古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

28日の駅ちかウオーキング

2015-11-30 | 旅行
28日は駅ちかウオーキングに参加しました。青空の9:40鶴舞駅④出口から中央線沿いに、まずは東別院。今日は朝市でにぎわっていました。
ジャガイモとピーマンを家の土産にGETしました。東別院と鶴舞というと、感覚的にはかなり離れているのですが、直線で歩くと、近いのですね。こうした発見がウオーキングの楽しみです。
東別院の西に回り込むと、栄国寺というお寺があります。付近は昔、千本松原という刑場で。寛文4年(1614)204人のキイシタンが処刑された。藩主光友公によりの菩提を弔い創建されたという。
本尊の阿弥陀如来を公開していたので一寸のぞく。

路地にキリシタン処刑跡があり、慰霊の石像が並んでいた。

 すぐ近くに日置神社がある。この辺り、都心のビル街だが、神社・仏閣が立て込んでいる感じです。日置神社では抹茶を振る舞っていたので、一椀の茶と和菓子を頂く。500円でした。織田信長が桶狭間の戦勝の礼にマツ千本を植えたことから「千本松日置八幡宮」とも呼ばれるとか。
神社の庭に珍しいタブの樹を見つけました。平成11年の台風のためにこういう姿になったとか。

 神社の傍らに七面山明善寺というお寺もあった。七面女神像を祀るとか。
西の大通りは伏見通り。北へ歩くと、数々のフィギュア・スケート選手を生んだ大須スケート場だ。北に歩いて白河公園。
ここにチェックポイント。スタッフが立っていて、通過証を一人一人に渡している。ゴールでこれを提示しないと完歩証に捺印しないという。街なかのハイキングでバスも地下鉄もいっぱいあるから、それらを使って中抜けしないように、ということらしい。
 北へ行き、広小路通りで右折。本町で南に戻る。白川公園に入った。
青空に映える噴水が綺麗だった。

美術館の東を抜けて若宮通り。若宮八幡社に参拝。

日柄が良いのか、結婚式らしい集団も見られた。
東へ歩いて矢場町の交差点を越すと、久屋大通り公園フラリエと言うところに出た。公園にこんな場所がいつできたのか、しらなかった


南に歩くとゴールの地下鉄上前津駅だった。12時半。3時間近いウオーキングでした。8㎞弱と言うことだったので2時間であるけるかと思ったが、公園などに入り込んでぶらつく距離を考えると9㎞ぐらい歩いたようだ。
 左足の痛みはさほどなかった。少しずつ良くなっているようです。
 やはり、鍛えれば治ってくるみたいです。


