古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

練習再開

2017-05-30 | 水泳

 

29日午前、なごやマスターズは昨日終わったが、1年後の来年の大会には出られるよう練習しようと北スポーツに出かけた。ワンポイントレッスんのコーチの顔をみて、昨日の大会を欠場したことを報告、バタフライは基本のキックからやり直すこと、来年までに左脚が治らない場合は、平泳ぎで出場するから、平泳ぎを教えてほしいと頼んだ.

プールの中に入ると、顔なじみのおばさんが「昨日どうだった?」と声をかけてくれた。「左足が動かないから棄権した。また来年出られるよう練習します」。

 「一生懸命練習してたのにね」と慰めてくれた。一生懸命やらなければ勿論うまくいかないが、世の中一生懸命やれば必ずうまくいくと言うほど甘くない。

「ひもで足首縛って練習してまでたのに」。

先日の練習を見ていてくれたのだ。コーチのアイデアで、左右の足首を縛って「これで泳いでみて」と言われた。左右の足を縛れば、左足も右脚と同様に動くはずだとコーチが考えたのだ。結果は失敗だった。動く右脚まで左足に同調して動かなくなった。

レッスんの時間になった。最初に25mビート版を持ってバタフライのキック、次に25mバタぐらいで泳いで、見てもらった。

「ビート版キックだと、左がうごくときもあるが、バタフライの泳ぎになると、全然左が動かなくなる」とコーチが言う。

次に平泳ぎで25m泳ぐ。「足の裏だけで水を押している。」とコーチ。

「足の裏で水を押すよう意識しています」。

「水を押す面積を大きくしないといけないから内股全体で水を押す練習をしてください」

「腕の動きはどうですか?」。「先日TVで日本記録保持者の渡辺選手の動きを放送していましたが、肘を高く上げて泳いでいましたが」。先日の競泳プールのコーチも、「平泳ぎは腕を大きくまわしてください」と言っていた。「脚より腕の方が直しやすいから」とのこと。確かに腕の方が見えyているから直しやすい。

「推進力としては腕よりは脚ですから足を先に直してください」。

と、ビート版を持ち平泳ぎキックの練習をしてこの日は終わった・

プールから上がると、顔染みの男性が、「バタに比べると、平泳ぎは左足が動いているよ」と声をかけてきた。

「みんなが私のこと応援していてくれるんだ」と思ったら目頭が熱くなった。

 


水泳大会出場を断念

2017-05-29 | 水泳

 

27日午後、JR笠寺駅前の日本ガイシプールに出掛けました。28日の名古屋マスターズ大会をひかえ、競泳プールで、飛び込みの練習とワンポイントレッスンを受けようと思ったのです。

このプール久しぶりです。3年前の2月のマスターズ大会に出場しましたが、多分それ以来。

入り口で、入場料200円を払うと、名前のサインと、緊急連絡電話番号の記入を求められました。領収書に災害補償の保険に入った説明書がついていました。深いプール(一番浅いところで水深2m)だから、事故の保険をかけているようです。

着替えをしてプールに入ると、両端のコースが飛び込みの練習こーすです。一番左のコースに行き、10人ほど並んでいるスウィマーの最後に並びました。

順番で、飛び込み台に上がり、飛び込んでみました。飛び込みも3年ぶりです。2回練習してから、一番右のコースに行きました。ここでは、コーチがアドバイスをしていました。3時の5分間休憩の後、飛び込んで最初に平泳ぎで50mコースの真ん中迄泳いでから壁にある階段を使って上に上がりました。

「飛び込みはもう少し角度をつけないとお腹が痛い!」、「平泳ぎは腕を大きく回した方がいい」と、コーチのアドバイスです。

もう一度アドバイスを貰おうと、また列の後ろに並びました。待っていると、少し寒くなります。水温が競泳プールは27度。温水プールは30度ですから、競泳プールは泳いでいるときは快適ですが、水から出ていると寒くなります。

 2回目は飛び込みとバタフライです。コース半ばまで泳いで上がると、コーチが来て「左の足が動かないですね」。やっぱり!

