という若さで市長となったジャイメ・レルネルに率いられ、クリチバは革新的な政策を次々と実践していく。まず、都心の中心道路から自動車を追放し、歩行者専用道路にしてしまった。道路に面した商店主は全員が反対したが、商店主が不在の連休の間隙をついて、道路の舗装をはがし、自動車が走行できないようにしてしまう。連休から戻ってきた商店主の怒りはすさまじかったが、一ヶ月ほど経つと、商店の売上げが以前より何倍も増え、商店主はレルネルが正しかったことを知る。そして周辺の商店街も歩行者専用道路にして欲しいと請願し、現在の「花通り」と呼ばれる、人々と賑わいにあふれる歩行者専用道路がつくられた。

都市構造に関しては、交通計画と土地利用計画の整合性をはかった。都市政策において重要な点は「公共性」を豊かにすることであるとの信念のもと、公共交通(バス)に重点を置き、都心から放射状に四つの都市成長軸を設け、そこに公共交通の幹線ネットワークを整備し、その軸に沿って高密度の開発を促し、それ以外の地区は開発規制をしたメリハリのある土地利用計画を図った。高密度開発されている場所は公共交通の利便性を高くし、利用者の便を図ると同時に、公共交通事業者にとっては停留所周辺の利用者を多くするといった経営上のメリットを提供した。そして自家用車ではなく公共交通を利用させることによって、移動で消費するエネルギーを減らすことにも貢献したのである。

無秩序な郊外開発、そしてファベラ(スラム)による土地占有を事前に防ぐために、河川周辺を緑地空間として確保し、グリーンベルトを整備し、氾濫対策とすると同時に、良好なオープンスペースを市民に提供することにも取り組んだ。その結果、クリチバ市は全市域の一八%が緑地で、街路樹を除いた人口当たりの緑地は四九・という豊かな生活空間を実現する。ただし、緑地の急増は維持管理費の不足を招いた。そこで、市の職員が出した対応策が、人間ではなくて羊に芝を刈らせるというものであった。羊は糞をするので肥料代の節約にもなり、維持管理費の八割が削減できた。

レルネルが三期目の市長を務めた一九八九年以降は、環境都市をめざし、市民の責任感を醸成して、市民の積極的な参加を促し、ローコストで問題を解決させる環境政策に取り組んだ。たとえば、ごみの分別教育の対象を大人ではなくて小学生に絞り、小学校の授業の一環で分別の効果等を教え、ブラジルでは特筆すべき高いリサイクル率を達成する。また、ごみの回収車が入れないファベラ地区でのごみ収集では、近郊農村が余剰農作物の処分で困っていたことと一挙両得的に解決するため、市が適正価格でこれら余剰農作物を買い取り、それをスラム地区の住民が収集し、回収車が入れる場所にまで運んだごみと交換した。これによって、クリチバ市のスラム地区のごみは一掃され、スラム住民の生活も向上した。

クリチバ市は決して豊かではなく、予算もない。しかし、予算の少なさを知恵と市民とのしっかりとしたコミュニケーションを図ることで多くの都市政策、環境政策を成功に導いたことは世界じゆうを驚かせた。というのは、多くの都市は、しっかりとした都市政策・環境政策が実践できない言い訳を「予算不足」にするからである。まさにクリチバは、都市をよくするために必要なものはお金ではなく、知恵とそれをよくしようとする意志であることを広く知らしめたのである。そしてそれは都市計画、行政の勝利とでも形容すべき事例であった。
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なぜ西洋が支配しているのか…… 夜来たる

『人類5万年文明の興亡』より

しかし、そうなる可能性もなかった。西洋が支配する前に世界が「夜来たる」に最も近い状態になったのは紀元前一万八〇〇年頃で、巨大な氷湖が北大西洋に流れ出し、メキシコ湾流を止めるほど気温を下げた。その後の一二○○年に及ぶ短い氷河期はヤンガードリアス期として知られ、社会の発展を中断させ、「河沿いの丘陵地帯」での定住村落生活と初期農耕の最初の実験を突然終わらせた。ヤンガードリアス期に比べれば、その後のあらゆる寒冷化はセーターを着ればすむ程度のものに思える。