岐阜県陶磁美術館

2015-11-29 | 旅行
 岐阜県陶磁美術館に行きました。
http://www.cpm-gifu.jp/museum/02.exhibition/02_1.exhibition.html
27日の住宅シニアクラブのウオーキングです。
 9時半エレベータホールに集まると、男性4名、女性5名の9名。今日は寒そうなので参加人員は少ないかと思ったが、いつも並の人数です。お天気は雲一つない晴天です。天気予報は風が強いと報じていたが、それほどではない。
 10時、大曽根で中津川行快速に乗れた。30分で着く。南口から出て左(東)へ歩く。オリベストリートと称するながせ町商店街を抜けて多治見橋を渡る。これから先、道を間違えないように気をつけねば。ひと月ほど前に下見に来たので、その時1回しか歩いたことのない道だ。確か、道なりに歩いて「金山機械」という建物から右折だったけ。
 何とか間違えずに、美術館に着いた。歩行者用入り口は、山間の小道をたどると忽然として近代的な建物が現れる。岐阜県前知事が知事会の会長を務めていたので政治力で資金を集めて作ったのだろう豪奢な建物です。12時前着。1時間半のウオーキングでした。距離は4㎞程度だが、上り坂だから時間がかかった。
昼飯を食べようと場所を物色。1Fにロビーがありテーブルもあったので、そこで弁当を広げた。
昼食後、館内に入り「明治工芸の粋」と「吉田喜彦とうつくしいものたち」の両方を見た。
 説明のパンフによると、
『明治の工芸。精緻極まりない超絶技巧の数々は、めまいがするような衝撃をもって私たちを魅了する。当時は輸出用として制作されたため海外では高い評価を受けたが、国内では全貌をめにする機会がなかった。明治工芸の魅力を伝えるべく長年かけて質、量とも世界一のコレクシヨンを築き上げたのが村田理如(まさゆき)氏。本展は、村田氏収集の京都・清水三年坂美術館の一品を一堂に公開します』。
清水三年坂美術館をネットで検索したら、
http://www.sannenzaka-museum.co.jp/
最初の部屋に入ると、「七宝」の説明があった。
こんなに工作が出来るの、という作品が並んでいました。
帰りはバスです。
2:29のバスに乗りましょうと、2:30食事したロビーに集まりました。
 バスは、土・日は美術館前まできますが、平日は国道の「美術館入り口」バス停まで歩かなくてはならない。「来るとき20分だったよ」とHさんのいうバス停まで10分でした。帰りは下り坂だからです。
風が寒くなっていましたが、バスに乗ると、連絡が良くて、4時名城公園駅に着きました。



大和路の旅(2)

2015-11-28 | 旅行
 2日目はガイドさんを頼み、明日香村を観光しました。
推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間、この地に宮・都が置かれていたそうです。

9時、石舞台の駐車場で、ガイドのMさんと落ち合うことにしました。駐車場に着くと、「飛鳥路」と書かれた上っ張りを羽織ったMさんが来ました。早速石舞台の見学と説明です。巨大な石で組んだお墓で、一個の石が60数トンという。
石舞台の後、ガイドさんも我々の車に同乗して飛鳥寺へ。推古天皇4年(596)創建された日本最初の寺。
本堂に上がり、御坊様の説明を聞く。本尊の飛鳥大仏は止利仏師の作、日本最古の仏像らしい。
鼻筋が通って美男子の大仏の傍らに、阿弥陀如来座像と聖徳太子孝養の像がある。興味深いのは先日ウオーキングで訪れた名古屋市の聖徳寺の像と同じ組み合わせだったこと。
次は史跡酒船石を訪れる。
伝飛鳥板蓋宮跡の東に位置する丘の上にある石の構造物で、水源から排水までの導水構造が解明されているが、何に使われたかは明らかでない。
『日本書紀』(斉明天皇2年)に記された「宮の東の山に石を累ねて垣とす」の「石の山丘」に符合する遺跡である。
 その後、蘇我入鹿首塚、亀石と「鬼の俎板、鬼の雪隠」と称される石組み、などを見た後、天武・持統天皇陵を訪れた。

橘寺は
名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するそうです。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。その「橘寺はここ」と車から見ただけで、高松塚古墳に回る。高松塚壁画館に入りました。レプリカだが、創建時の鮮やかさが忍ばれます。
 
昼時になったので、ガイドさんんが「和楽心」というレストランに案内してくれた。1時間ほど食事を楽しんだ後、「橿原市の今井町に行ってみましょう」ということになった。
今人気の朝ドラ「朝がきた」の撮影場所になっている街です。
江戸時代の街並みを保存している街で、。町全体が戦国時代にできた寺内町の雰囲気を残しています。
今井町の後は、橿原神宮。

神武天皇を祀り、1890年(明治23年)官幣大社として創建された神宮。神武天皇東征の際の船の模型があったので、カメラに収めました。

3時半、神宮を後にして帰路についた。雨が降り出している。
郡山Iから西名阪、途中名阪の伊賀SAで休憩した。東名阪に入り、四日市に近づくと、渋滞がはじまった。もう5時。暗くなっている。
小生「カーナビで、名古屋西Iを入れて到着時間をきいて」と頼む。
「到着時間は6時56分」という。「7時前に着くならこのまま行きましょう。7時を過ぎるようなら、下に降りることも考えなくてはいけないのですが」。幸運なことに四日市を過ぎると渋滞が解消し、名古屋西Iは6時52分でした。それにしても、カーナビはどうやって渋滞時の到着時間を予測できるのでしょうか。名古屋高速を通って名古屋駅に7時20分。2日間の旅を終え解散しました。

