古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

久しぶりマラソンの話題

2018-01-29 | マラソン

久しぶりマラソンの話題です。

今朝5時前に目覚めたら、ラジオ(深夜便)で君原選手が話しており、46年前のボストンマラソンで優勝した。.

、優勝者は50年後の大会に招待してくれるので、4年後、走れるように練習しているとのことでした。

素晴らしいことですね

昨日は大阪女子マラソンをtV観戦しました。

これぞマラソンという好レースでした。

日本女子の3人がトップ争い、25km辺りで「てんまや」の前田選手が飛び出しました。その後ダイハツの松田選手が追いついて抜き返し、初マラソンで優勝しました。

ゴールした時躍り上がってガッツポーズ。42km余走ったあと、あのガッツポーズは元気です。完走後のインタヴューも42km走った後とは思えない元気さ!

昨年名古屋マラソンで優勝した鈴木浜松の安藤選手に期待していましたが、

後半のスパートトについて行けませんでした。

しかし3人とも(21歳~23歳で)素晴らしい走りで、女子マラソンに、高橋、野口、有森の時代がまたきたのかな、と期待させるものでした。

 

 


『さらば、資本主義

2018-01-23 | 読書

佐伯啓思さんの『さらば、資本主義』(新潮新書、2015年10月)を紹介します。

「世界的に資本主義の転機になりつつあることは間違いなく、日本はその転換の先頭を走っている」(あとがき)が本書のテーマで、雑誌「新潮45」に連載された時評をまとめたものです。

 2014年12月の衆院選挙の争点はアベノミクスの評価だった。「アベノミクスは充分な効果を出せず失敗だった」というのが野党の主張でしたが、「ではどうすればよかったか」明確な対案がだせなかった。

おそらく大多数の人はアベノミクスに一定の評価を与えながらも、今後の展開に確信がもてないでしょう。

 アベノミクスはいったい、うまくいっているのか、それとも挫折しつつあるのか。この政策の「わかりにくさ」は、この政策に矛盾する考えがいくつも含まれているからです。

まず、第一の矢は、超金融緩和により2%程度のインフレを実現するという。これは、貨幣供給量をふやせば物価が上がる。という理屈です。経済理論ではマネタリズムという。第二の矢は、財政出動により景気回復を目指す。言うまでもなくこれはケインズ主義です。

 ところが、マネタリズムとケインズ主義はまったく相反する。ケインズ主義は、不況下にあって金融政策はさして意味がない。へたに金融緩和を行うと、そのお金は実体経済に回らず、ただ金融市場で投機に使われるだけで、それは経済に対して悪影響を及ぼすという。一方、マネタリズムは、ケインズ政策で財政拡張しても景気は良くならず財政赤字を膨張させ、経済を混乱させる。政府(および中央銀行)の出来ることは、せいぜい貨幣量を動かして物価水準に影響を与えるだけで、雇用や景気には影響しない。政府は景気を調整などできない。経済を良くするには、市場競争条件を整えて、能率の悪い分野から能率の良い分野に資源を移動するしかない。

 この考えによると、中央銀行が貨幣量をコントロールするのは、もともとはインフレを抑えるため。それをアベノミクスはインフレをもたらすため貨幣量を増やそうとしている。

 かくて第一の矢と第二の矢はまったく違った経済学の上に乗っている。

 確かに安倍首相は、「デフレ脱却のためには何でもあり」と言っている。だから両者のプラス面が出れば万々歳!マネタリズムにより物価が上がり、ケインズ主義で景気が回復すれば大成功です。

しかし逆になったらどうか。金融緩和はただ金融市場で投機的なバブルを引きお越し、実体経済にはほとんど影響を与えない。一方財政政策も赤字ばかり増やして、さしたる景気回復効果もない。こうなると目も当てられない。いったいどちらになるかやってみないとわからないのです。

 そこで、第三の矢で経済成長経路に持ち上げようという。しかしこれがまたよくわからない。いったい、アベノミクスの軸足は、政府が経済を動かす主導的役割を演ずる戦略的経済にあるのか、それとも構造改革を一層進める市場競争強化なのか、どちらにあるのでしょう。

