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甘えています

どう見ても、甘えています

 Iさんが「お昼に会いましょう」ということであった。バナナで多くの客が昨日、訪れたので、急遽、朝からの出番だった。

 会議を抜け出して、12時10分に到着。12時から休憩で、カウンターには居なかった。店長が呼びに行って、食事の途中で出てきた。

 サービスはできないので、おしゃべりをしていた。こんなことはマニュアルには書いてないでしょう。甘えています。
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『純粋理性批判』解説 『純粋理性批判』出版直後

『純粋理性批判』より ある哲学書の物語--『純粋理性批判』解説

さて一七八一年、苦労の末やっと世に出た『純粋理性批判』の運命はどうだったであろうか。このとき、執筆開始から実に十年余りが経過していた。

メンデルスゾーンら、当代を代表する知識人の反応は、一様に冷ややかだった。ある者は無理解を、ある者は敵対心を、ある者は誤解と曲解を示した。無理もない。『純粋理性批判』はまったく新たな形而上学の可能性を拓く書であるのだが、そのことは当然、同時に「神」や「不死」をめぐるあらゆる伝統的形而上学の既存の成果を無化する試みであるからには、なんら不思議はない。そして、「神」と「不死」の証明を伝統的方法によって鮮明に打ち出していた人物こそ、メンデルスゾーンだった。

そんな中、フェーダー/ガルヴェによる『ゲッチンゲン書評』は、カント受容史に残る誤解と曲解の歴史的典型例として今日にまで伝えられている。一言で言えば、この書評は『純粋理性批判』の根本的立場を「観念論」と決めつけたのである。それも、同じ観念論でも「より高い観念論」、「精神と物質を一緒くたに包含し、世界とわれわれ自身を観念に変えてしまう体系」と見なし、こともあろうにバークレーの観念論と同一視したのである。これにはさすがのカントも憤慨し、応戦した(『プロレゴーメナ』付録。『純粋理性批判』第二版(一七八七年)が大幅に書き改められた主たる理由もこの点にある)。ただし、これにはカントにも大いに責任がある。なぜなら、カント自身、『純粋理性批判』の立場を一般の観念論ではないどころか、その正反対であることを含意して--まぎらわしいことに--ある種の観念論と呼んでいたからである(これについては、今日でも誤解が絶えない)。また少なくとも、当時の用語法上、誤解は当然起こりうることだった。その事情は、当邦訳ではドイツ語のあるタームを原義にもっとも近い--しかも一般の日本語から浮いた従来の訳語に代えて--誰にでもよくわかる訳語をあてておいたので、日本の読者には推し量ってもらえるはずである。

その点について説明すれば、ドイツ語のあるタームとは『純粋理性批判』全体の中で頻出する「フォアシュテルング」のことである。これにはさまざまな日常的な意味があるが、こと哲学用語としてみるかぎり、ラテン語の「イデア」のドイツ語訳として、十八世紀前半にクリスチャン・ヴォルフによって定められたものだったム対応リスト」参照)。それゆえ、ラテン語とドイツ語の対応関係を熟知していた当時のドイツの知識人であればあるほど、Vorstcllung[en]という言葉を見ると、頭の中で即旨回[呉、すなわち「観念」と読んだはずである。したがって、日本語としてはやはり素直に「観念」と訳すのが順当である。しかも、このドイツ語は日常語としても、同じく「思い」「思い浮かべられるもの」「心に描かれるもの」「イメージ」等を指し、したがって「観念」等の意味で頻繁にもちいられ、語そのものとしては哲学用語との垣根はない。ひとたびこのような事情を把握したからには、日常的日本語から遊離した従来の邦訳造語「表象」は、今見てきた歴史的実情を反映しておらず、読者に無用な労を強いるつまずきの石であることがわかる。

