古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

グローバル経済とローカル経済

2015-01-25 | 経済と世相
 『なぜローカル経済から日本は甦るのか』(富山和彦著、2014年6月、PHP新書)を本屋で立ち読みして、買ってしまいました。
あとがき(エピローグ)の次の記述を見て、「これは買わなくっちゃ・・・」と思ったのです。
著者とNさんの対談から始まる。
私「成長戦略って何かピンとこない・・
要は大手製造業やIT企業などのグローバル成長を意識したメニューなんだけど、日本経済でこうした産業が占める割合って、もはやせいぜい3割理度、雇用にいたっては2割くらいなんだ。
N氏「たしかに、前回の安倍政権の時もそうだったけど、グローバル経済圏で活躍している企業の収益や賃金が上がっても、トリクルダウンが起きず、むしろ格差問題ばかりがクローズアップされた。」
私「前に水野和夫さんが「人々はなぜグローバル企業の本質を見誤るか」のなかでも指摘していたが、それって日本だけでなく世界中、特に先進国ではどこでも起きている現象」
私「残り7割の経済圏、すなわち地域密着型のサービス産業の世界では、実は数年前から深刻な人手不足が始まっている。だからパート時給なんかも上昇傾向。
N「疲弊収縮する地方経済だけど。人はもっと足りない・・・・・」
私「要は、生産労働人口が先行的に減っているから、こういうことが起きる。もちろん製造業やITのように、世界中どこでも生産活動が行えるならこんなことは起きないけど、労働集約的なサービス産業って、需要のある場所で活動せざるを得ない。」
N「ということは、グローバルな経済圏で活動する産業、企業、人材に関わる話とローカルに密着せざるをえない経済圏の問題は。かなり異なるということ」
 この会話のN氏は、経産省審議官の西山啓太氏である。彼とは産業再生機構当時からの付き合いで、本書の論考の基盤となるG(グローバル経済圏)とL(ローカル経済圏)の世界をひとまず区分して観察し、それぞれの問題状況を考えてみるという思考体系は、彼と私の間での知的双発から生まれた。
 最後に、西山啓太氏に加えて、GとLを分ける発想の源流にある著作を著し、私と西山氏に多くのインスピレーシヨンを与えてくれた水野和夫氏。・・・、感謝申し上げます。
 巻末の参考文献には、勿論、「里山資本主義」など、藻谷浩介氏の著作もあった。
この本の主張を要約すると、こうです。
グローバル経済とローカル経済とは、別の世界で、グローバルで稼いだ企業の収益がローカル経済にトリクルダウンすることはない。そうなる原因は雇用である。グローバルに雇用を使える産業。企業はグローバル経済の世界で活躍できるが、そうでなければ、ローカル経済の世界で活動することになる。今日の経済政策の目的は、雇用にあるから、グローバル経済に対する経済政策とローカル経済に対するそれとは別でなければならない。
 実際、今日、日本経済のGDPを見ると、グローバル経済の生み出すGDPは全体の3割以下に過ぎない。アベノミクスは、この3割弱に対する政策であって、残りの7割強には。まったく効果がないのだ。
24日、県図書館に行き、雑誌をチェックしていたら、VOICEの1月号の巻頭言に養老孟司さん(今年のVOICEの巻頭言を担当するようだ)が執筆していた。
 内容は、この本で、以下引用すると、
【この数年、経済の話が面白い。そう思うようになった。きっかけは2010年の藻谷浩介「デフレの正体」だったと思う。引き続くデフレを労働生産人口の減少と言う一事で割り切ってしまった。ややこしい経済が一言で尽くせるわけはない。そう批判されて当然だが、きちんとデータを示して、具体的に論じたところに説得力があった。年寄ばかり増えてその年寄りがお金をもっているんだから、消費が進むはずがない。私は経済はズブの素人だから、その程度の認識。その後同じ著者の「里山資本主義」が出て具体的提言になった。
 2014年には、水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』が出た。銀行預金に利子がつかない。いくら私でもそれは知っている。しかしその意味が不明だ。たんい景気が悪いからかと思っていた。何も考えていないという、素人の典型である。
 資本があっても、利潤を生まない。資本主義は終りだ。なんとも分かり易い。だから、バブルが来てはそのうちはじける。それを繰り返す。アメリカ国内を回っているドルの数倍のドルが世界を回っている。そういう話は聞いたことがある。その意味も少し分かってきた。
 預金にまあまあの利息が付いたのはいつまでだったろうか。床屋で話題にしたら、「平成4年には5年定期で6.8%つきましたよ」床屋の答えだった。失われた20年とは、こういうことだったか。
 その次が富山和彦「なぜローカル経済から日本は甦るのか」。びっくりしたのが、上場企業がGDPに占める比率が3割くらい。近くの庶民、普通の人に聞いてみても正解する人はいない。日常自分が使うお金の割合を考えてみれば、そうだという気もする。車を買ったり、家を建てたりするとき、支出が膨大だから大企業にお金をはらっているような気がするが、均してみればローンの額。
著者はローカルとグローバルを対比する。私にはそこがピンときた。
 私は基礎医学の研究者として出発したが、あるときから英語で論文をかくことをやめてしまった。その代り日本語で単行本を書く。これである。つまり、学会の常識はグローバル一本槍で、ノーベル賞が、経済でいえば、ウオール街での大成功。それが日本語じゃ、どうにもならない。学会が認定する業績にならない。経済でいうなら、統計にも載せてもらえない。ローカルもいいところ。でもそれで30年頑張ったら、日本語のマーケットで大きなシェアが採れた。】1