 結局のところ、政策の目指すところは次の一言に収斂する。

「この激しいグローバル競争に勝つための競争力をつける」。今日の世界は、グローバルな市場を巡って資源や資本や市場の獲得競争がかつてなく激化している。だから、このグローバル競争に勝たねば成長できない。つまり、「グローバリズム」、「競争力」、「成長追及」の三つがアベノミクスのキーワードになっています。

 今日のグローバル競争のなかでいったいほかに選択肢があるのか、問われれば確かに答えに窮する。だから野党も有効な代案をだせないでいる。

しかしそうであれば我々はたいへん危険な道に入り込んでいるかもしれない。少なくとも、知識人やジャーナリズムは、この「グローバリズム」、「競争力」、「成長追及」の三点セットに疑いを向けるべきだ。

 構造改革に明け暮れた約20年は、まさに日本経済に「グローバルウ競争力」を付ける持続的実験だった。そしてどうなったか、それがデフレの10数年、格差の拡大停滞の20年だった。

 そもそも日本経済のデフレの原因はどこにあったか。

第一は人口減少、高齢化時代の到来です。将来の市場の拡大は望めない。需要減はデフレ圧力になります。

 第二はグローバル化です。先進国の企業は新興国の企業と競争せざるを得ない。激しいコスト競争にさらされる。これもデフレ圧力です。

 第三に構造改革。構造改革の基本的発想は、供給側を合理化することです。しかし問題は需要側にあるから、デフレ・ギャップが開くばかりです。

こういうわけですから、日本経済は「グローバリズム1」、「競争力」、「成長追及」の三点セットを見直さざるをえない。発想を転換して「グローバル化しなくとも国内でお金を回せばある程度成長出来る」、「無理な成長追及よりも安定した社会にあってこそ幸福だ」。これは価値選択の問題で先の選挙(2014年)の争点はそこにあったはずでした。


。『ケインズの逆襲 ハイエクの慧眼』

2018-01-22 | 読書

松尾匡さんの本は面白い視点が述べられていました。『ケインズの逆襲 ハイエクの慧眼』(PHP新書、2014年11月)です。近年の各国政府の経済政策を総評し、今後の経済政策を論じているのです。

 70年代まで先進資本主義国では、ケインズ型国家介入体制が採られていたが、スタグフレーシヨンの壁にぶつかった。

北欧諸国では高度福祉国家を目指したが、財政赤字が壁になった。

 資本主義国でないところは、もっと強烈な国家介入システムがとられた。たとえば、ソ連や東欧では、「共産党」など、マルクス・レーニン主義をかんばんを掲げる政党が独裁政党になって、企業は原則すべて国有化し、政府が運営する経済体制だったが、最終的には1989年ソ連体制は崩壊します。

こうした流れの中で、「小さな政府へ」という動きが出てきた。しかし、筆者は「小さな政府」はこれらの問題を解決できないとして「転換X」を提唱します。

「転換X」とは何か。キーワードは、リスクと決定と責任さらに予想は大事です。

ハイエクの説いたところは、要するに「リスク・決定・責任の一致が必要だ」ということです。そこで、国家の役割は民間人の予想を確定することだと言います。民間人の経済的営みがスムーズにいくためには、」ただでさえリスクのある彼らにさらなるリスクを課さない。不要なリスクが軽減出来るようになるべく不確実性を減らさねばならない。これこそが国家の役割だというのです。

 結論として、どういう国家体制がのぞましいのか。あとがきでこう記述する。

転職や、協同組合の起業や、再学習がいつでも可能な、自由な人生を万人に補償するため、充実したベーシックインカムを導入します。

 転職や、医療、教育、子育て支援などの分野では、現場の利用者、従業者の自治に基づく協同組合などの活躍で、万人のニーズが満たされるよう、公財政などで手厚くサポートする。

 失業ゼロをめざし3±1%ノ」インフレ目標を約束する。不況のときは財政支出を通貨発行で賄い、インフレのときはお金持ちや大企業中心に課税強化する。最低賃金やベーシックインカムはインフレ目標と整合するように引き上げる。

