古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

八事を散策

2008-03-30 | 旅行
 わが住宅のシニアクラブのハイキングで、28日は八事の興正寺に行きました。
 総勢9名で、地下鉄に乗り込み、20分余で八事駅に付きました。徒歩数分で八事山興正寺です。 名古屋では有名なお寺ですが、小生、半世紀以上名古屋に居て、境内に入ったことがなかったのです。

 別名「尾張高野」といわれる真言宗のお寺です。320年前、天瑞という上人が開山したそうです。尾張藩2代目藩主光友が、この上人に帰依してから堂屋の増築が相次ぎ、大きなお寺になっています。

 歩いていくと最初に東山門があります。

「正門から入ろうや」ということで、東門を通過。総門に行きます。「総門」を入ると、驚いたことに「女人禁制」の石塔が立っている。そうか、高野山も「女人禁制」だった。もちろん現在、興正寺の「女人禁制」は塔だけです。

 高さ30mの五重の塔が目につきます。愛知県で唯一の五重塔で重要文化財です。昔は五重塔がある方が普門院(西山)、こちらが「女人禁制」だった。東側一帯を遍照院といい、東側の小高い山頂に大日堂があって、高さ3.6mの大日如来が安置されています。

 五重塔と本堂を参拝した後、「大日堂へ行きましょう」。
 「大日堂」への道は「八事山を歩こうコース」として林の中に散歩道が整備されています。サカキの自生林は、県内最大とのこと。

 大日堂の後、五重塔に戻り、東山門に回る。この門は名古屋城にあった出丸を移築したものだそうでで、弓・鉄砲を撃つため両側が格子になっています。

 歩いてみると、中京大学が隣にありますが、隣にあるというよりも、興正寺が中京大学を抱え込んでいる感じです。興正寺の和尚が「梅村」姓で、中京学園の理事長も「梅村」ですから、そもそもの中京学園は、興正寺が始めたのかも知れません。
 こういった具合で、境内散策を終えて、お寺の隣の「かに本家」で昼食を取った。
 昼食の後は、山手通りを名古屋大学前まで(50年前は未舗装の道を市バスが土煙を上げて走っていたが、今は瀟洒な建物が立ち並ぶ大通り)ウオーキングしてハイキングを終わった。

 3時前、戻ってきたが最後に住宅近くの喫茶店に入って雑談。Iさんの話に驚く。Iさんは住宅の管理人を3年前まで9年間やっていた。管理人在勤中の9年間はなかったのに、やめてからの3年間に住宅の飛び降り自殺者が5名という。
 如何に生活苦に悩む人が増えたことか!

興正寺に興味ある方は・・・
http://www.koushoji.or.jp







「大波小波」が日銀総裁問題をコメント

2008-03-29 | 経済と世相
 27日の中日夕刊の「大波小波」欄が日銀総裁問題をコメントしていました。

 内容が、私が考えていることと全く同じことを述べていたので嬉しくなり、以下に全文を写してしまいました。

 【日銀総裁の空位事件は、日本経済の信認が低下するなどの批判はあるものの、民主政治の経験にはプラスだ。行政機関のトップが議会の同意が得られず差し戻される例は、政治任命の多い米国では少しも珍しくない。同意を得るため、ホワイトハウスは候補者の身辺調査調査を厳重に行い、議会説得にも力を入れる。福田政権は、旧来の自民党支配の感覚から抜け切れず、野党が「ノー」と言う人物に固執して自爆した。
 今回の教訓として、まず衆議院の写し絵と言われ意義を問われていた参議院が二院制の意味を分かりやすく示した。第二に任命の是非をめぐる論議で、長々と続く超低金利の金融政策に預金者の立場からの疑問を投げ、問題点を浮き彫りにした。企業中心の政策を形式論議の末認めた過去の論戦とは一味違った。

 三番目として日銀OBか財務省OBかといった惰性の人事に歯止めをかけ、広く人材を求める必要を植えつけた。日銀も政策に緊張感を持ち、活性化するだろう。

 経済の専門家が心配する狭い信認より、異論も通る民主主義体制を示した結果得た世界の信任の方が長い目で見れば大きい。】

 『長々と続く超低金利の金融政策に預金者の立場からの疑問を投げ、問題点を浮き彫りにした。』というくだりは、特に嬉しい記述で、私と同じことを考えている人はいるんだ!と思いました。