確定申告

2015-01-24 | 経済と世相
  確定申告の季節です。23日、10時家を出て10時10分頃北政務署に着きました。昨日、自分のpCで作成しようと、家でPCを立ち上げ国税庁のHPにアクセスすると,Internet Exploreのヴァージョンは?とか、Adobe Readerのヴァージョンは?とか出てくる。まず、ソフトのヴァージョンを新しくしないといけない。一応ヴぁ―ジョアップして、作成にかかろうとしたら、問題が出た。配当控除で、会社名と配当金を入力しようとしたら、計算書の種別を入力しないとカーソルで入力できない。種別がわからない。国税庁のコールセンターに電話しようかと思ったが答えを貰うまでに時間がかかりそうだ。
申告書を作成してみると、日本人のマニュアルの作り方はいいかげんだとよくわかる。それでも12~3年前と比較すれば、かなり分かり易くはなったが、まだまだだ。これなら税務署のPCを借りて申告書を作成した方が早い。確定申告は2月から受付ですが、還付請求は1月後半から受け付ける。早くいけば受付も混雑しないと思い、源泉徴収票を持参し、名古屋北税務署を訪ねた次第です。
 受付で「確定申告書を作成したいから、pCを貸してくれ」と言うと、順番を待ってもらいたいと番号札を呉れた。まぁ仕方ないと待合室で、順番が来るまで、持参した新書を読んでいた。
 11時、順番が来た。「PCを使って頂くだけで良いですね」と念をおされた・
「いいですよ」と言ったら、「このpCでやってください」。係員はいたが、次の番号札の人を呼んで隣りのpCを使って、相談を始めた。pcはわからない所があれば聞いてください。その時間に次の人の処理にあたるというわけ。
年金の額の入力欄にきたら、メッセジが出た。「年金の合計額が400万円未満の方は確定申告をしなくてもかまいません」
 でも、確定申告をしないと、税金の還付が受けられない。私が確定申告するのは、税金を払うためでなく、払いすぎた税金の還付を受けるためだ。そちらは「申告しなくてもかまわなくても」、「こちらは構うのだ」
メッセージを出すのなら、その後に「ただし、申告しない場合、税金の還付は受けられません」と書いてなければ、マニュアルとして完全ではない。
小一時間かかったが、12時前入力終了。「終わりました」と係員に言うと「一寸チェックさせて下さい」と画面をのぞき込み、「342***の還付ですね」と、プリントして控えに受領印を押して渡してくれた。
 提出用に印を押して、提出。これで今年の確定申告は終了です。
毎年1月は、確定申告がすまないと、落ち着かないのですが、ひとまずほっとしました。
3週間後には、3万円のお小遣いがGETできます。