「脚が動かないという証明書を出せば問題ないですが、このままでは永法違反とされます」。

 実は、3年前の転倒事故依頼泳いでいるときの左足の動きが動かない!

いわば片足だけでバタフライ50m泳ぐのだから、その粘りは立派なものだが、泳法違反とされてはなんともならない!

実は、「泳法違反とされるかな?」とガイシプールのコーチの意見を知りたくて、19日温水プールでのワンポイントレッスンに参加したのです。

「左足が動かない!」。「転倒事故で頸を痛めて以後、左足が動かないのです」。

「キックで左脚を動かす練習を繰り返ししてください」と、壁に両手をつけてバタフライのキックを練習するやり方を教えてくれました。

26日にも温水プールのワンポイントレッスンに参加しました。

「左足が動かないのは、水平になった時脚を上にあげることができないから。脚で水を押す前に、しっかり脚を上げることを意識して練習してください」と言われた。

「やっぱりダメだな。今から練習しても明日までに治らない!足が動かないという医師の診断書までつけて大会に出場することもない!」と、明日の出場を棄権することにしました。

「キックの基本から練習し直し来年の大会にチャレンジするか!」と、プールを後にしました。

 


藤前干潟から金城埠頭へ

2017-05-21 | 旅行

 

5月20日は今年最初の夏日。駅ちかウオーキングに行きました。築地口から藤前干潟を通って名古屋港金城ふ頭駅まで約9㎞のウオーキングです。地下鉄の中で、隣に座った女性がウオーキングの案内を見ていました。横眼遣いで見ると、駅ちかの案内図ともう一つ別の案内図です。駅ちかは築地口スタートですが、もう一つの方は次の名古屋港スタートです。私は築地口で下車しましたが、女性の方はまだ乗っている。どうやら、もう一つの方のウオーキングに参加するらしい。9時半地下鉄築地駅の④出口から右へ歩き始めました。1kmぐらいで中の島川緑地。

そこから緑地の中の散歩道をあるいて十一屋川緑地です。

この辺りは緑地が綺麗に整備されています。

 「今日は暑くなりそうだ」と思いながら歩きます。

4kmで稲永東公園に着きました。今日は公園内でチェックポイント通過証を配っていました。これをゴールで示すと完歩を認めてくれるのです。公園でコンビニ調達の弁当を取りました。

公園を過ぎると藤前干潟に出た。この日型までは、2,3年前にシニアウオーキングで来たことがあるが、今日はここから先を、伊勢湾沿いに埠頭まで歩くコースです。

藤前干潟は、庄内川・新川・日光川の3河川が合流する河口部に位置し、潮が最も引いたときには238ヘクタール(東京ドーム50個分)の干潟が現れます。年間を通じて100種類を超える水鳥が飛来し国指定鳥獣保護区・ラムサール条約湿地に登録されています。

 野鳥観察館を覗いた後海沿いの道を歩き始めました。約4㎞弱のコースですが、暑さで少々へばりました。

 

途中で「この道でよかったかな」と道に立っているスタッフに確認すると「私たちは駅ちかではないのですが」。「ゴールは金城ふ頭駅です」。「では、この道をまっすぐ行ってください」。12時半やっと金城ふ頭駅に着きました。3時間歩きました。9kmを3時間ですから、いつものペースです。

鐡道館は、新幹線を中心に在来線から超伝導リニアまで39両の実物車両を展示。模型やシミュレータで高速鉄道技術の進歩を学べます。

入館料は1000円ですが、ウオーキング参加者は800円でした。しかし、草臥れていたので「場所はわかったから今度にしよう」とパスして帰ることにしました。

名古屋駅に戻り、地下鉄で東区図書館に行き、雑誌など眺めた後、3時過ぎ帰宅しました。

日課の水泳は疲れていたので、今日はやめました。

 


