古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

「通貨」を知れば世界が読める(2)

2011-10-28 | 読書
1997年という年は、日本では不良債権問題がピークに達しつつあった年である。株価も大暴落した。こうした年で、ヘッジファンドと彼らに資金を託していた日本の投資家たちも、日本国内での損失を補填するため資金が必要となった。損失補填のためのジャパン・マネーの大逆流が始まった。アジヤからの資金の大撤退が始まった。投資撤退は、すなわち対象国通貨の売り、そうしてアジヤ通貨の大暴落に歯止めがかからなくなった。
IMFは通貨危機の当事国たちに対し一層の金融引き締めを求めた。これは、既にバブル崩壊の打撃に苦しんでいる国々にデフレの追い討ちをかけるようなものだった。
何故そうなったか。IMFは1944年のブレトンウッヅ協定によって生まれた。パックス・アメリカーナ」の通貨的側面の担い手として誕生したのである。現に、IMFの本来的な役割は国際収支難に陥った諸国への短期的な金融支援である。端的に言えば、ドル不足に陥った諸国へのつなぎ融資である。
そこには、あくまでも世界がドルを必要としドルが世界を回すという前提がある。アメリカ以外の国々に対して、ドル不足をきたさないよう厳しく対外収支を管理するよう要求し、それができなくなった時にはしぶしぶ乗り出してドル資金を融資する。これがIMFの基本的本務だったのだ。

アジヤ通貨危機はもちろん、日本にもダメージを与えた。なかなか浮上のきっかけをつかめない日本は低金利政策を採り続けた。日本が超低金利を続けていたため、他国も金利を抑えざるをえない。

世界各地で金利が低い状態となっていれば、投資によって資金を増やすのもまた、難しくなる。特に、常に高いリターンが求められる投資銀行にとっては、資金があっても投資先がないという困った状態に陥ってしまう。(サブプライムローンの)証券化という危険な錬金術に踏み出してしまった。
リーマン・ショックの原因もまた、日本にあったのだ。
こうしてみていくと、円という通貨がいかに世界を動かしてきたかがわかる。しかもそれについて無自覚なわけだから、円はなかなかハタ迷惑な通貨でもある。

(以下、1ドル50円を予想する理由をドルの側と円の側から。)
ドル側の事情。2010年版の「一般教書演説」でオバマ大統領は、「向う5年間でアメリカの輸出を倍増させる」と輸出倍増宣言を打ち出した。
リーマン・ショック以前までのアメリカの経済は、ITと金融が支えた。だが、それが崩壊してしまった以上、輸出立国を目指そうということである。輸出立国は通貨政策上は「ドル安」のほうがいいということになる。「輸出倍増宣言」はドル安容認宣言である。
TTPもまたアメリカのこうした戦略の一環。米国の輸出を増やそうという仕組みで、日本の輸出を増やそうという仕組みではない。この仕組みは日本が加入しないと、その狙いを達成できない。だから、日本の参加を米国は要求し、米国の要求に素直な民主党政権は、加盟を急いでいる。関税がゼロになっても、1ドル50円になったら、輸出増進の効果はない。・・私見です。)
円の側では、2011年4月現在、東日本大震災の影響により、東北、北関東を中心に企業の生産活動全体が停滞している。原発事故にともなう停電と節電により、工場の操業にブレーキがかかっている。しばらくはこの状況が続きそうだ。まさに経済的大ピンチである。
経済の先行きは分からない。財政事情は悪化が必須だ。そして金利は低いまま。超円安に転じても不思議はない。ところが、・・・(世界最大の債権国日本の通貨は)そうはなっていない。ここにも隠れた機軸通貨の秘めたる威力が現れている。


 以上、ポイントを抜書きしましたが・・・さて通貨から世界が読めるとお感じでしょうか?