スポーツ障害診断

2015-01-16 | 水泳
スポーツ障害診断という診断を受けてきました。
 「スポーツ障害診断」は、名古屋市が市民サービスとして行っている事業で、毎月15日の夜、怪我などの障害でスポーツが出来ない人の相談に応ずる事業です。今回、この診断を受けようと思ったのは、昨年の怪我以来、いくら練習をしても、思うように水泳が泳げないからです。
 15日、夜7時半に予約を入れておいて、名古屋市総合体育館に出掛けました。
 7時過ぎ、会場に着くと、控室で問診票とアンケートの記入。簡単に記入後、用意してきた「症状と知りたいこと」を添付して提出しました。
【 症状
 頸椎の怪我の後、泳ぎがうまくできない
(泳げることは泳げるが、極端に持久力が落ちている。以前は100mバタフライを泳ぐのは、そんなにむずかしくなかったが、今は25mで息が上がり、50mになると沈んでくる。他の泳ぎでも同様である。)
 原因は腰が下がってしまうため水の抵抗が増えてしまうためではないか(プルブイを脚に挟めば、4種目とも少なくとも25mは泳げる。)
 腰が下がる原因として二つ考えられる。
 一つは、脳から脚へつながる神経が壊れて足を強く打てない。もう一つは、頸を動かすことで、水泳中の姿勢、バランスを保っていたのが、頸が動かないため、バランスを保てない。腰が下がる。(1月5日、北スポーツセンターのワンポイントレッスンを受けて水泳のコーチの意見を聞いたら、前者の意見でした。)

【 知りたいこと
 練習によって、元の泳力が回復できるのか。それとも加齢による症状だから、回復はできないのか。もし回復できるとすればどういう練習が効率的か。】
後藤さんという医師が面談してくれて、簡単な体の動きのチェックをしました。(ベッドに四つん這いになり、対角線の手と足を水平に伸ばしバランスの状況を診る、など)
先生のアドバイスは「決してバランス能力が落ちているわけではないが、頸の動きが悪いため(水中の)バランスが採りにくくなっている可能性があります。
 体幹のバランスを鍛える練習を良いでしょう」と言うものでした。
 先生との対話の中で、気付かされたポイントは、
「整形外科医は、「加齢現象だから回復に時間がかかる」と言うので「加齢ではなく、怪我でしょう」と聞くと「回復能力の衰えというのは加齢現象です」と言っていました」
後藤医師はこういった・
「時間をかけて部品をとりかえているんです」
「細胞が入れ替わるということですか」
「そうです。細胞の再生に高齢者は時間がかかるのです」
「あなたの場合、治ってはいると思いますよ。ただ、前の状態よりも可動域が狭い状態で治っている。頸の怪我は治っていないわけではない。ただ、治っても前と同じ状態に治るわけではない。可動域が狭い状態になっている。これは首のストレッチングを度々することで、徐々に可動域を広げるしかない」
「なおっていないのではない」という言葉は励みになりました。
8時過ぎ終了して9時過ぎ帰宅しました。

杞憂?

2015-01-14 | 経済と世相
 原油が猛烈に値下がりしているみたいですね、バレル45ドルをつけるなど、半値ぐらいに下がっているそうです。原油価格の下落は、日本経済にとって神風だと思います。それだけ購買力の産油国移転が少なくなるわけですから。
 しかし、心配なこともあります。物価が上がりません。物価が上がらないと、黒田さんは、異次元の金融緩和をさらに拡大しかねないことです。ずーと、原油値下がりが続けばよいのですが、値上がりに転ずることがあります。その時、世の中、お金がじゃぶじゃぶの状態だと、一気に物価が上がり、インフレを来すのでは?と危惧するのです。
 猛烈な金融緩和は、80年代後半に経験しました、プラザ合意の後の円高対策、この時、地価と株価が急騰しバブルになりましたが、一般物価はそれほど上がらなかった。円が強かったので、価格を高くすれば海外から安い商品が流入するので、物価は上がりにくかった。
今、為替は円安ですから、物価上昇に歯止めがかからない。猛烈な物価上昇が起きると、もう物価をコントロールできない。借金を抱えている人(政府など)は、借金が目減りして助かるのですが、年金生活者など、収入が増えない人は被害を受ける。
 私の心配が杞憂であるとよいのですが。
 

忘却の作用?

