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数学力は、手順でなく、考える力

『本当の答えを見抜く力』より

○分析的思考力の必要性

 本書は2種類の読者を念頭に書かれています。

 多くのビジネスマンが望んでいるように、何がしかの理由で分析的な思考力を習得、あるいは向上したいと思っている人、そして、大学で数学や数学を要する分野を専攻したい(または、するかもしれない)と思っている人です。

 いずれにしても、とてもパワフルな思考方法を学んでもらうことに焦点を絞っています。

 数学的な手順を学ぶための本ではありませんし、その知識を活用する必要もありません。最終章では、数(初等整数論と実解析の基礎)に焦点を当てていますが、そこで取り上げる「伝統的」な数学はごくわずかです。単に、例題をいくつかご紹介しているだけです。数学者たちが、本書で一貫してお話しする分析的な思考力を徐々に育んでいく上で、糧としてきた素晴らしい例題です。

 19世紀に進展した社会の民主化と「平等化」は、市民1人ひとりにより大きな自由を与え、ビジネスや社会において重要な役割を自らの意思で演じる機会を増やすという、今なお続く変化をもたらし、それに伴い、より多くの一般市民が分析的な思考力を必要とするようになりました。今日の現代民主主義社会は自己を伸ばし、社会で成功する様々な機会をもたらしてくれますが、それを最大限に活かしたいと考えるなら、優れた分析的思考力が以前にも増して不可欠となってきます。

 私はこの数十年間、大学レベルの(純粋)数学を習得するのに必要な思考パターンについて、講義をしたり本を書いたりしてきました。特にこの15年ほど、企業や政府のコンサルティング業務をこなす中で、私の講座や本のテーマである「数学的思考力」こそ、最も重視すべき資質であるという話を各界のリーダーたちから直に耳にするようになりました。特定の技能を持つ人を雇いたいというCEOや政府の研究所長は、ほとんどいませんでした。必要とされていたのは、むしろ、優れた分析的思考力と、必要なときに必要な技能を修得できる能力を持ち合わせた人材でした。

 こうした学界と実業界での経験は、かけ離れたものでありながら明らかに共通する部分があり、いろいろと考えさせられました。その結果が本書で、今回が初めての試みですが、幅広い読者に読んでいただけるような構成に努めました。

 読者の皆さん、これから本書を通して私が言わんとするのは、これまでお話ししたように、現代純粋数学を習得するのに必要な数学的思考力は、とりもなおさず、多くの職業や分野で成功を収めるのに必要かつ不可欠な知的能力であるということを忘れないでください。

○細部を無視することなく考えること

 すぐにわかると思いますが、大学レベルの数学は難題です。しかし、数学自体が難しくなるわけではありません。首尾よく移行できた学生は、いろいろな面で大学数学のほうが易しいと感じていることでしょう。すでにお話ししましたが、多くの学生を悩ませるのは、重点の置き所が変わるということなのです。高校では、多様な問題を解くための手順を習得することに主眼を置いています。ですから、まさに数学の料理本に載っているレシピを読んで頭に入れる、といった趣の学習法になるわけです。大学では、それまでとは違う特別な考え方、つまり、数学者のような考え方を学ぶことに主眼を置きます。

 数学的に考えるということは、数学の分野を学ぶということや問題を解く手順を習得することではなく、より広い視野でより現代的に、しかも、細部を無視することなく問題と向き合うということです。一般に、高校の履修課程は数学的な手順に重きを置き、その他の部分はほとんど無視しています。ですから無理もないのですが、学生、つまり、読者としては、最初は大学数学がまったく別の学問のように思えるのは確かです。私が大学で学び始めたときも、確かにそう感じました。読者が数学(あるいは、物理のように数学を多用する学科)を専攻しているとすれば、高校での数学の成績はかなり良かったはずです。ということは、手順を習得し、それに従って(ある程度の時間の制約の中で)問題を解くことには長けているはずです。だから、高校のシステムで良い成績を取れたのです。ところが、大学に行ってみると、ルールがすべて違います。実際、初めはルールなどないように感じ、あるとすれば、教授たちが隠しているような印象を持ちます。