大和路の旅・閑話休題

2015-11-27 | 旅行
 4人の旅は、一泊し、夜、お互いの専門分野から話題を提供する勉強会を行っている。
この勉強会とその後にジジー放談が楽しみです。
今回の勉強会は小生の担当で、私のブログ「古稀の青春」について語った。
「公開してから11年になるが、累計のアクセスを見ると、人数を見ると24万4千人、ページ数でいうと76万ページが読まれている。政治家や芸能人などの有名人ならいざ知らず昇進ような世間的には無名人の発言でもこれだけの人が見てくれメデイアを、インターネットにより人類が手にしたということは、必ずや人類の歴史を変えるだろう」という趣旨の話をした。
以下、ジジー放談です。
J「スズキの会長の決断はすごい!VWのエンジンソフトの問題、表面化する直前にVWと離縁し、自分の時に決断し後継者に負の負担を残さないと語っている」
「インドって国は、字のかけない人がいっぱいいて、選挙も字を描くのでなく絵で投票することも行われている国です。そんな国で、よく自動車を造ろうという決断をして成功させている。並の人間にできる決断でない」
元スズキのSさん「重大な決断は他人にさせない。そのため後継者が育たないという問題があります」
S「それより本田宗一郎さんがすごい!自分の最大の失敗は“会社の名前にホンダという自分の名前をつけたことだ”と語っている。あれだけの企業を造りながら“会社が大きくなったのは自分の功績でなく、従業員が頑張ったからだ。会社は自分の会社でない”、と常に語り自らを誇らなかった」
H「昔、自動車総連にいた時、経営者と懇談会があった。私の前に宗一郎さんが座ったんです。「キミ、どこの出身だ?」というので「マツダです」、「そうか大手にやられんなよ。みんな、タヌキだからな」と言うんです。
J「派遣労働者法の問題、どう思う?」
小生「日本の社会福祉は、企業を前提にして行われているから、正規従業員として企業に籍を置かない人は社会福祉の枠から外れてしまう。そこで“”下流老人問題“が発生する」
J「非正規が4割なんて問題を座視している労働組合っていったいどうなってる!」と、かつて箪組の委員長だった時代に女子パートタイマーを全員正社員化した実績のあるJさんは憤慨する。
侃侃諤々の議論でした。
閑話休題。次回は二日目の旅に戻ります。


大和路の旅(1)

2015-11-26 | 旅行
 大和路の旅を楽しみました。
30年来の仲間、Jさん、Sさん、小生、それに作務衣姿のHさん。24日10時、名古屋駅新幹線口に集合しました。うち揃って駐車場へ。Hさんの愛車デミオが待っていました。直ちに出発。ここの駐車場は20分未満無料ですから便利です。名古屋西インターが距離的には近いのですが、道路が入りにくく結局清洲インターから名古屋高速を経て東名阪に入りました。
名阪道の針インターで降りたのは11時50分。R369、R165を経て県道28号。
宇陀川、室生川の河畔を走り室生寺に向かうが、近づくにつれ対向車も少なくり、深山幽谷の趣になっていく。室生寺に着いたのは12時20分だった。
 期待していた紅葉は時期が遅かったか色があせている感じでした。
仁王門をくぐり階段を上り金堂、本堂、五重の塔と上る。この塔、平成10年の台風で大きな損傷を受けたが、平成12年修復落慶したという。高さ16.1m。