話を戻して、そうだとすると、『純粋理性批判』の根本的立場を「観念論」と見なす『ゲッチングン書評』の評者は、必ずしも悪意から執筆したのではなく、一般の読者として--しかも知識人としてー率直に評価を下していたということを改めて知ることができるであろう。ということは、すなわち、ここで日本の読者にも当訳書をとおして、当時の知識人同様、いったんは素直に誤解する追体験をしてもらいたいのである(初めからカントに肩入れして読むのではなく)。その上で、改めてカントの真意を自ら読解するよう努めてほしい。そのほうが、一般の解説書の説明を空で覚えて何の問題意識ももたないよりも、はるかに意味のある哲学的作業となるであろう。
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世界史の時代区分

へーゲル『歴史哲学講義』より

世界史は東から西へとむかいます。ヨーロッパは文句なく世界史のおわりであり、アジアははじまりなのですから。東それ自体はまったく相対的なものですが、世界史には絶対の東が存在する。というのも、地球は球形だが、歴史はそのまわりを円をえがいて回るわけではなく、むしろ、特定の東を出発点とするからで、それがアジアです。外界の物体である太陽はアジアに昇り、西に沈みます。とともに、自己意識という内面の太陽もアジアに昇り、高度なかがやきを広く行きわたらせます。世界史は野放図な自然のままの意思を訓練して、普遍的で主体的な自由へといたらしめる過程です。東洋は過去から現在にいたるまで、ひとりが自由であることを認識するにすぎず、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと認識し、ゲルマン世界は万人が自由であることを認識します。したがって、世界史に見られる第一の政治形態は専制政治であり、第二が民主制および貴族制、第三が君主制です。

世界史を区分するにあたって、以下の点に注意する必要がある。国家は精神の共同生活であり、個人はうまれたときから信頼と習慣にもとづいて国家にかかわり、国家こそおのれの本質であり現実であると思っているのだから、なにより重要なのは、個人の現実の生活が国家との統一を無反省の習慣ないししきたりとしてうけいれているのか、それとも、個人が反省力のある自立した人格的な主体として存在しているか、という点です。そうした観点からすると、共同体の自由と主観の自由とが区別されねばならない。共同体の自由とは、潜在的に存在する理性的な意思が国家のなかで発展したものですが、この理性はいまだそれとして洞察され意思されてはいない。つまり、主観の自由がそこにはいまだ存在しないので、というのも、主観の自由は、個人の内面で自覚され、個人の良心へとはねかえってくるものだからです。共同体の自由しかないところでは、命令や法律は確固不動の存在であって、個々人はそれにまったく服従している。法律は個々人の意思にかなったものである必要はなく、ここでは、個々人は、自分の意思や認識をもたないまま両親のいうことをきく、子どものようなものです。ところが、主観の自由があらわれ、人間が外界の現実から自分の精神へとかえってくると、外界と反省力とが対立し、現実が否定されるおそれが生じてくる。個人が現在から身をひくことは、そのこと自体が対立をうみだすことであって、対立の一方の極には神ないし神聖なものが、他方の極には特殊な個人が来ます。東洋世界の素朴な意識のなかでは、この二つが分離されてはいない。共同体と個人はべつべつに存在しているのですが、その対立が精神の対立となってはいないのです。