「通貨」を知れば世界が読める(1)

2011-10-27 | 読書
 円ドル相場が75円台を付けています。「1ドルは50円になる」と述べる浜・同志社大学教授の見解を、彼女の新著(『「通貨」を知れば世界が読める』(浜矩子著、PHP新書、11年6月刊))で読みました。以下、面白いな!と感じたことを抜書き。(カッコ内に小生の私見を追記しました)
「為替介入」は、「藪医者の処方箋」に過ぎない。
「1ドル50円」という「まさか」は必ず起きる。
 ドルは(今でも)基軸通貨だという「誤解」が、1ドル50円を受け入れられない心理的障壁になっている。

「機軸通貨」とは、「その国にとっていいことが世界中にとってもいいことであるという関係が成り立っている国の通貨である。
 通貨というものは常に、その発行している国や地域にとって、もっとも都合のいいような運営をされる。だから、機軸通貨国も「自分さえよければ」という運営をするのだが、それで他の国もよくなる、という関係がある時、その通貨は真の機軸通貨だ(通貨は、昔は金本位制だったが、今日、金本位制を採る国はない。管理通貨制である。管理通貨とは、通貨の発行国が自国の経済にとって、最適な運営(管理)をする通貨である。だから、通貨の発行国に良い通貨管理が世界にとって良い通貨管理であるとき、その国の通貨が機軸通貨でありうる。ドルは機軸通貨の資格を失った)。

 プラザ合意後に、円高が急速に進んだ。1985年初めには250円だった円ドル相場は、1987年には120円台にまで上昇した。輸出中心の経済にとっては厳しい展開である。そこでどうするか。日本の政策はここで大きな選択の失敗を犯したと思う。このことが、その後の日本経済に大きなダメージを与えたと考えざるをえない。残念なことである。

 1987年10月のニューヨーク株大暴落、いわゆる「ブラック・マンデイ」。当時の筆者は、いつまでも借金をして財務拡大路線を放棄しようとしないアメリカに、苛立ちを感じていたので、ひそかに快哉を叫んだ。くるべきものが来た。これで世界経済は均衡回復の方向に動き出す。そうも期待した。
 だが、そうはならなかった。それを拒んだのが日本のバブル経済化。バブル真っ最中の日本の需要が、世界需要に上げ底をもたらしたのである。そのため、世界はブラック・マンデイの衝撃から軽やかに立ち直ってしまう。アメリカは、比較的軽症でこの事態をのりきることができた。バブルの日本が支えたのである。(この時点で機軸通貨の座を滑り落ちるべき米ドルを日本が支えた)
 そして、「東アジヤの奇跡」といわれたアジヤ地域の経済成長も、日本のバブルの余波で、アジヤに流れた円資金(「円キャリトレード」によるジャパン・マネーの流れ)が生んだものだが、同時に、アジヤ通貨危機を起こし、またリーマン・ショックの火種になった。債権大国日本の通貨、円はグローバルに世間にゆさぶりをかける。その影響力はまさに、「隠れ機軸通貨」というにふさわしい。(つづく)


観ている人は診ている

2011-10-25 | Weblog・人生・その他

22日の中日朝刊に載った記事二つ。観ている人は診ている、と感心しました。


以下、ドラゴンズ選手の視力のサポートをしているキクチメガネ加藤さんの記事.


