goo

岡崎市図書館の10冊

913.6『超武装自衛隊』北朝鮮侵攻!日本海の死闘

007.3『ウェブ文明論』

023.8『検閲帝国ハプスブルク』

134.4『対話 ヘーゲル『大論理学』存在の旅へ』

333.6『10年後の世界』これからのグローバル経済を激変させる12のトレンド

302.2『大中華圏』ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る

289.2『アッバース大王』現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー

104『人類哲学序説』

159.7『冒険に出よう』未熟でも未完成でも今の自分で突き進む

913.6『超世界空母「大和」』日米戦×2で連戦連勝 無敗の独立艦隊
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

創発性

『メディア学小辞典』より

イギリスの哲学者で経済学者のJ.S.ミル(1806-73)は『論理学体系』(1843)で出来事の原因に均質性と異質性があるとしている。これをうけてG.H.ルイス (1817-1878)は『生命と心の諸問題』(1875)で、「創発」の概念を提 起し、進化のプロセスにおいては「結果」の原因への直接的な遡 及はできないと考えた。 E.デュルケームは『社会学的方法の規準』(1895)で、「社会的事実」にはこれに関与する諸個人の心理現象や生理現象に還元できない「新しい」ものの出現が含まれていると考え、「全体の属性」とその「諸部分の属性」との異なりに注目している。創発性の考察では、時間的な因果関係に、体系とその構成部分との関係というシステム理論上の共時的構造性が重なり合っている。前者では現象の「現れ方」に、後者では現象内部の機構に焦点があてられ、機能上の根本的な「パラドクス」への問いかけが生まれる。パースは古典論理学における因果関係の記述には偶然性の介入が不可避であることを指摘している(→可謬性)。

P.ヴァツラグィクたちは、自然現象と精神現象の多くの事例について「別々に考えられる要素からでは決して説明のつかない複合性」の観察に際して、「二つないしはそれ以上の要素の相互関係から現われる創発性」を指摘している。人間どうしの間で必然的に展開されるコミュニケーションは、「役割」、「期待」、「動機」などに関わる「基本的な単位としての個人」にその担い手としての役割を指定し「分割できる」けれども、コミュニケーションの「連続は相互に分割でき」ず、相互行為の「超総和性」を認めざるを得ない。生物学的レベルから、現代社会の「予期できなかった」そして「予期できない」さまざまな出来事に至るまで、理論的かつ実践的なレベルでの未知のことがらは極めて多い。元来「現れてくる」ことを意味するemergeは、「既存の構造から導かれてはいるが、驚かせるもの」を含意している。日常会話において 「状況を創発する展開」が認められ、あるいは「自己産出的な体系は持続的に創発的である」と考えられている→自己産出。

N.ルーマンは『社会システム理論』(1984)で、矛盾がシステムの構成要因になり得ることを認め、コミュニケーションにおいては「交互に相手の関心を読み取ろうとする循環のなかに据えられた→自己言及が、→相互作用にとってネガティヴなものであり、しかもまさにそうであるがゆえに実り豊かである」と記している。社会システムに認められる「創発的な秩序」とコミュニケーション・プロセスとは、相互浸透しながら展開している。創発とは「決して→複合性の累積などではなく、複合性の組成の中断ならびにその新たなる開始に他ならない」。

現代社会の危機的な状況への言及に際してしばしば「創発」の 概念が適用され、ときに単純化された概念使用がみられる。「創発性」への言及は、常に対象把握の手法についての検証を求めている。我々は世界の出来事を記述しようとし、伝統的に蓄積されてきている多様な概念を使用しながら整合性を目指している。このとき→観察には基本的に→パラドクスの要因が不可避的に含まれ、我々が用いる諸概念の不断の検討と更新が求められている。ルーマンは→矛盾への言及を軸にシステム間現象の創発性の問題を取り上げ、『社会の社会』では、この概念を説明概念ではなく「エピソードを伝えているだけ」のものとしている。この概念には、「要素と全体の関係」を見直すためだけではなく、r全く異なる思考態度を導入する」企図が託されている。同書における→象徴によって一般化されたコミュニケーション・メディアについての詳細な記述や、遺稿『社会における教育システム』における→媒質と形式の概念の実践的な適用のなかに、→媒介の視点からのシステム理論体系化の構想が「説明」され、「創発性丿概念との相補的な関係が示唆されている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