道路特定財源問題と母校の閉校

2008-03-27 | 経済と世相
 道路特定財源の暫定税率問題は、与野党攻防が大詰めらしい。これについて思い起こすことがある。

 今年3月、私の母校の高校が廃校になった。3月2日の朝日県内版に、新城東高・本郷校舎の閉校が伝えられていた。

「1948年に地域の住民らが資金を出し合って開校しただけに、同窓生らの思いはひとしおだった。

 50年に県立本郷高となり、最盛期の66年には生徒数約460人を数えた。だが、少子化の影響で8年前、新城東高の本郷校舎となった。・・卒業生は4700人を超える」。

 (中日新聞では1日夕刊で「過疎の波 学校をのむ」と1面トップで、愛知・岐阜・三重の3県で10の公立小学校が過疎化の影響で閉校したことを伝えている。)

 3月1日、この閉校式に出席しました。200名以上の同窓生が出席していて、懐かしい先輩たちの顔を見ることも出来た。

 校舎も、立派な体育館や武道場もあって、「これからどう活用するの?」と聞いたが、「まだはっきりしない」ということだった。

 少子化で生徒数が減り始めてから、こうした施設(ハコモノ)をつくり始めた?

 この地域の道路は立派になった。しかし、住民は、子どもはみな都会に出て、ジイサン・バアサンばかりになってしまった。

 道路だけ作っても、田舎の過疎化は止められない。日本の農山村の人々の暮らしをどう成り立たせるかのグランドデザインがあって、次に道路建設の計画が来るべきと思う。 道路特定財源に拘る政治家は、この辺りをどう考えるのだろう。

 全国知事会も暫定税率の廃止に反対らしい。反対の理由は分からないでもない。地方に回るお金が少なくなる。ガソリン税だけを取り上げればその通りだが、国全体のシステムを考えて、税制はどうする。従って、暫定税率はどうするという提案をしないと、地方がよみがえる事はないのでは、と思う。

 小泉郵政改革でも、郵便局の民営化だけ取り上げ、国全体のシステムを考えるということがなかった。

日銀問題を考える

2008-03-22 | 経済と世相
 【日本銀行は7日の金融政策決定会合で、当面の金融政策の現状維持を決めた。福井総裁にとって任期5年の最後の会合も、13ヶ月連続の金利据え置きで終わった。・・・世界の「カネ余り」の一因と批判される超低金利政策からの転換は果たせなかった。】と朝日が伝えていました。(3月8日)

 以下は、水野和夫氏の主張ですが(水野著「虚構の景気回復」による)
【通貨量が多いとインフレになり、少ないとデフレになるというのが一般的な考え方である。しかし、こうした考え方は、もはや当てはまらない時代になっているのである。】
 氏の計算によると、「マネーサプライ伸び率―実質GDP伸び率をx、yをCPI伸び率とすると(OECD加盟国のうち21ヶ国の統計による)
   1971~90年で、y=0.70x+1.18(R^2=0.74)
   1995~04年で、y=0.12x+1.51(R^2=0.23)
 R^2(R2乗)は決定係数です。つまり90年迄は、物価の変動は通貨量で74%は説明できる(1%通貨量が増えると物価は0.7%上昇)が、経済がグローバル化した95年以降は、通貨量の変動で説明できる物価上昇は23%(それ以外の影響が77%)で、1%の通貨量の増加で上昇する物価は0.12%という意味です。
 これは、国立銀行が通貨を増しても、グローバル化の時代では、それが国内ですべて流通する保証はないことが原因と私は思います。
 次に、通貨量でなく、為替相場と物価の関係を考えます(購買力平価説を検証する)。
 yは対ドル為替レート変化率、xを対米インフレ率(生産者物価)格差(データはIMF)、
   1973~94年で、y=1.04x+0.18(R^2=0.75)
   1995~05年で、y=0.32x-0.10(R^2=0.21)
 この式の意味は、為替相場が物価に影響する度合いは、グローバル化の時代には、小さくなっているということです。モノの売買取引よりマネーの売買取引が100倍近いといいますから、物価と為替相場の関連も少なくなった?
 では、為替相場は何が決めるか?水野氏は【グローバリゼーシヨンは政治が為替レートを決める時代】という。
 日銀は「通貨の番人」と言われる。具体的には、金利と通貨量(時には為替相場)を操作して物価を安定させるのである。ところが、通貨量を操作しても効果がない。為替相場を操作する政治力が日本にない。金利を操作できるかというと、銀行救済のためのゼロ金利のまま。低金利は、国債費のコストを下げるので政府はひそかに歓迎している。つまり金利が上げられない。
 要するに、日銀は打つ手がなくて立ち往生している。
 中央銀行が通貨の安定のため有効な施策を取れないということは、、一国の政策でその国の経済を動かせない。つまり、「国民国家」の態をなさない。
 実は、グローバル化の時代とは16世紀に始まった「国民国家」の時代が退潮しつつある時代です。
 日銀総裁空席は、単なる人事の問題でなく、根の深い問題です。