【中日が首位ヤクルトを猛迫する9月中旬。名古屋ドームのコーチ室前で落合監督と目があった。

手招きされて部屋に入ると、監督が「最近さあ、おまえのところで検査して視力が悪かったやつはおらんか」

と切り出した。・・・加藤さんはピンときた。「強いて言うなら和田さんですね」。

すぐさま監督が「そうだろう」とうなずいた。

 9月18日、和田選手が二軍落ちしたのも「視力をなんとかしてこい」という監督のメッセージだ。

 名古屋市東区のキクチメガネ本店。向かい合う加藤さんに、和田選手は

「眼鏡は絶対に無理。打つときにボールがゆがんで見える」と打ち明けた。

二人の結論はコンタクトレンズ。目が乾くのが難点で一度は断念した。目薬や風除けのサングラスで補うことにした。

 「だいぶ慣れて、調子が良くなった」と和田選手。主砲の復活劇の始まりだった。】



もう一つ、同日の中日の記事から。



 【オリックス時代からイチローを研究している湯浅教授(中京大学スポーツ科学)。

今季のイチローの全打席を映像でみた。「例年よりスイング速度が4~5km落ちていた」という。

これまで最速158.~159kmで、常時150kmを越えていたが、

今季は「日本の主力打者並み」の147~148kmに落ちることも。

「結果的に力強い打球が打てず、内野手や外野手の間をぬく安打が減った」と分析する。

 内野安打が今季は42本と昨季より22本も少ない。

単純に脚力が落ちたと考えることも出来るが、湯浅教授は

「盗塁数は例年と変わらないので説明がつかない」。

 それよりも肩周辺にある肩甲骨や鎖骨の動く範囲が狭まったと推測

「イチローは野手からしたら打たないだろうという球も打てた。結果、守備の反応がわずかに遅れ、

一足早く一塁に駆け込んでいた。しかし、関節が硬くなったことで難しくなった」

 では、再度200安打を達成するにはどうしたらいいか。

教授は二つのポイントを挙げた。一つは衰えた筋肉の強化だ。スイング速度の低下には

脇腹にある腹斜筋と尻にある中臀筋が関係する(これらを強化するトレーニングが必要)。

 もう一つは肩周辺の柔軟性だ。体が硬いイチローは打席に立つ前、

よく相撲の四股を踏むように両足を開き、肩を逆の膝の方にねじるような動きをしていた。

「肩の動く範囲を広げる一つの動作だった」と湯浅教授。今まで以上に力を入れる必要があると強調した。】

原発と権力(3)

2011-10-21 | 読書
民主党は原発をどう考えてきたか。
【民主党は、98年の結党以来、原発は代替エネルギー確立までの「過渡的エネルギー」と位置づけてきた。旧社会党が村山政権発足時(94年)に過渡的エネルギーと容認した政策を踏まえ・・党内議論を凍結してきた。しかし、党内に積極推進派もいた。自動車総連・直島正行、東レ・川端辰夫、東電・小林雅夫、関電・藤原正司・・・・ら民間労組出身議員は原発推進派を形成する。
 06年7月26日、民主党は原発政策を大きく転換した。日立製作所原子力設計部出身大畠章宏(のち経産相・国交相)、が座長を務める党の「エネルギー戦略委員会」は、原発を「エネルギー安全保障上、欠かせない存在」で恒久的エネルギーとして積極的に進めると打ち出した。高速増殖炉の技術の確立を含めて「核燃料サイクル政策の完成に向けた取り組みを進める」と示す。】
 民間労組出身の政治家は、時に経営者よりも企業の利益増進に熱心だ。原発をビジネス機会の拡大と捉えていたのでは?
 【政権交代後、鳩山首相は、二酸化酸素を減らすに欠くことのできないエネルギーだ」と発言。 この原発推進の上げ潮を巧妙に利用したのが、仙石由人だった。
2010年のゴールデンウイーク中、国家戦略担当相の仙石は、ハノイで前原国交相と落ち合った。原発を「パッケージ型インフラ」として、ベトナム政府に売り込むためだった。
 民主党政権は、原発輸出を「カネのなる木」と信じ込んで前のめりで進めた。だが、はたして原発を「パッケージ型インフラ」として輸出することに国益が期待できるのか。古賀茂明は『日本中枢の崩壊』で「パッケージ型インフラ」の海外展開について、警鐘を鳴らす。
 インフラをビジネスにすれば、一時期、日立や東芝など複数の日本企業は潤うかもしれないが、日本の国益という視点でトータルに見た場合、儲けがでるかどうかは別だ。
 例えば原発を売り込む場合、30年保証などといった条件がいっぱいでてくる。出来あがって納入しても、事故が起これば一発で儲けは吹っ飛ぶ。】
 最後に、メデイアは原発の実態を伝えているか。
【メデイアの原発、電力批判を押さえ込んだのは莫大な広告費だった。『有力企業の広告宣伝費2010年版』によれば、九電力と沖縄電力、電源開発、計11の電力会社の広告宣伝費は884億5400万円、販売促進費は623億700万円。東京電力は、広告宣伝費243億5700万円に加え普及啓発費を200億円以上使っていたといわれる。さらに・・電気事業連合会は、啓発費に年間300億円。経産省や資源エネルギー庁、文部科学省も独自の広報予算を組んでおり、これらをすべてあわせると電力、原子力関連からメデイアにわたるカネは年間2000億円程度とみられる(出稿量一位のパナソニックは広告費771億円)。
 電力業界の原発宣伝攻勢は、科学技術庁の意向で電事連に原子力広報専門委員会発足した74年ころに始まったといわれる。】
参照:http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111015/223221/

