天守の周りを歩いていると、「佐和山が見える!」とJさんが教えてくれた。
関ヶ原の戦功で石田三成の居城、佐和山城を与えられた井伊家は、三成色を払拭したいと、佐和山から金亀(こんき)山に移城して彦根城を築いた。その佐和山はどの辺かな?と山登りの好きなJさんは探していたらしい。作家の司馬遼太郎さんも、佐和山はどこかと探す話が、小説「関ヶ原」の冒頭に出てくるが、現在、名神高速が佐和山の山腹をトンネルで通過している。
”冶部少(三成のこと)に過ぎたるものが二つあり
島の左近と佐和山の城”(島左近は三成の筆頭家老で豪勇の評判が高かった)
という里謡が往時、歌われたと言う。それくらい城の縄張りが豪壮であったらしい。 その佐和山に劣らない城として、幕府の命で12大名が協力、20年の歳月をかけて築いた城がこの城。歩いてみて、なるほど大きな城、と納得する。
1.5時間ほど城内を散策してから、今度は安土城に向かう。5人、息を弾ませながら山上まで登ってみた。各所の石段横に”羽柴秀吉の邸跡”、”前田利家の邸跡”などの表示ある。全山、石段・石垣で覆われる感、山一つ全部が城になっていたんだ!
安土城は、本能寺の変ですべて燃え尽きた?と思っていたが、三重の塔(写真)が一つだけ残っている。總見寺という七堂伽藍を巡らせたお寺が城内に作られ、その寺の三重塔だという。何のために寺を城内に作った?フロイスによると、信長自身を祀る寺にするつもりだったというが、真偽の程は定かでない。
何故、信長は安土の地に居城を築いたか?当時の彼の本拠地岐阜と大阪の中間地
だったからでは?JRの時刻表で見ると、岐阜-安土は74.5Km、安土-新大阪が81.8Km、それに北陸路の敦賀まで71Kmである。
最後に安土城址から近い安土城博物館に行く。隣に信長の館と称して安土城5階6階部分を復元・展示している。セビリヤ万博(1992)に出展したものです。写真に撮ろうと壁一杯に退がってカメラを向けたが、全景は入りません。雰囲気だけでもと写真添付。
Hさんが言うに「岐阜の亀山建設の建造」。同建設はHさんの(Hさんが登校拒否児童の教室を開いている)お寺を建てた会社です。
この後、雨になりましたが、二日間の美術と歴史の旅、無事に終りました。
関ヶ原の戦功で石田三成の居城、佐和山城を与えられた井伊家は、三成色を払拭したいと、佐和山から金亀(こんき)山に移城して彦根城を築いた。その佐和山はどの辺かな?と山登りの好きなJさんは探していたらしい。作家の司馬遼太郎さんも、佐和山はどこかと探す話が、小説「関ヶ原」の冒頭に出てくるが、現在、名神高速が佐和山の山腹をトンネルで通過している。
”冶部少(三成のこと)に過ぎたるものが二つあり
島の左近と佐和山の城”(島左近は三成の筆頭家老で豪勇の評判が高かった)
という里謡が往時、歌われたと言う。それくらい城の縄張りが豪壮であったらしい。 その佐和山に劣らない城として、幕府の命で12大名が協力、20年の歳月をかけて築いた城がこの城。歩いてみて、なるほど大きな城、と納得する。
1.5時間ほど城内を散策してから、今度は安土城に向かう。5人、息を弾ませながら山上まで登ってみた。各所の石段横に”羽柴秀吉の邸跡”、”前田利家の邸跡”などの表示ある。全山、石段・石垣で覆われる感、山一つ全部が城になっていたんだ!
安土城は、本能寺の変ですべて燃え尽きた?と思っていたが、三重の塔(写真)が一つだけ残っている。總見寺という七堂伽藍を巡らせたお寺が城内に作られ、その寺の三重塔だという。何のために寺を城内に作った?フロイスによると、信長自身を祀る寺にするつもりだったというが、真偽の程は定かでない。
何故、信長は安土の地に居城を築いたか?当時の彼の本拠地岐阜と大阪の中間地
だったからでは?JRの時刻表で見ると、岐阜-安土は74.5Km、安土-新大阪が81.8Km、それに北陸路の敦賀まで71Kmである。
最後に安土城址から近い安土城博物館に行く。隣に信長の館と称して安土城5階6階部分を復元・展示している。セビリヤ万博(1992)に出展したものです。写真に撮ろうと壁一杯に退がってカメラを向けたが、全景は入りません。雰囲気だけでもと写真添付。
Hさんが言うに「岐阜の亀山建設の建造」。同建設はHさんの(Hさんが登校拒否児童の教室を開いている)お寺を建てた会社です。
この後、雨になりましたが、二日間の美術と歴史の旅、無事に終りました。