 同志社大教授の浜矩子さんは、19日の中日朝刊で”「空席」の功罪”と題して寄稿しています。
【政策の空白は確かに良くない。だが、妙な目鼻立ちをつけるくらいなら、空白もまたよし、という場面もあるかもしれない。怖いのは、どんなに懸命に目鼻立ちを整えても、結局のところ何も全く変わらない場合だ。なんといっても、これが一番「空」しいだろう。】

高村さんの時評

2008-03-21 | 経済と世相
 17日の中日夕刊に、高村薫さんが「その通りだ」と思わせる時評を寄せていました。
【一生活者が世界経済の心配をしても始まらないし、穀物や原油価格の高騰を止められるわけでもない、とは思う。しかしまた、世界がいかに複雑に交錯していても、モノとマネーの流れは需要と供給、生産と消費、赤字と黒字、損と得といった原理で説明がつくはず・・・】
 【この春先、生活を直接に圧迫しつつあるのは、生活必需品の価格上昇である。所得が増えず、消費も低迷している中でのインフレは、私たちが初めて経験する悲哀だし、直接の原因が海外の生産地の都合と、世界的な投機資金の動きなどにあるため、私たち自身にはどうすることもできない無力感も漂う・・】
 【生活物資の値上がりが家計を直撃するのは、端的に収入が増えないからである。収入が増えないのは、企業の収益が働き手に適切に分配されないからだが、その理由はいまや、企業自身が海外との価格競争にさらされて生産コストを削減しているためというだけではない。GDPの伸びの低さを見れば、日本の生産力そのものが上がっていないということであり、生産力が上がらないのは、原油や鉱物資源などの原材料価格の高騰といった要因以上に、産業と時代の構造的なミスマッチが進んでいるということだろう。
 これは大部分、国内の問題である。輸出依存体質が為替変動による景気への影響を大きくし、1円2円の円高で下請け企業の利益が消えるような構造的な弱さ然り。さらに金融改革に遅れたことで、ほとんど外国人投資家の草刈場となっている国内株式市場の不安定然り。かくして国内企業に資金が回らないばかりか、まともな企業ほど敵対的な企業買収の驚異にさらされるという事態然り。
 そして、そんな資金がどこから来たかと言えば、その正体は、ゼロ金利が続いた日本から海外へ投資先を求めて流れ出した金融資産である。私たちのマネーが回りまわって株価を低迷させ、投機市場を過熱させ、原材料高となって、私たちの首を締める事態となっているのだが、海外に国民の金融資産を流出させて、国の繁栄があるはずがない。根本にあるのはやはり、国内的な金融政策の失敗である。】
【景気刺激策として金利を低く抑えるのは金融の常道かも知れないが、ゼロ金利というのはあまりに常軌を逸していただけでなく、実際には景気浮揚にはつながらず、国内企業の体質強化を阻害して、旧態の産業構造を延命しただけだった。この間の日本の景気は中国の成長に支えられたに過ぎない・・・】
 【一生活者が考えるに、今日の生活の厳しさのかなりの部分は、政治が解決できるという結論になる。ほんとうに国民の生活を守る意思が政治にあるなら、何よりも短期金利を徐々に正常化し、流出したマネーを国内に呼び戻すことである。・・・】