過去数千年間のどの時代であっても、ヤンガードリアス期ほどの規模の出来事の影響は考えるのも恐ろしいほどだ。世界の収穫高は毎年下降しただろう。何億人もが飢死したに違いない。大量移住によってヨーロッパも北アメリカも中央アジアも空っぽになっただろう。その結果生じた戦争や国家の失策、疫病は歴史に残るすべてを倭小化しただろう。まるで黙示録の五人の騎士が馬を戦車と交換したかのようだ。縮こまった人々は震えながら「幸運な緯度帯」の周辺に村落を作り、雨を乞い、乾燥した土壌からささやかな糧を得ていたかもしれない。社会発展は、何千年もの問、グラフから消え去っていただろう。

ほかにも「夜来たる」的な道は想像できる。神経質な天文学者たちは、直径一、ニキロメートルの小惑星が地球にぶつかったなら、その衝撃は一〇〇〇億トンのTNT爆弾が一度に爆発したのと同じだろうと計算している。これをどれほど悲惨と見るかは意見が分かれるかもしれない。一時的に上空が埃で覆われ、太陽の光をさえぎり、大勢の人々が飢えるはずだ。酸化窒素が放出され、オゾン層を希薄にし、生き残った人たちを危険な太陽光線にさらすかもしれない。一方、直径三キロメートルの小惑星の衝撃は簡単に想像できる。TNT二兆トンの爆発に等しく、人類は絶滅するだろう。

うれしいことに、こういった隕石は私たちの道には置かれていない。したがって、どれほど悲惨かを推測して憂鬱な気分になってみてもあまり意味はない。小惑星の衝突や氷河時代は戦争や文化とは異なる。それらは人間の手の届かないものだ(最近まではそうだった、と言うべきだろう)。へまな愚か者も文化的趨勢も偶発的な出来事も、その後の歳月の中でメキシコ湾流を止めるほどの冷たい水を出現させることはなかった。つまり新たなヤンガードリアス期は到来せず、最も悲観的な天文学者でも、私たちが直径数キロメートルの小惑星と衝突するのは数十万年に一度のことだと考えている。


事実、へまな愚か者たちが、歴史のどこかの時点で「夜来たる」瞬間をもたらしたことはほとんどない。最も悲惨な戦争である二〇世紀の世界大戦も、すでに進んでいた道筋を確認したにすぎなかった。産業コアを持つ新たな種類の亜大陸帝国、アメリカ合衆国は、一九〇〇年にすでに西ヨーロッパの海洋帝国に挑戦しようとしていた。「世界の戦争」は、誰が西ヨーロッパ人と交代するかを見極めるための闘争だったと言える。アメリカか、一九三〇年代に急速に産業化を遂げたソ連か。一九四〇年代に亜大陸帝国を征覇しようとしたドイツか。東洋では、一九三〇年代から四〇年代に日本が亜大陸帝国の征覇と産業化を試み、西洋を追い払おうとした。日本がそれに失敗すると、中国はすでに持っていた亜大陸帝国を、一九五〇年代から六〇年代には悲惨なほど、一九八〇年代以降は華々しく、産業化している。特にアフリカからインドシナ半島にいたるナショナリズムの台頭、それら挑戦者と比べて西ヨーロッパの人口と産業が減少傾向にあることを考えると、ヨーロッパの海洋帝国がこういった競争に勝ち抜けたとは考えにくい。