返還交渉 沖縄・北方領土

2017-05-17 | 読書

5月15日は、沖縄が変換されて45年という。沖縄返還の歴史を勉強しようと『返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」』(東郷和彦著、PHP新書、2017年3月)を句入しました。筆者は代々外務官僚の家に生まれ、外務省局長。父文彦氏は、元外務省アメリカ局長として返還交渉にあたった。また祖父茂徳氏は東条内閣の外務大臣であった。
 この本は前半、父文彦氏と若泉敬氏の思想を中心に語る。若泉氏は、佐藤総理の密使として沖縄返還に関わり1994年『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を著し、96年7月死去(自栽)した。
 根本の考えは「核抜き本土並みは理想である。しかし、日本を取り巻く安全保障上の環境がどうしてもそれを許さないのなら、核付きなら返還は無い方がいいのか、それとも核つきでも、まず返還を実現した方がいい。のか、そこのところの原を決めねば、交渉に力が入らない。自分は、核付きでもまずは返還を実現しなければいけないという考えだった。核のある沖縄なら返還されない方がいいというのでは、あまりに本土は身勝手ではないか」と東郷は説く。
 これが二人に共通する考えだった。
浮かびあがったのは、沖縄返還時に一旦核を撤去する。しかし有事の際には、米政府が要求すれば日本政府は承認するという密約であった。
大田知事あての『嘆願状』と題する書簡に若泉氏は記す。
「拙著の公刊によって沖縄県民の皆様に新たなご不安、御心痛、御憤怒を引き起こした事実を切々自覚しつつ、1969年日米首脳会談以来、歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自栽します。」
大田元知事は語っている。
「『結果責任』を執って自栽するとまで思いつめられた。その思いというのは、ひしひしと伝わってくる。そこまで普通はなかなかできない。日本の戦後の政治化でそういう人は一人でもいたか。密約を結んだこと自体は責められるべきところもあるが、人間的には非常に尊敬できる方です。」
「『結果責任』とは何を指すか、それは基地が減らないということですよ。復帰の時とほとんど代わり映えしない。若泉さん本人は、沖縄が変換された後は政府が基地を削減して、沖縄の負担を軽くすると思っていた。それを信じていたからこそ密約を結んでも、できるだけ早く返還させた。」
後半は[北方領土問題]です。交渉の経緯が詳しく記載されています。
1956年、鳩山総理がモスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。その第9項に
「日本国およびソヴィエト共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
 ソヴィエト共和国連邦は、日本国の要望に応えかつ日本国の利益を考慮し歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。これらの諸島は、日本国1とソヴィエト共和国連邦との平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」
日本はこれに同意しなかった。
56年1月から3月までロンドンで交渉再開したが溝は埋まらず、その直後、ソ連はサンフランシスコ平和条約発効後・息をふきかえしつつあった北洋サケ・マス漁業に対して、カムチャッカ半島の東西両側を「漁業制限区域」に指定して事実上日本漁船を締め出す方針を通告してきた。河野一郎農林大臣がモスクワを訪問、ブルガーニン首相と交渉した。漁業条約・海難条約が「平和条約が発効されるか、国交が回復されることを条件として」締結されることになった。
1960年、ソ連政府声明(グロムイコ声明)が、この年締結の新日米安保の性格にかんがみ「日本領土からの全外国軍の撤退」という追加条件が実現する場合のみ、歯舞・色丹を日本に引き渡すといってきた。70年代~80年代ソ連は「領土問題は存在しない」、日本は「4島一括返還」を主張し、膠着上京になった。
1985年のゴルバチョフの書記長就任まで事態は動かなかった。
1991年、小沢自民党書記長がソ連を訪問した。ポイントは4島返還と日本の経済支援であったが、事態は動かなかった。
 09年5月12日、訪日したプーチンは、麻生総理との会談で「問題解決に向けたあらゆるオプシヨンが議論される」と発言した。
 ところが、5月20日参院予算委員会で麻生総理は「北方領土」はロシヤに「不法占拠」されていると発言した。「戦争で進駐しその地に留まることは不法占拠ではない」とソ連は考える。日本人は8月15日の終戦後にソ連軍が入ってきたから「不法占拠」と考えますが、ソ連は、終戦したのは9月2日の降伏文書に調印した時で、それまでは戦争状態であったから、ソ連軍の進駐は「不法占拠」にあたらないというわけ。
29日の河野駐露大使の信任状奉呈式で、外交慣例を無視し、「このような発言は、一方的で法的な枠を越えた受けいけられないもの」と激しく批判した。
動きかけていた交渉はご破算になった。