この辺りから石段も踏み面平らでなく,野面積みと言うか自然の石を並べた石段で上り下りに神経を使うので疲れてしまう。五重塔までは上がったが、塔から奥ノ院まで延々と続く石段を見て、(左足を痛めていたので)もうここまででいいやと、奥ノ院の真影堂(空海42歳の像が安置)はパスした。みなさんはしこしこ登って行かれた。
帰り道、仁王門で写真。迫力のある仁王像です。


1時半、車に戻り、今度は談山神社に』向う。
「あの階段では、老人には無理。若いうちに参詣しなくては」車中の談話でした。
小1時間走って談山(たんざん)神社に着きました。藤原鎌足を祀る紅葉の名所です。鎌足と中大兄皇子(天武天皇)が大化の改新の密議を談合したことから「談い山」の名がついたそうです。面白いのは、東殿として「恋神社」があることです。天武天皇の恋多き生涯からでしょうか。

ここの紅葉も見ごろは過ぎたようです。

木造13重の塔がありました。

3時半、談山神社を出て宿舎、飛鳥研修宿泊所・祝戸荘へ。
Jさんが酒瓶をぶら下げています。車中で、「談山」という酒を買ってきたから、今晩テレビを見ながら酌み交わしましょう。今夜、nHKが談山神社から生放送するそうですから」、「そうなの」
「生放送だと、nHKのスタッフが機材を抱えてきてましたよ」、「水森かおりが歌うそうです。」という。
4時10分ごろつきました。
財団法人の運営する宿舎です。本館から離れてコテージ風の20畳の部屋です。部屋名は「入鹿」。8時、NHK歌謡コンサート。最初に談山神社が映ります。
「さすがNHK,紅葉が今見ごろのように見える。一寸時期が遅れて色が落ちていたのに、そんな風にはみえないもの」
「水森かおるさんは。こんな薄着でよくがんばってるなぁ」と両肩の肌をさらして歌うドレス姿彼女をみてJさんが言う。実際、今日は昼間も肌寒かった。
彼女の歌「大和路の恋」です。
https://www.youtube.com/watch?v=u9sftwfc27I

北の湖の句碑も見たウオーキング

2015-11-23 | 旅行

22日もウオーキングでした。地下鉄主催の「駅ちかウオーキング」です。地下鉄堀田駅④出口を9:25出発。伝馬町東でまずは亀足山(きそくざん)正覚寺。今日はご本尊の阿弥陀如来を特別公開でした。

お寺を参拝した後、宮の渡し公園です。
ここから船が出ていた。



聞くと「国際会議場迄行きます。500円です。」
名古屋学院大学のネーム入り上着を羽織った学生のボランチアです。国際会議場の南に、名古屋学院大学のキャンパスがある。大学周辺のウオーキングだから学校のPRでボランテイアをつとめているらしい。
「この船に乗ればゴールまでラクチンだ」と思ったが、やはり真面目に歩こう。
このところ、左足裏が痛い。もっと鍛えなくてはいけないのだ。
 聖徳寺というお寺に出た。解説のパンフを頂いたので見ると、「その昔、須賀浦に住む漁夫が沖に出て網を打っていて仏像が掛り船に引き上げ持ち帰り村人に見せた所、聖徳太子の像に違いないとして太子堂を建立し祀った。古くから熱田の漁夫達の信仰を集め、第二次世界大戦で寺が戦災にあった時も、本堂や太子堂が燃え盛る炎の中に入り、阿弥陀如来、聖徳太子、延命地蔵を救い出した。その時聖徳太子像はバラバラに剝れ左袖の矧目に「元弘(鎌倉末期)3年9月3日重兼」の刻名が見いだされ作成年代が明らかになった。高さ90センチの寄木造で、父用明天皇の病気平癒を祈念している太子16歳の孝養の像。
阿弥陀如来坐像も藤原末期のものと思われ、近世の補修で漆箔を二度加えられているという。
 当寺は七里の渡しの常夜灯とも関係が深く、寛永2年犬山城主成瀬正虎が太子堂の西に常夜灯を建立、港の安泰を祈念んさせた。
なお聖徳太子像は昭和29年愛知県で最初の文化財に指定された」。今日は阿弥陀様も太子像も特別公開で見学できた。
 寺を出て堀川沿いに歩くと白鳥橋の東に出た。
熱田神宮の方向に歩くと、神宮の東に本遠寺という日蓮宗のお寺があった。ここも特別公開で、書院に上がることが出来た。ここの旧書院は清洲城の書院であったが、空襲で焼け、昭和29年新書院として復元された。ふすまの書は立正大学教授野村無象の筆。

