古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

胎児の世界

2013-07-29 | 読書
「胎児の世界」(三木成夫著、中公新書、1983年5月)を読んでみました。
30年も前の本ですから、小さな図書館では見つからず、愛知県図書館の書庫で見つけてきました。
もっとも迫力のある章は「胎児の顔」と題する章でした。
【心臓の動いている胎児を入手しなければならぬ。この時期の胎児は、しかし幸か不幸か中絶の手術のときにしばしば手に入る。ただ、無傷のものとなると、稀だ。専門医の好意にすがるしかない。
その日は思いもかけないときにやってきた。親友のAが、いきなりそれを息せき切って持ってきたのだ。
「写真」にとろう。胎児が刻々とかたちを変えて、1億年のドラマを再現していくシーンがそこに映ればいい。鰓が消え、鰭が手に変わっていく、その顔と手の変貌がはっきり見えさえすれば・・・
胎児の標本は・・・地道に集められていった。

受胎32日の標本瓶・・・頸部の切断は、やすやすと行われた。そのゴマ粒の頭部・・顔面がわずかにコチラを向いた。フカだ!思わず息をのむ。やはりフカだ。
標本瓶は片っ端から蓋がとられていった。34日、36日、そして38日・・・
36日の顔がこちらに向いたとき、わたしの心臓は一瞬とまった。爬虫類の顔がそこにある。あの古代爬虫類「ハッテリヤ」の顔ではないか。
38日の顔がこちらに向いたとき、わたしは何か凝然となる。獅子頭の強大な鼻づらが、目の前にせまってくる。それはもう、けだものの顔だ。はやもう哺乳類の顔になっていたのだ。
40日、もはやヒトとよんでさしつかえない一つの顔がある。
胎児は、受胎の日から30日を過ぎてからわずか1週間で、あの1億年を費やした脊椎動物の上陸誌を夢のごとく再現する。】
『個体発生は系統発生を繰り返す』を生き生きと表現しています。
それから、こんな記述もありました。
 【ヤツメウナギという魚がいる。「八目」というのは、目の後方に、一列に並んだ鰓孔を目の続きとみなしてつけた名であろう。脊椎動物の遠い祖先の、まさに由緒ある末裔である。
「アンモシーテス」が、この動物の幼名で、この時代、かれらは、いってみれば植物的な生を過ごす。下半身を砂に埋めて、(鰓孔から)新鮮な水と、それに乗ってやってくるプランクトンなどを四六時中からだの中に流し込む。幼生の時期は植物の姿をとって、ただひたすらわが身を養うことに専念する。この時期をヤツメウナギの生涯の「食の相」と呼ぶ。
 この幼生が大きな目玉を皮膚の表面にむき出し、尻尾は、大きな櫂をくっつけて、ついに砂から抜け出して、動物らしい、感覚―運動の生を始めるのである。それは、この動物がおとなになって、いよいよ生殖を始めるのだ。これからの時期を、ヤツメウナギの生涯の「性の相」とよぶ。(名は「ラムペトラ」、岩をなめるの意味)産卵場を目指して岩つたいに進んでいく。この段階ではもう飲まず食わずである。内臓を収める体腔は、必要なだけのガソリンを蓄えた肝臓と、排気ガスを放出する腎臓とそれらの循環をつかさどる心臓との三者を残して、ただもう“子種”ではちきれそうである。
目的地にたどりついたヤツメウナギは・・・メスとオスは卵子と精子を放出する。その瞬間から、個体は“死”に向かって急坂を駆け下りる。
生物の二大機能として「個体維持」と「種族保存」があげられる。いうまでもなく、前者は、せっせと食べて体をやしなっていくことであり、後者は、骨身を削ってただひたすら次代をつくっていくことである。ヤツメウナギでは、この二つの営みが全生涯を真っ二つに分け、まったく対照的な「食」の生活相と「性」の生活相を際立たせているのである。それは、言ってみれば“食い気”も“色気”も、もはやごちゃまぜの私たち人間にとって、何か目を見張らせるような一つの生き様ではないかと思う。】
生物を語りながら、人間の生き方に示唆を与える本でした。

反・自由貿易論(2)