 「国内的な金融政策の失敗」つまり、マネー敗戦の戦犯を日銀総裁にしないでくださいね!福田総理。

神通川マラソン 2

2008-03-19 | マラソン
 号砲一発駆け出した。1~2秒でスタートラインを踏む。20分ぐらいで神通川が左に見えてきた。有沢橋という大きな橋がある。この橋の手前で河川敷に降りてサイクリング道路を走る。この道路を上流の第一折り返しまで走り、折り返した後下流の第二折り返しまで走るというコースになっている。景色に既視感がある。初めてのコースだが・・・そうか、河川敷の風景がなんとなく去年も走った金沢の犀川に似ているのだ。しかし、川の流れは神通川は、犀川よりはるかに速い。
 32分ぐらいで先頭グループ3人が折り返してきた。更に10分ほど走った時、折り返してきたランナー、ゼッケン8番が私の顔を見て、「頑張ってください」と大きな声をかけてきた。知らない人だから、放送でゼッケン番号を記憶したのだろう。右手を挙げ激励に感謝する。10kmで時計を見ると、一時間一分。
 時速10kmがなかなか難しくなってきた。思うに、これは筋肉の所為。筋肉には、良く知られたことだが、遅筋と速筋がある。速筋は運動のスピードを担当し、遅筋は持久力を担当する。そして、筋肉細胞は、時々刻々古い細胞が分解され、一方新しい細胞が生まれて入れ替わる。老人になると、新しく生まれる細胞の殆どが遅筋の細胞となるのでは?
 最高齢でもドベにはなりたくない。折り返しで確認すると後ろのランナーは10人以上はいる。ドベにはならないな。10km過ぎると、250人のランナーだから、ランナー間隔はかなり離れてくる。前方に小さく見えるランナーの背中がだんだん大きくなってくると元気が出る。自分より若いランナーを抜くときは「ヤッター!」と思うものだが、今日はどのランナーも、自分より若い。スピードでは負けても、粘る(同じスピードで走りつづける)ことは出来る。「ヤッター!」と8~9人抜くことができた。ただし一人に抜かれました。有沢橋まで戻り、一旦一般道に上がり橋を渡った所で、再度河川敷に下りて対岸のサイクリング道路を下流に向かう。
 8番さんが来た。今度も「頑張ってください」。(完走後、選手名簿で確認したら富山市のTANAKAさん、34歳だった)自分の倍もの歳のランナーが走っているのを見て声援したかったらしい。手を挙げて返礼。第二折り返しで折り返す。有沢橋で一般道に上がりゴールの陸上競技場を目指した。
 
 競技場に入った時、腕の時計は2時間7分だ。グランドのアンツーカ-を4分の3周してフィニッシュ。完走証を貰う。「2時間9分1秒。50歳以上の部50位(63名中)」とあった。
 これで富山県で3回のマラソンを走った。いずれもハーフマラソン。前2回は 魚津蜃気楼マラソン(90/04/29)と黒部名水マラソン(97/05/25)。70歳を越えてから、一都九県のマラソン(フル1、ハーフ8、20km1)を完走したことになる。
 
 着替えして、市電に乗ったのは12時(ゴールが11時39分だから随分大急ぎだった)。ホテルに戻り、預けた荷物を受け取り、富山駅で昼食。1時23分の大聖寺行きで金沢に向かう。
「富山にくるのは、もう人生最後かな?」と思うとなんとなくセンチな気分になった

