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存在が「無」になる

『ナショナリズムの復権』より 何か起きているのか、人間の心のなかに

たとえば私たちが、自分の世界観=真理や確信を押しとおせるだけ押しとおしたあげく、他人と衝突したと仮定してみよう。精神のフロンティアの限界にまで達したとしよう。意見の合わない他者、あるいは世界観のまったく違う人に会ったと思えばよい。同じようにならず者たちがこの深刻な経験をした場合、精神的にどのような状況に追いこまれ、そして打開策を出したのか、次の文章を見れば分かる。アフリカに根を下ろすことになった「人種思想」が答えなのだが、それは、ヨーロッパ人である彼らが、予想さえしていなかった人間、否、人間とすら思わなかふた種族に出会った衝撃を、どう処理するかの非常手段だったのである。最終的に人種思想を生み出すこと、彼らの混乱は次のようなものだ。

彼らは何ものも信じず、それでいて馴され易く、人に言われれば何であろうとすぐに信じ込んだ。社会とその価値評価から吐き捨てられた彼らは自分自身しか頼るものがなく、そしてこの頼るべき自分自身は無に等しいことが明らかになった。

アフリカに根を下ろしていた人種思想は、ョーロミ(人が理解することはおろか自分だちと同じ人間と認める用意さえできていなかった種族の人間とぶつかったとき、その危機を克服すべく生み出した非常手段だった。

アーレントはこの文章を書きながら、彼らが結局、他人との接触に耐えきれなかふたことに気づいている。彼らは、異様な黒い生き物と、自分たちの曖昧な違いに耐えられなかった。ほとんど同じ人類なのに、しかしどう見ても異様でもある。この曖昧さが混乱を生み出し、手術後の拒絶反応に似た劇症をもたらす。白人の荒くれ者たちは、だから肌の色で差別する「人種主義」を開発し、そこに立てこもったのだった。そしてこれまでの世界観を維持しようとしたのである。精神のフロンティアが消滅したことに気がついたとき、ならず者のモッブは、収縮し既存の世界観のなかに立てこもったわけである。

モッブはもともと、本国の価値観からはじきだされた脱落者に過ぎない。

だから実際は、キリスト教=ユダヤ教という世界観・秩序からも見放されていたことに注意しなくてはいけない。だから彼らには実際、確かなものが何もないのである。後ろ=本国の価値に戻れないばかりか、新しい異様な他者とも馴れあえない。だとすれば頼りは後先いずれにもないのであって、裸の自分しかない。そのことを、黒い生き物は彼らの眼の前に突きつける役割を果たしたのだ。

それをアーレントは、「自分自身は無に等しいことが明らかになった」と書きつけるしかなかふた。それ以外の表現を見出すことができなかふた。

それは、自分という存在の溶解であった。

存在は宙づり状態になってしまった、と言っても同じである。頼るべき最後の拠点は「自分自身」である。それは確かに、個人主義的ではあろう。だがその個人主義は、私たちが普段使うような肯定的なイメージからはほど遠い。異様な生き物との接触は、彼らにあらためて、自分自身が底なしの「無」であるということ、何者でもないという恐ろしい事実を映しだした。この事実を見つけて、アーレントは驚いた。

ただその驚きを書き記すしかなかった。

では、空っぽの心に安定を与えるとしたら、それは何か一つの答えが人種主義だとアーレントは怖れをもって書いているのである。自分とは何者かについての、いびつな解答が人種主義であり、生まれもった肌の色に、自身の最終根拠を定めようというイデオロギーが急浮上してきたのだった。
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ナショナリズムは全体主義ではない

『ナショナリズムの復権』より ナショナリズムヘの誤解を解く

このようなヒリヒリするような個人を抱えて、人はどうするか。どうやふてみずからの拠り所を探りあてるか--オルテガとアーレントの時代の大衆は、どこでも携帯可能な血や魂に飛びついた。隣国にいる同胞と結びつく理由を与えてくれるからである。また不当に制限された地域を超えて、自民族の本来の姿=拡大運動を正当化できるからである。隣国にいる血=同胞のもとまで、私たちは領土を拡大せねばならない--そう人々は考えたわけだ。

