古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

港区役所から白鳥庭園・熱田神宮

2014-04-28 | 旅行


25日は住宅シニアクラブのウオーキング、初夏のような温かい日になりました。
9時半出発、14名のメンバーが地下鉄で、港区役所駅の1番出口にエレベータで出ました・区役所の隣が港防災センターです。玄関に伊勢湾台風の記念碑があります、「台座の2m下まで水がきました」との説明がありました。
 「伊勢湾台風の記録フィルムをご覧ください」と、3Fに案内された。
 
伊勢湾台風は、死者行方不明合わせて5000人を超す。関東大震災とか、先年の東日本大震災、神戸の震災など大きな被害をもたらした災害はあるが、台風だけの被害でこれだけ大きな災害をもたらしたのは、伊勢湾台風が最大ではなかろうか。
 上映時間32分。被災者の仮設住宅での生活などを見て、フクシマの被災者はもっと厳しいなど思う。
 3D画像をホームページで宣伝していたので、予約の際に申し込んだのだが、「3Dは子供用ですから年配の方には記録映画がおすすめです」と言われて30分の映画鑑賞になった。
 10時45分センターを出て、裏手の津金文左衛門さんの顕彰碑を見る。江戸時代、熱田新田を開拓した功労者で、磁器製造も支援したので、傍らに「尾張磁器発祥の地」の碑も建っていた。
 北へ歩くと、弘禅寺というお寺があった。昭和7年、名古屋港で漂流中の観音様を浚渫船の船員が発見し、昭和39年からこの寺に安置されている「流れ観音の寺」です。
 更に北へ行くと新幹線が見えてきた。ガード下近くに公園がある。南郊公園といい、昔は川だったそうだが、埋め立てられて公園になった。だから、川のように細長い地形の公園です。ここで11時45分。時分時だから昼食にする。
 12時20分、腰をあげて歩きを再開。公園の北の端に愛知機械熱田工場がある。ここから西へ向かうと、都心の伏見通りから南下する大通り。信号を渡って北へ歩くと「名古屋一番郵便局」という郵便局がある。一番という地名です。新田開拓で一番とか二番とかの地名が付けられた。
 郵便局の北の信号を渡ると、「身代わり地蔵尊」という地蔵様が建っている。
 新田開拓の際、作業の無事を祈って観音様を祀ったが、近年は、一号線が近くを走ることから、交通安全を祈って、平成一九年には新しい身代わり地蔵尊が寄進された(写真)。



 地蔵様の北は白鳥橋。橋を渡ると、西側に白鳥庭園。平成元年(2089)の名古屋デザイン博の「日本庭園パヴィリオン」が整備され、平成3年公開された庭園です。

 大きな池を中心に配置した「池泉回遊式」の日本庭園で、都市公園内の庭園としては、東海地方随一の規模を誇る。世界デザイン博覧会のパビリオンとして設置したため東海三県を中心とした中部地方の地形をモチーフにしている。公園の南側にある築山を御嶽山に、そこから各池に注ぐ川を木曽川に、中央・周辺の池を伊勢湾に見立てており、自然の雄大さを演出している。 園内のメイン施設の清羽亭は本格的数寄屋建築の茶室である。汐入(しおいり)亭で、庭を眺めながら、銘々がオーダーした抹茶やコーヒー、わらび餅などを楽しむ。清羽亭は第3水曜に来ると一般公開しているので抹茶など楽しめるとか。


 2時前、庭園を辞し、白鳥橋を渡って北へ旗屋町まで歩くと、地下鉄の神宮西駅がある。
 熱田神宮が駅の北東に広がる。
 ここまで来たから「熱田様」にお参りしてから帰ろう、と本殿にお参り。
その後、「目の神様」にもお参りしたいというので、奥の「清水さま」にお参りする。その昔、平景清なる武将が目を洗ったという故事から、「目の神様」となる。奥の入り口には、「目の神様」ならぬ「根の神様」ともいうべき神木がありました。


http://guide.travel.co.jp/article/1120/

目標の石に3回水をかけると願いがかなうそうだ。美肌にも効果があるとかで、女性に人気があるみたい。
 お参りを済ませ地下鉄で帰宅すると、3時半でした。「いい時間だ」とみなさん。今日のウオーキングを楽しまれたようで、企画者としてはうれしい1日でした。



驚くべき日本語(2)

2014-04-25 | 読書
つまり、日本語という「車」は、世界中の誰にとっても非常に運転しやすい言語だといえます。その車には、日本語の動詞という、とてもスムーズで話し手の指示に規則的に対応する信頼すべきアクセルがついているのです。
日本語は、膠着性(くっつける)の言語で、ある言葉の前、真ん中、後ろに新たな別の「かな」を「くっつける」ことで、その言葉の意味を簡単に変えることができる。ここに英語などには見られない、日本語の驚くべき柔軟性の本質があります。
かなを前に加えてできる言葉の例に「くっつく」、「真っ先」など。真ん中に入れる例には「見る」が「見られる、「とめる」が「とめられる」。後に加える例は、「起こる」が「起こりうる」。
柔軟性のある日本語は他言語ほどの語彙を必要としないのです。
日本語の50音の文字すべてで、しかも一度しか使わずに詩を作るのは想像を絶するほど難しいことでしょう。しかし、日本語は10~11世紀に「いろは歌」を作りました。
「てにをは」を使うと、日本語の名詞はどんな格にもなります。日本語の「てにをは」に似た英語の前置詞は、外国人には難物です。
「バスに乗っています」はI’m on the bus.
「車にのっています」は、「I’m in the car.」です。
onだと屋根に乗っかる。
形容詞も簡潔です。
「若い」とはふつう年齢を表します。
「おいくつになりました?」
「69です」
「えっ、69?若い!」
の「若い」は、「年齢が若い」意味ではなく、「実際の年齢より、若く見える」意味です。他の言語ではここまで簡単に表現できないでしょう。

英語に比べ、日本語は柔軟性があり、語彙が少なくても限りなく多くのニュアンスを簡単に表現できる驚くべき言語です。
日本語は「世界語になる可能性がある」と、筆者はこう述べます。
母語話者の数でいえば、日本語は世界で9番目の言語になります。北京官話が一番多く、英語は母語話者でない数も含めると、北京官話よりも多くの人間が話しています。
英語がこんなにも広範に使われるようになったのは、大英帝国の拡大と勢力のおかげでした。大英帝国が衰退し力を失ったあとには、アメリカ合衆国という、軍事力と世界の道徳を掲げる次の帝国の継承者が英語の拡大に貢献しました。しかし、どの帝国とて永遠に続くことはありえません。すでに私たちは、アメリカの力が徐々に衰えていることを知っています。
これから数十年のうちにおそらく英語以外の言語、特に中国語が、より広く使われるようになるでしょう。
しかし、簡便で柔軟性に富んでいるという性格から、日本語が非日本人に、学習したり使いこなしたりするのに難しくない言語であることを思えば、日本語が世界の共通言語の一つとして非常に需要な役割を果たすに違いないと思います。二つの条件が満たされれば・・・一つの条件は、日本人が、日本語がある種の「特別な」暗号、日本民族の意思伝達にのみ有効な暗号だという誤った考えを捨てることです。
二つ目は、日本語の美しさの本質が、日本の詩人や作家たちが創造してきた世界や人間の本質についての表現にあることに気付くことです。
このように、日本語は、話すのが容易だから世界語として使われる可能性があるというのです。
そのためには、書き方のルールを非日本人に分かり易くする努力が必要だと私は考えます。


驚くべき日本語(1)

2014-04-24 | 読書
『驚くべき日本語』(ロジャー・パルバース著、集英社インターナシヨナル;2014年1月)という本を読みました。
 まさに「驚くべき」内容の本です。筆者は、1944年生まれのアメリカ人。1967年来日、ほぼ半世紀を日本で過ごす。英・露・ポーランド・日本語をマスターする。大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の助監督などを経て執筆活動を開始した。著書に「旅する帽子 小説ラフカデイオ・ハーン」、「英語で読み解く賢治」他。2008年宮沢賢治賞、2013年第19回野間文芸翻訳賞。
 筆者の主張をまえがきから見ます。
『日本語という言葉は、日本人だけに通用する特殊な暗号のようなものだと考えられてきた。しかし。
1. 日本語には暗号のようなところはない。
2. 日本語は曖昧ではありません。
3. 話し言葉としての日本語は、わたしの知る限り学ぶにはもっとも平易な言語です。
実際、ロシヤ語とポーランド語を学んでみると、会話に関しては、日本語ははるかに簡単です。わたしの母語である英語に至っては、発音、綴り、不規則なアクセントの場所、膨大な語彙、学ぶには小憎らしいほど難しい言語です。
 日本語の読み書きが非常に難しいのは確かですが、この本では基本的に「話し言葉」について述べます。
 人間はもう何万年も言葉を話してきました。それに対して読み書きは、たかだか5000年。さらに聖職者や政治にかかわる役人をのぞいて、ふつうの人間の読み書きの歴史は、まだ1000年そこそこ。私の父方の祖父母は読み書きができませんでした。たった1世紀前の話です』と。
語り始める著者は『日本の未来、日本人の可能性は、まさに日本語の将来にかかっています』。そして、最終章では、「日本語は世界の共通語になりうる」とまで説いています。「驚くべき」内容の本という所以です。
外国語をマスターするコツ
 20歳の誕生日のときのわたしに会って、外国語に堪能かどうかと質問したとしたら、その答えは完全に「ノー」です。
 それから4年後の1968年5月だったら、ロシヤ語、ポーランド語、そして日本語を流暢に話すわたしに会うことになったでしょう。会話の最中に「日本語でなんといわなければいけないのか」なんて考えることはありません。自ずから言葉が出てくる。それは日本語が私のアイデンティの一部になっているからです。・・・・
わたしはどうやって、4年間で三つもの外国語を学ぶことができたのか。
外国語を習得しようとしたとき、外国語を聞いたり読んだりしたことを自分の母語に置き換えながら考えることをしませんでした。
日本語であれ他の言語であれ、世界のすべての人にとって外国語の習得を可能にするのは、生まれついての第一言語の論理を消し去る能力です。それさえできれば、ほとんどの外国人が日本語を完璧に習得することは可能です。(つまり、外国語を母語に翻訳して理解するのでなく、外国語とそれが意味する事象を直接結びつけて覚えなさいという意味のようです。)
ほんとうのところ、日本語は非日本人にとって、話すだけならとてもやさしい言語です。たとえば・・・
動詞については、わたしが今までかかわってきたどの言語も、覚えるだけでたいへんな問題を抱えています。
日本語の動詞は、他の言語に比べ、なんと簡単で便利な変化なのでしょう。
「食べる」という動詞であれば、「食べない」、「食べられない」、「食べにくい」など、その語尾を変えるだけでいろいろな意味に使うことができます。
日本語の動詞は、日本語を第一言語にしない人間にとっては、きわめて覚えやすいのです。
さらに、日本語は少ない語彙で表現が可能な言語です。以下その例。
「先週、恵美子さんは結婚したけど、あなたもいつか結婚しますか?」
「Emiko get married last week. Will you get married too someday?」
答え(日本語)
1. 「する」
2. 「するよ」
3. 「するんじゃないかな」
4. 「するでしょう」
5. 「するかも」
6. 「するする」
7. 「するつもりだけど・・・」
8. 「しないわけないじゃん!」
答え(英語)
1.I will.
2..I’m going too
3.Why wouldn’t I?
4.I’ll probably do it.
5.I might.
6.You bet.
7.I plan to but…
8.Whadda ya think?! (What do you think?)
日本語では、すべての答えに「する」というたった一つの動詞が使われていますが、英語ではこのように、さまざまな意味やニュアンスを伝えるために、まったく異なった言葉が必要になってくるのです。
英語で同じニュアンスを表現するには、日本語にくらべ、膨大な語彙からの選択が必要です。でも、日本語は、同じ一つの動詞の語尾の変化だけですんでしまう。しかも、語尾を変化させる法則は、あらゆる人々にとって決して難しいということはないでしょう。(続く)

卯月曇りのウオーキング

2014-04-21 | 旅行
“卯月曇り”の20日、地下鉄ウオーキングに出掛けました。9時、スタートのなごやドーム駅①出口から、砂田橋方向に歩き始めました。名大医学部保健学科の建物を右に見て砂田橋から北へ。宮前橋で矢田川を越え、守山区です。瀬戸線の踏切を越えて次の信号を東へ守山東を北に向かうと“すいどうみち緑道”に入ります。
犬山で取水した木曽川の水は、庄内川底をくぐる、守山区・矢田川を潜り鍋谷上野浄水場に送られますが、送水管上が緑道に整備されています。