2013-07-20 | 読書
この本を読んで、改めて思ったことは、TPPは関税が問題ではなく、非関税障壁が問題だということです。
第3章では“「通貨とルール」の支配が最大の武器“と、論じています。
 政治学者デヴィッド・キャメロン(米)は、1978年に発表した論文で、「戦後の先進国では、国内市場の対外開放度の高い国ほど、経済に占める政府支出の比率が高い」という事実を示しました。つまり、貿易自由化が進むほどに、政府は大きくなっている。
 一般に主流派の経済学者は、自由貿易と共に「小さな政府」を望ましいものと考えて・・・自由貿易のためには、政府は国際市場にも国内市場にもできるだけ介入しない方がよいというのです。ところが、実際には、貿易自由化は政府を大きくするものでした。
 多くの日本人が戦後の成功体験から「日本は、自由貿易により繁栄した」と信じていますが、その成功は、単に市場開放を進めたからではなく、冷戦下の覇権国家アメリカの存在と・・・政治的な条件によって支えられていたのです。
 しかし、世界の政治や経済の構造変化と共に、こうした政治的な条件が変わっていく・・貿易体制が本質的に変化し始めるのは1970年代から80年代にかけてのことです。経済力が相対的に低下し、関税引き下げだけでは優位を保てなくなったアメリカが、経済戦略の主眼を、市場内部にある企業の競争力を強化するアプローチから、市場のルール自体を自国企業に有利に変更するアプローチへと移行し始めるのです。
 「非関税障壁」というのは、簡単に言えば、外国製品や外国企業が市場に参入するにあたって、現地の製品や企業との競争において不利になると思えられるものすべてが含まれます。国内の規制や制度、取引慣行、文化、はては言語までも、「競争の妨げ」だと見なされれば、「撤廃すべき非関税障壁」・・・たとえば、日本政府が公共事業の入札を行う場合、「公示が日本語だけで行われるのは、アメリカの建設会社にとって非関税障壁」と言われれば、「英語でも表示しなければならない」というルールが定められる。
 戦後のGATTによる貿易交渉が関税引き下げに成功してしまったということが、貿易交渉の大きな変化をもたらしたのです。
 1970年代初頭、・・・変動為替相場に移行。企業の国際競争力を決定する要因として、為替相場がきわめて重要になる。たとえば貿易交渉において、アメリカが対日関税を10%引き下げても、円高・ドル安が10%進んでしまったら、関税撤廃の効果は全く無意味になってしまう。
 グローバル化した世界では、相手国の関税を引き下げてもらうより、相手国で企業が有利にビジネスを行えることの方が大切です。貿易交渉においても、関税の引き下げより相手国の国内制度や経済ルールを自国企業に有利に設定することが求められるようになりました。
 今日の世界では、グローバル経済戦略の主要な武器は、関税ではなく、「通貨」そして「ルール」なのです。
 世界がグローバル化したことによって、国家の政治の影響力は後退するどころか、より重要になったのです。そして世界経済は、市場と言うルールで行われる企業間の経済競争ではなく、市場のルールの設定をめぐる国家間の政治競争の場になった。
 結局のところ、「市場」とは、財・サビスの交換における「ルールの体系」のことです。そのルールの体系を設計し、担保するのは政治であり、国家です。

 WTO協定を成立させたウルグアイ・ラウンドの際、アメリカの議会は、「ウルグアイ・ラウンド協定法」という法律を成立させました。これは、WTO協定を国内で具体化するための国内実施立法です。
 ところが、ウルグアイ・ラウンド協定法は、WTO協定とアメリカの国内法の効力関係について、次のように規定しているのです。
「ウルグアイ・ラウンド諸法のいずれの規定も、またはその規定のいずれかの人もしくは状況への適用も、それがいずれかの米国法に反する場合には、いかなる効果ももたない」
 日本の場合はどうでしょうか。憲法98条第2項で「日本国が締結した条約および確立された国際法規はこれを誠実に順守することを必要とする」
つまり、アメリカが入っている貿易協定に日本も参加した場合、日本は国内法よりも優先して貿易協定を守る義務を負うのに対し、アメリカは国内法を優先して貿易協定の規定に違反することができるということになるのです。
このようにアメリカは、自国に有利になるようにハイパー・グローバリゼーシヨンを推進しました。しかし、だからと言って、アメリカの一般国民がその恩恵を受けたというわけではない。
平成20年版経済財政白書を見てみると、先進国における労働分配率は2000年代に入ると下がっています。特に輸出主導で成長した日本とドイツにおいて、労働分配率の低下は顕著です。
 結論は「TPPが敵とするのは関税ではない。敵は非関税障壁の撤廃!」、非関税障壁の撤廃は、米国製品や米国企業がTPP加入国の市場に参入するにあたって、現地の製品や企業との競争において不利になるルールをすべて撤廃することです。
 しかし、それが撤廃されて米国企業が利益を上げたとしても、米国国民が恩恵を受けるわけではなく、まして日本の国民が恩恵を受けることはあり得ない。
 市場のルールと、通貨を制する国家(国家の企業)が富を制する時代です。

