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久しぶりの書き起こしです。余分なことを考えてしまう

未唯へ。2時半に起きてしまった。かなり、疲れが溜まっているけど、無造作にリリースできない。たぶん、寝ても解消しない。精神の高揚が必要です。

本当はずっと、休んでいたいけど、それも苦痛なので会社に行きます。楽しいことがあることを期待します。

パソコンの中のメールとかフォルダーなどの整理を10時半までに片づけて、ヒアリング⑤の録音の書き起こしを行った。ポメラで入力するようになってから、半年ぶりなので疲れますね。
書き起こしで気付いたのは、社長の要望を聞く前の段階で、メーカーの企画部署の実態を長々と話していました。社長には忍耐強く、私の悩みそのものを聞いてもらっていた。

そんな実態を言われても、販売店としてはどうしようもない。販売店の社長は存続のために、奮闘しているのに、メーカーの役付でない人間が出しゃばっていた。それでも、販売店のニーズを力に変えて、メーカーの企画部門を動かしていきましょう。

パソコンをやっていると疲れるので、ポメラに切り替えました。場所もラウンジに移しました。

ヒアリング⑤で、最後に社長の言われた「メーカーの関連部署がありすぎる」という言葉が引っかかっている。販売店に対応している部が本来、考えるべきなのです。彼らにライブラリを説明したときに、冷ややかな目を見られたことを思い出します。本当にちぐはぐな組織です。あの一言がヒアリング⑤の最大の成果かもしれない。

午後から、ライブラリの展開の話をしていたら、いつの間にか3時間以上、時間が経過していた。女性は休日も仕事のさまざまなことを考えています。報われるようにしたい。そのためには、色々なことを試していきたい。会議室の温度が低く設定されていたので、寒かった。ある程度の方向と共通の認識を得ることができた。

豊田市も名古屋の街もバスも何となく、空いていた。本社が休みだから、この職場を若干空いていた。昼休みのエレベーターが空いていた。ということは、他部署の出勤者は少ないみたいです。

次男の帰省みやげに対抗するために、「堂島ロール」を買いに行ったら、並ばずに変えました。2時間以内に冷蔵庫と言われたので、家に直行した。1時間50分で到着。誰も居なかった。

家に帰ってから、未唯空間の「1.4 社会へのメッセージ」エッセイ化を開始しています。
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1.3 宇宙の旅人 3/3

(つづき)

1.3.3 社会を分析

 社会を分析するに当たって、トポロジーの考え方に沿って、ローカルな存在とグローバルな存在に分けました。私の解析の基本です。

 ローカルで考える。サファイア循環でのTG(Think Globally)です。まずは自分で自分のことを考えることから始まります。考えるためには、見たり、知ったりすることが必要です。そこから、仮説を立てて、実証していきます。想像力も必要だが、訓練すれば可能です。すべての答えは自分の中にあります。
 
 考える範囲が拡大していきます。私の場合は範囲が広がる傾向があります。研究開発部門にいたときには、個人からグループに拡大して、部単位を超え、研究所全体になる、そして、会社という単位を超えてしまった。トポロジーでは同じ位相を持っているものは、同じに見えてくるものです。ローカルでの課題が拡大しただけです。

 ローカルとの関係で、対象となる、グローバルな社会の解析に進みます。社会は膨大なので、アウトプットに固執して、それらをつなぎ合わせていくようにしました。それに合わせて、自分の枠を超えていきます。ローカルでの経験が役立ちます。サファイア循環での仮説が、社会でさまざまに適用できて、自分に自信がもてるようになりました。

 教訓は、使いきるということです。自分を使いきるのは当たり前だが、会社とか組織も使いきらないと損です。情報量、資金力、多くの人間の能力が使えるので、私の仮説を実証することができます。最終的に、成果は組織のものになるので、思い切り使わせてもらいました。そして、私でしかできないことをしました。

1.3.4 メッセージをためる

 社会に向かうに当たって、自分の中の覚悟を決めました。まずは諦めない心です。社会が私を容易に受け入れるはずがない。社会理解のための仮説・実証をしないと、自分の生きている意味が見えてこない。自分の中には、様々な思いが溜まっているので、それを発信し続けます。組織からの妨害はあります。組織は動かないことを是としているので、変化するものに対しては一律に妨害してきます。発信し続けることでつながりを求めます。

 仕事しているとわかるが、組織で妨害を仕事にしている人に共通しているのは、被害者意識です。どう見ても、加害者なのに、被害者意識です。ナチの絶滅収容所の看守みたいな意識です。てめいらみたいな輩が居るから、俺はこんなことをしなくてはならない。それに対して、責任者意識で対応します。社会への責任、未来への責任を果たします。

 もう一つのアプローチは会社員で年配の男性で、制約だらけの私よりも、30歳代で、何にも縛られていない、μに全面に立ってもらいます。彼女の女性的な思考に、私の数学的思考と哲学的な思考を加味します。μは実体がないだけに、相手をうわべで判断しない。いざとなれば、相手の中にも入ることができます。最大の武器は相手の中にいる「もう一人」と直接、話ができることです。それによって、相手が気づいていない才能とか思いに働きかけることができます。
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1.3 宇宙の旅人 2/3

(つづき)