意味

『メディア学小辞典』より

意味についての記述が多様であるのは人間言語の多様性の結果である。また意味記述は常に意味とは何かを問い続けねばならないというパラドキシカルな事情がある。ソシュールは、→記号としての言語のはたらき、つまり有意味なはたらきが、何らかの資料形態の支えによってのみ可能であるとし、このときの「資料的単位」は、ただ言語の「意味」あるいは「機能」に依存することでのみ可能であるとした。「意味」は、ときに「意義」と区別される。両者の対比によって意味考察のあり方を取り上げたG.フレーゲに刺激され、L.ヴィトゲンシュタインは対象を指示することに「意味」を重ねあわせ、そのときの「名づける」ことの可能性は認めつつ、同時に対象について「言い切る」ことはできないとした。後期のヴィトゲンシュタインは→言語ゲームの考えを展開するなかで、言語の使用における意味[形成]の可能性を認めようとする。そのとき意味考察の多様性は、「語」そのものを文脈あるいは発話の場そして環境のなかでのプロセスにおいて考察する立場へと収斂される。意味は言語の境界を越えて、社会の体系に組み込まれることになる。

意味の成立を→意味作用の連続性のなかに見ようとする。パースは、意味を「期待に応える」ものであり「未来に関わる」特性を帯びると考えている →記号過程。意味の記述は不断にくりかえされる通過点における意味構築にほかならず、その根底に媒介の作用が想定されている。フッサールは「論理学研究」の第2巻で、話し手の志向と聞き手の「意味充実作用」の協働が対象を構成するとし、後年の『イデーエン』(1913)では、志向性を「あらゆる体験を内に保持する普遍的媒体」とみなしている、フッサールの影響のもとでK.ビューラーは、『言語理論』の「序言」で言葉を「形をもった媒介者」とし、媒介のはたらきを生物が社会生活を送るときの基本としている。このときの社会的状況が送り手と受け手に要求する「共通の知覚のための地平の拡大」が「記号生産の生物学的原点」である。→オルガノン・モデルによって示されている 「抽象の有意味性」の段階が進み,「あるものが別なものの代わり」を果たす記号が成立する過程において、そのっど学習の成果とみなされるものが意味である。T.パーソンズは、象徴記号に内在する抽象化の力が行為体系のなかで「個人間の架橋」を果たすとした。つまり異なる状況下あるいは異なる人々の間に「一般化」の原理がはたらき、それによって「行為の同じ形態」がもたらされる。意味の多様性は象徴(記号)の作用として一般化され、記号は媒介機能の担い手となる。この顕著な例を経済的流通の基礎としての→貨幣にみることができる。

Nバレーマンは『社会システム理論』において、「意味」を心理システムと社会システムの両者が「互いに他を求めながら進化した結果、生み出されたもの」であるとしている。このような「共同進化の獲得物」としての意味をそれ自体として定義づけることはできない。多くの言語理論と記号理論が試みてきた意味の記述は、それらの技術上の(音韻論的あるいは視覚上の)諸特徴によって意味説明の限界を示すことになり、「記号は意味そのものではない」と結論される。他方で言語のはたらきは、知覚可能な領域を大きく超えてコミュニケーションの理解を強化している。そのとき言語は時間の中で→意識に関わり、意味は不断に形成され続けることになる。意味を何らかの質的な単位とみなす伝統的な立場の代わりに、プロセスとしての意味機能つまり意味指令が重視されている。後年のルーマンはこのような立場をさらに精密化するために、→相互浸透の考えから→構造連結の概念を導いている。観察者の視点の下で、意味は「顕在性と潜在性の2側面を差異化しながら同時にその区別の統一を図り、区別という視野のなかで作動する媒質」であるとされている。区別とは、常に顕在的とみなされるものにおいて可能性のパースペクティヴを保つことである。この視界から外れて顕在性が退けられるとき、可能性を話題としたりあるいは可能性を考えたりすることはできない。どのような意味の不在に関する想定にもやはり意味がつきまとっている。「意味作用を展開することのないシステムが存在するような世界」を窺い知ることはできないのである。意味の属性を敢えて挙げれば、「否定不可能」、「普遍的」、「使用(=接続)の強制」などとなる。意味は「次なる作動(はたらき)への不断の移行」であり、そのっど形式を形成しながら自己を表明し続けている「優れて潜在的な技術」(=形式)であり、意味は世界の複合性縮減のための「→選択の強制」を示唆している。→意味作用、→媒質と形式)。

社会システムと意識(心理システム)という二つの異なるシステムを同時に視野におく観察者の視点のもとで,「これらが如何に結びつき、如何にしてそれが可能であるのか」という記述が進められる。このとき構造連結の概念は→自己産出の機能に対して垂直の関係におかれ、排除と包摂とを同時に果たす形式を導き、この事態の下で意味記述の可能性が獲得される。N.チョムスキーは『統辞的構造』(1957)のなかで、言語の「形式と意味とのそれぞれの特徴の間に呼応関係が存在する」ことを予感として示した。この予感は一方で統覚上のプロセスとして認知的意味考察を示唆し、他方ではシステム理論上の社会学的意味記述への接続を暗示しているのではないだろうか。このような枠組みのなかで、心理システムと社会システムの協同進化の産物としての意味の記述には、媒介という視点の下で展開するメディアの諸分析が参照されるはずである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )