古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

100mバタの結果

2011-09-26 | 水泳
 レインボーカップ水泳大会、第3日は100mバタフライ、出番は2時半の予定ですから、早めの昼飯を済ませ、11時半に家を出ました。家を出るとき、愕然としました。立ち上がろうとすると腰が痛い!腰痛が出たのです。原因がわからないのですが、1~2年に一度、腰痛になる。医者に聞くと「我慢するしかありません」。実際、我慢していると、10日ぐらいで自然に治ってしまう。その腰痛が、よりによって大会の日に出た。
 しかし、今までの経験によると、私の場合どんなに痛くても、水の中に入ると泳げるのです。「泳ぎはなんとかなる!」と、地下鉄・JRを乗りついて12時25分会場に着きました。女子の100m自由形が始まっていました。次が男子の100m自由形。ついでバタフライになります。
 着替えしてサブプール。今日は混んでいましたが、450m泳いで、アップを済ませました。地上で腰を屈折すると、すごく痛いのに、泳ぎは何の痛みもありません。
 競技場のプールサイドに腰を下ろして男子100mを観戦。
2時前に選手控え室に行きました。すぐにSATOH KENさんが来た。
「NOZUEさんも元気だナ」(78歳のSATOHさんの方がもっと元気だが)と言う。
「それが今日は腰痛なんです。」
「みんな何かはあるナア。でも、あんた腕が最後まで上がるから良いよ」
「2バタ見ていましたか。
SATOHさんは、バッタは一かき2呼吸?それとも1呼吸?」と聞くと、
「(呼吸は)出来るだけする。ワンストローク・ワンブレスだと、姿勢が立ってくる(水の抵抗が大きくなる)。ような気がするな。
バタフライは背筋と腹筋が強くならないと泳げない!」と、教えてくれる。
 「でも、こんな苦しいことを何でやるんだ、と泳いでいるときは思うが終わるとうれしくてまた出る」
 予定通りの時間で進行し、女子バタ・男子バタの招集になる。
 小生は、1組の9コース。8コースはKさん(一昨日の2バタ75歳区分優勝。79歳だそうだから驚き!)。7コースがSATOHさんだ。10コースは空き。75歳区分は4人で、申告タイムを見ると凄いメンバーだ。レース前、座っている時、隣のKさんに話してみた。
 「どちらから?」
 「埼玉の朝霞です」
7コースのSATOHさんとは、各地の大会で顔なじみらしく、親しく話していた。
 この人、来年は80歳区分で日本新記録をねらうのかな?
 時間が来て、飛び込み台に上がるとき、腰が痛いので苦労した。
 スタートの笛で飛び込む。予想通り、泳ぎ始めると腰の痛みはまったくなかった。
 100mはマイペースで泳げば、なんということもないのだが、隣が早いので少しでも早く泳ごうとすると、75m過ぎはどうしてもきつい。フィニッシュして電光板を見ると、2分27秒04
 次の組が飛び込み台に上がらないので、「1コースがまだ泳いでいる」と気付いた。1コースは、四日市のGさんだ。タイムはともかく80歳で元気に泳いでいる!
 プールを上がって、サブプールでダウンを泳いでいたら、SATOHさんが来た。「NOZUEさんお疲れ!また遇おう」と握手した。450m泳いであがる。
 4位のメダルは真鍮色でした。昨年も4位でした。


長崎歴史文化博物館収蔵品展

2011-09-25 | 美術館と美術展
「長崎歴史文化博物館収蔵品展」が、高浜市のかわら美術館で9月25日まで行われていました。24日は絶好のお出かけ日和でしたので、行ってみました。
 この美術館、衣浦大橋近くの小さな美術館ですが、時々面白い企画の展示をやるのです。3年前は、「ねむの木の子どもたち展」その前の年は「原爆の図」の展示があり、見に来ました。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20080828

 11時半過ぎに到着。入場チケットは¥600。
出かける前に、「長崎の博物館の収蔵品を見に行く」と話したら、「原爆の資料でもあるの?」と、若い姪に聞かれましたが、江戸時代、長崎はアジヤのみでなく西洋にも開かれた国際都市でしたから、当時の文化を伝える品々が残されています。
http://www.takahama-kawara-museum.com/exhibition/detail.php?id=150
 2階~3階が会場で、プロローグは、18世紀の世界地図と日本地図の展示。当時から、かなり正確に国の形がわかっていたんだ、と思いました。
 2階は、出島貿易を通じて入ってきた海外の絵や工芸品の展示。
 出島阿蘭陀屋敷の景やイギリス製ウィスキー瓶、ギヤマン杯などの工芸品がありました。勿論、中国から入ったものもあります。 磁器や陶器、端渓硯石などもありました。面白いと思ったのは、かわら美術館だけあって、長崎の古い瓦が数点展示されていたことです。
 3階は、やきものを中心に海外の影響を受けた異国趣味あふれる日本の工芸品です。長崎の亀山焼、対馬の対州焼、平戸焼、など。
こうしたものにご関心ある方は、長崎旅行の際に、お立ち寄りください。
ご参考までに、本家の長崎の博物館のホームページを紹介します。
http://www.nmhc.jp/
 1時間ほどかけて見学しましたが、見終えると時分時でおなかが空きました。おいしいものでも頂こうとレストランを聞くと、フランス料理の店が館内にありました。
 這入ると、結構にぎやかでした(展示室よりもにぎやか)ので、評判の良い店らしい。
 腹ごしらえを済ませ、帰途につこうとフロントの前を通ると、パンフレット類が目につき、「長崎の心、竜馬の心」と題するA4判の分厚なパンフが目に留まりました。
1部頂いてきましたが、長崎周辺の観光案内はバッチリ、のものでした。その中からネット情報。
http://www.nagasaki-tabinet.com/


今年は銀メダルでした

2011-09-24 | 水泳
 23日は、レインボーカップ マスターズスイミング大会に出場しました。全国から2948名、550スイミンクラブが参加、この地区では最大の水泳大会です。
 23日(金)は200mの種目(24日が50m、25日は100mの種目です)、小生、例年どおり200mバタフライにエントリーしました。出番は2時48分の予定ですが、10時過ぎ家をでました。駅前のコンビニで、おにぎりなど弁当を調達して、11時前には会場の日本碍子プールに着きました。早速、デッキシーデイング(当日の出場確認)をしました。バタフライは12時までにデッキシーデイングを済ませよということでしたので最初に済ませた。
 弁当を持っているので、早速、ロビ-に坐って腹ごしらえ。食べるものは、すぐ食べたくなるなんて小学生みたいです。その後、観覧席に行くと、女子の200m個人メドレーが始まっていました。12時まで見学した後、更衣室で着替え、サブプールに行き、軽く100mを4本泳いでアップを済ませました。
 後はプールサイドに腰を下ろしてレースを見ながら出番を待ちます。400m男女混合リレーが始まっていました。世界新記録が2回出ました。「やはりこの大会はレベルが高いな!」
 その後平泳ぎ、プール仲間のJちゃんの泳ぎを見て、プールから上がった彼女をねぎらいました。
 平泳ぎの次はバタフライですから、選手控え室に行く。いつもバタフライで一緒に泳ぐSATOH KENさんが来ました。「今日はバタ泳ぐ?」と聞くと「いやっ、平だ」という。「あんた、200mだね」、「そうです。200mだと、思いきりゆっくり泳がないと最後まで持ちそうにない」と小生。「いやっ、ゆっくり泳げば泳いだで腰が沈んでしまう」とSATOHさん。「バタ75歳区分は二人だけだよ」と教えてくれる。「組み合わせ出た?」と、コースの割付表を見に行った。2バタ1組は、75歳、70歳、65歳、60歳区分が二人。55歳と、35歳区分が一人づつの10人。小生は9コース。
「おかしいな、このメンバーだったら、自分が一番遅くて、10コースか1コースなのに?」
コース割りは、申告タイム順に、5,6,4,7,3,8,2,9,1,10です。しかも隣の10コースは、55歳。彼、申告タイムにサバを読んだ?
 予定より10分ほど遅れて出番。召集所の椅子に腰を下ろしました。8コースのTさんと雑談。「200mは、飛び込むまでは、最後まで泳げるかな?と不安ですね」と小生。「200mは私も年一度この大会だけですから、ドキドキします。飛び込んじゃえばいいんですが・・」とTさん。同感です。
 3時ごろ飛び込み台に立つ。スタートの笛で飛び込んだ。飛び込んでしまえば、不安などない。とにかく前へ前へ。しかし、10コースは早い!5分きりそうだ。これで6分の申告タイムは、サバの読みすぎだ。150mを過ぎると、ほんとにきつい。でも、泳ぎきった。5分35秒41。まぁ、これが今の実力です。
 サブプールで400mゆっくり泳いでダウン、とした。
記録の速報板を見に行くと、75歳区分の2位にあった。50m毎のラップは、1:09:59、2:31:74、4:01:03、5:35:41とありました。 後半はやっぱり、落ちた。
 2位の銀メダル(今まで銅メダルばかりで、この大会の銀は初めて)を貰い、4時半過ぎ帰宅しました。次は25日の100mです。

鉢呂さんの失言?

2011-09-19 | 経済と世相
先日の鉢呂前大臣の失言問題についてです。
私は、鉢呂さんの経産大臣選任については、TPP交渉を進めたい野田さんが、TPP担当の大臣に、農業問題専門の鉢呂さんを据えることで、TPP反対派の抱きこみを狙ったものと推定していましたが、着任9日で辞任(解任?)することになりました。
別に鉢呂さんの肩を持つつもりはありませんが、今回の失言問題は疑問に思います。
フクシマ周辺を「死の町」といったことが、不謹慎だというのですが、原発周辺は放射能汚染レベルが高くて、「立ち入り禁止」になっています。立ち入りが出来なくて、人のいなくなった町は「死の町」であることは事実ではないでしょうか。
本当のことを言った人が解任され、「死の町」となった原因を作った東電の経営者や、原子力の安全にまったく機能できなかった原子力安全保安院や原子力安全委員会の委員が解任されないのはなぜか、まったく理解できないのです。

こんなネット情報もありました。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/19475


挑戦的な書名の本

2011-09-16 | 読書

「経済学を知らないエコノミストたち」という挑戦的な書名の本を読みました。

かれこれ20年近くもデフレが続いているのは日本だけ。

何故日本はデフレ状態から脱却できないのか?経済理論で説明する書はないものかと考えていましたが、

この本は、著者の説が正しいかどうかは別としても、そうした試みにチャレンジしています。
http://d.hatena.ne.jp/snozue/20110916

ちょっと長くなりましたので、要約を以下に。
マンデル=フレミング・モデルによると、
「一国は為替安定(為替レートの固定)と自立した金融政策と自由な資本移動の三つを同時に達成できない」すなわち、「自由な資本移動のもとで、貨幣供給Mを政策的に与えた場合には、為替レートeは自動的に決まってしまい、もはやその値を政策的には固定することはできない」という命題は、簡単に理解できる。
この体系であえて為替レートeの値を外生的に固定するためには、どうすればいいのであろうか。そのためには、本来は政策変数=外生変数であった貨幣供給Mを、内生変数にしなければならない。「自由な資本移動のもとで、為替レートeをある値に外生的に固定する場合には、貨幣供給Mは内生変数となり、もはやその値を任意に決めることはできない」。要するに、金融政策の自由度が失われるのである。
(分かりやすく言うと、貨幣供給量Mと為替相場は関数関係で結ばれているので、例えば、ドル買いで円安誘導しようとしても、日銀がMを増やさなければ、円高に戻ってしまう。ドル買いをすれば、円でドルを買うわけですから、円の量は増えるわけですが、日銀が「これでは円が増えすぎる」と思うと、「不胎化」と呼ばれる操作をして、市中から円を吸収します。円の量が減ると円高に戻るので、円買いの効果はなくなる。Mとeは互いに独立には決まらない。)
国内利子率iが海外の利子率i*に縛られることなく内生的に動くことが出来るのであれば、それ(Mとeを独立に決める)は可能である。しかし、国内利子率が海外利子率に縛られないということは、資本移動の規制を行うということに他ならない。「貨幣供給Mと為替レートeの両方を外生的に与えた場合には、自由な資本移動を保証することはできない」ということになる。
為替の固定化、金融政策の自由、資本移動の自由は、その一つを必ず放棄しなければならないことは明らかになる。
「失われた20年」は、マネーサプライMのコントロールの失敗が原因では?



ブータンという国

2011-09-14 | 読書
ブータンは面白い国ですね。

『百寺巡礼ブータン』(五木寛之著、2011年8月刊、講談社文庫)を読みました。



ブータンは棚田が多い。日本の田舎みたい。

1970年ごろ独立、国連加盟は1971年。憲法をインターネットに公開している。

http://www.constitution.bt

(上部のConstitutonをクリックすると英文の憲法草案が出てきます)

ブータンの憲法草案では、国土の最低60%を森林として保持する、という条文がある。

山地には松が多く、マツタケがふんだんに食べられる。

ブータン人が信仰しているのは、チベットから伝わった密教である(大乗仏教)。

ブータンだけが仏教を国教とする独立国家だそうです。

古くから、チベットにはボン教と呼ばれるアニミズム、シャーマニズムの宗教が存在していた。

そのボン教が密教と集合したことが、一般の民衆のあいだでも仏教が広く支持される基盤になったらしい。

いまでも、ブータンを旅していると、農家の壁などに大きく描かれたある種の絵に出くわして、ギョッとさせられることがある。

それは巨大な男性のシンボルの絵だ。魔よけの意味だとも、子孫の繁栄を祈願する印だともいわれる。

・・なかには天をつく男性器の先端から、勢いよく噴出するものまでが、書き添えられている場合もある。

訪ねた農家の仏壇で興味深かったのは、位牌というものが見当たらないことだった。

ブータンでは、人が死ぬと49日後に輪廻転生して、次の人生を送ることになると信じられている。

もちろん、人間に生まれ変わるとは限らず、つぎは牛や犬に生まれてくるかもしれない。

その辺を飛んでいるスズメかもしれないし、あるいはゴキブリかもしれない。

だから、位牌を飾ってもそこにはいないので、位牌がないのである。数年前から流行っている歌も、「あなたはそこにいない・・・」とか歌っていた(「千の風..」)が・・

ブータンには現在も、二つの仏教的概念が生き続けている。

「縁起」と「業」である。日本では、縁起がいいとか悪いとかの意味で使われるが、

ブータンの「縁起」は、

「自分の存在というものは、自分だけであるのではなく、他のこととの関連のなかにある。

すなわち、この世界のすべてのものと関連して自分の存在がある」という意味で、

『一番大切なのは、個人でなく関係』である。

また、「業」という概念では、「ある行いをすれば、それに対応する相応の結果が導き出される」という。

行いが悪いと、人間に生まれ代われない。

【日本版『百寺巡礼』で、私は2年間かけて全国の仏教寺院を訪ねた。

印象的だったのは、参拝客の多くが「商売繁盛」、「家内安全」、「病気平癒」の三つを祈願していること。

ブータンでは

誰に尋ねても、他の人のため、世の中のため、生きとし生けるものすべてのために祈っている、という答えが返ってきた。

自分のために祈っている、という人はいなかった。

「縁起」という考えが、ブータン人の心の中に、しっかりと根付いているためではないか。】

追伸:先日ネットサーフィンしていて、ブータンの情報を見つけました。その内容が頭にあって、この文庫本を衝動買いしたのです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110823/222222/



大災害の経済学(2)

2011-09-07 | 読書
 アメリカではどうか?
 日本で、国は被災者に個人補償をすることは出来ない、という「法律以前」の法理がまかり通っていたころ、アメリカでまさに未曾有の緊急事態が発生した。9.11である。
 10日後の9月21日、「航空運輸安全および航空システム安定化法案」が下院を通過、無修正で上院も可決、22日に大統領が署名した(ATS法)。
 このATS法を根拠として「2001年犠牲者補償基金」が創設され、その目的は9.11テロの結果、負傷または死亡したすべての個人に補償金を支払うこととされた。
 補償金は、個人の年収履歴その将来予測(平均的なGDP成長率と同率で上昇と推定)を想定、国債の利率で現在価値に割引して算定された。
 比較的年収の低い消防士などは補償金が小さく、高額の年収を得ていたファンドマネージャーは高額の補償金を受け取ることになった(生命保険などで補償金が得られた人はその分減額されたという)。33ヶ月で1兆円を越える補償金を支払ったそうである。
 (一方)2005年8月25日、バハマの南東海で発生した巨大ハリケーン(カトリーナ)がフロリダ州に上陸し、メキシコ湾に抜けた後ルイジアナ州に再上陸した。アメリカ災害史上最大のハリケーン被害をもたらした。被災地は低所得者が多く住む7つの州に及び、ニューオーリンズ市の公共サービスは完全に麻痺し、避難者はテキサス州のアストロドームへの移転を促されたが、・・自家用車など移動手段を持たない市民もいて、移転はなかなか進まず、高齢者などの衰弱死が相次いだ。
 ニューオーリンズ市内では、市内に残された市民による食料品店の略奪が続発し、放火、レイプ、救援車両・医薬品輸送車への襲撃も発生した。州兵は、治安維持のため、被災した市民に銃口を向ける場面もあった。
 結果として連邦政府は、カトリーナの犠牲者に対して9.11犠牲者補償基金のような個人補償は行わなかった。今度はアメリカの政治は、犠牲者補償基金の設立を求めなかった。
 (10日ほどで1兆円の補償金支払いを決める実行力!貧乏人の保証には一顧もしない荒っぽさ!アメリカはたいへんな国です。)
復旧と復興
 阪神・淡路大震災の経済復興がどのように進んだかを振り返ると、「復旧・復興」が問題となってくる。被災地の再建は、「まず復旧」、それから「復興」へと二段階で進という認識がある。
 法的に「復旧」という概念は明確に定義されているが、「復興」概念の法的定義は存在しない。「復旧」は予算さえ確保されれば、直ちに実行可能だが、復興を正面から議論すれば異論続出で、政治的実現可能性が見通せなくなる。しかし、家計にしても企業にしても、民間部門が被災後の生活再建や事業再建の原則を「復旧」や「原形復旧」に置くことはありえない。したがって、復旧から復興への二段階論は、政府がインフラ復旧を行なった後に、民間がそれぞれの判断で復興を遂げることを想定していると言えよう。
 しかし、復旧と復興は基本的に異なる概念だ。
2011年6月24日、「東日本大震災復興基本法」が公布されたが、この基本法にも、「復興」の定義は置かれていない。
災害の発生後は、個人も、企業も、自治体も、すべてが新しい現実から再出発しなければならない。だから、被災地には、「復興」しかありえない。・・・公共部門の役割は、その復興の営みをサポートすることであって、道路や漁港を元通りに直せばよいというものではない。
 それぞれの主体(家族・企業・行政など)が立てる復興計画を、地域の共同意思にまとめあげていくためには、相互の調整や対話が欠かせない。そのプロセスを復興計画のガバナンスと呼ぶことにする。元来ガバナンスはガバメントに対抗する概念である。いずれも公的意思の実行を目的とするが、ガバメントが法律に裏打ちされ、強制力や税金などを伴って執行されるフォーマルな仕組みであるのに対して、ガバナンスは強制力を伴わないインフォーマルな参加と共同の仕組みである。
 阪神・淡路大震災からの復興計画の提言が、各種学会、地元の経済団体やNPO、まちづくり協議会などから相次いだと、「21世紀の関西を考える会」の提言を紹介している。
 そのなかには、免税特区の提案があったが、この構想は実現せず、2003年、「先端医療産業特区」に指定された(ポートアイランド)。