途中東に折れて、守山瓢箪山古墳を見学。全長63m、後円部径36m、5世紀末~6世紀に造られたものとみられます。古墳から西、守山小学校の北、守山郵便局の角を来たに向かうと生玉(なるたま)稲荷神社です。


天正の初期、織田氏の一族小幡城主であった織田源三郎赤千代(信長の甥)は、この社を城内守護神として奉祀。天正12年(1584)4月、徳川家康が小牧・長久手の戦いのために、犬山から長久手へ向かう際、その道中にある小幡城主織田源三郎方に一泊しました。その折に、家臣がこの稲荷の霊験著しさを言上し、稲荷山より竹を伐り旗竿を作り献上したところ、家康は大いに喜んだといいます。
更に北へ向かうと白沢町。この辺りで5㎞です。ここに白沢峡谷(城土公園)があります。白沢川は小幡緑地と周辺からの湧水を集めて西へ向かい、城土公園付近から北へ流れて庄内川大橋の西側で庄内川に注ぐ。城土公園の付近は古くから白沢渓谷とも呼ばれており、人工の滝が造られて名古屋市内で唯一の吊り橋も架かる。

公園を出てゆとりーとライン沿いに歩くと龍泉寺に出ます。坂道を上がって参拝。ここまでで、およそ7㎞歩きました。
庄内川、濃尾平野を眼下に見下ろす守山の景勝地にたたずむ龍泉寺は、天台宗に属し松洞山大行院と号します。延暦年間、伝教大師最澄が創建したといわれています。宝暦5年に記された古文書「龍泉寺記」には、「その昔、伝教大師が熱田神宮に参篭中、龍神の御告げを受け、龍の住む多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀った」という内容が記述されているとか。龍泉の名前もこの話に由来する。一方では、弘法大師空海も同じように、熱田神宮参篭中のおり、熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納しており、龍泉寺は熱田の奥の院といわれてきました。このため、この寺は伝教・弘法大師の開基ともされています。

 天正12年(1584年)小牧長久手の役のおり、豊臣秀吉が当山に陣し退去するとき、池田勝入の部下により放火焼失、慶長3年(1598年)、秀純大和尚が堂塔を再興しましたが、明治39年に再び放火に遇い、多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが灰と化しました。ところが、焼跡から、慶長小判百枚が発掘されたので、それを基金とし、多くの御信者の御寄付とをあわせ、本堂が再建され、今日に至っています。また、龍泉寺は、荒子観音、笠寺、甚目寺と並んで尾張四観音の一つです。
龍泉寺を降りて東の小幡緑地(本園)に入ります。
http://aichi-koen.com/obata/
池、小川、雑木林など四季折々の景色を楽しめる面積76.3haの公園です。(文頭写真)
緑地内を周回してから県道に出て南、小幡が原にくると、西側に小幡緑地(西園)があります。守山区役所を経て名鉄小幡駅でゴール。11時45分、11km歩きましたから、時速4㎞のウオーキングでした。
電車で大曽根に回り、いつものプールで1km泳いで、図書館で雑誌など。3時過ぎ帰宅しました。雨が降り始めていました。

さくら道マラソン

2014-04-19 | マラソン
「さくら道マラソン」の日が、今年もやってきました。19日朝、6時15分前家を出てジョギングでお城に向かいました。信号で停まっていたら、住宅のKさんがやってきて、
 「寒いじゃない?」と声をかけられました。小生、短パンとTシャツ1枚のスタイルでしたから。
「今日は、6時に名古屋城をスタートして、金沢まで走る“さくら道マラソン”を見にいくの」と言うと、「エエッ、金沢まで!」
http://shirotori.gujo.to/sakuramichi/main.html

 お城のソメイヨシノはすっかり散って、南西角の八重桜が1本花を残していました。
6時、スタートです。10数人のランナーが走ってきました。
今年は、外国人ランナー22人を含め、135人のランナーが出場とのことです。
5分おきに1グループがスタートしてきます。金沢兼六園まで250㎞、中部山岳地帯を乗り越えて走ろうというのですから、彼ら・彼女らは、人生のいかなる思いを抱いて、この難コースに挑むことにしたのでしょう。
6時25分までスタートを見送り、ジョギングで6時40分帰宅しました。

超マクロ探訪 世界経済の真実(2)

2014-04-17 | 読書
利潤の下がった資本が、高い利潤を得るためにはバブルが必要だった
(萱野)アメリカは、海外から集めたお金を国内のバブルをつうじて膨らませることで利益をあげていきましたよね。90年代後半のITバブルや、2000年代の住宅バブルはその過程で生まれた
(水野)そうですね。結局、ルービン財務長官がとった戦略(強いドル)というのは、アメリカのなかをバブルにして、それからアメリカが外国に投資するとき、相手国をバブルにして、海外から調達したお金を使って高いキャピタルゲインを得ていこうというものです。
(萱野)そもそもなぜ日本ではアメリカよりも早くバブルが起こったのですか
(水野)前提条件として、日本には自国の貯金で十分バブルを起こせるぐらいの資本が蓄積されていた。日本は近代資本主義のしくみ、すなわち実物経済で安く仕入れて高く売るというしくみでもっとも利潤を獲得することができた国なのです。それは、第1次オイル・ショック以降、貿易黒字が定着して、世界屈指の対外純資産国になったという事実にあらわれています。日本は他国の資本を呼び込まなくても、国内の貯蓄がすでに膨大な額に上っていたんです。

(萱野)逆にいうと、アメリカは自国内にバブルを引き起こせるほどの貯蓄がなかったと。だからこそアメリカ(のバブル発生は)は、国際資本が自由化されるまで待たなくてはいけなかったんですね。
(水野)そうです。 もうひとつ、谷口智彦氏は、80年代の土地バブルはアメリカの対ソ冷戦の構図の中で起きたということを述べています。つまり、
「日本は自らバブルを創出することで対米資産還流を積極化し、おりから軍拡を続けていた米国を金融面で支えた。その意味で日本のバブル経済化とは、冷戦にとどめを刺そうとしていた米国の覇権を裏から支える国際政治的意味合いを持っていた(谷口著『通貨燃ゆ』から)。
 プラザ合意でドル安になったとき、日本の生保はたしか大手7社で1.7兆円を上回る損をだしています。
――アメリカの国債で?――
そうです。でも、そこで損をしたので引き上げるとなったら、アメリカは困ってしまう。それで、ザ・セイホがドル債投資で損をしても、それをはるかに上回るような含み益があればいいということで、アメリカの要請のもとで日本でバブルが引き起こされたという。
 バブルのピークは、ベルリンの壁が崩壊した直後の89年12月末に日経平均株価で38000円台を記録したときです。株式の先物市場で日経先物というのがちょうどできて、今度は外国人投資家主導で売り浴びせがなされるんです。
 アメリカからすれば、米ソ冷戦が終われば日本のマネーはもう必要ない、日本のプレゼンスがこれ以上大きくなるのは好ましくないと思っていたとしても不思議ではない。
(萱野)アメリカは自分のところの財政赤字や経常収支赤字を埋め合わせるために外国から資金を呼び込む必要があった。でも95年以降のように国際資本の完全移動性が達成されていなかったから、自国の内部でバブルを引き起こせるようなお金を外からもってくることはできない。ならば、お金がすでにたくさんあるところでバブルを引き起こして、そこで膨らんだお金をアメリカのドル債に投資してもらおうと。
要するに、日本のバブルは、アメリカが実物経済の落ち込みを補うためにバブルを必要としていた状況で、アメリカにはまだその条件が整っていなかったから、そのバブルを先行して肩代わりしたものだと位置付けられる。
(水野)日銀はもっと量的緩和すべきだなんて言っています。でも、量的緩和したところで、円は国内にとどまらないですね。
そういう意味では、インフレは貨幣現象だというテーゼは国民国家経済の枠内でしか成立しない。アダム・スミス以降、経済学というものはすべて]国民国家体系を前提として組み立てられた経済学です。

超マクロ展望 世界経済の真実

2014-04-16 | 読書
『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人著、2010年11月刊、集英社新書)を図書館の棚で見つけました。先日、『金融緩和の罠』で萱野稔人さん(哲学者、国家論)が藻谷浩介さんら3名のエコノミストと対談する本を紹介しました。そして、水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機を』を紹介しました。その萱野さんと水野さんの対談をまとめた本でしたから、借りてきて読んでみました。以下、水野理論のさわりです。
 原油の値上がりで、国全体の購買力が産油国に移転したことがデフレの原因、と説き始めます
 (水野)第1次イルショック以降、鉱物性燃料代金がもっとも少なかったのは1994年でした。94年の原油価格は1バレル17.2ドルで、日本は全体として年間4.9兆円を払えば原油や天然ガスなど鉱物性燃料を買えました。ところが2008年には、年間平均でいうと1バレル99ドル、一時は147ドルまで上昇して、日本は27.7兆円を出さないと同じ量の原油や天然ガスなどの鉱物性燃料を買えなくなってしまいました。22.8兆円も余分に払わないといけなくなったのです。
 (水野)売上高変動費比率とGDPに占める鉱物性燃料輸入比率とは連動しています。つまり、日本のエネルギー価格と変動費とは驚くほど連動している。変動費が上がれば、固定費を減らすか利益を圧縮する。日本では、人件費の圧縮で固定費を減らし、そのことが国民の購買力を減らした。
 原油や原材料を安く買えないと、先進国の資本は利潤率が下がり、利子率が低下する。そして海外で高い利潤を得ようとする多国籍企業と国民国家との利益が一致しなくなる。
また、変動費率が高いということは、先進国資本の利潤率低下を意味する(利子率革命)。利子率革命とは、低成長の時代になって資本が高い利潤を求めて海外に行くことを意味します。それによって日本でも工場の海外移転がすすみ、それこそ労働市場を国内的に維持することができなくなる。国民経済が資本によって支えられなくなる。最終的には資本と国民国家の分離ということになる。つまり、(資本(企業)の利益が国民の利益と一致しなくなり)国民国家は資本に裏切られたかたちになる。
多国籍企業は、海外での事業展開を円滑に行おうとすると、海外の国の制度の変更をのぞむようになる。多国籍企業に動かされる政府は、海外の国々に制度変更を要求(内政干渉)するようになり、必然的に帝国主義的になる。 今日の経済システムの基底には、石油と通貨の関係があります。
(萱野)1999年にEUにおける共通通貨、ユーロが発足しますね。その1年後の2000年11月にイラク大統領だったフセインが、これからは石油の売上代金をドルでは受け取らない、すべてユーロで受け取る、ということを国連に対して宣言し承認されました。
 これはアメリカにとってものすごくいやな措置でした。というのも、フセインの決定は「石油の国際取引は原則としてドルで決済しなくてはならない」というルールに挑戦するものだったからです。ドル以外の通貨でも石油を買えるようになれば、誰も赤字まみれのドルを受け取ってくれなくなり、場合によってはドルが暴落してしまう。(続く)

資本主義の終焉と歴史の危機(2)

2014-04-08 | 読書
 分かり易く言うとこうです。売り上げが伸びなくなった会社が、売り上げを増やすためには、今まで売っていなかった地域(例えば海外)に売り込みます。空間に販売領域を広げる。地球上すべてに売り込み、売り込む先がなくなったら、新商品を開発して拡販を図ります。新商品開発とは、現在は存在しないが将来は出てくるはずのものを見つけることです。換言すると、時間軸で販売領域を広げる。ところが新商品開発など、辛気臭いことをしなくても時間軸で稼ぐ方法があるのです。金融業です。
 「ものづくり」で稼げなった時、金融を商売にすることは、利潤の源泉を時間軸で得ることです。金融市場が商品の先物を取引することから始まったことを考えれば、ご理解いただけると思います。
 アメリカの金融帝国化を数字でみます。1984年、金融業の全産業利益に占める比率はシェアは9.6%。2002年には30.9%に達しました。

 「周辺」がなくなった時に資本主義は変換を余儀なくされるという水野理論の当否は別として、この理論に基づく現在の経済現象の説明には頷ける点が多いのです。
 従来、マネーは銀行の信用創造によって作られていました。それには家計の所得が増加してある程度貯蓄率が高くならなければならない。しかし、1970年代半ば以降、利潤率は低下し、所得の増加率が鈍化したので、銀行を通じて創造されるマネーは、従来のように増えなくなってしまった。そこでアメリカ政府は、商業銀行の投資銀行化を政策的に後押しした。金融・資本市場を自由化し、資産価格の値上がりで利益を極大化する方が、はるかに効率的です。しかし、このことはバブルを繰り返すことにつながった。
 別の観点から言うと、資本主義には「周辺」が必要だが、途上国が成長し、新興国に転ずれば、新たな「周辺」をつくる必要がある。それが、アメリカで言えば、サブプライム層、日本でいえば、非正規社員であり、EUでいえば、ギリシャやキプロス。21世紀の新興国の台頭とアメリカのサブプライム・ローン問題、ギリシャ危機、日本の非正規社員化問題はコインの裏と表なのです。
 こうした国境の内側で格差を広げることも厭わない「資本のための資本主義」は、民主主義も同時に破壊することになりました。民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があってはじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、民主主義の基盤を崩壊することに他ならない。
 民主主義を機能させるには情報の公開性を原則としなければなりません。・・・国家も情報を独占することは許されません。この意味でスノーデン事件はおそらく21世紀の大問題に発展すると思います。
 情報を独占する側が常に敗者となるのが歴史の教訓です。この観点からもスノーデン事件が問いかけているのは民主国家の危機なのです。
 民主国家の危機という意味では、リーマン・ショック以降のベン・バーナンキFRB前議長による量的緩和政策も、その文脈でとらえることができます。マネーの膨張は、中間層を置き去りにし、富裕層のみを豊かにするバブルを醸成するものだからです。
 そもそも、マネタリスト的な金融政策の有効性は、1995年で切れています。
 金融緩和の有効性を主張する彼らの言い分は、貨幣数量説に基づく。貨幣の流通速度が長期的には一定のもと「貨幣の数量が物価水準を決定する」という理論で、数式で表現すると、Mv=PT(M:貨幣数量、v:流通速度、P:物価水準、T:取引量)だが、vが一定であるという前提が低金利のもとで崩れている。さらに取引量のなかには、金融市場での株や土地の売買取引が多く含まれるようになった。
 現在、金融経済の規模は実物経済よりもはるかに膨らんでいて、「金融空間」には余剰マネーがストック・ベースで140兆ドルあり、レバレッジを高めれば、この数十倍のマネーが「金融空間」を徘徊する。対して、実物経済の規模は2013年で74.2兆ドル(IMF推定)です。
 以下、オバマの輸出倍増計画もアメリカのシェールガス革命もアメリカの資本主義を救えないことを詳述しています。いずれも納得できる説明です。等々。


資本主義の終焉と歴史の危機

2014-04-07 | 読書
『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著、集英社新書、2014年3月刊)。
 かねてから現代の経済について疑問に思っていることがありました。
「資本主義というものは、利子の高いプロジェクトに優先して資金を投入することで、効率的に経済を運用するシステムだ。だから利率が長期的にゼロになったら、資本を効率的に運用することができなくなって、資本主義は成り立たないのでは?日本では20年近く金利ゼロが続く。もはや、日本の資本主義は成り立たなくなっているのでは?」という疑問です。
 たまたま先月の31日、「今日買うと明日より3%安く本が買えるかな、と丸善をぶらついたら、表記の本を見つけました。
 手に取ってパラパラ見ていたら、どうも「利子率がゼロになると、資本主義は終焉を迎える」と書いてあるらしい。早速購入して読んでみました。
 筆者の言わんとするところは『資本主義というものは、「中心」と「周辺」があって、高利率は、「周辺」が存在するときに、「中心」で得られる。しかし、「周辺」が存在しなくなれば、「中心」は高利率を得られなくなって、資本主義が終り、次の社会システム(それがなんであるのか現時点ではわからないが)が始まる』ということらしい。
 以下、筆者の論述を追ってみます。
 日本の10年国債の利回りは1997年に2.0%を下回り、2014年1月時点では0.62%です。さらにアメリカ、イギリス、ドイツの10年国債も金融危機後に2%を下回りその後多少の上昇はあっても、短期金利の世界では事実上ゼロ金利が実現しています。
 1997年までの世界歴史の中で、もっとも国債利回りが低かったのは、17世紀初頭のイタリヤ・ジェノバで、金利2%を下回る期間が11年間続いた。日本の10年国債の利回りは、400年ぶりにジェノバの記録を更新し、2.0%以下が20年近く続いている。
 利潤率の低下は、裏を返せば、設備投資をしても充分な利潤を生みださない設備、つまり「過剰」な設備になってしまうことを意味しています。
 この異常なまでの利潤率の低下はいつごろからはじまったか。1974年です。この年、イギリスと日本の10年もの国債利回りがピークになった。1981年にはアメリカがピークをつけ、それ以降、先進国の利子率は趨勢的に下落していく。資本主義はこの時、「地理的・地理的空間」を拡大できなくなっていた。また、先進国がエネルギーや資源をやすく買いたたくこともできなくなっていた。換言すると、これまで先進国という「中心」と資源を安く買える「周辺」という存在があった。しかし、その「周辺」がなくなってきたという。
 次に「交易条件」という概念で利潤率の低下を見てみよう。
「交易条件」とは、輸出物価指数を輸入物価指数で割った比率です。資源を安く仕入れ、生産した工業製品を高く売ることができれば高い利潤を得ることができる。
 原油価格の高騰により、1970年代半ば以降、先進国では投入コストが上昇し、粗利益が圧迫されました。つまり、先進国の「利潤率=利子率」の趨勢的な下落がはじまったのです。
 ここで水野さんは面白い仮説を提起します。
「地理的・物的空間(=実物経済)で先進国は高い利潤を得ることができなくなると、資本主義に代わる新しいシステムを模索すべきだったが、別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図った。ITと金融自由化が結合した「金融空間」です。
(「先進国」と言うところを「アメリカ」と置き換えればその通りと私は思います。アメリカが金融帝国化したことで、新興国に資本が流れ、それまで資本を蓄積しないと、工業化ができなかった新興国の工業化が急速に進み、先進国の利潤低下現象を招きます。)・・(続く)

花冷えのウオーキング

2014-04-06 | 旅行
「花冷え」の5日、地下鉄の「駅ちかウオーキングに出掛けました。
「マー君が先頭打者ホームランを打たれたあと、3番、4番を三振に打ち取ったのを見た後、家を出てスタートの名古屋港駅に9時40分着きました。
 受付で地図を貰い、1番出口を出て左に歩き始める。最初は築地神社です。「昭和13年(1938年)1月23日、熱田大宮の分霊(素戔嗚尊)を祀り、創祀される」とあります。この辺りは埋め立て地ですから、昔からの神社はなく、昭和の創建ですが、日本人って宗教心が篤いのですね。

 港区役所の近くに「津金文左衛門頌徳碑」があった。19世紀熱田新田を開拓した功労者で、尾張磁器製法の確立も援助したので、傍に「尾張磁器発祥の地」の碑もある。
 名古屋市港防災センターがある。地震の震度を体感できる装置があり、伊勢湾台風の3D映像が見られる。このあたりは伊勢湾台風では海になってしまったのだろう。
 尚、北へ歩くと弘善寺がある。「流れ観音のお寺」として有名。この流れ観音は、昭和7年に名古屋港で漂流中を当時の名古屋港務所しゅんせつ船「玄番丸」の船員が発見し昭和39年から当寺に安置されたそうです。
7番町まで来て、セブンイレブンに立ち寄り100円珈琲を頂き100円お握り3個調達。
「伝馬町まで歩くんですか」と店員。ここからまだ5㎞はあるから、感心したように言う。
この辺で4㎞以上歩いているが、どこまでも平坦な土地が広がる。海を埋め立てたところだから当然だが・・

 一番町に来る。「一番割観音」がある。
 江戸時代初期、熱田から西側に新田が開拓され、作業の無事を祈って観音堂を祀った。第一番札所石碑と、平成19年に新しく寄進された身代わり地蔵尊があった。

「初代尾張藩主徳川義直の命により1647年から開拓された熱田新田は尾張藩が実施した最大規模の新田開発で、現在の熱田区、中川区、港区にまたがる約4平方キロメートルが埋め立てられました。この新田を33に分け「番割」と呼び、それぞれに西国三十三ヵ所にちなんで観音堂がまつられました。現在はまとめてまつられている観音堂もありますが、熱田区内には一番から九番までの番割観音が現存しています。」

 東へ歩くと白鳥橋西へでた。プロムナードは桜が満開。

熱田記念橋を渡ると熱田神宮公園。公園の外側を歩いて旗谷町まで来ると、熱田神宮がすぐそこ。


西門から入り、ご神木を左にみて、お参りを済ませ、東門から出て右へ歩くとゴールの伝馬町駅があった。12時10分、9.1kmを歩き終えました。