チョークと物理理論

2017-05-12 | 読書
『重力とは何か』(幻冬舎新書、2012年5月刊、大栗博司著)を市立図書館の棚に見つけ借りてきました。筆者は最近中日夕刊のコラム「紙つぶて」に時折投稿されていて面白いので、まとまった著書を読んでみたいと思っていたのです。大栗さんは、東京大学国際高等研究所カプリ数物連携宇宙研究機構主任研究員。
大栗さんが5月10日の中日のコラムに「幻のチョーク」と題して寄稿していました。
「2年前、世界中の数学者を震撼させるニュースが走った。日本の老舗チョークメーカーである羽衣文具が、後継者不在で廃業するというのだ。数学や理論物理学の研究では、頭に漠然と浮かんだアイデアを、数式として表現するプロセスが重要だ。貴重なアイデアを失わせないうちに書き留めるためには、書き味の良い文房具が欠かせない。
ペンを使うホワイトボードより、チョークを使う黒板の方が好まれるのもそのためだ。
 チョークは、指で消せるのも利点だ。間違ったらすぐに書き直せるので、集中力が途切れない。
 羽衣侮奴のチョークは、滑らかに書けて、きれいに消せる。「チョークが自分で数式をかいてくれる」、「間違った定理は書かせてくれない」と、まことしやかに語られるほどの評判だった。優秀な数学教官を表彰するときに、羽衣チョーク一箱を副賞として授与する大学もあった。
羽衣文具が廃業になったので、あのすばらしいチョークも幻と思っていたら、先日私の秘書が「みつけたわよ」と持ってきた。
 製造機械やノウハウを譲り受けた韓国企業が、米国で販売を再開したのだった。」
さて、大栗さんの本である。
 さて、大栗さんのこの本、ニュートン力学、一般相対性理論、量子力学、超絃理論が重力をどう説明しているかを解説しています。
 一般相対論は、重いものがあると、そのそばで光が曲がることを明らかにしました。その事実から最近、宇宙の中にある重力源。「暗黒物質」や「暗黒エネルギー」を探る研究が行われています。それらの正体が明らかになれば、数百年にわたって教科書に載る大発見になるでしょう。
 物理学者は一般に「保守的」で、確立した理論を使える限り使い続けますが、その理論が通用するかどうかぎりぎりの条件で使ってみて「使えない」とわかると、新しい理論を考えます
 アインシュタインは、電磁気理論とニュートンの重力理論の矛盾を解消するため相対論を確立しました。
 アインシュタインの重力理論は、ブラックホールの存在を予言したが、「ブラックホール」の説明をしようとすると、相対論と量子力学の間で矛盾が生ずる。
相対論が量子力学とうまくかみ合わない所がある。これを解消するための理論が「超絃理論」です。
 こうした物理学者の理論追及の跡をたどった本ですが、こうした理論追及のプロセスで、筆記具をなめなめ考えたのでしょうね。

アメリカ帝国の終焉

2017-05-04 | 読書
 『アメリカ帝国の終焉」(進藤栄一著、2017年2月講談社現代新書)、書店で手に取ってみたら後書きに「出版のきっかけを作ってくださった孫崎亨先生に深謝」との言葉があり、買って読むことにしました。
第3章「勃興するアジヤ—-資本主義の終焉を越えて」が面白い。
 西側先進諸国は、特に2010年以後、リーマンショックから立ち直るために、中央銀行の政策金利を2%以下に抑えたうえで、大量金融緩和政策に乗り出した。その量的緩和を、EUが追いかけた。
しかし西側先進諸国が採り続ける長期「超」低金利政策に焦点を当てて、「資本主義の終焉」する世界と位置付けるなら、歴史の読み方を誤ることになる。