原発と権力(2)

2011-10-20 | 読書
次に日本が潜在的核大国、という話。
 【吉田茂は、1952年、米軍の占領が終結する直前に科学技術庁の新設を決意し、行政管理庁長官に具体案の作成を命じた。再軍備への兵器、軍需品の国内生産の必要性を痛感したからだった。
 また、中曽根康弘らが提出した原子炉築造予算の趣旨説明で、改進党の小山倉之助は「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題」と演説した。科学技術庁は原子力開発の推進期間として生み落とされている。
「わが国のプルトニューム管理状況」(原子力委員会)によれば、2009年末の国内、海外に保管中の全プルトニューム量は34.19トン。・・プルトニューム8kgは原爆1個に匹敵するとみると、日本の保有プルトニューム量は原爆4200発分以上である。
 使用済み核燃料中に含まれるプルトニュームの量は、米国513トン、フランス227トン、日本は136トンで第3位だ。この使用済み燃料を再処理し、高速増殖炉「もんじゅ」で使えば、同位体比率99.8%の軍用プルトニュームを生産できる。
中国の覇権を抑えたい米国は、日本を「代理」に見立て限定的に核武装を容認したとも言われる。80年代に「もんじゅ」や、軍用プルトニュームを抽出する特殊再処理工場の建設を認めたのは、その証とされる。
 日米同盟を額面どおりうけとれば、もしも日本が中国に核攻撃された場合、米国は「核の傘」で守らねばならない。しかし米国が中国を攻撃したら、大戦争に突入する。そこで米国は、日本に自分のことは自分でやってくれ、限定的な核武装を認めた
(もんじゅはナトリウム漏れ事故を起こして運転停止。東海再処理工場の火災事故で特殊再処理工場の建設は中断。)
 中川昭一自民党政調会長は、北朝鮮が日本を攻撃するのであれば、核兵器など使う必要はない、原発のどれかをミサイル攻撃すればいい、と講演で語った。
図らずも東日本大震災で、中川が指摘した原発の弱さが世界中に知れ渡った。頑強に作られた原子炉建屋を破壊しなくても、電源機能を喪失させるか、運転制御室や冷却水配管を壊せば、原発はコントロール不能となる。中国や北朝鮮と対面する日本海側には原発が30数基も集中している。】
 日本は不沈空母と豪語?した中曽根さんは日本で最初に原発導入を考えた政治家であった。浮沈空母には核兵器が必要と考えたかもしれないが、原発を林立させることで、日本人を核の脅威にさらすことになった?
 

原発と権力(1)