反・自由貿易論(1)

2013-07-19 | 読書
『反・自由貿易論』(中野剛志著、2013年6月刊新潮新書)は面白い本でした。
「自由貿易は好ましい」は、主流派経済学の基本的な命題の一つと考えられています。教科書には、その代表的根拠として、「比較優位説」(リカード)が挙げられている。
 ある二国を想定したとき、それぞれが自国内であらゆる産業を行うより、互いに相対的に得意とする分野に特化して分業し、それぞれの生産物を自由貿易した方が有利だという理論です。分業特化で生産性が上がり、互いに利益が得られるからです。
よく引き合いに出されるのが、毛織物とワインの例です。A国・B国がそれぞれ自国内で毛織物とワインを作るより、A国が毛織物・B国がワインと分業し、できた生産物を貿易で交換した方が、全体の生産量が増え、利益が上がる。たとえA国の生産能力が高く、毛織物もワインもB国より効率よく作れるとしても、B国と分業して互いの品を貿易で交換した方がお互いのメリットは大きくなる、としています。
しかし、少し考えてみればわかりますが、この理論が成立するには、ある種の前提条件が必要です。たとえば、
① 生産要素は国内の産業間を自由に移動でき、そのための調整費用もかからないが、国と国との間の国際的な移動はない。
つまり、毛織物を作っている労働力が、費用なしでワインを作る労働力に移動できる。また、労働力は国外には移転しない。
② 生産要素は完全に雇用されている。
つまり、毛織物産業(ワイン産業)が他国に移転しても、失業は発生しない。
③ 国内市場では、生産物市場、生産要素市場ともに完全競争が行われている。また、国際貿易の運送費用は存在しない。
つまり、貿易品の運送費用を考えなくてもいいし、分業で生産性が上がるのは、自由市場の存在が前提です。
等々の前提が必要で、少なくともリカードは、今日のようなグローバル経済下のグローバル貿易を考えていたのではなく、彼の考えた貿易は、国と国が独立に経済を運営して、その国と国との間で行われる国際貿易でした。
 私が面白いと感じたのは、経済学の命題には、それが成立するための前提が必ずある、という主張です。
「金融市場のグローバル化」についても、
「自由な資本移動が大きな利益をもたらす、という実証的な証拠はない」(ジャグヂッシュ・バグワテイ).
「資本の流入と経済成長の間に正の相関関係がない」(ラグラム・ラジャン)
「国際的な資本移動の行き過ぎがリーマンショックをもたらしたのであり、今後は世界各国が協力してグローバル化を適切に制御することが必要である」(ジョセフ・スチグリッツ)等の研究があり、金融自由化が経済成長を促し、国民にメリットをもたらすためには、いくつかの前提を必要とすることを述べている本です。(続く)

