未唯への手紙
未唯への手紙
意味
『メディア学小辞典』より
意味についての記述が多様であるのは人間言語の多様性の結果である。また意味記述は常に意味とは何かを問い続けねばならないというパラドキシカルな事情がある。ソシュールは、→記号としての言語のはたらき、つまり有意味なはたらきが、何らかの資料形態の支えによってのみ可能であるとし、このときの「資料的単位」は、ただ言語の「意味」あるいは「機能」に依存することでのみ可能であるとした。「意味」は、ときに「意義」と区別される。両者の対比によって意味考察のあり方を取り上げたG.フレーゲに刺激され、L.ヴィトゲンシュタインは対象を指示することに「意味」を重ねあわせ、そのときの「名づける」ことの可能性は認めつつ、同時に対象について「言い切る」ことはできないとした。後期のヴィトゲンシュタインは→言語ゲームの考えを展開するなかで、言語の使用における意味[形成]の可能性を認めようとする。そのとき意味考察の多様性は、「語」そのものを文脈あるいは発話の場そして環境のなかでのプロセスにおいて考察する立場へと収斂される。意味は言語の境界を越えて、社会の体系に組み込まれることになる。
意味の成立を→意味作用の連続性のなかに見ようとする。パースは、意味を「期待に応える」ものであり「未来に関わる」特性を帯びると考えている →記号過程。意味の記述は不断にくりかえされる通過点における意味構築にほかならず、その根底に媒介の作用が想定されている。フッサールは「論理学研究」の第2巻で、話し手の志向と聞き手の「意味充実作用」の協働が対象を構成するとし、後年の『イデーエン』(1913)では、志向性を「あらゆる体験を内に保持する普遍的媒体」とみなしている、フッサールの影響のもとでK.ビューラーは、『言語理論』の「序言」で言葉を「形をもった媒介者」とし、媒介のはたらきを生物が社会生活を送るときの基本としている。このときの社会的状況が送り手と受け手に要求する「共通の知覚のための地平の拡大」が「記号生産の生物学的原点」である。→オルガノン・モデルによって示されている 「抽象の有意味性」の段階が進み,「あるものが別なものの代わり」を果たす記号が成立する過程において、そのっど学習の成果とみなされるものが意味である。T.パーソンズは、象徴記号に内在する抽象化の力が行為体系のなかで「個人間の架橋」を果たすとした。つまり異なる状況下あるいは異なる人々の間に「一般化」の原理がはたらき、それによって「行為の同じ形態」がもたらされる。意味の多様性は象徴(記号)の作用として一般化され、記号は媒介機能の担い手となる。この顕著な例を経済的流通の基礎としての→貨幣にみることができる。
Nバレーマンは『社会システム理論』において、「意味」を心理システムと社会システムの両者が「互いに他を求めながら進化した結果、生み出されたもの」であるとしている。このような「共同進化の獲得物」としての意味をそれ自体として定義づけることはできない。多くの言語理論と記号理論が試みてきた意味の記述は、それらの技術上の(音韻論的あるいは視覚上の)諸特徴によって意味説明の限界を示すことになり、「記号は意味そのものではない」と結論される。他方で言語のはたらきは、知覚可能な領域を大きく超えてコミュニケーションの理解を強化している。そのとき言語は時間の中で→意識に関わり、意味は不断に形成され続けることになる。意味を何らかの質的な単位とみなす伝統的な立場の代わりに、プロセスとしての意味機能つまり意味指令が重視されている。後年のルーマンはこのような立場をさらに精密化するために、→相互浸透の考えから→構造連結の概念を導いている。観察者の視点の下で、意味は「顕在性と潜在性の2側面を差異化しながら同時にその区別の統一を図り、区別という視野のなかで作動する媒質」であるとされている。区別とは、常に顕在的とみなされるものにおいて可能性のパースペクティヴを保つことである。この視界から外れて顕在性が退けられるとき、可能性を話題としたりあるいは可能性を考えたりすることはできない。どのような意味の不在に関する想定にもやはり意味がつきまとっている。「意味作用を展開することのないシステムが存在するような世界」を窺い知ることはできないのである。意味の属性を敢えて挙げれば、「否定不可能」、「普遍的」、「使用(=接続)の強制」などとなる。意味は「次なる作動(はたらき)への不断の移行」であり、そのっど形式を形成しながら自己を表明し続けている「優れて潜在的な技術」(=形式)であり、意味は世界の複合性縮減のための「→選択の強制」を示唆している。→意味作用、→媒質と形式)。
社会システムと意識(心理システム)という二つの異なるシステムを同時に視野におく観察者の視点のもとで,「これらが如何に結びつき、如何にしてそれが可能であるのか」という記述が進められる。このとき構造連結の概念は→自己産出の機能に対して垂直の関係におかれ、排除と包摂とを同時に果たす形式を導き、この事態の下で意味記述の可能性が獲得される。N.チョムスキーは『統辞的構造』(1957)のなかで、言語の「形式と意味とのそれぞれの特徴の間に呼応関係が存在する」ことを予感として示した。この予感は一方で統覚上のプロセスとして認知的意味考察を示唆し、他方ではシステム理論上の社会学的意味記述への接続を暗示しているのではないだろうか。このような枠組みのなかで、心理システムと社会システムの協同進化の産物としての意味の記述には、媒介という視点の下で展開するメディアの諸分析が参照されるはずである。