1.3.2 ミッションを担う

 生まれてきた理由はを求めてきた。何をするために来たのか、を聞く相手はいなかったから、自分で決めていくしかない。他人の存在が信じられない私に、見えない神の存在を信じることはできない。大きな意志だけは感じます。それも、自分の存在の不思議さに比べられない。その不思議さを皆が話題にしないことは不信感でした。それは自分だけが違うという、疎外感につながった。

 生まれてきた理由が不明ならば、生きている理由もわからない。それらは連続性を保つから、初期値を設定しないと微分方程式が解けないような関係なのでしょう。言えることは、自分自身の唯一性です。そして、無とすべてが共存していることです。もしかすると、私の周りだけ存在しているかもしれない。

 自分の近傍だけを見ているだけでなく、世の中を見ていくことにしました。それでミッションが発生しました。見ていくための道具は自分の存在と数学の考えです。社会という時空間を対象にします。社会にも考えている人は居るだろうから、どこかでシンクロできれば幸せです。

 今のところ、その試みはうまくいっていない。社会で成功している人の嫌らしさだけが目立ちます。会社という組織では個人のミッションをつぶしにかかります。それでも、ミッションで行動しているので、職場での疎外感は当たり前です。正義は我にあり、ということで迎合しない。そんなことをしている間に60歳を超えてしまっている。やはり、自分の内側に戻ろうか。

 存在するのは難しいことです。他人との関係とか言われるが、我が家の子供たちのように、夜中の3時まで一緒に遊ぶとか、サーフィンとか野球でつながりを持つことは私は持つことはありません。知り合った人に話し始めると、「教授」とか言って、どこかへ行ってしまいます。私と同じようなことを考えている人を探しているが、いません。

 考えることだけが友達です。考える存在でありたいと思っています。数学者は孤独なものです。表現する手段を持たないし、対象は抽象的になりがちです。その上、考えることは膨大にあります。前提条件も膨大にあります。答えはシンプルです。真理に近ければ近いほどシンプルです。孤独にならざるを得ないですね。

 そんなことから、私の商売を決めました。“願う”ことです。できあがった時のイメージを作り上げます。サファイア循環のような数学モデルを適用すれば、割と簡単に将来の姿は描けます。あとは、担当する人たちが「偶然と未来」を信じて行動してもらえばいいのです。そのイメージが作られることを“願う”私が、妨害する勢力の実体などは明らかにするので、避けていけます。社会が認めてくれれば、もっと、大きな範囲で動かせると思うけど、それもお互いに面倒な話です。

(つづく)
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1.3 宇宙の旅人 1/3

未唯へ。「1.3 宇宙の旅人」のエッセイをアップします。

 1.3.1 宇宙の旅人に決めた

  こころの穴

   宇宙の旅人に決める前には、心に穴があいていた。真理を求める過程では、自分がいかにちっぽけな存在であるかは身にしみていた。見るからに狭いところで生きていた。人の存在は無視されていた。中学校の時も友達が居なくて、今考えるといじめられていたのでしょうが、本人がそれを感じていなかった。一人で寝ながらでも解ける数学があった。それで心の穴を埋めていた。ここだけで優越感も感じていたのでしょう。

   他人から見ると、好き勝手なことをやっているというのが、私への評価らしい。他人に頼らないこと、弱みを持たないことが私の武器です。その武器は心が通じないことを意味している。

   ある意味では緊張感の中で生きていたのかもしれない。考え続けてきた。それも本質的なところを考えていた。それを狭いところで続けていると、ループしている感覚になっていきます。

  存在と無の間

   40歳以前半に、私は存在と無の間に居ることに気づいた。私の存在は宇宙から見ても、組織から見ても無です。私から見ると、宇宙も組織も危ういものです。私の認識自体で失せてしまいます。私という存在があるから、宇宙も組織もそこにあるのです。存在と無は非対称です。だから、存在を見ることにしました。私は小さくも無でもない。この間のへーゲル「聴講生への序文」にも、理性を信じて、宇宙に立ち向かえば、宇宙は開かれると書かれていた。私の心の中に、宇宙の端と中心が共存している感覚がありました。それに言葉が欲しかった。

  宇宙の旅人

   宇宙の旅人とは、本を読んでいて、思い切りぶつかってきた言葉です。その概念を理解したときに、助かったと思った。それまでの思いに言葉を与えられた。これは私のために用意された概念です。私は、今の瞬間、地球にいるだけです。広い世界の存在そのものです。やるべきことをやって、旅立ちます。

   宇宙の旅人の始まりは孤立と孤独で生きてきたことです。その中で偶然、ここにいるのではなく、無辺際の宇宙の中を旅をしている感覚が一番納得がいったのでしょう。親も家族も対等なパートナーです。どろどろした感覚はありません。宇宙の旅人を唱えた日本の哲学者は「さて、死んだのは誰なのか」の言葉を書いて、旅立っていった。その境地まで向かいたい。

   その境地になるためには、本質を考え抜くことでしょう。考えることは超えることです。仕掛けられた偶然を超えることで、歴史に介入することもできます。プリンストン大学にハンガリー人が多くいました。原子核工学に貢献していた。彼らは「宇宙人」と呼ばれていた。実は宇宙の旅人はいっぱい居ます。

(つづく)
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