ヨーロッパの大国が一九一四年と三九年に自らを崖っぷちに追い込まなければ、海洋帝国は確実にもっと長続きしていただろう。アメリカが一九二九年に国際社会での責任から逃げなければ、海洋帝国はもっと早く破綻していたかもしれない。ヒトラーがチャーチルとスターリンを破っていたならおそらく違っていただろう。いや、違わないのかもしれない。ロバート・ハリスの小説『ファーザーランド』はこれを見事に描いている。一九六四年、ドイツで殺人事件が起こる。すぐに明らかになるのだが、このドイツは第二次世界大戦で勝利したドイツなのだ。すべてが現実とは不気味に異なる。ヒトラーはヨーロッパのユダヤ人の多くではなく全員を殺していた。建築家のアルバート・シュペーアは、ヒトラーの夢の実現のためにベルリンを再建する。パリのシャンゼリゼ通りの二倍の長さのヴィクトリー通りは世界最大のビルにつながり、その高くて雨雲を突き抜けるほどのドームで総統は演説する。ところが物語はやがてどこかで見聞きしたような展開を見せる。東ヨーロッパの巨大で倒れそうな全体主義帝国とアメリカとの間では冷戦が続き、二つの帝国は核ミサイルの背後からにらみ合い、代理戦争を戦い、第三世界の傀儡国を操り、デタントヘとじわじわと進む。結局のところ、現実とそれほど変わらない。
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味方は現れます!

路上でのパートナーからの相談

 帰宅時にバス停から歩いている時に、パートナーからメールがあった。「今年に入り、限界だと思うのは何度目かな? 何故こんなふうになってしまったのか」

 その後に、電話が入って、道路脇で話し込んでいた。クルマはやかましくて、聞こえない。その内、バッテリーがなくなり、音声が落ちてきた。結局、寸断を含めて、30分話していた。

 私としては、あのおちょこちょいをどう使っていくのかを真剣に考えることにした。そうすれば、また、味方は現れます。やりたいこと、言いたいことを言って、突破すればいい。最悪でも、それで変われます。

 頼りになる人がいないのであれば、全てを自分たちでやればいい。言いたいことを言えばいい。一番重要なのはそこです。

強力だった私の味方

 研究開発部署の時には、八重樫さんと田上さんという強力なメンバーが私の味方になりました。これは外に対しては、絶対的な力です。重役のゼロベースは戻しました。彼らからねじ込まれたら、絶対にノーとは言えない。何しろ、信頼している部下なのですから。

 両名とも、ハイブリッド初期メンバーです。ゼロから作り上げました。

 研究開発部署は、私のような宇宙人に任せたものです。仕事を知っているかどうか、そんなことは関係ないです。思いがあるかどうか、イメージができているかどうか。

 パートナーは、取りあえず、リニューアルのプロジェクトを立ち上げることです。ここに意志があることを示します。

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環境変動との相克

『ヒューマン』より なぜいまヒューマンなのか

私たちの祖先の歴史で、節目として環境問題が据えられていたことに気づかれたことだろう。第1章の乾燥化やトバ火山の噴火、第2章の氷期、第3章の温暖化による大洪水、そして第4章は人類自らが招いた環境問題だ。このように今回の企画では毎回、過去に祖先たちを襲った環境変動を取り上げることにした。そして、その危機を乗り越えるために祖先たちが成し遂げた飛躍を追いかけるというのが、番組の基本的な骨格となっていた。

これは企画を通すための戦略という面もあったが、人類史の取材を続けていったなかで、次第に確固としていった実感でもある。私たちの歴史とはある意味、確かに地球の環境変動との相克なのだ。

私たちの歩みと地球環境の関係をもっとも象徴的に、劇的に教えてくれるのは、グリーンランドの氷床コアから得られた最近10万年間の気温データだろう。

氷床コアといりのは、グリーンランドや南極の大地にどかんと載っかっている巨大な氷の塊を筒状にくり抜いたものだ。この氷、毎年降った雪が押し固められたもので、そのときの大気成分や塵が取り込まれている。それを解析すると、当時の気温などが分かるのだ。氷床コアは毎年の雪が降り積もったものなので、解析はかなり高精度にできる。この解析が進むまで、気候変動は数百年、あるいは数千年といったおおざっぱな単位の変化しか分からなかったのが、原理的には1年単位の精密さでつかまえることができるようになったわけだ。