神通川マラソン 1

2008-03-18 | マラソン
 富山市の第18回神通川ハーフマラソンに参加しようと、15日9時半、金沢行きの高速バスに乗り込んだ。全国各地の大会に参加しようとすると、交通費をいかに安く上げるかを工夫しないといけない。もっとも安価なのは高速バス。直接富山行きのバスもあるのだが、今回は帰途金沢に寄りたい。バスで金沢まで行きJR北陸本線で富山に行くことにした。行き名古屋→富山で帰り金沢→名古屋のバスだと往復割引が使えない。
 というわけで、金沢までの4時間、野口悠紀雄さんの新刊「戦後日本経済史」を読み終えました。
 金沢駅前に13時半、駅前の都ホテルのホテルランチで腹ごしらえ、2時半の富山行き鈍行で約一時間、富山に着いた。4時前に駅前のホテルにチェックイン。夕飯前に市内を散策しようと、駅で貰った地図を片手に城址公園に向かった。
 川沿いの散歩道を歩いていったら、突然目の前にお城のような建造物が現れた。「天守閣?」
 しかし天守閣にしては、小っちゃい。隅櫓かな?天守にしても隅櫓にしても、普通、お堀の内側にあるのだが、信号を渡ったらいきなり目の前だった。後で聞いたら、隅櫓ではなく出丸というそうだ。
 ここから城址公園。武将の銅像が建っている。「前田正甫(まさとし)」とある。富山前田藩の二代目藩主で、製薬業を振興したという。越中富山の薬売りの親分みたいな人らしい。尚も歩いていくと、天守閣が目の前に。一見して分かる鉄筋コンクリートで、昔の城ではない。「富山市郷土博物館」だ。「入館4時半まで」の表示がある。腕時計を見たら4時半、ぎりぎりの入館でした。
 天守の展望台に登ると、前にお堀が見えた。「なるほどお堀は南側だけ残して埋められてしまったのだ」
 館内の説明に拠ると、戦災復興を記念して昭和29年に建造された。戦後第一号の復興天守閣という。
 富山城というと、戦国の武将佐々成政が知られる。秀吉と争い、家康の支援をあおぐべく冬の黒部越えをして大町に出、三河まで行った話は有名だが、その成政の絵巻の企画展示があった。
 5時、外に出て今度は城の南側を歩く。やはりお堀を前景とすると、天守は映えて見える。帰りは市電の通る大通りを歩いてホテルに戻る。富山は、市電の機能している数少ない都市の一つだと思った。

 16日朝、6時半に目覚め、直ぐ食堂に行く。和洋折衷のバイキングだったが、種類は豊富で、これだけの朝飯が付いて一泊¥4800は廉いと思った。この廉さの陰に、若しかしたら時給700円の非正社員の労働があるのかも?
 8時前ホテルを出る。絶好のマラソン日和になった。市電で「大学前」まで17分ぐらい。野球場の隣に会場の五福公園陸上競技場はあった。受付で、ゼッケン・記念のTシャツ・プログラム等受け取り、更衣室で着替え、9時半のスタート時刻を待った。

 ハーフの部出場の250人余のランナーがスタート地点に集合した。5分前、場内放送があった。
 「スタート5分前です。ハーフの部、最高齢者はゼッケン426番、愛知県から出場のNOZUE SUSUMUさん、71歳です」。びっくりしたなぁ!・・・(続く)

Qちゃんも人の子

2008-03-10 | マラソン
Qちゃんも人の子でしたね。

尾張名古屋に春が来ました。「今日は女子マラソンだ。午前中に泳ぎを済ませておこう」と、名古屋ドーム前のプールに。1500mを泳いで、ジャスコで買物、地下鉄駅に戻ってくると、人人人。今日は、オープン戦があるらしい。こちらも球春です。

 名城公園駅に降りると、いつもの倍くらいの人。改札口では、周辺を示す絵地図に黒山の人。「そうか、女子マラソンの見物客か!」この辺りは選手が3回走るので、どの辺で見物するか地図を見ているのだ。

 地上に出ると、道路には、朝はなかった円錐状の赤いポールが並べられている。準備万端整った。道路脇の花壇の石囲いに大勢の人がもう腰を下ろしている。まだ、1時間半ぐらいあるだろうが、良い場所に陣取りするには、今から場所取りが必要らしい。今年はQちゃんがオリンピック代表になるかも?ということで、応援の人がいつもに増して多い。

 家に帰ってTVをつけると、丁度スタートしたところだった。昼食を取りながら見ていた。スタートはゆっくりだ。キロ3分30~40秒ぐらい。5kmになっても6kmになっても、誰も飛び出さない。お互い牽制しているかな?それにしても、これだけゆっくりが続けばQちゃんが飛び出すはずなのに、調子が良くないかな?と思っているうち、なんとQちゃんが9km辺りからずるずる遅れだした。表情も苦しそうだ。故障?まさかのハプニングだった。まったくフルマラソンは走ってみないと何が起こるかわからない。