 労働基準、環境基準などのルールを厳しくする世界中の人々の闘争を支援する。金融規制も世界的に統一する。国際通貨取引に課税するトービン税を実現する。

 外国人労働者の移入を自由化すると同時に労働ダンピングにならないよう、労働運動を支援し規制強化に努める。

どうでしょうか。私は、少なくともベーシックインカムの強化導入と、トービン税の慈雨源には大賛成です。

ベーシクインカムについて一章を割いて(第6章)詳述しています。

仮ベネーシックインカムを金額で固定するなり、あらかじめ決まった律で引き上げることにする。税収から一般の政府経費を引いた残りでベーシックインカムが賄えなければ足りない部分はお金を発行する。逆にベーシックインカムを払っても税金に余りが出ればその分は中央銀行が吸収する。

 そうすると、自動的に景気が安定する仕組みができる。なぜなら不況時にどれだけ失業者が出てもベーシックインカムの分は需要を下支えする。しかも不況なら税収が減るので、足りない財源を賄うお金の発行が増えて景気を刺激する。

 逆に好況が過ぎてインフレがひどくなれば税収が増えて吸収されるお金が増える。それは需要を冷やします。

 さらに、ベーシックインカムがあれば「逃げる」だけで世の中が良くなる。

例えば、ひどい労働条件の「ブラック企業」に勤めていてもやめることが出来る。ひどい労働条件では人が集まらなくなるから、ある程度は労働条件が改まる。

あるいは、ベーシックインカムがあれば、たとえ住民税を払わない人でも住んでくれれば需要が発生し、経済にプラスになる。サービスが行き届かない地域からは住民が出て行き、地方政府同士、住民サービスを競うことになると言うのです。


「はやぶさ」秘話

2018-01-08 | 読書

『ニッポン宇宙開発秘史」の第5章は、小惑星探査機「はやぶさ」にまつわるエピソードです

最初はターゲットマーカーの話。「はやぶさ」が小惑星に降り立つ際にどこに着地するか、目印を置く必要がさります。そこで、ターゲットマカーという。ソフトボール大の目印を着地の寸前落とす。地球の場合、ちょっとはずむだけですぐ着地します。ところが小惑星は重力が小さいので、弾んだ勢いがちょっとでも大きいと、宇宙へ飛んで行ってしまう。ターゲットマーカーをいかにして弾まないようにするか、担当者は悩んで、飲み屋で議論していた。近くで飲んでいたおじさんが、「お兄さんたち面白い話をしているね」と議論に混じり「お手玉がいい」という。「お手玉ならあるよ」と店の主人が持ってきて落としてみると全く弾まない。お手玉の詰め物が、弾むエネルギーを吸収するからです。翌日出勤した担当者はあのヒントをくれたおじさんは誰かと飲み屋に電話した。近所の町工場の社長だった。あらためてその社長を訪ねてターゲットマーカーを作ってもらった。

 ターゲットマーカーを目安にして無事に着陸したら、今度は小惑星のカケラを拾う。このカケラを拾い方を飲み屋で議論した。スコップで掬い取る方法は確かに確実だが、装置が重くなって「はやぶさ」に載せられない。

「電気掃除機のようにやれば」と言い出した人がいて考え込んでいたら、隣にいた女子学生が「あんた、ばかじゃないの?」と反論してきた。「電気掃除機は外に大気があって、なかを真空にするから、ものを吸い込むことが出来る。小惑星の表面は真空なのに、どうやって吸い込めるの?」

最終的に「サンプラホーン」という装置を使ってサンプルをあつめることになりました。探査機が着地したあと、漏斗を逆さにした形のサンプラホーンを地面に覆いかぶせ、接地した瞬間に中から地表に向かって弾丸を発射する。弾丸で砕かれた地表のカケラが舞い上がるからそれを集めるというのです。

「舞い上がったカケラが落ちてしまったら、サンプラホーンにはいらない?」と発言したら、くだんの女性、「小惑星にはほとんど重力がないから、一度舞い上がったらどこまでも上に行く」と言ったので脱帽!この方式に決まった。

2003年5月9日、「はやぶさ」は3億㎞かなたの「イトカワ」に向かって打ち上げられました。2005年秋口に「イトカワ」の近くに到着しました。最接近後、地表に降りることになる。単純に降りて行くといっても、これがなかなか難しい。「イトカワ」は地球の10万分の1の重力しかない。「はやぶさ」をほとんど引っ張ってくれないのです。太陽から降り注ぐ光の圧力を使いながら、非常にゆっくり降りて行く。着陸には別の困難がある。地表に降りている最中に問題が発生したら、地球から指示を出してもとても間に合わない。光速で片道16分か17分かかる距離ですから指示が届いたころには手遅れです。着陸段階で、トラブルが起きると「最悪の事態」です。皮肉にもその「最悪の事態」が現実になった。リアクシヨンホイールの故障です。最後の段階でオペレートを変更しなければならない。オペレーターの猛訓練が行われます。さらに問題!