大災害の経済学(1)

2011-09-06 | 読書
『大災害の経済学』(林敏彦著、11年9月刊、PHP新書)を読みました。
著者の林さんは、現在同志社大学教授ですが、昨年3月まで放送大学教授。小生の大学卒論の審査で査読をしていただき、大学院では1年間、修士論文の指導を頂きました。
 神戸在住の筆者は、1995年の阪神・淡路大震災の発生後、兵庫県の復興計画策定調査委員会などのメンバーとして震災復興に関わった。また、ひょうご震災記念21世紀研究機構が出版予定の「災害対策全集」の編集作業に携わり、その完成間近というところで今回の巨大地震(3.11)が発生した。3月21日の日経新聞に「復興へ法的制約を見直せ」と題する寄稿を載せている。
 本書は、著者自身が関わった阪神・淡路大震災の震災復興基金などの事例を通して、さらには、アメリカの9.11同時テロやハリケーン・カトリーナの政府対応を論じて、巨大災害への政府対応、復興のファイナンスを述べています。
 同書から興味を惹く話題を紹介します。まずは、エピソードから。
 『04年3月31日、私は東京の事務所に下河辺淳(阪神・淡路復興委員会委員長)を訪ね、復興委員会委員長としての仕事についていくつかの質問をした。私は、短刀直入に尋ねた。「もしも総理大臣が別の人だったら、復興はもっと迅速に進んだのでしょうか」。下河辺の答えは意外だった。「そうは思いません。村山総理はよくやったと思います」
 下河辺は総理の対応をこう説明してくれた。』
【総理は真っ先に私のところへ来て、「自分は何も分からない。言われた通りにするから、何をしたらいいか、教えてくれ」。私は、考えていたことを総理に話し、総理は熱心にメモをとっていた。】
 (今回の菅総理にこれがほしかった!と、林先生は言いたかった?)
国は私有財産に支援はできないのか?
 阪神・淡路大震災では、住宅を失った被災者から、住宅再建のための公的支援を求める悲痛な声が上がったが、国は私有財産の自己管理責任を盾にかたくなに拒んだ。しかし、米国をはじめ、世界の多くの国々で、被災者支援に現金給付は行われている。
 後に鳥取県西部地震(2000年)からの復興にあたって、当時の片山知事は、人口流出を防ぐという公共目的のために、被害住宅の再建に県費を投ずることを禁止する法律はない、として公的支援を実行した。そもそも、農地が被害を受けたとき、私有地である農地や農道の再整備には公的資金が投じられる。
 つまり、問題は私有財産制にあるのではなく、災害で財産を失った人々に経済支援を行うための根拠法がなかっただけのことなのだ。なければつくればよい。それが立法府の役割である。
 (阪神淡路大震災で、被災者の生活支援のため、設立された復興基金についてこう述べる。)
『復興基金という仕組みを通して流れた事業費総額3600億円の資金は、その75%が国庫から地方交付税として交付され、25%が県と市の自主財源から支弁されたものだった。端的に言って復興基金は、3600億円の公的資金を(基金という)財団法人の事業(被災者の私有財産への支援)資金に転換するマネーロンダリングの仕組みであった。』
被災者生活再建支援法が議員立法でつくられたのは阪神・淡路大震災から3年後、家屋の再建に公的資金が投じられることになったのはさらに9年後だった。今回はさらに大きな現金支援を盛り込んだ法律が必要だ。(つづく)