かくて、歴史のはじまりをなすのは東洋です。この世界の根底にあるのは共同体精神という素朴な意識で、主観の意思はさしあたり共同体精神を信仰し、信頼し、それに服従するものとしてあります。国家生活のなかには、理性的な自由の実現と発展のさまが見てとれますが、その自由が主観の自由にまで到達する力はない。歴史の幼年期です。共同体の形態としては、理性の行きとどいた豪華絢爛の東洋王国をなしてはいるが、個々人はたんなる付属品にとどまっている。個々人をひきしたがえて中心にたつ支配者は、ローマ皇帝のごとき専制君主ではなく、家長として頂点にたちます。というのも、かれは共同体精神の代弁者であり、すでに存在する本質的な命令を維持するだけであって、西洋においてはあくまで主観の自由に属する事柄が、東洋では共同体全体の決定にもとづいているからです。東洋人のとらえる豪華さは、共同体を代表するこの一個人に集中していて、すべては共同体に属し、どの個人も共同体をはなれて自分の主観的自由にかえっていくわけにはいかない。空想上の富も自然の富も、すべてが共同体のものであり、主観の自由も共同体のなかに埋没するしかなく、個人の栄誉も個人のうちにあるのではなく、この絶対的存在のうちにあるのです。国家のすべての要素が、したがって、主観性の要素までが、存在するにはするのですが、共同体とうまく調和がとれてはいない。どんな個人の独立もゆるさないような唯一の権力の外に出てみると、そこにあるのは、どこに行くあてもないぞっとするような勝手気ままな心です。野蛮な一団が高地に突如としてあらわれ、周辺の国々に突撃してきて国々を荒廃させたり、内部に住みついて野蛮さをすて、これという成果もあげずに共同体のなかに散っていったりするのは、勝手気ままな心のなせるわざです。

このように、共同体が対立を内部にとりこんで克服するものでないがゆえに、そのありかたは二つの要素に分裂します。一方にあるのは持続する安定したもの、-いわば空間の王国、非歴史的歴史です。(中国に例をとれば、家族関係に基礎をおく国家と家長支配がそれにあたるもので、家長の配慮と勧告と懲罰と訓育とによって全体の秩序がなりたつこの散文的な国家では、無限で観念的な形式の対立がいまだあらわれてはいないのです。)他方にあるのは、空間的持続に対立する時間の形態です。内部に変化の原理をもたない国家は、他の国家にたいしては無限の変化を見せてたえざる抗争をくりかえし、急速に没落していきます。外にむかう対立と闘争のうちには、個の原理を予感させるものがありますが、それはいまだ無意識の自然の一般性にとどまっていて、個人の魂を照らしだすような光にはなっていません。対外闘争の歴史そのものもいまだ非歴史的な面が強く、というのも、おなじような帝王の没落がくりかえされるだけだからです。以前の豪華な帝王を、勇気と力と気高い心によって倒した新王が、おなじような衰退と没落の経過をたどって消えていく。このたえまない変化にいかなる進歩も見られない以上、没落は真の没落とはいえない。歴史はうつってはいくが、そのうつりゆきが、中央アジアでは、一般に、以前の歴史とのつながりを欠いた外面的な変化にすぎないのです。この時代を人間の一生に比較すると、幼児の安定と信頼がもはやなくなって、つかみあいやなぐりあいの喧嘩をする少年期にあたります。
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世界史の地理的基礎 旧世界

へーゲル『歴史哲学講義』より 世界史の地理的基礎

旧世界の三地域を右の分類にしたがって見ていかねばなりませんが、地域によって、三種類の地理的条件のうちのどれが重きをなすかがちがってくる。アフリカは高地が大部分であり、アジアは河川の流域と高地が半々であり、ヨーロッパは高地と谷間の平地と海岸地がまじりあっています。

アフリカは三つの部分にわかれます。第一は、サ(ラ砂漠の南の地域で、わたしたちにとってはまったく未知といっていい地域、高地と狭い海岸線からなる本来のアフリカです。第二は、サ(ラ砂漠の北の海岸地帯で、ヨーロッパ化されたアフリカです。第三は、アジアに接するナイル川の流域で、アフリカでは唯一の谷間の地域です。