 サンプラホーンから弾丸が発射されるとき「はやぶさ」の角度が一定以上傾いていると、発射の反動であらぬ方向に行ってしまう。だから。「はやぶさ」の角度が一定以上なら弾丸を発射しないプログラムになっていた。そのプログラムが作動したのです。担当差は断言しました。「舞い上げた誇りは必ずカプセルに収納されます」

2010年6月13日地球に帰ってきました。「はやぶさ」のカプセルはパラシュートで回収され線数百粒もの微粒子がみつかった。それらは45億4000万年前のものでした。

科学雑誌『サイエンス』は「イトカワ」の特集号を発行し、編集長は「わが光栄ある『サイエンス』誌を「はやぶさ」ミッションだけで一冊独占させて頂きありがとう」とメッセジをおくってきた。

クローズアアップ現代に出演したとき、「はやぶさ成功の原動力をひとことでいってください」と聞かれ筆者は「適度な貧乏が原動力だ」と答えた。


ブラックホールの発見

2018-01-07 | 読書

「ニッポン宇宙開発秘史」からのエピソード、次は小田稔さん(1923~2001)です。

 小田先生は、X線天文学の父です。宇宙からはさまざまな電磁波が地球に向かって飛んでくる。可視光線だけでなく、X線もガンマ線も地球に降り注いでいる。しかし、地球の大気でX線もガンマ線も吸収されて地上には届かない、人間は地上でキャッチできる可視光だけが見えるよう進化してきたと言える。ジャンスキーという科学者は雷から出る電波を捉えようとアンテナを設置したら、雷のない所から電波が来る。そうした電波の一つが射手座から来ていることが分かった。1930年代、こうして電波天文学が始まる。X線天文学やガンマ線天文学が開花します。

 小田先生が年端もいかぬ頃に初めて抱いた疑問は、「鼻くそがどうして大きくなるのか」毎朝起きると鼻くそが溜まっている。「夕べ寝る時にはなかったのに?」

そこで小田少年は朝になると小さな箱に自分の鼻くそを入れ、押し入れの中にしまっておいた。鼻くそが大きくなるかの実験です。夕方に開けてみても大きくならない。「鼻くその量がたりない?」と来る日も来る日も箱にいれ続けた。

この「壮大」な実験はあるときお母さんが部屋の掃除をしていて見つかった時終りを迎えた。

 小田先生はブルーノ・ロッシというイタリヤの天文学者と出会い、X線天文学の研究に従事する、1960年代前半のことです。X線天文学が飛躍した時期でした。それまで太陽からくるX線だけしか観測できなかったが、太陽以外に観測対象をひろげることで、X線天文学の可能性が一気に膨らんだ。アポロ計画に便乗し、「月からくるX線を研究したい」と予算を通した。1962年、太陽以外の天体からと思われるX線を初めて検出した(、「サソリ座X1」)。1962年です。小田先生がMITに呼ばれ、X線の発信源を特定する研究が始まります。

小田先生は、「すだれコリメーター」を発明しました。

ケネヂー暗殺のニュスを聞いていてアイデアが浮かんだといいます。1963年11月22日です。

そのアイデアは簡単にいうと、

 回し車のような格子があって、格子にX線が入る角度によって反対側にできる「影」が違ってくる。その「影」を見ることで、X線がどの方向からどういう角度で来たか特定できるとうものです。その頃、糸川先生が中心となって東大に宇宙航空研究所が設立されます。1966年、日本に戻った小田先生は、宇宙航空研究所の教授に就任、まさに「宇宙科学の父」と呼ばれるべき八面六臂の活躍をみせることになる。「すだれコリメータ」の分解能はどんどん改良され、ついに10秒水準を達成する。1秒は1度の3600文の1です。この結果、ⅹ線観測の精度が可視光観測の精度に追いつく。即ち、X線で観測した星と可視光で観測した星とを対応させることが出来るようになった。岡山天文台が可視光である星を観測し、「サソリ座X1」ではないかと予言した星がまさにそうでることが確定させました。以後「しすだれコリメータ」を使って世界中でさまざまな発見が続きました。1968年から70年の間に、はくちょう座のX線源が特定されました。「はくちょう座X1」と名付けられました。同時期に大きな青い星も観測され、当初これが「はくちょう座X1」ではないか考えられましたが、観測を続けていくと、大きな青い星からはX線がでていないことがわかった。