2011-10-19 | 読書
『原発と権力』(山岡淳一郎著、11年9月刊ちくま新書)は考えさせられる本でした。以下、その終章から。
 【日本ではほとんど議論されていないけれど、中国、米国、インド、フランスなどは今後、間違いなく「トリウム原子力」の開発に力を入れるとみられる。
 核燃料になるトリウムは、天然資源で、豪州やインド、中国、米国などに広く分布し、資源量はウランの4倍以上といわれる。トリウムはモナズ石という鉱物中に6~9%含有されているが、じつはモナズ石の50%前後がレアアースなのだ。レアアース採取後の残渣にトリウムが含まれていることになる。
 トリウムにはどんなメリットがあるのか。
「核不拡散」の効果が高い。トリウムは原子力の燃料に使っても、核兵器に転用可能なプルトニュームをほとんど生まない。
 一般にトリウムの使用は「溶融塩炉」が適しているとされる。亀井立命館大学衣笠総合研究機構・研究員は言う。
「水を使って熱を取り出す既存の原子炉に比べて、溶融塩は高温でも圧力が低い。5気圧程度です。今使っている軽水炉は沸騰水型で70気圧、加圧水型で160気圧。圧力の低い分、装置は丈夫に作られる。燃料棒を使わないので、頻繁に発電をとめて燃料交換する必要もない。高レベル放射性廃棄物の主な成分となる超ウラン元素を生じない。」
「燃料がもともと溶融しているので燃料棒のメルトダウンはない。もし、液体燃料が加熱すると炉の底の小さな栓が溶けて、燃料は炉の下の容器に重力だけで排出されてガラス固化体に変わります。この固化体に放射性物質は閉じ込められ、外には放出されません。」
 トリウム原子力は従来のウラン・プルトニューム原子力より優れているようだが、プルトニュームを生まないという最大の利点が、皮肉にも、研究開発を阻んだ。権力者たちは、プルトニュームの軍事転用という昏い欲求を満たせないトリウムを無視してきたのである。

 じつは、米国は世界に先駆けてトリウム溶融塩炉をこしらえ、1965~1969年まで無事故で実証実験を終えている。担当したのはオークリッジ国立研究所の物理学者ワインバーグだった。が・・・権力者はプルトニュームという「余禄」がつく原発を欲した。ニクソン大統領はワインバーグを解雇し、トリウム原子力を「お蔵入り」にした。
 日本では、トリウム原子力が政権内で議論されたことは、ない。溶融塩炉を開発したワインバーグが首相の中曽根に手紙を送り、トリウム原子力を提案したが、なしのつぶてだった。「こんな礼を失した政治家は見たこともない」とワインバーグは怒ったとつたえられる。】
 つまり、現在の原発は核兵器の原料プルトニウムを生み出すために作られた!


特定検診と脊柱管狭窄症

2011-10-16 | Weblog・人生・その他
 腰痛が治らない!原因がわからないのですが、数年に一度、腰痛になります。

医者に聞くと「我慢するしかありません」。実際、我慢していると、10日ぐらいで自然に治ってしまう。

 先月25日に腰痛が起き、いつものことで10日か2週間我慢すれば自然に治るだろう、

と思っていましたが、20日経っても腰痛が続きます。

 ホームドクターに相談しようか、先月末に受診した特定検診の結果も聞きたいし、

と11時過ぎ向いの病院にいきました。

 若先生に症状を話し、診察を受けると、

「脊柱管狭窄症だと思いますが重症ではないので、今すぐ専門医にかかる必要もないと思います。

痛み止めを処方しますから、暫く様子をみられたら」という。

 先月28日の健康診断については、「結果は良好です。問題ありません」と、データをくれた。



身長171.7、体重59.7、腹囲77、BMI 20.2

中性脂肪79、HDLコレステロール84、LDLコレステロール110

(肝機能)AST(GOT) 20、ALT(GPT) 13、γ-GT 40

尿検査 糖・蛋白いずれも(-)

(糖尿検査)ヘモグロビンAlc 4.7、血糖(グルコース) 90

(腎機能)クレアチニン 0.8

その他 eGFR 72、

すべて正常値だった。また、(前立腺がん検査)PSA値2.1で異常なし。

便検査(大腸がん検査)も異常なし。

 

 帰宅後、グーグルで「脊柱管狭窄症」を検索したら、症状の説明がほぼ現在の私の症状と同じでしたから、

若先生の診断は間違いないと思います。

 要するに、腰部と脳を結ぶ神経群が入るパイプが狭くなって、

何かの拍子に神経がパイプにぶつかり、痛みを感ずるという症状のようです。

 検査データは問題ないのですが、「腰痛」が出るということは、歳は争えない!