2015-01-09 | 経済と世相
 「何故一年が早く過ぎるか。
池谷裕二さんの説を紹介します。
年末には「あっという間の一年だった」と誰しも感じます。年齢を重ねるほど「時が早く過ぎる」と感じます。
何故でしょう。
私が思うには、50歳の人の一年は、今までの人生の50分の一、10歳の人にとっての1年は今までの人生の10分の1、1/50は1/10より小さいから短く感じられると考えていました。
 この問題、脳科学者の池谷裕二さんが、週刊朝日の新年号で論じて、新しい説を述べていました。私が述べたような考え方を「時間割引説」と言うのだそうです。
「変化知覚説」というのもあるそうです。
 子供は初めての経験がまだ多く、一瞬一瞬が新鮮で、同じ時間を生きても覚醒度が高いという考えです。
大人になれば目新しいことに出会う機会は徐々に減ってくる。マンネリ化した平凡な日々になる。
つまり、変化を感ずる機会が乏しいから時間が早く感じられるという主張です。
これには納得できない部分もありますね。なぜならありふれた凡庸な時間を過ごすのは退屈で、むしろ長く感じられるのでは?
 ここで、池谷さんは新説を出します。
 ポイントは、時間を現時点から過去方向に見るか、未来方向に見るか。未来の時間軸は過去の時間軸とは尺度が違う。どの年齢でも、過去を振り返れば「短い」と感ずる。
理由は過去の出来事を忘れているからです。
 年の瀬になると、年間を振り返るテレビ番組や流行語大賞など、一年を振り顧り見るイベントがあります。
「言われてみればそんなこともあった」。実際にはたくさんのことを経験したことに驚かされます。
時間は「矢のごとく過ぎ去ったわけではなく、」単に「充実した時間が過ぎたこと」を忘れてしまっただけのことです。
「忘却」は脳機能のなかでも不思議な現象です。忘却とは経年劣化とは異なり、脳が行う積極的なプロセスです。
脳内で自動的に作動しますから、意識で制御できません。忘れようと努力しても忘れられません。
 ただし、忘却は18~69歳までの幅広い年齢で、同程度に生じます。やはり「年と共に忘却が早くなるため、時間が早まったように感ずる」というわけでもないようです。



原発危機 官邸からの証言

2015-01-08 | 読書
『原発危機 官邸からの証言』(福山哲郎著、ちくま新書、2012年8月刊)は以下の文で始まります。
【2011年3月15日未明、午前4時17分。
清水東電社長は、官邸5階の総理執務室にたったひとりで入ってきた。社長の横に海江田大臣、向かい側には枝野官房長官、その横に藤井官房副長官、松本防災大臣、細野剛志、寺田学両補佐官。伊藤内閣危機管理官。そして私(福山官房副長官)。
管総理が
「連日、ご苦労さまです。結論から申し上げます。撤退などありませんから」
清水社長はややうなだれながら
「はい分かりました」と頭を下げた。』
官邸に詰めていた当時官房副長官が、原発事故を語る本です。