庭に人だかりがあるので覗き込むと横綱北の湖の句碑があった。
「うん ほんまに横綱になったんや 母ちゃん」とある。21歳で横綱になった時、北海道の母に送った書のようだ。碑の前にある石を抱えて足腰を鍛えたとのこと。
面白いことにここにはお稲荷さんも祀っている。
西へ歩き、御陵橋を渡ると白鳥庭園がある、今日は無料公開だった。

庭園を出て北へ回り込むと名古屋学院だ。


国際会議場の南を回り再度堀川河畔に出た。北へ曲がると宮の渡からくる船の乗り場。もう7.5㎞は歩いた。本調子でない左足の足裏が痛むので、「船で来れば楽だった」と再度思った。記念橋を渡ると、熱田神宮公園。断夫山古墳近くで「古墳マルシェ」と題して市場が開かれていた。ここがゴール。
12時半、3時間のウオーキングで9㎞ちかく歩いたであろうか。

東名古屋港駅

2015-11-16 | 旅行
「東名古屋港駅」をご存じの方は、名古屋人でも少ないと思います。名鉄に築港線があります。常滑線の大江駅から東名古屋港まで走る線ですが、駅は二つしかない。13日の中日夕刊に紹介されているのを見て「行ってみようかな」と思ったのです。14日の名鉄ハイキングのゴールで、15日の東海市と南区を歩くハイキングの案内を貰って、東名古屋港駅を見がてら行こうと思い立ったのです。
 15日起床すると、夜来の雨は上がっているようです。7時、家を出て地下鉄金山駅経由と大江駅に行きました。築港線の乗り場は?とみると、改札口があった。ここで下車するわけでないから、駅員にキップを示すと「改札機をとおしてください」。そこで、切符を機械に通すと、戻ってこない。
うろうろして「切符が出てこないんですが」。駅員が「切符は戻らないのです」。5番線のホームに待っていた電車に乗った。
間もなく動き始めたが、3分で終点の東名古屋港に着いた。終点だから降りてみた。改札口はない。切符は要らない。ホームを降りると一般道です。市電の停留所みたいです。周辺を眺めた後、帰りの切符を買おうと思ったが、切符の自動販売機はない。上りのホームに行こうと思ったが、上りも下りもホームは1本だけ。線路も単線のみだ。
発車のベルが鳴りだしたので、降りた電車にまた乗りました。乗客は小生一人。切符を買おうと思ったが、3分の運連時間では、売りに来ません。「3分ではキスする暇さえありません」という歌が流行ったっけ。電車の行先表示を写真に撮ろうとしたが、行先表示はなく「普通」の表示のみだ。
 つまり、同じ線路の上を同じ電車が行き来しているだけだから、行先表示は必要ない。
大江駅に戻り、乗り換え口。自動改札機の傍にキップの販売機がある。了解した。ここで東名古屋港からの料金を加算した金額で切符を販売しているのだ。
中日新聞の記事では「東名古屋港駅のように、無人駅で改札口は起点駅にあるというのは、神戸の通称「和田岬線」や東京の東武大師線も同じシステムなのだ。終着駅といっても線路はずっと先まで伸びている。電車は朝夕の通勤時間しか走らないけれど貨物電車がはしるからだ。平日の場合、大江駅を午前8時27分に発車した後は、午後4時44分まで8時間以上運転間隔があいてしまう。」
もう一つ。この線の珍しい所は、電車線の交差点があるとのこと。臨海鉄道と交差するのだが、立体交差でなく、平面交差。つまり、鉄道の交差点があるとのことだったが、残念ながら確認できなかった。
 常滑線で今日のハイキングの出発駅の「名和駅」に向かう。8時10分に着く。8時30分の受付開始だが、もう大勢のハイカーが並んでいる。前日のNHKTVで「認知症」の特集を放送していたが「歩くことは認知症の予防に有効」ということだった。その所為か、どこのウオーキング大会も参加者が大賑わいです。予定より10分早く受付が始まりました。地図を受けとり、歩き始めました。雨上がりの空気はさわやかです。
2.6㎞歩いて東邦瓦斯の技術研究所。6Fの展望台を開放していたが、曇り空なので、見晴らしは良くないだろうとパスして歩き続ける。、天白川にかかる天白大橋。この橋を越すと名古屋市だ。
4㎞地点が愛知県花き卸売市場。花きの即売をしてい、買い込むハイカーもいたが、荷物になるので買わずに、和牛の焼肉試食会で一皿頂く。
 更に歩き続けると,大同工大の二つの校舎(白水、滝春)が見えてきた。
 現役時代一緒に仕事したK君を思い出した。彼はここの出身だ。大学を過ぎるとゴールの大同町駅は直ぐだった。10:51の電車で名古屋に戻った。歩いた距離は6.9km。やはり左足裏が痛い。ほてっているようなので、水で冷やそうと、いつものプールに寄り、1km泳いで帰宅しました。