 1971年東京天文台が重要な発見をします。大きな青い星から噴出しているガスがⅹ線を出している未知の天体に吸い込まれているという発見です。

 小田先生は、この発見を受け、未知の天体にガスが吸い込まれていく様子をX線で観測します。小田先生の結論は世界中に衝撃を与えました、ブラックホールの発見です。


糸川英夫先生

2018-01-06 | 読書

「ニッポン宇宙開発秘史」(的川泰宣著、NHK新書)を読んだ。面白いエピソードが沢山載っていました。」

 まずは、日本の宇宙開発の父、糸川英夫の発想をめぐって。

 糸川先生は、大学卒業後、中島飛行機に入社する。戦闘機隼の開発に関わる。しかし、戦後日本は飛行機研究を禁止される。飛行機の翼の設計をやっていたので、「振動」に

詳しくなり、音響学を始める。ハカセ論文は「音響学」です。更に、脳波が波であることから脳波の研究もした。音響学や脳の研究を経てロケットの開発に足を踏み入れる。長さ23センチの「ペンシルトケット」の研究から始めた。最初のペンシルロケットは上向きでなく水平方向に打ち出した。

 当時の日本には性能の良いレーダーがなかった。ロケットの位置や速度をモニターするにはレーダーで追いかける必要がある。しかしレーダーの開発には1年以上かかる。そこで、「横に向かって打てばレーダーは要らない。高速度カメラを使って工夫すれば、水平方向に発射してもロケットの飛び方のデータはとれる」。

1955年4月12日、ペンシルロケットの発射に成功した。

 4月12日は、1961年にガガーリンが宇宙に飛び立ち、1981年にはスペースシャトルが初めてとんだことから「宇宙飛行の日」とされているが、4月12日に世界で一番早く空を飛んだのはペンシルッロケットでした。

ペンシルケットが役目を終え。その技術は「ベビーロケット」に引き継がれました。二段式のロケットで、1955年8月に初発射が行われた。

 1957~1958年の国際地球観測年(IGY)で、日本のロケットが国際デヴューします。IGYに合わせて、「100kmの高さに到達するロケットを目指したが、IGYまで1年を切ってもまだ10㎞も打ちあがらない。燃料がネックでした、日産自動車と東大の共同開発でコンポジッド推進剤が開発されました。これを詰めたカッパロケットが打ちあがったのは1958年4月のことでした。9月には60kmに到達し、温度、圧力、風の流れノデータが採れ、日本チームはそれらのデータをひっさげIGYに滑り込みで参加できた。IGYでロケットを打ち上げられたのは、アアメリカ、ソ連、イギリス、そして日本だけでした。結果的に世界四強の仲間入りができた。カッパロケットは、1960年7月には200km近くの高度を達成できました。新しい発射場がひつようになり、全国をくまなく行脚して鹿児島県内之浦を選定し、1962年2月から着工した。

1960年10月のことです。鹿屋に降り立ちタクシーで内之浦に行こうとしました。

 運転手が露骨に嫌がりました。当時は道gまだ整備されてなくて、小石がはねてボヂーに傷がつくのを嫌がったらしい。「路を知らない」とまで言いました。糸川先生は「じゃあ私が運転します」と運転席に座ってしまった。内之浦で待ちわびていた町長たちは、運転席から市川線sデイが降りてきたので、腰を抜かした。

 内之浦という街は、お椀を伏せたような山岳地帯で辺り一面丘だらけ。普通の考えでは発射場に向かない調査のと通、尿意を催した糸川先生は小高い丘に立ち、舘翔敏を始めた。そして「よしここに決めた」とつぶやいた。

 同公社が「こんな山岳異体に発射場はできない。amerikaやソ連みたいに砂漠のような場所に造るのが常識です」と説得したが、「あなた、人のまねしてどうするの」と聞く耳持たない。