意味についての記述が多様であるのは人間言語の多様性の結果である。また意味記述は常に意味とは何かを問い続けねばならないというパラドキシカルな事情がある。ソシュールは、→記号としての言語のはたらき、つまり有意味なはたらきが、何らかの資料形態の支えによってのみ可能であるとし、このときの「資料的単位」は、ただ言語の「意味」あるいは「機能」に依存することでのみ可能であるとした。「意味」は、ときに「意義」と区別される。両者の対比によって意味考察のあり方を取り上げたG.フレーゲに刺激され、L.ヴィトゲンシュタインは対象を指示することに「意味」を重ねあわせ、そのときの「名づける」ことの可能性は認めつつ、同時に対象について「言い切る」ことはできないとした。後期のヴィトゲンシュタインは→言語ゲームの考えを展開するなかで、言語の使用における意味[形成]の可能性を認めようとする。そのとき意味考察の多様性は、「語」そのものを文脈あるいは発話の場そして環境のなかでのプロセスにおいて考察する立場へと収斂される。意味は言語の境界を越えて、社会の体系に組み込まれることになる。
意味の成立を→意味作用の連続性のなかに見ようとする。パースは、意味を「期待に応える」ものであり「未来に関わる」特性を帯びると考えている →記号過程。意味の記述は不断にくりかえされる通過点における意味構築にほかならず、その根底に媒介の作用が想定されている。フッサールは「論理学研究」の第2巻で、話し手の志向と聞き手の「意味充実作用」の協働が対象を構成するとし、後年の『イデーエン』(1913)では、志向性を「あらゆる体験を内に保持する普遍的媒体」とみなしている、フッサールの影響のもとでK.ビューラーは、『言語理論』の「序言」で言葉を「形をもった媒介者」とし、媒介のはたらきを生物が社会生活を送るときの基本としている。このときの社会的状況が送り手と受け手に要求する「共通の知覚のための地平の拡大」が「記号生産の生物学的原点」である。→オルガノン・モデルによって示されている 「抽象の有意味性」の段階が進み,「あるものが別なものの代わり」を果たす記号が成立する過程において、そのっど学習の成果とみなされるものが意味である。T.パーソンズは、象徴記号に内在する抽象化の力が行為体系のなかで「個人間の架橋」を果たすとした。つまり異なる状況下あるいは異なる人々の間に「一般化」の原理がはたらき、それによって「行為の同じ形態」がもたらされる。意味の多様性は象徴(記号)の作用として一般化され、記号は媒介機能の担い手となる。この顕著な例を経済的流通の基礎としての→貨幣にみることができる。
Nバレーマンは『社会システム理論』において、「意味」を心理システムと社会システムの両者が「互いに他を求めながら進化した結果、生み出されたもの」であるとしている。このような「共同進化の獲得物」としての意味をそれ自体として定義づけることはできない。多くの言語理論と記号理論が試みてきた意味の記述は、それらの技術上の(音韻論的あるいは視覚上の)諸特徴によって意味説明の限界を示すことになり、「記号は意味そのものではない」と結論される。他方で言語のはたらきは、知覚可能な領域を大きく超えてコミュニケーションの理解を強化している。そのとき言語は時間の中で→意識に関わり、意味は不断に形成され続けることになる。意味を何らかの質的な単位とみなす伝統的な立場の代わりに、プロセスとしての意味機能つまり意味指令が重視されている。後年のルーマンはこのような立場をさらに精密化するために、→相互浸透の考えから→構造連結の概念を導いている。観察者の視点の下で、意味は「顕在性と潜在性の2側面を差異化しながら同時にその区別の統一を図り、区別という視野のなかで作動する媒質」であるとされている。区別とは、常に顕在的とみなされるものにおいて可能性のパースペクティヴを保つことである。この視界から外れて顕在性が退けられるとき、可能性を話題としたりあるいは可能性を考えたりすることはできない。どのような意味の不在に関する想定にもやはり意味がつきまとっている。「意味作用を展開することのないシステムが存在するような世界」を窺い知ることはできないのである。意味の属性を敢えて挙げれば、「否定不可能」、「普遍的」、「使用(=接続)の強制」などとなる。意味は「次なる作動(はたらき)への不断の移行」であり、そのっど形式を形成しながら自己を表明し続けている「優れて潜在的な技術」(=形式)であり、意味は世界の複合性縮減のための「→選択の強制」を示唆している。→意味作用、→媒質と形式)。
社会システムと意識(心理システム)という二つの異なるシステムを同時に視野におく観察者の視点のもとで,「これらが如何に結びつき、如何にしてそれが可能であるのか」という記述が進められる。このとき構造連結の概念は→自己産出の機能に対して垂直の関係におかれ、排除と包摂とを同時に果たす形式を導き、この事態の下で意味記述の可能性が獲得される。N.チョムスキーは『統辞的構造』(1957)のなかで、言語の「形式と意味とのそれぞれの特徴の間に呼応関係が存在する」ことを予感として示した。この予感は一方で統覚上のプロセスとして認知的意味考察を示唆し、他方ではシステム理論上の社会学的意味記述への接続を暗示しているのではないだろうか。このような枠組みのなかで、心理システムと社会システムの協同進化の産物としての意味の記述には、媒介という視点の下で展開するメディアの諸分析が参照されるはずである。
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