ジャパン・マスターズ

2013-07-15 | 水泳
「ジャパン マスターズ水泳大会」が今年は名古屋市で7月12日から15日まで開かれています。二日目の13日、100mバタフライに出場しました。以下、その顛末です。
 出場予定時刻が17:51とのことで、午後、家を出て日本ガイシプールには、1時40分には着きました。入り口で、顔写真入りの選手IDカードの提示を求められた。こんなことは水泳大会で初めて。ボストンマラソンのテロの影響かな?
出場まで時間があるので、2時から開かれる「安全クリニック講演会」を聞くことにした。
 「耳鼻咽頭科と水泳」というテーマで、愛知県がんセンター中央病院 頭頸部外科の福田裕次郎先生が講演された。パソコンに保存された画像を次々スクリーンに映しながら1時間ほど話された。画像が珍しいので、あっという間に1時間が過ぎた。お年寄りが入れ歯を誤飲した写真もあった。
「メニエール病はとても有名ですが、患者数はそれほど多くない」。
「耳鼻科は首から上で、脳と目以外のすべてが対象領域です」という。では歯はどうかな?
確かに耳鼻科と言うと耳と鼻だけみたいに感ずるが、もっと範囲が広いらしい。甲状腺がんの写真も見せてくれた。がんが専門の病院の先生、舌のがんの写真も見せてくれる。
 3時過ぎ、アップの練習をしようと、更衣室に行ったら、超満員でロッカーが空いていない。まぁ盗難もあるまいとバッグに衣服も靴も入れて更衣室の片隅に置いた。サブプールへ行くと、これがすごい混雑。まさに芋を洗うという状況だ。平泳ぎで300mほど泳いだら、HANAI先輩がやってきた。
「こういう時でないと、あんたに逢えないなぁ」と言う。「平泳ぎを泳がれるんですか」、「うん、今泳いだところ」
 「えっ、もう済んだのですか」。平泳ぎの次はバタフライだから、行かなくちゃ、でもまだ4時前だ。
「女子の平泳ぎは終わってるのですね」
「いや、男女一緒にやっている。片方から男子が飛び込み、別の方から女子が飛び込むんだ」。そういう大会は初めて。とにかく行ってみようと、400mでアップを切り上げ、競技プールに行った。
 女子50m平泳ぎが北側の飛び込み台から飛び込みゴールすると、すぐ南側の飛び込み台から男子選手が飛び込む。人数が多いので少しでも進行を早くする仕組みである。電光掲示板も二つに割って、男子、女子の選手名が掲示されている。50m平泳ぎは参加人員が多い種目だから、男女合わせて1000人以上が次々に飛び込む。終るまでに2時間近くかかった。
 だんだん出場時刻が近づくので、招集所の近くに行くと「NOZUEさんですね」と声をかけられた。「誰だったかな?」と思ったら「TAKESITAです」、「あ、ご無沙汰しています」、「SEYAMAからお会いしたらよろしくとのことでした」。
 D社の後輩のお義兄さんだ。
バタフライ100mが始まった。これも片方から女子、反対側から男子が飛び込む。
1組8コースだった。9コースは四日市のGOTOUさんだ。「お久しぶりです」。
 予定時刻ぴったり、5時51分飛び込み台に立った。
何回泳いでも、この瞬間はドキドキする。「向こうまで泳いで帰ってこられるかな」、「毎日練習したんだから絶対泳げる」と自身に言い聞かせる。スタートの笛で飛び込む。飛び込んでしまえば、もう考えることはない。前へ、前へと行くだけ。50mターン、だんだん息が荒くなる。「頑張るんだ!」。時々1掻き1呼吸になるが、ほぼ2掻き1呼吸でフィニッシュした。恥ずかしいぐらい息が荒い。9コースがかなり遅れているが、80歳を過ぎているとやはりきついのだろう。
 観客席から拍手と大歓声、「セイノ・・セイノ」と、遅れた9コースへの大声援!80歳を超えて100mバタを泳ぐきつさは、水泳をやっている人は皆知っている。
 プールを上がり、サブプールへ行き、200mダウンで泳いだ。「NOZUEさん、お疲れ様!」。声がかかるので見ると、バタフライのスペッシャリスト、OHSAKIさんだ。彼もレースを終わったところらしい。「あぁ、どうも」挨拶してから、上がる。着替えしてから、速報板を見に行く。男子100mバタの75歳区分で、小生は5位、2分46秒92と出ていた。やはり、ジャパン・マスターズはレベルが高い!75歳区分と80歳区分で各5名が出場している。

8位までメダルをもらえるということなので、メダルの交換所に行く。名古屋を記念してか金シャチをデザインした黒色のメダルだった。全日本の大会なのだから、5位でも満足しなければ!
 昨年11月に転倒で右肩の棘上筋を痛めてから、2.5か月ぐらい肩が後ろに回らなくなり、泳げなかった。その後遺症で、100mで20秒くらい遅くなった。だから今大会は200mはパスしたのだが、少しは持ち直してきたようだ。
 6時半、会場を辞去、7時20分帰宅。以上、初のジャパン・マスターズ出場記です。