Qちゃんが駄目だと、後は原か弘山か?ともかく道路サイドに行ってみよう。

 21km地点で選手が来るのを待った。1時半ごろ、先頭グループが集団で来て、あっという間に走り去った。その後、Qちゃんが来ない。今か今かとまっていたら、4~5分ぐらいしてQちゃんが走ってきた。TVで見た苦しそうな表情ではなかったが、たんたんとした表情で走っている。いくら体調不良でも、これだけ大勢の人が応援してくれているのだから、最後までは走ろうという決意のようだ。

 その後、25km地点に移動して、選手を待つ。Qちゃんは先頭グループが走り去ってから5~7分ぐらいしてから来た。

 更に、30km過ぎで、「この辺まで来たら優劣がはっきりするだろう」と見ていたが、先頭はまだ6~7人の集団だった。ここではQちゃんは先頭から10分遅れ。

 家に戻ってTVを見ると、見たことのない選手が先頭になっている。25番だ。新聞を見たら、天満屋の中村友里香だ。なんと、並み居る一流選手を押しのけ初マラソンの選手だ。

 あれよあれよと言う内に、瑞穂競技場のゴールテープを切る。2時間25分51秒。21歳の新鋭が北京代表の有力候補にのしあがった。

 考えられないことに、放送時間が終了するまでにQちゃんは帰ってこられなかった。

 私の思うことは、「Qちゃんも人の子だった」。35歳という年齢では、スポーツ選手としては無理がきかない。練習のし過ぎで(まじめな性格だけに)体調の調整に失敗したのだろう。 それにしても、日本の女子マラソンは、層が厚い。まったくマークしてない新人が、こういう大会で飛び出すのだから。

追伸:10日の新聞は、Qちゃんが昨年8月、右ひざ故障で手術をしていたと伝えていました。右ひざ故障も練習のし過ぎではなかったでしょうか?

雪山に挑戦

2008-03-08 | 旅行
 5日、朝起きると、雪は止んでいたが、積雪20センチぐらいありそうだ。一晩で積もってしまった。
「やめる?」
「いや、ここまで来て登らずに帰ったら笑われる」と、登山暦50年余のMさん。「30センチ以下の積雪なら大丈夫です」とやる気十分だ。

 フロントで聞いたら、お姉さん「えっ、今日登るんですか!」、「滑りますし、溶けてくると、ぬかるんできます。決してお勧め出来ません」。ご尤もな回答です。

 7:15、朝食をとりながら相談した。結論は、Mさんのやる気に敬意を表し、「登れる所まで登ってみよう」。 天気がよければ、2時間で長者が岳山頂(1336m)に登れる。「2時間登ってみて、山頂にとても着かないようだったら引き上げる」ことにした。

 雪山に登る羽目になるとは、想定外でした。

 登山道の登り口はホテルの裏手にある。

「先頭Sさん、次がHさん、NOZUEさんがその次で、私が最後」とMさんの指導で8時過ぎ登りはじめる。「絶対、バラバラにならず4人一緒に登りましょう。ゆっくりゆっくり、そして歩き続けるのがコツです。」

 ステッキを突きながら登る。雪の深さは15センチ程度。30分ぐらいで表示板「東海自然歩道 600m」がある。

 「600mで山頂になるの?」

 「それはないです。樹を見れば山頂の樹でない」とMさん。

 雪の上に、動物の足跡らしきものを見る。

「犬かな?」

「いや、犬なら飼主の人の足跡がある筈。狸か狐かウサギだ」

「東海自然歩道 70m」の表示板があった。「70m?」。すぐ三叉路に出たので分かった。

東海自然歩道までの距離だった。そこには「長者が岳山頂まで1.8km」の表示があった。

 振り返ると、目に富士山の全容が迫ってくる。

「今日の長者が岳はわれわれの借りきりだ」。

それはそうだろう。こんな雪の中、山登りをする物好きはいない。

 どんどん、東海自然歩道なる道を歩き続けた。そのうち、雪が 思いの他深くなってきた。ステッキの沈みから見ると30センチぐらいになった。

 先頭を行くSさんが立ち止まってしまった。「テープが見えない!」

 道が雪に覆われてしまうと、どこが道か分からなくなる。道の所々の樹の幹にテープを巻いてあるので、正しい道を歩いていると確認できるのだが、そのテープが見当たらない。振り返るとテープが見えたから「ここまでは間違っていない」。しかし、 雪で、道の真上か道横の斜面か分からないので、時々足が膝まで沈んでしまうことがある。

