古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

彦根・安土

2003-11-22 | 旅行
 天守の周りを歩いていると、「佐和山が見える!」とJさんが教えてくれた。
 関ヶ原の戦功で石田三成の居城、佐和山城を与えられた井伊家は、三成色を払拭したいと、佐和山から金亀(こんき)山に移城して彦根城を築いた。その佐和山はどの辺かな?と山登りの好きなJさんは探していたらしい。作家の司馬遼太郎さんも、佐和山はどこかと探す話が、小説「関ヶ原」の冒頭に出てくるが、現在、名神高速が佐和山の山腹をトンネルで通過している。
”冶部少(三成のこと)に過ぎたるものが二つあり
 島の左近と佐和山の城”(島左近は三成の筆頭家老で豪勇の評判が高かった)
という里謡が往時、歌われたと言う。それくらい城の縄張りが豪壮であったらしい。 その佐和山に劣らない城として、幕府の命で12大名が協力、20年の歳月をかけて築いた城がこの城。歩いてみて、なるほど大きな城、と納得する。

 1.5時間ほど城内を散策してから、今度は安土城に向かう。5人、息を弾ませながら山上まで登ってみた。各所の石段横に”羽柴秀吉の邸跡”、”前田利家の邸跡”などの表示ある。全山、石段・石垣で覆われる感、山一つ全部が城になっていたんだ!
 安土城は、本能寺の変ですべて燃え尽きた?と思っていたが、三重の塔(写真)が一つだけ残っている。總見寺という七堂伽藍を巡らせたお寺が城内に作られ、その寺の三重塔だという。何のために寺を城内に作った?フロイスによると、信長自身を祀る寺にするつもりだったというが、真偽の程は定かでない。
 何故、信長は安土の地に居城を築いたか?当時の彼の本拠地岐阜と大阪の中間地
だったからでは?JRの時刻表で見ると、岐阜-安土は74.5Km、安土-新大阪が81.8Km、それに北陸路の敦賀まで71Kmである。
 最後に安土城址から近い安土城博物館に行く。隣に信長の館と称して安土城5階6階部分を復元・展示している。セビリヤ万博(1992)に出展したものです。写真に撮ろうと壁一杯に退がってカメラを向けたが、全景は入りません。雰囲気だけでもと写真添付。
 Hさんが言うに「岐阜の亀山建設の建造」。同建設はHさんの(Hさんが登校拒否児童の教室を開いている)お寺を建てた会社です。
 この後、雨になりましたが、二日間の美術と歴史の旅、無事に終りました。

琵琶湖に遊ぶ

2003-11-21 | 旅行
 18,19日琵琶湖周辺を旅行しました。30年も前、労組役員で知り合った仲
間、何故か気が合い、ここ数年、年1~2度、一緒に旅行しているのです。
 18日の午後、東海道本線の守山駅に集合し、Jさんの車で佐川美術館を見に行きました。
 佐川美術館は琵琶湖大橋の傍、佐川急便の40周年記念で5年前開館し、平山郁夫画伯と、彫刻の佐藤忠良さんの作品を集めています。
 どんな美術館かは下記のホームページをご覧ください。
参考 http://www.sagawa-artmuseum.or.jp
 とにかく、広々としてゆとりのある空間、平山画伯の絵を見て、「シルクロード、是非行ってみたいな」と、Hさん。
 「佐川急便というと、ドライバーが走って配達しているがめつい会社という印象が強いが、こういうメセナをやっているなんて知らなかった!」というのが一同の印象でした。
 その後、湖岸道路を走り(この道路、信号が少なくて素晴らしく走りやすい。一般道だが高速道並み)彦根市の「かんぽの宿」に投宿。
 夕食の後、カラオケルームで遊び(選曲にそれぞれの個性が出て面白い)、部屋に戻り、車の中で話し足りなかった近況を、夜更けまで語り合いました。
 そうそう、こんな話もありました。IIDA様のメールにあったM社のI社長。Hさんは元M社の社員、入社はI社長と同期。社長就任を聞き、Hさんは祝いの電話をかけたそうです。「結局、お前が一番世渡りが巧かったんだな!」、「オマエたちが勝手に居なくなっちゃったんで、オレが残ったんだ!」ということだったようです。

 翌19日、9時にチェックアウトして、彦根城を訪れました。電車の窓からは見ていましたが、中に入ったのは始めて。予想以上に城内が広いのに驚きました。
 1603年の着工といいますから、もう400年。国宝になっています。現在、お城の国宝は、姫路、松本、犬山とこの彦根の四城です。幸運に恵まれ、創建当時の姿を残しています。玄宮園という庭園が天守の東北に広がっていますが、素晴らしいお庭です。
 その雰囲気をうかがうことが、出来ることを願って写真添付します。(続く)