年寄りの冷や水を警戒しなければ、と自戒しきりです。



広島紀行(2)

2011-10-15 | 旅行
 11日、7時半に食堂に行った。まだ、大師匠は来ていない。一緒に朝食を食べようと7時半を約束したのだが、昨夜が遅かったので、まだ寝ているのだろうと、一人で食事する。和食だが、生卵が二つついていたので、お代わりして2膳、卵かけご飯を頂く。
 部屋に戻ってきたら、電話が鳴る。案の定、「すみません、寝過ごしてしまって・・」。「食事済ませたから市内ウオーキングに2時間ほど行ってくる。10時ごろフロントの前に戻るから」と伝え、荷物をフロントに預け、裏口から出る。
 猿猴川という川が流れていて、すぐ駅西高架橋があった。自転車の女学生が大勢通る。橋を渡り大通りを右手にまっすぐ。お城が見えてきた。入り口の橋を渡って二の丸に入る。ここの二の丸は変わっている。本丸の出城のような地形で作られている。橋を渡って本丸に入ると、大本営跡があった。日清戦争のとき、ここに大本営を置き、明治天皇が7ヶ月駐在されたという。天守閣に登ってみようと行ってみると、「開館は9時から」の表示がある。腕時計を見ると8時40分だ。外からお城の外観を見ると、板張りの外装だ。木造?いや、原爆で壊滅して再建したのだから、鉄筋コンクリート作りの筈。
9時まで散策してから入場した。ここも65歳以上無料でした。愛知県では、こうした施設の高齢者優遇は愛知県人に限られる施設が多いのですが、広島県は鷹揚ですかね。
エレベータがないので、階段を5階まで上がった。中の展示はどこのお城も同じような展示である。
お城を下りてから、今度は原爆ドームまで行こう、と鯉城どおりを紙屋町に向かう。県庁前を過ぎて地下街に入った。割と大きい地下街だが、まだお店は開店前でシャッターが下りている。標識に従い、原爆ドーム前に出た。ここまで来たという証拠に写真を撮ってから、帰ろうと時計を見ると9時45分ごろだ。10時にホテルに戻るには歩いていては間に合わないと、駅行きの市電に乗車した。10時10分ホテルに戻る。
フロントの女性が「福屋の前にいます」とMさんの伝言がありましたという。

福屋の前に行くと、大師匠と、もう編集長が見えた。お好み焼きが広島の名物だから、「お好み焼きの昼食会をやろう」と、大師匠が声をかけてメンバーを集めたのです。
「隣のビルの上の階に、お好み焼き店が集まっているから行ってみよう」と、エレベータに乗って行く。なるほどフロア全部がお好み焼きの店だったが、すべてカウンター方式なので「テーブルを囲める店がいい。駅ビルに行こう」とエレベータを降りて駅ビルへ。
駅ビル2階の「麗ちゃん」という店に入った。
 いやー、この店のお好み焼きのヴォリュームは凄かった。でも味はイマイチ。Nさんが「これが広島のお好み焼きの味と思わないでください」と云われた。
 なんとか食べ終わったが、他の方も平らげた。「よく食べられますね」と聞くと「まだ朝飯前でしたから」。
 次々と客が来るので、「麗ちゃん」を出て、ライオンという店に入り、個室的なつくりのテーブル席で懇談した。
Nさんが「われわれの年代の集まりだと、病気の話と孫の話ばかりになりがちだが、こういうメンバーだといいですね。」という。同感だ。
 1時すぎ、散会。ホテルに戻り預けた荷物を受け取り、駅の改札口で大師匠と別れた。
 1時48分の「ひかり」に乗り、新大阪乗換え、夕刻帰宅できました。

広島紀行(1)