氷床コアは底にいくほど、古い時代のものになるが、グリーンランドの場合、10万年以上もさかのぼることができる。この期間、ホモ・サピエソスの歴史の大半をカバーする。つまり、私たちの祖先が過ごした日々の気候を明らかにしてくれるのだ。

氷床コアが明らかにした過去の気候変動でもっとも衝撃的だったのは、ほとんどの時代、きわめて急激な気候変動が繰り返されていたことだ。それまでは、氷期と間氷期があって、いまは温暖な間氷期にあたる、その前はぐっと寒い氷期があったという程度の理解だったのだ。しかし、実際には、同じ氷期、間氷期のなかでも、急激な気温の上昇や低下や激しい乾燥が頻繁に繰り返されていたのである。ホモ・サピエソスの歴史のほとんどの期間、気候の実態は相当に過酷だったのだ。

対照的なのは、もっとも直近の1万年だ。この期間は、異常なほどの超安定期だった平均気温の変化は1度以内に収まっている。まるで台風一過の平穏期のようだ。

この1万年はまさに、私たちの祖先が農耕をはじめ、文明を築いていく期間にあたるもしも、そのあいだの気候も以前同様に、数年で数度というような急激な変動を繰り返していたとしたら、農耕という試みはその変動に翻弄されて、とても継続できなかっただろう。農耕の定着、文明の発展が可能だったのも、気候変動が極端に小さい超安定期だったおかげなのだ。ちなみに、その超安定がなぜもたらされているのか、まだ未解明の部分が多いという。それゆえ、この安定が台風一過の平易期ではなく、嵐の前の静けさという解釈もありえて、それが気候学者の悩みのタネだったりする。

私たちはつい、自分たちの知能が自らの発展を生み出したと考えがちだ。そうした部分があるのも間違いないが、一方で、独力で切り開いたわけではない。グリーンランドの氷床コアのデータは、私たちの運命が地球環境との関係のなかで大きく規定されている事実を突きっけているのである。

同時に、大きく規定しているからこそ、地球環境の変動は次なる飛躍を私たちに強いる原動力にもなる。第1~第4章で追いかけたのは、地球環境の変動が強いたそうしたドラマの数々だった。

そのドラマを追いかけていくことには、きわめて現代的な意味がある。

これまで、地球温暖化の取材をつづけてきたなかでお世話になった科学者のひとりに国立環境研究所の江守正多博士がいる。洞爺湖サミットで日本中が温暖化報道一色になっていた頃のことだ。江守さんはこうつぶやいていた。

「マスコミ向けの勉強会のとき、地球温暖化に関してどんなテーマをもっと知りたいと思うか、アンケートをとるんですね。すると、ほとんどの記者やディレクターは、20年後、30年後にどんなことが起こるのかを知りたいというんです。でも、本当に大切なのは、200年先、300年先のことなんですよね。いま私たちが排出している二酸化炭素が、遠い将来の子孫たちに影響を及ぼす、そのことを解析することに研究の意味があると思うんですが、社会の関心はそうではないのです。このギャップを埋める作業をしなければならないと思っているんです」

この言葉を聞いたとき、そのギャップは簡単には埋まらないと正直、思った。やはり人間の関心はせいぜい30年先までだろうと思ったのだ。自分の老いたとき、自分の子どもが社会の中核になったとき、どんな世界であるのかという興味はある。その世界に対して、いまの自分たちには責任があると感じられる。しかし、200、300年となれば、話は別だ。

でも、江守さんのいうことも分かった。現在、私たちが営んでいる暮らし、排出している二酸化炭素は、遠い未来にまで影響が確実に及ぶのだ。そうである以上、責任があるのも間違いない。影響を及ぼす暮らしをしておいて、「そんな先までは関心ない」といえた義理ではないのだ。

そのギャップを埋める作業をするのは、私たちメディアにも責任はあるだろう。ではどうすれば、300年も先のことに思いを馳せてもらえるのか。
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