「これはだめだ。10時10分。もう2時間歩いたから引き上げた方が良い」とSさん。

 衆議一決。帰ることにしました。多分1200mを越えていたと思うが、1336mの山頂はあきらめました。「富士山を真近かに見られたから良しとするか!」

 ところが、下りがたいへんでした。とにかく滑る。東海自然歩道の分岐点で休憩、写真を撮り、インスタントコーヒーをのんだ後、下山を続ける。

「前の人との感覚を十分とって。身体を斜めにして降りる。あわてないで。転ぶときはゆっくり転んでください。」と、Mさん。

 しかし、なかなか指導どおりにいかない。こけつまろびつ、10回以上 転げた。こんな高さまでよく登ってきた、と思いつつ降りる。

 11時半、下山完了。やはり、地球が引っ張っているだけ下りは早い。

 以上、70歳を越えて人生初めての雪山挑戦の記録でした。

 12時、ホテルを出発、来た道を戻り、帰宅したのは5時前でした。

静岡県立美術館

2008-03-07 | 旅行
静岡県立美術館に行きました。
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/topj.html

素晴らしい美術館ですね。静岡ICを出て登呂遺跡方向に向かい、昔、プロ野球も行われた草薙球場を過ぎたあたり、広大な敷地に設けられています。

 私たちの目的は3月末まで行われている「ガンダーラ美術とバーミヤン遺跡展」です。

 入り口で「70歳以上は無料です」、で2名が無料になりました。更に「JAF会員は割引があります。JAFの会員証をお持ちでしょうか」と言う。残り二名も、1200円の入場料を¥1000に。結局、4名が2千円で入場できました。

 ガンダーラ地方はアフガニスタン東部・パキスタン北西部、この地域は今、テロが真っ盛りですが、往時はシルクロードの中心で、東西文明が融合し、仏像の誕生した地であったようで、素晴らしい仏教美術品が残されているのですね。

 仏像というものは、ギリシャのヘレニズム文明の影響で作られるようになったらしい。
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/exhibition/2007_kikaku/gandhara.html

 1~2世紀の昔、これほど精巧な美術品が作られたというのは、驚異です。

 「昔の人の方が集中心は強かったかも?」など話しながら、100点余の作品を回り、

その後、併設されているロダン館も見ました。これもなかなかのものでした。

http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/exhibition/rodinj.html

 4時半、美術館を後にして、静岡ICに戻り、富士ICに向かう。富士川SAを過ぎてトンネルを抜けたら、雨?まだ5時ごろなのに、薄暗くなってきた。「黄砂だよ」、黄砂まじりの雨だった。

「中国は、黄砂に鳥インフルエンザのウィルスか何か混ぜておけば、日本人皆やられちゃうから戦争する必要ないわ!」と、Mさん大変なことを言う。


 「夜になって雨の降る地域もある、と静岡地方の天気予報だった」が、それにしてもまったく視界不良だ。これが、その後のハプニングの始まりだった。

 富士インターで降りて西富士自動車道から139号線に入って、暫く行くと、「雪だ!」。

雪が舞い始めた。その雪片がだんだん大きくなって、ぼたん雪になってきた。

 田貫湖(たぬきこ)に近づくと、まったく視界が不良で「こりゃ、ゆっくり行くしかないわ」とドライバーのMさん。大変な天候になってきた。

 もう近いだろうと思えた頃、ガソリンスタンドを見つけて給油。スタッフが親切なお兄ちゃんで、「休暇村さんは、そこを左に折れて道なりに行くと突き当たります。3kmぐらい」と教えてくれて、絵地図をくれた。

 雪は降り続く。みるみる積もってくる。6時半、休暇村富士に着いた。「こんな日に客はいるのかねー」、でも駐車場はほぼ満杯だった。どの客も「こんな日になる」とは思っていなかった。(つづく)