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産業構造の変容とローカル化

『人口減少社会という希望』より ローカル化が日本を救う

最後に③は、経済の中でもその「生産」面あるいは産業構造の側面に注目し、そのローカル化を論じるものだ。

もっとも単純には、市場化↓工業化(産業化)↓ポスト工業化という大きな流れの中で、工業化の時代には(典型的には鉄道や道路の敷設、工場の配置など)主としてナショナル・レペルでの経済活動が展開するが、ポスト工業化の時代には、たとえば余暇や自然、環境、コミュニティ、介護・医療、文化などに関する分野が大きく展開し(その多くの部分はサービス業に該当する)、これらはローカルな性格をもつものと考えられる。なお正確には「ポスト工業化」といっても、まず「情報化・金融化」という段階があり、これはもっともグローバルな形で展開するものだが、その先にこうしたローカル化の流れが展開していくと考えられるわけである。

やや角度を変えて言えば、本節の先の議論とつながるが、製造業のかなりの部分は価格競争ないし低賃金競争の中で途上国に移転していくので、むしろローカルな地域で循環するような産業あるいは経済構造をつくっていくほうが、グローバル化に対しても「強い」経済になるという考え方である(この場合の「強い」は、前節でも言及したが、最近様々な分野で使われるリジリエント〔弾力性のある、しなやかな〕という言葉に似た「強い」になるだろう)。

興味深いことに、エコノミストの野口悠紀雄氏が近著『製造業が日本を滅ぼす--貿易赤字時代を生き抜く経済学』の巾で展開している議論も、これに通じる方向を含んでいる。野目氏が論じている内容を簡潔にまとめると次のようになる。

 (a)日本の製造業は、中国などを含む新興国との価格競争に勝てるはずがなく、むしろ「知恵の勝負」をしなければならない。

 (b)したがって、円安を心地よく感じたり「輸出主導型経済成長」ないし「輸出立国モデル」に固執するのは不可能であり、妥当ではない。

 (c)「製造業の海外移転は雇用が失われるので望ましくない」という意見があるが、製造業を日本に残したとしてもその雇用はもはや増えず減少する(なぜなら既に製造業の雇用は過剰になっているため)。

 (d)したがって今後の成長モデルとして目ざすべきは、「脱工業化を実現し、生産性の高いサービス業を産業の中心に据えること」である。

 (e)この点に関し、2000年代に入って雇用が大きく増えたのは医療・福祉だが、これらは一部の職種を除いて給与が低い(生産性が低い)。その結果、マクロでの所得低下が生じており、こうした方向を是正し高生産性サービス業をつくっていくことが重要である。

以上のような骨子であり、『製造業が日本を滅ぼす』とはいささか過激な表現だが、指摘されていることは大方妥当と思われる(上記には入れていないが、TPPはアメリカを利するだけの内容で、貿易自由化と異なるブロック化であり、中国やアジアとの関係においてもマイナスで妥当ではないという議論も賛成できる)。

ただし、結論として出されている「日本国内において高度なサービス産業を発展させ、雇用を創出することが、今後の最も重要な課題だ」という主張は、これだけではあまりにも内容がないと言わざるをえないだろう。たしかに、なお〝製造業中心主義〟〝輸出立国主義〟のような経済界の一部ないし中枢部には重要な警告的メッセージになるだろうが、むしろ問題はその先にあるのであり、その中身を聞きたいというところで残念ながら本が終わっている。

また、福祉などサービス業の低賃金に関し、「介護従事者の賃金がなぜ低いかといえば、基本的に介護保険の枠内で決められているからだ」といった指摘もミスリーディングである。市場に委ねるとこれらはもっと低賃金になるだろう。ここでの主テーマではないが、前節でもふれたようにケアやコミュニティ、あるいは農業など自然関係の分野は、市場経済に委ねてしまうとその価値が十分に評価されず、低価格となる傾向が大きい。同様に、「農産物輸入は消費者に福音」といった議論も市場ないし狭義の経済合理性の視点のみに立った議論であり、上記の①で掲げたようなエコロジー的な視点は顧慮されていない。
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コミュニティ経済の特質

『人口減少社会という希望』より コミュニティ経済の生成と展開

ここであらためてコミュニティ経済の中身について整理すると、その柱として次のような点が挙げられる。

 ①「経済の地域内循環」

 ②「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」の再融合

 ③経済が本来もっていた「コミュニティ」的(相互扶助的)性格の再評価

 ④有限性の中での「生産性」概念の再定義

①は冒頭にふれた若い世代のローカル志向とも関連するが、大きく言えば「ヒト-モノ-カネが地域内で循環するような経済」ということである。こうした経済を築いていくことが、地域活性化やコミュニティ再生とともに、グローバル経済の浮沈や不況に対しても強い(リジリエンドな=弾力性のある)経済になるという趣旨である。

この点については、『スモール・イズ・ビューティフル』で知られる経済学者シューマッハーの流れを引き継ぐイギリスのNEF(New Economic Foudation)が「地域内乗数効果」という興味深い概念を提唱している。これは、経済がほぼもっぱら国(ナショナル)レベルで考えられてきたケインズ政策的な発想への批判ないし反省を含んだ提案で、「地域再生または地域経済の活性化=その地域において資金が多く循環していること」ととらえ、①「資金が当該地域の隅々にまで循環することによる経済効果が発揮されること」や②「資金が外に出ていかず内部で循環することによってその機能が十分に発揮されること」といった独自のコンセプトを導入して、地域内部で循環する経済のありようやその指標を提言しているものである。