本来のアフリカは、歴史的にさかのぽれるかぎりでは、ほかの世界との交渉をもたない閉鎖地帯です。内部にひきこもった黄金の地、子どもの国であって、歴史にめざめる以前の暗黒の夜におおわれています。閉鎖状態にあるのは熱帯の気候条件にもよるが、地形上の特質も大きく影響しています。この三角地帯(ギュア湾で内側に鋭角的に食いこみ、アフリカ南端に達する西海岸を一辺とし、南端からグアルダフィ岬に達する東海岸をもう一辺とする三角形)の二つの辺は、ほぽその全域にわたって、非常に狭い海岸線をなし、人の住める場所はごくわずかしかありません。海岸線から内陸にむかって、ほとんどどの地域でも、植物が僻蒼としげる湿地帯が広がり、あらゆる種類の猛獣や蛇の絶好の棲1 地となっている、Iヨーロッパ人にとっては身の毛のよだつ雰囲気をもった帯域です。この帯域は高山のふもとの湿地帯ですが、山のなかは川のながれがめったになく、川をたどって奥地にすすむわけにはいかない。山肌が見えて道のだどれる所もごくわずかで、それも狭い場所がぽつんぽつんとあるだけで、そこにまた、通行不可能な滝や激流がしばしば見られるのです。ヨーロッパ人は三百年ないし三百五十年にわたって、この帯域を探険し、その何箇所かを所有してきていますが、山に登るといっても、とびとびの山に短期間登るだけで、定住地の確保はまったくおこなわれていません。これらの山にかこまれた地方は未知の高地で、そこから黒人がおりてくることすらめったにありません。十六世紀には、内陸の遠くはなれたいくつかの地点から突如として大群集があらわれ、山腹に住む比較的おだやかな部族におそいかかりました。混乱を誘発するような動きが内部にあったかどうか、あったとすればどんな動きだったのか、それは不明です。この大群集について知られていることは、戦争と行軍の最中のふるまいは思慮のない非人間性と胸のわるくなるような粗暴さをしめしていたが、存分にあばれまわったあとのしずかな平時には、知りあったヨーロッパ人にたいしてやさしく親切な態度をとった、という対照のふしぎさです。セネガルやガンビアの山腹に住むフラー族やマンディンゴ族についても、おなじことがいえますが。

アフリカのもうIつがナイル川流域のエジプトです。ここは、独自の文化的中心地となる条件をそなえていて、したがって、アフリカのなかではそれだけで孤立しつつ、むしろアジアやヨーロッパとつながっています。

エジプトが地中海から内陸へと入りこんでいるのにたいして、アフリカの北部の海岸地域は地中海と大西洋に面した栄光の地で、かつてはカルタゴが、いまはモロッコやアルジエやチュニスやトリポリがあります。この地域にたいしては、ョーロッパにひきいれようとする力が強くはたらいて、現在はフランスがその方面で成功をおさめつつあります。小アジアと同様、ョーロッパに顔をむけた地域です。ここには、カルタゴ人、口ーマ人、ビザンティウム人、イスラム教徒、アラビア人がかわるがわる植民し、つねにヨーロッパの利害がからんでいます。

アフリカの特徴をとらえるのは困難なのですが、というのも、ここでは、わたしたちがものを考えるときつねに必要とする一般観念を、すててかからねばならないからです。黒人の特徴はといえば、その意識がなんらかの確固たる客観性を直観するにいたっていないことが、まさにそれで、人間の意思が関与し、人間の本質を直観させてくれる神や法律がかれらのもとにはない。アフリカ人は、個としての自分と普遍的本質としての自分との区別を認識する以前の、素朴で内閉的な統一のうちにあって、自己とはべつの、自己より高度な絶対の実在については、まったく知るところがありません。すでにのべたように、黒人は自然のままの、まったく野蛮で奔放な人間です。かれらを正確にとらえようと思えば、あらゆる畏敬の念や共同精神や心情的なものをすてさらねばならない。かれらの性格のうちには、人間の心にひびくものがないのです。宣教師の幅広い報告がその事実を完全に立証していて、黒人を多少とも文化に近づけるものとしては、唯一、イスラム教があげられるにすぎません。イスラム教徒のほうがヨーロッパ人よりも内地に入りこむ術に長けています。
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世界史のあゆみ 発展の原理