雨の中のウオーキング

2015-11-14 | 旅行
 14日はウオーキングにでかけました。名鉄と地下鉄共催のハイキングです。
朝起きると、小雨がパラツいている。「これぐらいなら決行するだろう」と思ったが、念のため名鉄に電話すると、「本日のハイキングは予定通り」とのテープが回っている。電話番号も52-1919(行く行く)だ。7:45家を出て名古屋駅経由8:30に須が口駅に着く。
 ここはあま市だ。駅ちかウオーキングは4か月ぶりだ。左足の故障でお休みだった。
 頸の怪我以来、左の腰・太ももの筋肉に力が入らないのだ。そのため、身体の重みがすべて足の裏にかかり、足裏を酷使することから、5~6㎞も歩くと足裏が腫れてくる。
 案内地図を貰って小雨の中を歩きだす。しばらく歩くと五条川に出る。岩倉を流れる川はここにきている。橋を渡って川沿いに歩き1.4㎞地点が萱津神社だ。全国で唯一漬物の祖神をまつる。思い出した。この前の名鉄ハイキングでここに来たのだ。

「縁結びの神」でもある。漬物の上手な奥さんに出会えるということか。歩道が狭くて横の車道を車が猛スピードで走っている。トラックが水たまりをはねたので。まともに水が上着とズボンにかかった。文句を言おうにも、トラックはもうかなただ。雨降りはこれがイヤだ。
2.8kmで、西唐津橋の信号。五条川は新川と合流している。北に折れて唐津橋を渡る。すぐ庄内川があって、豊公橋。渡ると中村区だ。本陣通りを北へ、中村高校が左手にある。
更に中村公園北口、豊臣小学校。地下鉄の本陣通り駅。地下鉄と名鉄の共催だから、ハイキングの標識は名古屋市外が名鉄、市内に入って地下鉄の表示かと思っていたが、今日は名鉄ハイキングの標識だ。本陣3丁目で斜め左、栄生に向かう。名鉄栄生駅を過ぎるとすぐトヨタ産業技術記念館。6.4㎞地点です。ここまで来たら、やはり左足が痛くなった。ここからノコースはノリタケの森、円頓寺、名古屋城と行くのだが、この間のコースは何度か歩いている。もう省略してよいなと思った時、「めぐーるバス」(市バスの観光ばす)が来た。これで中抜きしようとバスに乗り名古屋城までショートカットした。