日本での類似例としては、たとえば長野県飯田市の試みが挙げられ、同市では「若者が故郷に帰ってこられる産業づくり」という理念のもと、「経済自立度」70%ということを目標に掲げて政策展開を行っている。ここでいう「経済自立度」とは「地域に必要な所得を地域産業からの波及効果でどのくらい充足しているか」を見るもので、具体的には南信州地域の産業(製造業、農林業、観光業)からの波及所得総額を、地域全体の必要所得額(年一人当たり実収入額の全国平均×南信州地域の総人口)で割って算出している(08年推計値は52・5%、09年推計値は45・2%。『月間ガバナンス』2010年4月号)。

②は、〝職住近接〟の動きとも関連するが、次のような趣旨である。

そもそもコミュニティというものは、人々の生産活動や日常生活の中に、ある意味でごく自然な形で存在するものだろう。たとえば農村を考えてみると、そこでのコミュニティは、その地域での農業という生産活動と不可分に結びついている。また、商店街というのはそこにおいて様々な人々の会話や交流が生まれる場であり一つのコミュニティ的な空間だが、それは買い物という、ごく日常的な経済活動と一体のものである。一方、「会社」という存作は、幟後の目本において高度成長期を通じ(よくも悪くも)〝最大・最強のコミュニティ〟であったわけだが、それはもちろん会社がひとつの生産ないし経済活動、あるいは労働という行為と結びついた存在だったからである。

現在、人々の間の孤立やコミュニティの希薄化・崩壊といったことが言われるわけだが、大きく見れば、以上のような広い意味での経済や生産活動と全く切り離されたところでコミュニティを自覚的に作っていくというのは、かなり難しい作業である。〝さあ皆さん、コミュニティを作りましょう〟と呼びかけても、なかなか人は簡単に集まるものではない。何らかの意味で、経済や生産・消費、雇用・労働といったものと結びついた形での活動や事業が、コミュニティ形成に自ずとつながっていく可能性が大きい。

したがってこれからの時代においては、コミュニティをできる限り(広い意味での)経済活動と結びつけつつ生活の中に組み込んでいくような対応や政策が重要になるのではないか。「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」の再融合とは、そうした趣旨のものである。

思えば、もともと高度成長期以降の日本において両者が極端に乖離していった背景には、日本の場合、都市の中心部に(比較的安価な)集合住宅あるいは公的住宅が少なく、都市計画も弱いため、特に東京などの大都市において通勤距離が極端に長くなっていったという事情があった。その意味でこの話題は都市政策やまちづくり等に関わると同時に、近年の職住近接への志向など、人々のライフスタイルに関する意識にも関わるものである。

③は本節の初めで論じた点であり、④は「生産性」という概念を再定義し、特に「労働生産性から環境効率性へ」という方向、つまり人は積極的に使い、一方で自然資源の使用を抑制するような経済にシフトしていくという内容である。

これは先ほどふれた〝企業が人件費カットやリストラに励むことで自ら首を絞めることになる〟という話と関連している。つまり現在の経済は従来のように〝人手不足、自然資源余り〟ではなく、全く逆に〝人手余り(=慢性的失業)、自然資源不足〟という事態にある。こうした状況では、「人が人(または自然)をケアする」ような労働集約的な領域の発展こそが、経済の観点から見ても重要となる。

このようにコミュニティ経済とは、実は「ケア経済」とも言い換えられるものなのである(この生産性の再定義をめぐる論点に関しては、次節でさらに考えてみたい)。
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未唯空間の汎用化

未唯空間の汎用化

 あまりにも、細かいところに拘りすぎている。もっと、汎用的にしないといけない。そのために、本の世界で、汎用にすることです。それにしても、1,680項目は多すぎる。疲れてしまう。だけど、集中力の育成です。

 では、どのようにして、汎用化するのか。三段ループみたいなもの。アナロジーを使うのが一番です。その意味では、数学の論理が有効ですが、現実問題ではアナロジーが効かない部分があります。

 「使うことを支援する」そういうものをどのように汎用化するかです。メーカーで言っていることと社会で言っていること、それらの汎用化をするには、あまりにも狭い世界しか知らない。

 本というのは、書く人は狭い世界で書いている。読む人が広い世界にハンドリングしている。著者と読者の共通な場があることで、汎用化できる。歴史の本にしても、皆、ニッチを書いている。それにどういう意味があるのか。ローマ帝国興亡史についても一緒です。自分のことを言っているだけです。

 受け手がどう考えるのかのフィードバックがないから、結局、広がらないし、汎用化もできないのです。動けるところまでを、本の範囲にすることが、本来の生涯学習です。

考えるとは

 考えるということはそういうことかもしれない。考えることはどういうことか。それが人類にとってはどのような意味を持つのか。その仲介としての本です。

 魅力的なものにするためには、未唯空間の表現を工夫しないといけない。何が魅力なのかがよく分からない。あまりにも、汎用的では哲学になってしまいます。まあ、純然たる哲学でもいいけど。出発時点は7つのジャンルに絞ります。

3週間ぶりの会話

 まあ、疲れています。3週間ぶりのパートナーとの会話が不発だった。新しい仕事を渡したかったが、ポータルの進捗が不明になっている。それまでにすることに的確な表現ができなかった。その意味では、楽しみがすべてなくなった。
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