国民へのコミュニケーシヨンに触れた章がありました。
【「ただちに人体に影響を及ぼす数値ではない」という枝野官房長官の会見における放射能評価についての発言は、官邸発の情報に対する国民の信頼を損ねた象徴的な言葉として批判された。・・・・(しかい)私はそれ以上の的確な表現を今も思いつかない。
 しかし、受け手には「ただちに及ぼさないということは、一定の時間が経てば人体に影響を及ぼすのか」という疑問が生じた。また、「すぐに影響のでない低線量被曝について何も言っていないに等しい」と、かえって政府は情報を隠蔽しているのではないか」との疑念さえ抱かれた。】
 実際、この官房長官の会見を聞いたとき、いったいどういうことを言う二だろうと思いました。低線量被曝は、何年か経った後発病するのだから、「ただちに人体に影響を及ぼさない」のは当たり前だ。国民に真実を語らない枝野という男は政治家の風上におけないと当時思った次第です。
批判があった総理の現場視察についてこう述べる。
【総理補佐官は「総理が行けば被災地に迷惑をかけることになるうえ、東京に戻るのは午後になっては困る」と上空からの視察にとどめるよう説得した。】
 この前後の記述を読むと、首相が視察視察を決断したのは、当然だと感じます。
原子力委員会も保安院も、総理に必要な情報を何も伝えていないのです。「何が起こっているのか、総理は全くわからない。せめて現場を見て判断したい、と管さんが思ったのは、むしろ当然です。
 原発事故体験を踏まえてエネルギー政策の考え方が変わったのです。
 【管総理は任期中、大きな節目ごとに記者会見をしてきた。その中で、エネルギー政策をめぐって大きな意味を持つ会見が3つあったように思う。
ひとつめは、2011年5月6日、浜岡原発の運転停止要請
 二つ目は、5月10日、再生可能エネルギーの利用と省エネルギーによって電力構成を見直すと宣言した会見。記者の質問に答えてエネルギー基本計画の見直しにも言及した。
 3つ目は、7月13日、「原発に依存しない社会をめざすべきと考える」
まずは、浜岡原発の運転停止。
 5月5日、海江田計算大臣と細野補佐官は視察のため浜岡原発を訪れていた。視察から戻ってすぐに、彼らは「浜岡を止めましょう」と提案した。
 当時の海江田大臣によれば、浜岡は地理的状況が福島原発と似ており、津波がきたら目の前にある砂浜の砂が原子炉に入ってしまう。すると、オペレーシヨンは福島以上にやりにくくなる。防潮堤や電源車の問題にも対応しなければならない。それができない限りは止めましょう、ということだった。
 法律的に可能かどうか、官房長官は秘書官に命じて六法全書で条文を確認させた。国に原発を止める権限はなかった。そのため法律を尊重して停止の「要請」をすることになった。
 当時、これは横須賀の米軍基地の要請によるという噂(真偽は定かでない)がありました。
 次の節目となる会見は、浜岡停止要請の4日後、5月10日だった。総理の宣言した「日本の電力構成の見直し」は、これまでの「原子力」「化石エネルギー」という二本柱に「再生可能エネルギー」「省エネルギー」の二つを加えた四本柱への転換を表明したものだった。
これらの会見で語られた原発に関する方向転換は、安倍内閣で完全に方針転換されているみたいです。
「フクシマはまだ終わっていない」読み終わっての感想です。

外宮から内宮までウオーキング

2015-01-05 | 旅行
外宮から内宮までウオーキングしました。1月4日、近鉄主催のウオーキングに参加しました。近鉄名古屋駅から8:41松坂行の急行に乗車、松坂で五十鈴川行の急行に乗り換え、10時30分ごろ、宇治山田駅に着きました。受け付で地図を貰い歩き始めました。
 内宮は2~3回参拝していますが、外宮は行ったことがない。新聞でこの近鉄ウオーキング案内の記事を見てGETすることにしました。初詣割引切符が¥2200ということなので、片道だけで、通常¥2000ぐらい(特急乗車)ですから、随分安いと年末に購入したのです。ただし、都九県はついていない。そこで、急行乗車での伊勢参りとしたのです。
 宇治山田駅から、外宮までは、思ったより近い。1200mで着きました。

 天照大神のお食事を司る神、豊受大神を祀る内宮創建の500年後山田原に迎えられ、衣食住はじめあらゆる産業の守り神とのこと。
 お神酒の振る舞いを、本殿横で行っていたので、並んで一杯頂きました。「いくtらかな?」横の賽銭載せをみたら、千円札も100円玉もある。志でいくらでもよいらしい、と100円玉を乗せました。

 地下鉄や名鉄のウオーキングに比べ、勝手が違い戸惑いました。
ウオーキングの標識が出ていない。従って地図だけが頼りですが、地図の表示が特に分岐点でわかりにくい。それに、正月そそうであったためか、参加者が多くない。多ければ後についていけばいいのですが…
でもなんとか猿田彦神社(6.1km地点)まで歩きました。

が、この後しくじりました。
 猿田彦は、伊勢神宮の門衛みたいなものだから、猿田彦の後が内宮だろうと錯覚して猿田彦の次の交差点で左に曲がり猿田彦神社の後に回る方向に行きました。これが逆方向でした。地図を良く確認すればよいのに、我ながら、そそっかしい。しばらくして「五十鈴川駅まで徒歩8分」という標識を見つけて、内宮から離れて五十鈴川駅に向かっていることに気づきました。そこで向きを変えましたが、2㎞近く余分に歩きました。
 猿田彦を通り過ぎて1㎞ほど歩くと内宮の鳥居が見えてきました。

 宇治橋を渡り、神域に入ります。


お正月の人出で大賑わい。こんなに人が多いと神社の荘厳さは感じられません。日本人の宗教は、鎮守の森全体が神様なんですね。宇治橋を渡ってそこからの自然自体が神様であって、勿論神宮の社屋はあっても、その中は「空」、ではないでしょうか。
 ここでも、甘酒のサービスを行っていました。
甘酒を頂き、本殿に参拝した後、帰ることにしました。出口で「近鉄参拝記念品引き換え」の看板を見た。
 何かもらえるかな、と割引切符のパンフを見たら、引換券がついていました。

乙未(きのとひつじ)の置物(写真)でした。
橋の外で土産を買い、改めて地図を見ました。良く見ると、「五十鈴川駅ではゴール受付はありません。お疲れ様でした。」とある。別に歩いても仕方ない、と思ったとたん、2km余分に歩いた疲れが出て(多分ここまで12㎞歩いた)、もう2時だ、歩く気がしなくなり三重交通のバスに乗ってしまいました。5~6分で駅でした。
 駅に着くと急行は出たばかり、1時間に一本だ。1時間待つか、と覚悟を決めた後、「そうだ、大阪行に乗って、中川で名古屋行急行に乗ればいいのだ」と気づく。30分後の「上本町」行で中川乗り換え、名古屋行急行に乗り、4時50分名古屋駅に帰着しました。
 

日本銀行と政治

2015-01-03 | 読書
『日本銀行と政治』(上川龍之進著、中公新書2014年10月刊)の本を、大学図書館の棚で手に取り文末を見たらこうあった。
【アベノミクスについては野心的な実験と評する向きがある。筆者は、現実社会では実験的な政策はできうる限り行うべきではなく、大きな副作用をもたらす可能性のある、新しい政策の導入に際しては、検討を重ねたうえで、くれぐれも慎重に行わなければならないと考える。実験室とは異なり、現実社会で実験が失敗に終われば、甚大な被害が生じるからである。社会主義と言う実験が悲惨な結果をもたらしたのは、それほど昔のことではない。
 対米開戦をめぐり米内光政は「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならない」と発言したと言われる。当時の日本は、アメリカの石油禁輸による「ジリ貧」を脱しようとして。対米開戦を決定し、敗戦という「ドカ貧」に至った。それからおよそ70年後、デフレという「ジリ貧」を脱しようとして大胆な金融緩和と機動的な財政政策が決定された。これらの政策は、将来バブル崩壊や財政悪化を引き越し、日本経済を「ドカ貧」に陥らせる危険性がある。こうした不安が杞憂に終わることを願うばかりである。
「これは面白い」と良い進と、
【 リフレ論者は、世界金融危機への日本銀行の対応を見て、日銀批判を強めた。欧米の中央銀行が大規模な金融緩和を十分に行わなかったため、円高が急激に進み、日本経済は再びデフレに陥ることになったというのである。
 日本の金融緩和が不十分だった根拠としてよく挙げられるのが、日銀、FRB,ECB,イングランド銀行の総資産の伸びをしめしたグラフで、2007年1月時点の各中央銀行のバランスシートの規模を100として、それ以後の規模を年代順に見ると、他の中央銀行に比べ日銀のバランスシート拡大の規模は小さい。これを根拠に日銀の金融緩和は不十分であり、むしろデフレ政策を推進しているとさえ主張した。
 リフレ論者は、日銀を非難するだけではなく、他にやるべきことがあった。それは世界金融危機を引き起こしてしまったアメリカの金融政策を再評価し直すことである。リフレ論者は、グリーンスパンの金融政策を称賛し、それと比較して日銀の金融政策を厳しく非難していた。】

 【2000年に崩壊したITバブルの「後粗末」は成功したように見えた。アメリカ経済は回復し、急成長を遂げる。グリーンスパンは名総裁として称賛を浴びるなか、2006年1月任期満了で退任し、02年からバーナンキがFRB議長に就任した。
 FRBは住宅バブルを甘く見ていた。だが、この住宅バブルが、サブプライム住宅ローン問題、さらには世界金融危機を引き起こし、グリースパンは世界中の避難にさらされる。】
 本書は、1998年以降の経済の動きと日銀の対応を論じたものだが、「あの時どういう手を打つのが経済学的正しかったか」、実は何もわぁっていなかったのだということを再認識させられる。その意味で、アベノミクスは、前記したように、まさに実験である・
このことを2015年の年頭に確認した本でした。