世界初の山岳地帯の発射場が内之浦に完成塑いた。現在では、スウェーデンやノルウェイなど、山岳地帯の発射場は珍しくない。

 内之浦には、現在、糸川先生の生誕100年を記念した銅像が建っている。筆者は「あの立小便した場所に糸川先生の小便小僧を創るべきだ」と提案したが、却下されたそうです。

 内之浦に行ってしばらく後、「日本も人工衛星を打ち上げられないか」という構想が出てきた

 人工衛星の打ち上げにはラムダシリーズと名付けられたロケットが使われた。通常のロケットと人工衛星を摘んだロケットとは、まるで話が違う。後者では、人工衛星を地球周回軌道に乗せる必要がある。当時の日本のロケット開発には、まだ制御技術がなかった。また予算もなくて複雑な制御システムは作れない。

 打ち上げたロケットは、下部のロケットを切り離しながら上昇し、最後には最終段のrケットと衛星だけとなる、そこで姿勢を水平に制御して軌道に打ち出す。つまり、最後の姿勢を水平にするところだけ制御できれば位と考えた。1970年2月11日、打ち上げられ成功。日本

初の人工衛星が誕生した(おおすみ;内之浦のある大隅半島に因む)。

以後、「おおすみ」に続けとほとんど毎年一度ずつ人工衛星が打ち上げられた。毎年一度というのは、予算が一基しか出なかったからです。

糸川先生は67年3月退任する。その後貝谷八重子さんに入門しバレイをはじめたことは有名です。趣味の話を続けると、糸川先生はチェロ好きで海外出張も必ずチェロを持っていきました。一人で二つの席を取り、自分の横の席にチェロを置く。しかし出張が重なると、二人分の座席をとる余裕がなくなる。そこで組み立て式のチェロを造りそれを持っていくことにした。

 戦闘機を造り、ロケトを開発し、チェロをたしなみ、バレイを習う。まったくユニークな人です。「130歳まで生きる」と言っていたが1999年、86歳で世を去りました。ある日、ガードレールを飛び越えてタクシーに乗ろうとして骨を折ってしまった。それが原因で体が動かなくなり、暫くして亡くなったという。

尚「はやぶさ」が探査対象とした小惑星「イトカワ」は「イトカワ」の名がつく前、「1998SF36」のコードネームがあった。これを発見したのはMITのグループで、小惑星の命名権は発見者にあります。そこで「はやぶさ」プロジェクトでは、MITのグループに連絡を取り、命名権を譲ってもらい、「イトカワ」と名付けたという。

 

「ニッポン宇宙開発秘史」(的川泰宣著、NHK新書)を読んだ。面白いエピソードが沢山載っていました。」

 まずは、日本の宇宙開発の父、糸川英夫の発想をめぐって。

 糸川先生は、大学卒業後、中島飛行機に入社する。戦闘機隼の開発に関わる。しかし、戦後日本は飛行機研究を禁止される。飛行機の翼の設計をやっていたので、「振動」に

詳しくなり、音響学を始める。ハカセ論文は「音響学」です。更に、脳波が波であることから脳波の研究もした。音響学や脳の研究を経てロケットの開発に足を踏み入れる。長さ23センチの「ペンシルトケット」の研究から始めた。最初のペンシルロケットは上向きでなく水平方向に打ち出した。

 当時の日本には性能の良いレーダーがなかった。ロケットの位置や速度をモニターするにはレーダーで追いかける必要がある。しかしレーダーの開発には1年以上かかる。そこで、「横に向かって打てばレーダーは要らない。高速度カメラを使って工夫すれば、水平方向に発射してもロケットの飛び方のデータはとれる」。

1955年4月12日、ペンシルロケットの発射に成功した。

 4月12日は、1961年にガガーリンが宇宙に飛び立ち、1981年にはスペースシャトルが初めてとんだことから「宇宙飛行の日」とされているが、4月12日に世界で一番早く空を飛んだのはペンシルッロケットでした。