血といういかがわしいことはからも分かるように、ドイツとロシアは人種問題を生み出した。それはイギリスとフランスのモッブより、はるかに深刻な人種思想である。それがドイツやロシアの汎帝国主義の正体なのであった。大衆の心のなかに人種思想を注ぎこんだのである。アーレントの場合、それをナショナリズムではなく、「疑似神学」と呼ぶべきだと思った。

ナショナリズムはしばしば不当にも宗教の代替物もしくは「新しい宗教」であると非難されるが、正しく言えばこの種族的ナショナリズム、特に汎スラブ主義における種族的ナショナリズムが実際に疑似宗教的理論と神聖の観念を生んだのである。

だからまず、ナショナリズムは全体主義ではない。

全体主義を、トラヴェルソを参考に「独裁者の支配を歓迎する雰囲気、集団である」と定義しておいた。しかし今や、もう少し詳しい定義をすることができる。第一に、全体主義に雪崩れこむ人々の心は自閉的で孤独である。なぜなら彼らは過去とも他者とも断絶しているからだ。第二に、みずからの過去に対して否定的であり、つねに現在の自分に不満を抱えている。そして第三に、伝統と断絶し、不平をいだく人々は、つねに未来を求めて変化と移動を好んでいる。空洞と化した心のなかに、何かを受けいれることで安心しょうとするのだ。そこにしのび寄るのが、人種主義であり疑似宗教なのである。それこそ全体主義だとアーレントは言ったのだった。

安定した秩序と均衡を重視すること、運動や移動よりも土地に刻んできた歴史、先祖の営んできた労働を受け継ぐこと、これがナショナリズムなのである。定住こそ、ナショナリズムの第一の定義である。孤独に打ちひしがれた人間の無目的な運動とそれは対照的な立場のことだ。ナショナリズムと「種族的ナショナリズム」をアーレントは厳密に区別していることに注意しなければならない。種族的とは、血を求めて広がること、すなわち全体主義のことだからである。

また、ナショナリズムは宗教ではない。

ナショナリズムはしばしば、「新しい宗教」と呼ばれるがそれは間違っている。ナショナリズムの定義としても、宗教の本当の意味も、それではともに誤解されてしまう。批判されるべきは、ニセモノの宗教、空虚な心に襲いかかる「疑似宗教」なのである。

全体主義は、人種主義として具体化し、人々に牙をむいた。さらに全体主義は、独裁者を生むニセモノ宗教も生み出してしまった。疑似宗教とはそういう意味なのであって、アーレントにしたがえば、ここで全体主義=疑似宗教だと言ってよい。

だからナショナリズム=全体主義=宗教ではないのであって、全体主義=疑似宗教という等式は成り立つだろう。ひとりのカリスマの登場、独裁者に拝脆する人々の群れ集うありさま、このドラマのような悪夢が眼の前の現実になっていることを、アーレントは必死に書きとめようとしていた。生々しい現実をことばで紙に彫刻してゆく、ここに彼女の尽きない魅力がある。
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食べ物より本の方がおいしそう

食べ物より本の方がおいしそう

 フェースブックに本をアップしました。皆は食べ物の写真でいいでしょうと言っている。私にとって、楽しいのは本です。写真の本を見て、「おいしそう」と思ってくれる人がいるかどうか。

本当に完治しているのか

 なんか、右の玉がドンドン大きくなっている。これで本当に「完治」しているのか。この膨張な左の時のように止まって、収まるのか。それが不安です。さらに大きくなったら、どうなるかも興味はあるけど。

元町のスタバ

 結局、元町のスタバにしました。豊田市駅前は歩くことを考えると躊躇します。右の腫れが気になります。

 本は5冊読んだところで、家に戻りました。Fが見れたのは収穫です。豊田市駅前は人の出入りが激しい。元町の方がゆっくりできます。
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