へーゲル『歴史哲学講義』より 世界史のあゆみ 発展の原理

歴史のうちに生じる抽象的な変化については、長いあいだ、変化は、よりよいもの、より完全なものにむかって進歩していくものだ、と一般的に考えられてきました。自然における変化は、それがどんなに複雑なものであっても、いつもおなじことのくりかえししかしめさない。自然にあっては、天下に新しきことなし、といってよく、形にいろいろな変化があっても、結局は退屈してしまう。精神の地平に生じる変化にしか、新しいものは登場しないのです。精神のこうした現象を見ると、人間はたんなる自然物とはちがった存在だと思わざるをえません。自然物には、つねに同一の固定した性格があって、すべての変化もそこに還元されるが、人間には、現実に変化していく能力があり、それも、よりよいものへの変化であって、つまりは、完全なものをめざす衝動があると思える。変化に法則があると考えるこの原理は、カトリックのような宗教にとっても、また、停滞し固定していることこそ真の正義だと主張する国家にとっても、具合のわるいものです。一般に、この世の事柄が変化し、国家も変化することがみとめられると、絶対の真理を主張する宗教はこの世の事柄ではなくなるし、正義の状態の変化や転覆や破壊が、偶然や不手際、とくに、人間の軽はずみや悪しき情熱のせいにされてしまうことにもなる。実際、完全なものをめざすといっても、その内容は、変化というのとほとんどかわらないほどあいまいです。目的も目標も変化の基準もしめされていないのですから。よりよいもの、より完全なものをめざすといっても、めざされるものがどんなものなのかが、まったくあいまいなのです。

発展の原理はそれとはちがっていて、内的な方向性が前提としてもとから存在し、それがおもてにあらわれるという形をとります。この形式的な方向性を決定するのが、世界史を活動の舞台とし、そこを自分の本領とし、自己実現の場とする精神にほかならない。精神は、外からやってくる偶然のたわむれにひきまわされるようなものではなく、みずから絶対的に方向を決定し、偶然にひきまわされるどころか、偶然を利用し支配するものです。ちなみに、自然の有機物にも発展がある。有機物は、ただじっとしていて他からの変化をうけるようなものではなく、内部にある不変の原理(最初は胚種という形で存在する単純な本質)から出発して、さまざまな組織や器官へとわかれ、他の事物とも関係して持続的な変化の過程を生き、ふたたびもとにもどって、有機物の原理とその形態を保存する。つまり、有機物は自己を生産し、潜在的な可能性を形にあらわします。精神も、同様に、みずから形をつくっていくものであり、潜在的なものを顕在化させるものです。

が、有機物の発展が、対立や妨害のないまっすぐな発展であり、概念(胚種のもともとの性質)とその実現(その性質への順応過程)とのあいだに介入してくるものがないのにたいして、精神の発展はちがった道筋をたどる。その方向性を実現にうつすにあたって、意識と意思が介入するからです。意識や意思は、最初は、直接の自然の生命のうちに埋没しているし、その対象や目的も、最初は自然の力としてあらわれます。が、その性質に生命をふきこむのが精神であるところから、それは無限の要求と力と富をもつものとなり、かくて、精神は自分の内部で自分と対立します。精神の実現を妨害する真の敵は、精神自身であって、精神は自己を克服しなければならない。自然にあっては平穏な産出であった発展が、精神においては、自己にたいするきびしくはてしないたたかいとなります。精神のねらいは自分の概念を実現することにあるが、精神はみずからこの概念を見えなくし、しかも、このように自己を疎外することに誇りと満足を感じるのです。

精神のこのような発展は、有機生命の、妨害もたたかいもない単純な産出とはちがって、自分と対決する、きびしくいらだたしい労働です。しかもそれは、たんに形式的な自己発展というにとどまらず、一定の内容をもった目的の実現です。この目的ははじめから確定されていて、それが精神であり、しかも、自由を本質ないし概念とする精神です。自由な精神こそ歴史の根本的対象であり、それゆえにまた、発展の指導原理でもあって、それが発展に意味と価値をあたえ(たとえば、ローマ史においては、ローマが対象でもあり、歴史の考察をみちびくものでもある)、逆にまた、歴史上の事実はこの対象から生じ、この対象と関係することによってのみ意味と内実を獲得するのです。
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