2011-10-14 | 旅行
10日、11日の旅。広島紀行です。
 10日は、9:47の「こだま」に乗車、新大阪からは11:59の「さくら」。
以前は、乗り換えなしで広島まで行かれる列車が多くありましたが、今は、「のぞみ」が多くなり(小生ジパングのキップですから「のぞみ」に乗れません)、「ひかり」で広島に行く列車は7時台に2本あるだけ。日中の列車はすべて新大阪乗換えです。大阪からも「ひかりレールスター」という8両編成の列車が以前は多かったのですが、今は「さくら」(鹿児島行き)が多い。
 電車に乗り込むと直ぐ、ホームで買った朝刊(毎日)を広げた。一面トップは、「中国辛亥革命100年」、「デクシア解体」、「子どもの甲状腺検査始まる」。いずれも後世に記憶される出来事だ、と思った。
 新幹線で大阪以西は、1月の直方行き以来です。「さくら」は初めての乗車。広島には12時33分。大阪から1時間34分で着いた。乗換えを含めても名古屋から2時間45分。以前の記憶は余りないのだが、大分スピードアップした気がする。
 駅ビル二階のレストランで昼食を済ませ、駅前のホテルに荷物を預ける。「縮景園までどう行けばいい?」と聞くと「歩いても5~6分です」と地図をくれる。
 園の入り口で、入場券を買おうとしたら「65歳以上無料(年齢を証明するものをみせてください)」の表示がある。「後期高齢者保険証」を見せたら無料で入場チケットをくれた。 後期高齢者保険証をはじめて使用しました。
 入園してみて「縮景園」とは、まさに名は体を表す言葉と思いました。日本的風景の良いところすべてを圧縮した庭園です。
 原爆で壊滅した筈なのに、ここまで復元したのは立派です。
 順路を巡って最後に県立美術館の入り口がありました。園内から直接美術館に入れます。入場券の窓口には、「所蔵作品展は65歳以上無料」の表示があったので「所蔵作品展だけでいいや」と保険証を提示してチケットを貰い、2階の展示室に行きました。
 第一室は「ナチスに「退廃」の烙印を押された美術家たち」。カンデインスキーやクレーの作品がありましたが、こうしたナチスに嫌われた作品を蒐集・所蔵しているのは見識ですね。
 第二室は洋画、没後100年「小林千古」という画家の作品が集められていました。広島県廿日市市の出身で若くして渡米。パリなどで活躍した画家だそうです。
 第三室は、日本画家・船田玉樹の作品群とその他の日本画、丸木伊里とその母丸木スマ(晩年から画家になった人らしい)の作品がありました。
 第四室は、「騎馬の民トルクメン人の世界――装身具と民族衣装」展示室でした。
 3時半ホテルに戻りチェックイン。TVを見て休んでいました。5時半ごろ「今着きました」と大師匠(九州に住む友人)から電話があり、6時20分一緒に福屋のレストラン「梅の花」に向かいました。
 同好会の懇親会は、2時間の予定が、話が弾んで3時間近くに。その後の2次会は近くのカラオケボックス。この方はこういう歌がお好みなのか!発見でした。11時半近くに初日のお開き。ホテルに戻るとロビーでTVのスポーツニュース。首位決戦、中日の先勝に満足して部屋に引き上げました。(つづく)
 

