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環境変動との相克

『ヒューマン』より なぜいまヒューマンなのか

私たちの祖先の歴史で、節目として環境問題が据えられていたことに気づかれたことだろう。第1章の乾燥化やトバ火山の噴火、第2章の氷期、第3章の温暖化による大洪水、そして第4章は人類自らが招いた環境問題だ。このように今回の企画では毎回、過去に祖先たちを襲った環境変動を取り上げることにした。そして、その危機を乗り越えるために祖先たちが成し遂げた飛躍を追いかけるというのが、番組の基本的な骨格となっていた。

これは企画を通すための戦略という面もあったが、人類史の取材を続けていったなかで、次第に確固としていった実感でもある。私たちの歴史とはある意味、確かに地球の環境変動との相克なのだ。

私たちの歩みと地球環境の関係をもっとも象徴的に、劇的に教えてくれるのは、グリーンランドの氷床コアから得られた最近10万年間の気温データだろう。

氷床コアといりのは、グリーンランドや南極の大地にどかんと載っかっている巨大な氷の塊を筒状にくり抜いたものだ。この氷、毎年降った雪が押し固められたもので、そのときの大気成分や塵が取り込まれている。それを解析すると、当時の気温などが分かるのだ。氷床コアは毎年の雪が降り積もったものなので、解析はかなり高精度にできる。この解析が進むまで、気候変動は数百年、あるいは数千年といったおおざっぱな単位の変化しか分からなかったのが、原理的には1年単位の精密さでつかまえることができるようになったわけだ。

氷床コアは底にいくほど、古い時代のものになるが、グリーンランドの場合、10万年以上もさかのぼることができる。この期間、ホモ・サピエソスの歴史の大半をカバーする。つまり、私たちの祖先が過ごした日々の気候を明らかにしてくれるのだ。

氷床コアが明らかにした過去の気候変動でもっとも衝撃的だったのは、ほとんどの時代、きわめて急激な気候変動が繰り返されていたことだ。それまでは、氷期と間氷期があって、いまは温暖な間氷期にあたる、その前はぐっと寒い氷期があったという程度の理解だったのだ。しかし、実際には、同じ氷期、間氷期のなかでも、急激な気温の上昇や低下や激しい乾燥が頻繁に繰り返されていたのである。ホモ・サピエソスの歴史のほとんどの期間、気候の実態は相当に過酷だったのだ。

対照的なのは、もっとも直近の1万年だ。この期間は、異常なほどの超安定期だった平均気温の変化は1度以内に収まっている。まるで台風一過の平穏期のようだ。

この1万年はまさに、私たちの祖先が農耕をはじめ、文明を築いていく期間にあたるもしも、そのあいだの気候も以前同様に、数年で数度というような急激な変動を繰り返していたとしたら、農耕という試みはその変動に翻弄されて、とても継続できなかっただろう。農耕の定着、文明の発展が可能だったのも、気候変動が極端に小さい超安定期だったおかげなのだ。ちなみに、その超安定がなぜもたらされているのか、まだ未解明の部分が多いという。それゆえ、この安定が台風一過の平易期ではなく、嵐の前の静けさという解釈もありえて、それが気候学者の悩みのタネだったりする。

私たちはつい、自分たちの知能が自らの発展を生み出したと考えがちだ。そうした部分があるのも間違いないが、一方で、独力で切り開いたわけではない。グリーンランドの氷床コアのデータは、私たちの運命が地球環境との関係のなかで大きく規定されている事実を突きっけているのである。

同時に、大きく規定しているからこそ、地球環境の変動は次なる飛躍を私たちに強いる原動力にもなる。第1~第4章で追いかけたのは、地球環境の変動が強いたそうしたドラマの数々だった。

そのドラマを追いかけていくことには、きわめて現代的な意味がある。

これまで、地球温暖化の取材をつづけてきたなかでお世話になった科学者のひとりに国立環境研究所の江守正多博士がいる。洞爺湖サミットで日本中が温暖化報道一色になっていた頃のことだ。江守さんはこうつぶやいていた。

「マスコミ向けの勉強会のとき、地球温暖化に関してどんなテーマをもっと知りたいと思うか、アンケートをとるんですね。すると、ほとんどの記者やディレクターは、20年後、30年後にどんなことが起こるのかを知りたいというんです。でも、本当に大切なのは、200年先、300年先のことなんですよね。いま私たちが排出している二酸化炭素が、遠い将来の子孫たちに影響を及ぼす、そのことを解析することに研究の意味があると思うんですが、社会の関心はそうではないのです。このギャップを埋める作業をしなければならないと思っているんです」

この言葉を聞いたとき、そのギャップは簡単には埋まらないと正直、思った。やはり人間の関心はせいぜい30年先までだろうと思ったのだ。自分の老いたとき、自分の子どもが社会の中核になったとき、どんな世界であるのかという興味はある。その世界に対して、いまの自分たちには責任があると感じられる。しかし、200、300年となれば、話は別だ。

でも、江守さんのいうことも分かった。現在、私たちが営んでいる暮らし、排出している二酸化炭素は、遠い未来にまで影響が確実に及ぶのだ。そうである以上、責任があるのも間違いない。影響を及ぼす暮らしをしておいて、「そんな先までは関心ない」といえた義理ではないのだ。

そのギャップを埋める作業をするのは、私たちメディアにも責任はあるだろう。ではどうすれば、300年も先のことに思いを馳せてもらえるのか。
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