 なぜ大学では重点の置き所が違うのでしょう? 単純なことです。教育を受けるということは、新たな技能を学び、何かをするための能力を高めるということです。高校卒業時の読者のように、目新しい数学の手順を学ぶ能力は証明済みの学生が、さらなる手順を教えられても得るところはほとんどありません。新しい技法など、必要となればいつでも吸収できるのですから。

 例えば、ピアノ科の学生がチャイコフスキーの協奏曲を1つマスターすれば、少しは練習するにしても、ほぼレッスンなしで別の協奏曲も弾くことができるでしょう。そこから先は、別の作曲家の曲にレパートリーを広げること、あるいは、音楽をより深く理解して作曲できるようになることに視点が向くはずです。
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またも、救急外来へ

またも、救急外来へ

 またしても、尿が止まってしまったので、救急外来へ出向きました。図書館から25冊借りて、スタバで3冊を読んだところで、トイレに行ったら、膿が邪魔をしていた。

 記念病院までのバスに乗るのか、一旦、家まで帰って、車にするか、迷ったが、先に家に帰るバスが来たので、それに乗りました。奥さんに電話したが、いつもの対応。それに喉を痛めているみたいです。

 家でシャワーで洗いながら、膿を出そうとしたが、出てこないので、病院に向かいました。今回は症状が早く見つかったので、尿からの圧迫がないので、ゆっくり対応できます。

 救急外来では、カテーテルで導通をしてもらいました。詰まるたびにこんなことをしていてはしょうがないので、泌尿科には診てもらうことにしました。来週の火曜日です。また、年休が一日なくなります。

すべてを知りたい

 全てを知りたいの中に、今日は何を知り得たのか、夜にこれを入れ込みます。そうしないと間に合わない。人生からすると間に合っていないけど。

歴史のコード化

 歴史の変節点のポイントは、歴史のコード化です。今まで100年で一回起こったことが、1年で起きる。クライシスもその頻度で起こります。これは137億年の歴史の中でも、何回もやられてきたものです。時間の密度が短くなります。

 その急激な変化に対して、人類が対応できない。過去も対応できなった。そういうものに対して、それが起こることに対して、対応できるカタチができるかどうかがポイントです。

 最初に来るのが、環境社会の変化です。それに対応できなければ、それ以降もできない。それが2050年の変節点の内容です。自然現象だけではなく、政治のコントロール、ライフスタイルの変化などの欲望もポイントになります。

 それに対して、人類は対応しようとします。だけど、大きなものからつぶれていきます。恐竜がつぶれたと同様に。それに対して、コンパクトにしたもの、自由に自分たちのアイデアで変われるところが残ります。そこで残ったものが連携することで再生します。これは、新世紀になっても同じです。

 要するに、変化についてこれなくなるということです、変化はついていくものではない。コンパクトに柔軟に、変化を見ていくものです。どんな事態にも対応できるようにしていく。決して、恐竜を作ってはいけない。人間はミトコンドリアになっていけばいいです。その程度の存在です。

未唯空間の第10章まで終わりました

 あまり、完結した感じがしていない。スッキリしていない。第7章までは、最初からのベクトルです。それぞれが独立している。第8章~第10章はあとからの継ぎ足しです。色々な項目が混ざっています。

すべてを知りたい

 「すべてが知りたい」は色々なところに混ざっています。第10章にも中分類になっている。未唯空間を作るのが、「すべてを知りたい」ことではない。なぜ、すべてを知りたいと思ったのか。そしてすべてとは何なのか。

 偶然から考えたら、すべてはありえない。自分が偶々知ったものしかない。偶然というのも、捌くれば、捌くるほど、大変です。インターネット全てを捌くることをグーグルはやろうとしているが、できていません。そんなことはありえないでしょう。

 本を読むレベルを深くします。自分が何を知りたいのか。全ては何なのか。これを本を読む理由にしていきます。だから、本気で考えます。考えるとはどういうことかを考えます。生きるためとか、仕事のためとは一切、抜きにします。

豊田市図書館の1冊

 345.2『私たちはなぜ税金を納めるのか』
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