ペンシルケットが役目を終え。その技術は「ベビーロケット」に引き継がれました。二段式のロケットで、1955年8月に初発射が行われた。

 1957~1958年の国際地球観測年(IGY)で、日本のロケットが国際デヴューします。IGYに合わせて、「100kmの高さに到達するロケットを目指したが、IGYまで1年を切ってもまだ10㎞も打ちあがらない。燃料がネックでした、日産自動車と東大の共同開発でコンポジッド推進剤が開発されました。これを詰めたカッパロケットが打ちあがったのは1958年4月のことでした。9月には60kmに到達し、温度、圧力、風の流れノデータが採れ、日本チームはそれらのデータをひっさげIGYに滑り込みで参加できた。IGYでロケットを打ち上げられたのは、アアメリカ、ソ連、イギリス、そして日本だけでした。結果的に世界四強の仲間入りができた。カッパロケットは、1960年7月には200km近くの高度を達成できました。新しい発射場がひつようになり、全国をくまなく行脚して鹿児島県内之浦を選定し、1962年2月から着工した。

1960年10月のことです。鹿屋に降り立ちタクシーで内之浦に行こうとしました。

 運転手が露骨に嫌がりました。当時は道gまだ整備されてなくて、小石がはねてボヂーに傷がつくのを嫌がったらしい。「路を知らない」とまで言いました。糸川先生は「じゃあ私が運転します」と運転席に座ってしまった。内之浦で待ちわびていた町長たちは、運転席から市川線sデイが降りてきたので、腰を抜かした。

 内之浦という街は、お椀を伏せたような山岳地帯で辺り一面丘だらけ。普通の考えでは発射場に向かない調査のと通、尿意を催した糸川先生は小高い丘に立ち、舘翔敏を始めた。そして「よしここに決めた」とつぶやいた。

 同公社が「こんな山岳異体に発射場はできない。amerikaやソ連みたいに砂漠のような場所に造るのが常識です」と説得したが、「あなた、人のまねしてどうするの」と聞く耳持たない。

世界初の山岳地帯の発射場が内之浦に完成塑いた。現在では、スウェーデンやノルウェイなど、山岳地帯の発射場は珍しくない。

 内之浦には、現在、糸川先生の生誕100年を記念した銅像が建っている。筆者は「あの立小便した場所に糸川先生の小便小僧を創るべきだ」と提案したが、却下されたそうです。

 内之浦に行ってしばらく後、「日本も人工衛星を打ち上げられないか」という構想が出てきた

 人工衛星の打ち上げにはラムダシリーズと名付けられたロケットが使われた。通常のロケットと人工衛星を摘んだロケットとは、まるで話が違う。後者では、人工衛星を地球周回軌道に乗せる必要がある。当時の日本のロケット開発には、まだ制御技術がなかった。また予算もなくて複雑な制御システムは作れない。

 打ち上げたロケットは、下部のロケットを切り離しながら上昇し、最後には最終段のrケットと衛星だけとなる、そこで姿勢を水平に制御して軌道に打ち出す。つまり、最後の姿勢を水平にするところだけ制御できれば位と考えた。1970年2月11日、打ち上げられ成功。日本

初の人工衛星が誕生した(おおすみ;内之浦のある大隅半島に因む)。

以後、「おおすみ」に続けとほとんど毎年一度ずつ人工衛星が打ち上げられた。毎年一度というのは、予算が一基しか出なかったからです。

糸川先生は67年3月退任する。その後貝谷八重子さんに入門しバレイをはじめたことは有名です。趣味の話を続けると、糸川先生はチェロ好きで海外出張も必ずチェロを持っていきました。一人で二つの席を取り、自分の横の席にチェロを置く。しかし出張が重なると、二人分の座席をとる余裕がなくなる。そこで組み立て式のチェロを造りそれを持っていくことにした。

 戦闘機を造り、ロケトを開発し、チェロをたしなみ、バレイを習う。まったくユニークな人です。「130歳まで生きる」と言っていたが1999年、86歳で世を去りました。ある日、ガードレールを飛び越えてタクシーに乗ろうとして骨を折ってしまった。それが原因で体が動かなくなり、暫くして亡くなったという。

尚「はやぶさ」が探査対象とした小惑星「イトカワ」は「イトカワ」の名がつく前、「1998SF36」のコードネームがあった。これを発見したのはMITのグループで、小惑星の命名権は発見者にあります。そこで「はやぶさ」プロジェクトでは、MITのグループに連絡を取り、命名権を譲ってもらい、「イトカワ」と名付けたという。