名古屋城からゴールの名城公園までは、かつてのジョギングコースだから千回以上走って熟知している。小雨にけぶる名古屋城を眺めながら名城公園駅まで歩いて11時前ゴールしました。
地図に付された番号で景品を貰える。あたったことはなかったが、今回は当りで饅頭を一つもらえました。途中3kmほどショートカットしたので歩いた距離は8kmでした。11時過ぎ帰宅。
あま市の須が口から名城公園北の我が家まで12㎞弱ということですから意外に近い。
左脚の故障で、少し痛みましたが、8㎞ぐらいはなんとか歩ける体力があると、確認できました。

「悲素」

2015-11-12 | 読書
「悲素」(帚木蓬生(ははきぎほうせい)著、新潮社2015年7月刊)
今年最高の小説だと思いました。
題材は和歌山毒カレー事件。小説の形で書かれているが、ノンフィクシヨンに近い。
和歌山毒物カレー事件(わかやま どくぶつカレーじけん)とは、1998年夕方にの和歌山市園部地区で行われた夏祭りにおいて、提供されたカレーに毒物が混入された事件。主婦のHが犯人として逮捕され、2009年5月18日には最高裁判所にて死刑が確定したが無実を訴え再審請求中。
著者の経歴を見ると、東大仏文科時代は剣道部員、卒業後TBSに勤務。2年後に退職し]、九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動に励む。1992年、『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞受賞。八幡厚生病院診療部長を務める。2005年、福岡県中間市にて精神科・心療内科を開業。開業医として活動ながら、執筆活動を続ける。
砒素による中毒事件であるが、題名は「砒素」でなく、「悲素」であるのは、この事件の犠牲者の遺族の心境を物語るのであろう。
“事件の一周忌の日、夫を亡くされた奥様の家を訪れました。「線香をあげさせて」と頼んで招き入れられた仏間は、そこだけ雨戸がぴったり閉められていました。
「悲しみが消えた時、開けるつもりです。」
翌年の命日もまた次の命日も雨戸は閉まったままでした。
小学4年だった愛息を失った両親の家を訪れます。ここに住んでいるのがつらい、引っ越そうという奥様をなだめるのはご主人
「家がなくなったら、あの子が帰ってきたとき、迷うじゃないか」
これを聞いたとき胸がふさがりました。このご夫婦は、命日の日、仏壇におかれた遺骨の蕎麦を一日離れません。
「苦しんで逝ったあの日、せめてずっと息子のそばにいてやりたい」
仏壇には息子さんが大好きだったミニカーが供えられ、愛読していた月刊のコミック誌、あれ以来ずっと買い揃えられています。
 その気持ちは、当時高校1年だった娘さんを亡くしたご両親も同じです。聞くと二人の息子を授かってから7年目にやっと生まれた待望の娘さんでした。2階の娘さんの部屋はそのままにされていまいた。”
夏祭りに集まった人を無差別に毒殺しようとした犯人の動機はなんだったか?
1審から最高裁まで、これについての結論を出していません。理性で想定できる動機ではなかったからです。この本の著者は「保険金詐取」と断じています。容疑者はカレー事件の10数年まえから砒素を用いた殺害で保険金詐取を繰り返していた。それにより年収一億円を越していたという。繰り返すことで、絶対ばれないと確信し、毒カレーによる死者の中に、保険を掛けた人を含ませればわからないと考えたと推量しています。
この推論に到達するまでの記述、砒素中毒に関する知識と被害者の症状に関する記述には驚かされます。これは薬害中毒についての専門知識をもつ医者でないとかけない小説で、記述はオウム真理教のサリン事件や森永の砒素ミルク事件、スモン病や第一次世界大戦で使われた毒ガスにも及んでいます。
今年度発表された小説の中で。最高の力作と思いました。