 日本は、米、欧に先駆けて1993年、バブル崩壊後の不況から脱するため、政策金利を1.75%にまで引き下げ、さらに1999年2月(2000年8月解除)、2001年3月(2006年7月解除)、2010年10月と、ゼロ金利政策を採用した。そして黒田日銀総裁下で2016年に、EUにならってマイナス金利に転じた。日本は、20年以上も長期「超」低金利政策を牽引する
 かくて米、欧、日の先進諸国が長期にわたって超低金利政策をとり続け、そのため企業家や庶民が利潤を金融機関に預託しても利潤を生むことのない経済社会構造が作られ、定着していく。
 資本主義が「死の床」に着き始めている。知名のエコノミスト水野和夫教授や榊原英資氏は、そう診断して、「資本主義の終焉」を示唆し強調する。
 たしかに本来、資本主義は、資本が利潤を生んで投資や消費に向けられて、経済が成長し続けていくことを本質とする。それなのに主要諸国が、一様に超低金利政策をとり続けるなら、資本主義が立ち行かなくなる、と説く。
 ほんとうに資本主義は終焉しつつあるのだろうか。現実にはしかし、資本主義はどっこい生き続けている。
 実際もし私たちが視野を、先進国世界から新興国世界に広げるなら、私たちの眼前にはまったく違った光景が展開する。すなわち、インドやインドネシヤ、トルコに至る新興G7諸国の金利は、1990年以後、ほぼ一貫して5%内外、もしくはそれ以上を維持している。
 米、欧、日の余剰資本は、低金利の先進国市場を嫌って、高金利の新興国市場へと逆流する。そして資本主義は、終焉することなく、逆に拡大深化している。
 2008年リーマンショックを境に、新興諸国、とくにアジヤ諸国へ逆流を強めて、新興アジヤを軸にもう一つの資本主義が勃興しているのだ。
 資本主義にはいくつものかたちがある。いま、米欧日などの先進国型とは違うもう一つの資本主義が、ニューヨークやロンドン、東京から「ジャンプして」、「新しい空間的定位」を求め北京、ニューデリー、ジャカルタに至る新興アジヤで勃興し成長し続けている。
 解は情報革命にある。
 第一に情報革命は、生産構造の主軸を資源労働集約型から知識資本集約型へ変容させた。
 実際、21世紀情報革命下で、ものづくりのかたち、つまり生産構造や生産様式が変容した。その結果、資本主義が興隆するのは情報革命が発祥した米国でもEUでもなく、新興アジヤで、もう一つの資本主義が甦生している。
 日本のエコノミストたちが唱導してきた「雁行形態モデル」は崩れている。
日本が雁の群れの先頭を飛び、その後ろを韓国や台湾などNIESが追いかけ、ASEAN諸国が後に続いて、雁の群れの最後尾を中国やネパールが飛んでいくという、1980年代までの常識―――雁行形態―――は崩れる。
 進行しているのは雁行モデルではなく。蛙とびモデルだ。韓国などのNIESはいうまでもなく、圧倒的な技術後発国であった中国、インドが科学技術突破をたくみに利用して、工業先進国に飛びつき、飛び越していくことができるようになった。
 第二に情報革命は、生産様式の主軸を、国内垂直統合型から多国間水平分業型に変えた。通信技術革命が、国境の壁を取り払って、国々、企業、市民相互の距離をおびただしく縮めたのである。
 生産のモヂュール化も可能にした。たとえば今や、クルマは一つの国でつくられていない。5か国から6か国、デザインを入れると8か国にもなる。国際分業のかたちはネットワーク化していく。
 自動車産業についてみると、世界における生産シェアは、日本は1980年28.7%だったが、2015年には10.2%になった。一方アジヤは、1980年29.3%(日本含む)だったのが2015年51.2%になった。
電気機械についていうと、日本のシェアは、1980年69.7%だったのが2014年には11.1%。一方中国は1980年の0.7%から2014年42.8%になった。
つまり、アジヤの資本主義は終焉どころか、沸騰している。米・欧・日型の資本主義は終焉したと説くエコノミストがいるが、終焉したわけではなく、アジヤの新興国に、別のかたちで(蛙とびタイプの資本主義)がどっこい生きているというのだ。