1970年体制

2011-10-07 | 読書
『1970年体制の終焉』という面白い題名の本を読みました。著者は、原田泰さん(東洋経済新報、98年10月刊)です。
 この本の意図を、著者は最初の章でこう説明している。
 【戦後経済の「過ち」を説明する理論として、私たちはすでに1940年体制論という理論を持っている。この理論によれば、戦後の高度成長の特徴となった日本的雇用や間接金融システムが成立したのは、1940年ごろであり、その時代に感性したシステムが現在の日本経済を呪縛しているというのだ。また、戦後、農業、流通業などの小規模サービス業の生産性格差にもかかわらず所得格差が拡大しなかったのは、官僚が経済に広範に介入したからであるが、その介入システムもまた1940年前後に成立したものであるという。「1940年体制論」は、このシステムは戦後の高度成長に役立ったが、今後の日本経済には桎梏になると主張する。(野口悠紀雄『1940年体制――さらば「戦時経済」』、1995年)】
 この論に対して、著者の反論は
【1940年体制は、戦争遂行の手段としてすら成功しておらず、国民の評価もきわめて低かった。】、さらに、【1940年体制は、40年体制は戦後の高度成長になんら役立っていなかった。高度経済成長は、40年体制の統制経済から自由化が進む過程で起きたことであり、40年体制が、戦後の高度成長に役立ったという事実は認められない。】
 著者は、「1940年体制論」に反対するだけでなく、日本経済の低迷は、1970年前後に問題があった、と説く。
【戦後の大改革で日本経済に自由がもたらされ、その結果、1950年代後半からの高度成長が実現した。しかし、1970年代になって、経済の復興に満足した人々は発展より安定を求め、安定のためのシステムの様々なシステムを導入した。その安定のためのシステムが、日本経済の足枷になっている。
 本書は、1970年体制がどのように成立してきたかを記述し、それがどのように日本経済の停滞をもたらしたかを分析し、日本経済復活のための改革の道筋を示すものである。】
 著者のいう足枷のシステムの一例を「電力料金」をみてみよう。
 【通産省の資料によると、1994年9月時点では、日本の料金を100とすると、家庭用電気料金では、アメリカ67、イギリス59、ドイツ77、フランス69であり、産業用電力料金では、アメリカ59、イギリス62、ドイツ72、フランス57になっている。格差のもっとも小さいドイツと比べても、電灯料金で約3割、電力料金では約4割も日本の電気料金は割高になっている。】
 日本の電力事業は、1965年施行の電気事業法により厳格に規制されてきた。
 【電力会社に地域独占が認められてきた主な理由は、電気事業においては規模の経済性によって自然独占が発生すると考えられてきたからである。自然独占制とは、産業の技術的な特性から、一企業によって独占的に生産がなされるほうが、多数企業によって生産がなされるより生産費用が低くなるという性質である。
 電力業は、発電、送電、配電からなるが、発電には規模の経済性があり、送電、配電にはネットワークの経済性もあるとされてきた。そこで、参入規制によって一企業に技術的効率を達成するとともに、独占利潤を発生させないように料金規制をするというのが、電気事業法の考えである。ところが、遅くとも70年代後半には、従来型大規模発電の自然独占制の喪失と分散型発電の技術革新が生じていたと考えられる。

 アメリカでは、1978年の公益事業規制政策法が制定され、発電分野は、従来認められてこなかった風力や地熱などを利用した小規模発電や天然ガスなどを利用したコージェネレーシヨン・システムが発電などに参入することを認めた。同時に、発電、送電、配電の設備をすべて保有する伝略会社に対して、一定基準を満たす小規模発電やコージェネレーシヨン・システムの余剰電力を、州が設定した価格で無条件で引き取ることを義務付けた。
 イギリスにおいても、1983年エネルギー法によって発電分野における規制緩和を実施した。主な内容は、小規模発電やコージェネレーシヨン・システムによる民間からの参入を認めることであった。国営の配電事業者地域配電局には、発電分野の限界費用に相当する価格で新たな発電分野に参入する民間事業者からの買電を義務づけた。】

 日本での参入規制の緩和は、95年の電気事業法の改正まで待たねばならなかったが、日本の電気事業法の規制緩和が、どの程度のものか、日経ビジネスオンラインの次の記事を見ると、よく理解できる。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110930/222923/?mlh1&rt=nocnt

 著者の主張を要約すると、経済を発展させるものは、国民の自由な発想と自由な経済行動であり、この自由な経済行動を規制するシステムは経済成長を阻害する。こうした自由を阻害するシステムの多くは70年代に出来上がった。実際、70年代のオイル危機以後、成長率が半減したのは、日本のみである。

 尚、この本は、(古い本ですので)県図書館の書庫から探しだしました。先日、「日本の失われた10年」という本を読んでいたら、【日本の構造改革は70年代から必要だった】という旨の記述があり、これについて、詳しい解説を読みたいと探してこの本をみつけました。