三木成夫さんの本

2013-07-03 | 読書
『内臓とこころ』(三木成夫著、2013.3月河出文庫)を読みました。
著者(1925年12月24日 - 1987年8月13日)、香川県丸亀市出身の解剖学者、発生学者)は解剖学の先生です。先生の著書は、この本(原題:内臓の働きと子どものこころ)の他『胎児の世界』(中公新書)の2冊しかないが、死後続々と遺稿が出版され、解剖学者・発生学者としてよりも、むしろ特異な思想家・自然哲学者として注目され、死後、ほぼ毎年、「三木成夫記念シンポジウム」が開催されているとのこと。
以下、発生学者の面目躍如たる記述です。
 人間の体は(動物でも同じですが)、「内臓系」と「体壁系」からなります。
【解剖学的に手足や脳は、目や耳の感覚器官と一緒に「体壁系」と呼ばれております。からだの外側の壁を造っている部分です。
内臓系の中心に心臓が、体壁系の中枢に頭脳がそれぞれくらいする。
体壁系――――動物だけに見られるものです。ここは三つに分かれます。外皮系と神経系と筋肉系です。外皮系と言うのは皮膚で代表されます。皮膚が特に精密になって、つまり皮膚の触覚が高度に分化して、目とか、耳とか、鼻とかの感覚器官ができますが、すべては外界との接触面になる。ついで神経系が、この外皮系と筋肉系の間にできますが、背中の部分で特に発達して脊髄になる。そして、この脊髄の前端が大きく膨らんで脳となる。おわりに筋肉系が、まず脊髄の両側にできます(ロース肉です)。つぎにここからお腹の方に筋肉が広がって内臓を全部つつみます(バラ肉)。
 この外皮系と神経系と筋肉系で、それぞれ感覚、伝達、運動の三つのいわゆる「動物機能」が営まれます。ふつう生理学では、なにかものを見て、それを神経が脳に伝えその指令が、こんどは筋肉に及んで」、運動になって終わる。このように教わりますが、この、つまり
感覚が原因で運動が結果だという考え方は間違いです。動いたから新しい感覚が起こる(犬も歩けば棒に当たる)。ここでは運動が原因で、感覚が結果です。
 感覚と運動と言うものは、どちらが原因でどちらが結果であるというものではない。原因・結果として結びつけるのはじつは人間の、どうしようもない“わがまま”です。「感覚あるところに運動あり、運動あるところに感覚あり」。
 ボールが飛んできて打つでしょう。名選手になると、その時ボールが停まって縫い目が見える。」それはボールと同じ速さで目の玉が動いたからです。それから封書の重さをはかるときに手を上下させますね。これも同じ理屈で、筋肉の収縮によって、重さの感覚が出てくる。感覚を鍛えるということと、筋肉を鍛えるということは、表裏一体の関係です。手術の時に筋肉の麻酔剤を使います。筋肉が動いていると、痛みが停まらないのです。
 つまり、感覚と運動は同時進行です。
 次に内臓系。ここでも三つに分かれます。腸管系と血管系と腎管系で、「植物器官」と呼ばれています。まず、からだの真ん中を腸管が貫く。その背腹に沿って血管が走る。この腹側血管のなかほどが膨らんで心臓になる。終わりに、この腸管と血管を包む、体腔の池の、左右の向こう側に一対の腎管が通る。
 腸管系、血管系、腎管系では、それぞれ吸収・循環・排出と言う三つの「植物機能」営まれる。
 体壁系と内臓系、双方とも「入――出」が向かい合って、その中間に“仲人”がいる。この“仲人”に相当するのが、体壁系では「神経」、内臓系では「血管」です。
 『今日の話は、「内臓系」、いわゆる“はらわた”の部分です』。この内臓系の感覚が、赤ん坊では、いったいどのようにしてできてくるのか。・・・】と、 個体発生は系統発生を繰り返す不思議について縦横に語ります。
次の二つの指摘が心に残りました。
 過去を再現する仕組み―――これがどうやら私ども人間の“あたま”すなわち脳味噌の特徴と思われます。

「思う」という象形文字の意味。上の「田」は脳ミソを上から見たところ、下の「心」はもちろん心臓(血管系すなわち内臓系の中心)の象形です。「あたま」(神経系すなわち体壁系の中枢)が「こころ」の声に耳を傾けている図柄です。

 巻末の文庫版解説で、養老孟司氏はこう語っています。
「まもなく三木先生の時代がまたやってくる。そんな気がしてならないのである。」